第十一話
意識の底から、ゆっくりと浮かび上がってくる。
頭が重い。身体も思うように動かず、セレスティアは眉を寄せた。何か薬品のようなものを嗅がされたことは覚えている。けれど、そのあと何が起きたのか、記憶が途切れていた。
「……だから、早く隣国へ送り届けてしまえばいいのだ」
聞き覚えのある男の声がした。
その声に、セレスティアの意識が一気に覚醒する。
――今の声は。
ゆっくりと目を開ける。ぼやけた視界が少しずつ鮮明になり、見慣れた天井が目に入った。古びた壁紙に、使い込まれた家具。記憶の中にあるものと、何ひとつ変わっていない。
ここは、実家の子爵邸だった。
「……お父様?」
かすれた声で呼ぶと、室内にいた男が振り返った。
セレスティアの父、子爵である。
彼は娘が目を覚ましたことに気づくと、わずかに眉を上げた。しかし、心配する様子もなく、むしろ面倒なものでも見るような目を向けてきた。
「ようやく目を覚ましたか」
「どうして……私は、どうしてここに?」
「どうしても何も、お前を連れてきたからに決まっているだろう」
あまりにも平然とした答えに、セレスティアは息をのんだ。
連れてきた。
つまり、あの通りで自分を襲ったのは、父の指示だったということなのか。
「お父様、いったい何を……」
「お前には、少しばかり働いてもらうことになった」
父は、悪びれもせずに言い放った。
その隣には、セレスティアの兄が立っていた。彼もまた、妹を気遣うどころか、厄介な荷物でも運び込んだような顔をしている。
セレスティアは、背筋が冷たくなるのを感じた。
何かがおかしい。
自分の身に何が起きたのか、まだすべてはわからない。けれど、この二人が自分を助けるためにここへ連れてきたのではないことだけは、はっきりと理解できた。
「お前は、結婚してからずいぶんと贅沢な暮らしをしているそうだな」
「……は?」
「町では、お前が金遣いの荒い悪女だという噂が流れている。夫の金を好き放題に使い、実家のことなど見向きもしないそうじゃないか」
セレスティアは、言葉を失った。
金遣いの荒い悪女?
実家を顧みない?
いったい誰が、そんな話を広めたというのだろう。
いや、思い当たることはあった。
叔母たちが自分を悪妻だと吹聴していたこと。夫から十分な金銭を受け取っていながら、何もしてもらっていないかのように扱われていたこと。
だが、まさかその噂が実家にまで届き、父たちが信じ込んでいたとは思わなかった。
「お父様、何か誤解をなさっています。私は――」
「言い訳はいい!」
父の怒声に、肩が跳ねた。
「こちらから何度も手紙を送ったのに、お前は一度も返事を寄越さなかったじゃないか。金に困っていると知らせても、知らぬ顔を決め込んだ。夫から金を好きなだけ受け取っているくせに、実の家族を見捨てるとはな!」
「手紙……?」
セレスティアの頭が混乱する。
父から手紙など届いていない。金に困っているという知らせも、受け取った覚えはなかった。
それどころか、結婚後は実家からほとんど連絡がなくなり、彼女自身も叔母たちに自由を奪われていたため、便りを出す余裕すらなかったのだ。
「私は、そのような手紙を受け取っていません!」
「まだ嘘をつくのか!」
「嘘ではありません! 本当に何も――」
「黙れ!」
父は聞く耳を持たなかった。
娘の言葉を確かめることも、事情を尋ねることもしない。自分が信じたい話だけを信じ、セレスティアを一方的に責め立てている。
その姿を見て、彼女の胸に冷たいものが広がった。
かつては、父に認めてもらいたいと思っていた。
兄に嫌われたくないと願い、家族の中で少しでも居場所を得ようと努力していた時期もあった。
けれど、今の父の目には、娘を心配する情も、事情を理解しようとする気持ちも見当たらない。
あるのは、自分の思いどおりにならなかったことへの怒りだけだった。
「……それで、私をどうするおつもりですか」
セレスティアは、震えそうになる声を必死に抑えた。
父は、待っていましたとばかりに口元を歪めた。
「お前には、隣国の伯爵家へ嫁いでもらう」
「……嫁ぐ?」
「そうだ。先方は七十歳を過ぎた伯爵だが、後妻を探している。お前のような女でも、まだ若さには価値があるらしい」
あまりの言葉に、セレスティアは一瞬、意味を理解できなかった。
七十歳の伯爵。
後妻。
自分が、そこへ嫁ぐ。
「……お断りします」
「お前に拒否権はない」
「私は、もう結婚しています!」
「だからどうした。夫とは離縁させればいい。そもそも、お前は夫に捨てられたも同然なのだろう?」
父は鼻で笑った。
「先方からは、まとまった金を受け取る約束になっている。お前一人を送り出すだけで、こちらもずいぶん助かるというわけだ」
「……そんなことが、許されるとお思いですか」
「黙れ。お前はこれまで、どれだけ家族に迷惑をかけてきたと思っている?」
「私は何も――」
「もう決めたことだ。お前がここにいると知られれば面倒になる。夫の家には、適当に姿を消したとでも思わせておけばいい。あとは内密に隣国へ送り届けるだけだ」
父は、まるで荷物の処分方法でも相談するように話していた。
兄も反対するどころか、当然だという顔でうなずいている。
セレスティアは、目の前の二人を見つめた。
実の父と兄。
自分と血のつながった家族だ。
それなのに、彼らは自分を心配するどころか、事情を確かめようともしなかった。自分たちが金を受け取るためなら、娘の人生を犠牲にしても構わないというのだ。
戦慄が、背筋を駆け上がった。
――私の実の親って、こんなにもひどい人たちだったの?
叔母たちに虐げられていたときでさえ、実家の家族がここまでのことをするとは思っていなかった。
どこかで、父なら自分を気にかけてくれるのではないか。兄なら、いざというときには味方になってくれるのではないか。そんな淡い期待が残っていたのかもしれない。
けれど、それも今、完全に打ち砕かれた。
前世の記憶がなければ、きっと打ちひしがれていただろう。
家族に見捨てられた悲しみに、何も考えられなくなっていたかもしれない。
けれど、今のセレスティアには、自分の人生を他人に明け渡すつもりなどなかった。
「……嫌です」
彼女は、はっきりと言った。
「私は、そんな結婚はしません」
「何だと?」
「私は誰かに売られるために生きてきたわけではありません。お金が必要なら、ご自分で何とかしてください。私を巻き込まないで!」
父の顔が怒りに歪んだ。
「この恩知らずが!」
腕をつかまれ、強引に引きずり起こされる。
「お前が誰のおかげで育ったと思っている!」
「離してください!」
セレスティアは必死に抵抗した。腕を振りほどこうとし、足を踏ん張る。だが、相手は父と兄だ。体格も力も、彼女とは比べものにならない。
何とか逃れようとしても、兄に腕を押さえられ、父に引きずられる。
「大人しくしろ!」
「嫌です! 離して!」
叫んでも、誰も助けてくれなかった。
やがて、彼女は屋敷の奥へと連れていかれた。
その先にあるのは、見覚えのある地下倉庫だった。
「……っ!」
扉を見た瞬間、身体が強張った。
暗い室内。湿った空気。閉ざされた扉。
かつて叔母たちに閉じ込められた、あの場所と同じだった。
「ここで頭を冷やせ。出発の日まで、余計な真似をするな」
「お父様、お願いです! 考え直してください!」
父は答えなかった。
兄もセレスティアを見ようともしない。
乱暴に押し込まれ、彼女は床に倒れ込んだ。すぐに扉が閉まり、重い錠の音が響く。
再び、暗闇が訪れた。
セレスティアは、しばらく動けなかった。
どうして。
どうして、自分ばかりがこんな目に遭うのだろう。
叔母たちに閉じ込められ、夫には捨てられたと思い込み、苦しい日々を過ごした。ようやく自分の人生を取り戻そうとしていたのに。
今度は実の家族に裏切られ、金のために売り飛ばされそうになっている。
あまりにも理不尽だった。
けれど、泣いている場合ではない。
ここから逃げなければ。
どうにかして助けを求めなければ。
そう考えようとしたとき、不意に脳裏に浮かんだ顔があった。
精悍な顔立ちに、鋭い眼差し。大きな身体に似合わず、不器用で、真面目で、どこか放っておけない男。
この数ヶ月、何度も謝罪し、何度も彼女の気持ちを確かめながら、懸命に想いを伝え続けてくれた人。
「……レオニード様」
小さく名前を呼んだ途端、胸の奥が痛くなった。
彼は、今頃どうしているだろう。
自分が帰らないことを、心配しているだろうか。
まさか、また自分がいなくなったと知って、あの人が苦しむことになるなんて。
セレスティアは、唇を噛みしめた。
彼のことを思うと、今すぐ会いたくなった。
会って、声を聞きたかった。
いつもなら、近すぎると文句を言ってしまう大きな身体も、困ったように自分を見つめる眼差しも、今はひどく恋しかった。
――お願い。どうか、気づいて。
彼女は暗闇の中で、ぎゅっと両手を握りしめた。
自分を助けてほしい。
そう願っていることに、もう言い訳はできなかった。
*
一方、レオニードは、傭兵団の仲間たちとともに町の捜索を続けていた。
町の門、街道、近隣の村。セレスティアが通った可能性のある場所は、すでに手分けして調べ始めている。しかし、目撃情報は乏しく、彼女の行方は依然としてわからなかった。
焦りが募る。
だが、闇雲に動いても見つかるとは限らない。レオニードは必死に冷静さを保ち、情報を集め続けていた。
そんなとき、屋敷で長く働いていた使用人の一人が、彼のもとへやってきた。
「旦那様。少し、お耳に入れておきたいことがございます」
「何だ」
レオニードはすぐに顔を向けた。
男は馬番を務めている使用人だった。仕事柄、屋敷の者たちと直接関わる機会は少なく、セレスティアともほとんど接点がなかった人物だ。
それでも、何かを知っているのなら、聞かないわけにはいかない。
「以前、叔母君と執事が話しているところを耳にしたのです。奥様のご実家から、何度も金の無心があったそうで……」
「何だと?」
レオニードの目が鋭くなった。
「叔母君たちは、それをすべて無視してやったと笑っておりました。奥様の実家がいくら困っていようと、自分たちには関係ない、と」
「……その話を、もっと詳しく聞かせろ」
男は緊張した面持ちでうなずいた。
「私が聞いたのは、それだけです。ただ、何度も手紙が届いていたようでした。叔母君と執事は、奥様のご実家が何度頼んでも無駄だと、嘲笑っていたのです」
レオニードは黙り込んだ。
セレスティアの実家から金の無心があり、それを叔母たちが握り潰していた。今のところ、それだけで妻の失踪と結びつけることはできない。だが、話を聞くほどに、レオニードの中で疑念が膨らんでいった。
セレスティアは屋敷を出たあと、行方がわからなくなった。食堂へ向かっていたはずなのに、そこには姿を現していない。そして、彼女の実家は金銭をめぐって、何度も連絡を取ろうとしていたという。
偶然で片づけるには、気になる点が多すぎた。
(……まさか)
確証はない。だが、今はどんな可能性も捨てるべきではなかった。何より、長年の経験から培われた勘が、嫌な予感を告げている。
「……セレスティアの実家は、どこにある」
「町から少し離れた場所にございます。子爵家の屋敷です」
答えを聞くなり、レオニードは席を立った。
「案内しろ」
彼は副団長を呼び、状況を説明した。
「精鋭を集めろ。子爵邸へ向かう」
「承知しました」
副団長は、それ以上何も尋ねなかった。
レオニードの顔を見れば、彼がどれほど追い詰められているかは明らかだった。だが、焦りに任せて無謀な行動を取る男ではない。何かを疑い、確かめる価値があると判断したのだろう。
傭兵団の精鋭が集められ、馬が用意される。
レオニードは鞍にまたがると、子爵邸のある方角を見据えた。
胸の奥に、嫌な予感が渦巻いている。
もし、そこにセレスティアがいるのなら。
もし、彼女が再び誰かに傷つけられているのなら。
今度こそ、絶対に間に合わせなければならない。
「行くぞ!」
号令とともに、騎馬の一団が走り出した。
レオニードの表情は、戦場へ向かうときと同じだった。
ただし、彼が取り戻そうとしているのは領地でも、名誉でも、戦場で失われた仲間でもない。
たった一人の妻。
ようやく自分の手で幸せにしたいと願うようになった、大切な女性だった。




