第十話
――傭兵団の団長が、食堂の従業員を何ヶ月もかけて口説いている。
しかも、その相手は、すれ違っていた妻らしい。
そんな噂が町中に広まるまで、さほど時間はかからなかった。
傭兵団の団員たちは、食堂の常連としてセレスティアとも顔なじみだった。彼女が、夫の親戚や使用人達からどれほど酷い扱いを受け、どんな思いでここで働くことになったのかも知っている。だからこそ、当初はレオニードの行動に呆れ、いつまでも離婚に踏み切らない彼を、内心で散々こき下ろしていた。
ところが、最近の団長は様子が違った。
食堂に通い詰めては妻の機嫌をうかがい、慣れないことにも懸命に挑戦している。相変わらず不器用で、見ているこちらが頭を抱えたくなることも多いが、それでも彼女に向き合おうとする姿勢だけは本物らしかった。
長年、魔物討伐隊の団長として隙のない姿を見せてきた男が、たった一人の女性を前に四苦八苦している。その姿は、呆れるほど情けない一方で、どこか憎めないものでもあった。
少しずつ変わろうとするレオニードを目の当たりにしているうちに、彼らの気持ちにも変化が生まれていた。
――今度こそ、ちゃんと大切にしてやれよ。
そんな思いを胸に、いつしか団員たちは、二人の行く末を見守るようになっていた。
*
「セレスティアさん、団長って本当に不器用ですよねえ」
昼の営業が一段落した頃、いつものように卓を囲んでいた傭兵たちが、セレスティアに声をかけてきた。
彼らはレオニードの部下であり、討伐隊の中心を担う面々だ。仕事帰りに食堂へ立ち寄るのが習慣になっていて、セレスティアがここで働き始めた頃からの顔なじみでもある。
ただ、最近は少しばかり変化があった。彼らの上司である団長の妻だと知られてから、セレスティアに対して妙に丁寧な言葉遣いをするようになったのだ。
敬語で話しかけられるたび、少しだけ距離ができてしまったようで寂しく感じる。けれど、そんなことを口にするのは気恥ずかしくて、セレスティアはひそかに胸の内へしまい込んでいた。
「……不器用、ですか?」
「ええ。戦場じゃ、あんなに頭が切れるのに。奥さんへの贈り物ひとつ満足に選べないんですから」
「この間なんて、団長が料理を覚えようとして、食堂の厨房を大騒ぎにしたんですよ!」
「おい、あれは笑い事じゃない。まな板が割れたらしいぞ」
「鍋の蓋も飛んだんだろ!」
団員たちは思い出したように笑い出した。
セレスティアは、苦笑するしかなかった。
「……その話は、私も知ってます」
「いやあ、団長があそこまで必死になるとは、俺たちも思っていませんでしたよ」
一人が水を飲み、ふと表情を改めた。
「でも、セレスティアさん。団長は、本当にすごい人なんです」
それまで笑っていた男たちも、自然と口を閉じた。
「俺たちが討伐隊に入った頃は、魔物との戦いなんて、毎回命懸けでした。討伐に出れば誰かが死ぬ。ひどいときには、隊の半分が帰ってこないことだってあったんです」
「……そんなに?」
「ええ。魔物の数も多かったし、指揮系統もめちゃくちゃでした。誰がどこを守るのか、誰が負傷者を運ぶのか。まともに決まっていないこともあったんです」
別の団員が、苦い顔で続けた。
「団長が指揮を執るようになってから、ようやく変わりました。魔物の動きを読んで、隊を分けて、無理な戦いは避ける。勝てると判断すれば自分が先頭に立つし、撤退すべきときには、どれだけ悔しくても引き上げる。おかげで、仲間が生きて帰ってこられるようになったんです」
「団長が来る前は、俺の兄貴も討伐で死にました。だから、あの人が隊をまとめてくれたことには、本当に感謝しています」
静かな声だった。
そこには、ただ上官を褒めるだけではない、実感のこもった重みがあった。
「団長だって、楽をしていたわけじゃありません。何日もまともに眠らず、魔物の動きを調べて、作戦を考えて……。自分が倒れたら隊が崩れるからって、熱があっても指揮を執ろうとしたこともあるんです」
「そうそう。あのときは副団長が本気で怒って、団長を寝台に縛りつけようとしてましたね」
「実際、半分くらい縛られていただろうが」
再び笑い声が起こった。
けれど、セレスティアは笑えなかった。
彼女の知らないレオニードが、そこにいた。
ただ強いだけの男ではない。仲間を生きて帰すために考え、努力し、自分の身を顧みずに働いてきた男。
彼は、そんな日々を過ごしていたのだ。
自分が暗い物置部屋に閉じ込められ、明日を迎えることさえ怖がっていた頃も。
「……レオニード様は、皆さんに慕われているのですね」
セレスティアがそう口にすると、団員たちは当然だという顔でうなずいた。
「そりゃあ、そうですよ。俺たちの命を預かっている人ですから」
「それに、団長は部下の家族のことまで気にかけてくれます。誰かが怪我をして働けなくなったら、家族が困らないように手を回してくれるんです」
「俺の娘が病気になったときも、薬代を援助してくれました。礼を言ったら、『家族を大切にしろ。仕事のことは気にするな』って」
「俺なんか、結婚したときに休暇を増やしてもらいましたよ。団長は独身が長かったから、そういうことに疎いのかと思っていたんですけどね」
「……疎いのは、妻への接し方だけかもしれませんね」
セレスティアが思わずつぶやくと、団員たちは一斉に吹き出した。
「違いない!」
「いや、本当にそうなんですよ!」
ひとしきり笑ったあと、団員の一人が、少し遠慮がちに尋ねた。
「それと、セレスティアさん。ひとつだけ、知っておいてほしいことがあるんです」
「何でしょう?」
「団長は、女遊びなんて一切しません。賭け事もやらないし、酒場に行っても、俺たちと酒を飲んで帰るだけです」
「……そうなんですか?」
「ええ。あの顔ですから、女に声をかけられることはありますよ。でも、本人はまったく興味がないんです。仕事が終われば訓練か書類。休みの日には、奥さんのところへ行くことばかり考えてる」
「この間なんて、団長が奥さんに会いに行く服を選ぶのに、俺たちまで付き合わされたんですよ!」
「しかも、どれがいいか聞いてくるくせに、結局自分で決めるんだ」
「最初から決まっていた顔でしたよね!」
またもや笑い声が広がる。
セレスティアも、つられて小さく笑った。
レオニードが自分のために服を選んでいた姿を想像すると、なんだかおかしかった。戦場では冷静沈着な男が、妻に会うための服ひとつで部下たちを巻き込んでいるのだ。
……本当に、不器用な人。
けれど、その不器用さが、今は少しだけ愛おしく思えた。
*
屋敷に戻ると、セレスティアは使用人から思いがけない報告を受けた。
「奥様、旦那様からのお手紙は、一通も届いていなかったようです」
「……一通も?」
「はい。旦那様が奥様に宛てて書かれた手紙は、叔母君たちが握り潰していたそうです。反対に、奥様が旦那様へ送られた手紙も、旦那様の手元には届いていなかったと」
セレスティアは息をのんだ。屋敷に来たばかりの頃、まだ自由に過ごせていた彼女は、レオニードに何度か手紙を送っていた。返事がないのは、仕事が忙しく、自分のことなど気にかける余裕もないからだと思っていたのだ。
「それだけではありません。叔母君たちは周囲に、奥様は旦那様を嫌っており、金銭ばかりを要求する悪妻だと吹聴していたそうです。旦那様がいくらお金を送っても満足せず、もっと寄越せと要求している、と……」
「…………」
「しかも、旦那様から送られたお金は、奥様に渡すことなく、叔母君たちが横領していたのです」
セレスティアは、すぐには言葉を返せなかった。
レオニードから手紙が届かないのは、自分に関心がないから。自分の手紙に返事がないのも、彼が読む気すらないから。そう思い込んでいた。
けれど、実際は違った。
叔母たちは手紙を隠し、金銭を横領したうえで、二人が互いを誤解するよう仕向けていたのだ。
レオニードには、妻が自分を嫌い、金銭だけを求めていると思わせる。一方のセレスティアには、夫から何の連絡もないまま、生活に困窮する日々を送らせる。
そうして二人の間に溝を作り、セレスティアを孤立させていったのだ。
「……そんなことが」
声がかすれた。
叔母たちへの怒りは、今でも消えていない。
けれど、それ以上に胸を締めつけたのは、レオニードへの気持ちだった。
彼は、十分なお金を送っていた。自分が困らないようにと、暮らしを支えようとしていた。
それなのに、自分は彼が何もしてくれないと思い、彼もまた、自分が金銭だけを求めていると思わされていた。
どこかで、互いに手を伸ばそうとしていたのかもしれない。
けれど、その手は届かなかった。
もちろん、それで彼が自分のもとへ来なかった事実まで消えるわけではない。どれほど事情があったとしても、一度も様子を見に来なかったことは、セレスティアの心に深い傷を残したままだ。
それでも。
彼を憎む気持ちは、もうとうに失せていた。
顔を合わせてからのレオニードは、怒涛のお詫びとアプローチを続けている。
高価な贈り物をしては失敗し、町へ連れ出しては空回りし、家庭菜園を作りすぎて叱られ、料理を覚えようとして厨房を騒がせる。
そのたびに彼は反省し、少しずつ学び、諦めずにまた挑戦した。
あれだけ不器用な男が、自分のために必死になっている。
それを見て、何も感じないでいる方が難しかった。
さらに困ったことに、レオニードはセレスティアの好みに、恐ろしいほどぴったりとはまっていた。
精悍な顔立ち。大きな体。鍛え抜かれた筋肉。低く落ち着いた声。
そのくせ、好きな相手の前では驚くほど不器用で、少し褒められただけで嬉しそうな顔をする。
食堂で働いていた頃、ステラとして彼と関わっていたときも、彼に好意を抱いていた。
レオンとして客になっていた彼は、口数こそ少なかったが、こちらが困っていればさりげなく手を貸してくれた。重い荷物を運ぶときには黙って持ち、厄介な客がいれば、こちらに危害が及ばないように立ち回ってくれた。
そんな彼を、憎からず思っていたのだ。
そんな男が、今は自分をひたすら慕っている。
もし、あんなことがなければ。
もし、夫婦として最初から向き合えていたなら。
セレスティアは、素直に彼を好きになっていたと思う。
けれど、現実は違った。
彼女が味わった一年間の苦しみは、簡単に忘れられるものではない。
暴力を振るわれ、罵られ、自由を奪われた日々。暗い部屋に閉じ込められ、誰にも助けを求められず、明日を迎えることさえ恐ろしかった日々。
あのとき、自分を助けてくれる人はいなかった。
レオニードがどれほど誠実な人間であろうと、どれほど周囲から愛されていようと、あの苦しみを経験したのは自分なのだ。
だから、彼が変わろうとしていることを嬉しく思う気持ちと、彼を許せない気持ちは、セレスティアの中でずっと同居していた。
最近では、こんなことばかり考えている。
もう少し時間が経てば、気持ちは変わるのだろうか。
それとも、離婚してお互いに新しい人生を歩んだ方が、幸せになれるのではないだろうか。
レオニードは、自分に執着しているだけなのかもしれない。罪悪感から、償おうとしているだけなのかもしれない。
もしそうなら、いずれ彼の気持ちが落ち着いたとき、二人の関係はどうなるのだろう。
そんな不安もあった。
けれど、彼の顔を見るたびに心が揺れる。
彼が自分のために何かをしてくれるたび、嬉しくなる。
そして、彼の隣にいることを想像すると、胸の奥が温かくなることさえあった。
――まったく、どうしてこんな面倒なことになったのやら。
セレスティアは、考えるのをやめた。
今すぐ答えを出す必要はない。
そう自分に言い聞かせながら、彼女はいつものように食堂へ向かうことにした。
*
セレスティアは、屋敷を出て町の通りを歩いていた。
空はよく晴れ、通りには買い物をする人々の姿がある。いつもと変わらない穏やかな昼下がりだった。食堂までは、もう少しだ。女将や団員たちの顔を思い浮かべながら、彼女は籠を持ち直した。
(レオニード様は今日は何を食べるかな)
彼が美味しそうに料理を食べる姿を想像してしまい、自然と口元が綻ぶ。
そのとき、背後から足音が近づいた。
振り返る間もなかった。
突然、後ろから口を塞がれ、両腕を強くつかまれた。
「――っ!」
声を上げようとしたが、口元を覆う手に押さえ込まれ、悲鳴はくぐもった息にしかならない。セレスティアは必死に身をよじったものの、相手は複数いた。抵抗する間もなく、身体を引きずられる。
籠が手から落ち、買い物袋が石畳に散らばった。
何が起きているのか、理解が追いつかない。
助けを呼ばなければ。誰かに気づいてもらわなければ。
そう思って必死に暴れたが、口元に押し当てられた布から、鼻をつく奇妙な匂いがした。
薬品のような匂いだった。
途端に頭がくらりと揺れ、手足から力が抜けていく。
嫌だ。
何が何だかわからないまま、連れていかれるわけにはいかない。
セレスティアは最後の力を振り絞って抵抗した。けれど、視界は急速にぼやけ、周囲の喧騒も遠ざかっていく。
誰かが何かを言っている。
けれど、その声も聞き取れない。
やがて、彼女の意識は深い闇へと沈んだ。
*
食堂では、女将が入口を気にしながら、何度も通りへ目を向けていた。
「……遅いねえ、セレスティア」
いつもなら、とっくに顔を見せている頃だった。
買い物をしてから来ると言っていたから、多少遅くなることはあるだろう。そう思って待っていたが、昼を過ぎても彼女は現れなかった。
やがて、食事を終えた傭兵たちも不審に思い始めた。
「女将、セレスティアさんはまだ来てないのか?」
「ああ。朝、屋敷を出たって聞いてるんだけどねえ」
「……屋敷を出たのは、確かなんだな?」
団員の一人が眉をひそめた。
セレスティアは、約束をいい加減にするような人ではない。ましてや、何の連絡もなく姿を見せないなど、今までなかったことだった。
「俺、屋敷へ行って団長に確認してくる」
若い団員が席を立つと、ほかの団員たちも顔を見合わせた。
胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。
*
「……セレスティアが、食堂に行っていない?」
詰所で報告を受けたレオニードは、愕然とした。
彼女が屋敷を出たのは、朝のことだ。食堂へ行くと言っていた。
それなのに、彼女は食堂にも現れず、屋敷にも戻っていないという。
「町の者にも確認しましたが、途中から足取りがわかりません」
副団長の言葉に、レオニードの顔から血の気が引いた。
何かが起きた。
そう考える以外になかった。
「町の門を押さえろ。街道も調べろ。馬車の出入りを確認して、目撃者を探せ」
「承知しました!」
「傭兵団の全員を動かせ。町の外も、森も、周辺の村もだ。どんな小さな情報でも見逃すな!」
命令を受けた団員たちが、一斉に駆け出していく。
レオニードは、強く拳を握りしめた。
戦場では、どれほど不利な状況に陥っても、冷静さを失ったことはなかった。魔物の動きを読み、仲間を指揮し、生き残るための道を切り開いてきた。
けれど、今は違う。
頭の中を占めるのは、妻の安否だけだった。
ようやく、少しずつ距離を縮められるようになった。彼女の笑顔を見られるようになり、ほんのわずかでも、自分を受け入れてくれたのだと思える瞬間が増えていた。
それなのに。
「……セレスティア」
呼んでも、返事はない。
彼女がどこにいるのかも、生きているのかさえもわからない。
胸を締めつける恐怖を押し殺し、レオニードは顔を上げた。
「必ず見つけ出す」
低く、震えるほど強い声だった。
「何があろうと、必ずだ」
氷の英雄が、動き出す。
今度は、ただ一人の女性を取り戻すために。




