第十二話
薄暗い地下倉庫の中で、セレスティアはぼんやりと床を見つめていた。
窓はなく、外の様子をうかがうこともできない。わずかな光さえ差し込まないこの部屋は、かつて叔母たちに閉じ込められていた物置部屋よりも、いっそう息苦しく感じられた。
また、こんなところに閉じ込められてしまった。
ようやく自分の力で生きていこうと決意し、少しずつ新しい人生を築き始めていたというのに。どうして、こんなことになってしまったのだろう。
このままでは、本当に隣国の老伯爵に売られてしまうかもしれない。父と兄は、すでに金を受け取る約束まで交わしているようだった。セレスティアがどれほど嫌がったところで、彼らが考えを改めるとは思えなかった。
――原作小説の噛ませ男爵夫人は、結局、幸せにはなれないのだろうか。
前世で読んだ物語の中で、セレスティアは主人公たちの恋を引き立てるためだけに存在する脇役だった。夫に顧みられず、周囲から虐げられ、最後には衰弱死する。そんな不幸な役回りを与えられた女だった。
転生したと気づいてから、彼女は必死に生きてきた。叔母たちに虐げられる日々の中でも、どうにか生き延び、自分の足で立とうともがいてきたのだ。
そして、原作では出会うはずのなかったレオニード。
彼が自分の夫だと知ったときは、怒りと驚きで頭がいっぱいになった。けれど、何度も謝罪を重ね、懸命に想いを伝えてくる彼と向き合ううちに、少しずつ気持ちが揺らいでいった。
憎しみは薄れ、彼の不器用な優しさに思わず笑ってしまうこともあった。自分のために慣れない料理を覚え、失敗しても諦めずに努力する姿を、可愛いとさえ思うようになっていた。
もしかしたら、いつか。
いつか、自分も彼を許せる日が来るかもしれない。
そう考えるようになっていたのに。
「……生き残るために、頑張ったのに」
ぽつりとこぼれた声は、暗闇に吸い込まれていった。
セレスティアの美しい蒼の瞳から、はらはらと涙が零れ落ちる。
泣いたところで、何も変わらない。わかっている。これまでだって、何度もそう思いながら耐えてきた。
けれど、今度ばかりは心が折れそうだった。
実の父と兄に裏切られたことが、何よりもこたえていた。自分を売り渡そうとする彼らの顔を思い出すたび、胸の奥が冷たくなる。
家族なら、せめて自分の話を聞いてくれると思っていた。
事情を説明すれば、わかってくれるかもしれないと思った。
けれど、彼らは最初から聞く気などなかったのだ。
自分たちの都合のよい噂を信じ、娘の人生を金に換えようとした。それが、彼らの出した答えだった。
――もう、嫌だ。
こんな人生は。
もう一度、やり直せるのなら。
そう願っても、時間は戻らない。
セレスティアは両膝を抱え、顔を伏せた。涙が頬を伝い、膝の上に落ちていく。
そして、胸の奥に押し込めていた想いが、とうとう言葉になった。
「……会いたい」
誰に会いたいのか、自分でもわかっていた。
こんなとき、真っ先に思い浮かぶ人がいる。
「――レオニード様」
その名を口にした瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。
会いたい。
あの大きな手に触れたい。低い声で自分の名前を呼んでほしい。不器用なくせに、こちらの顔色をうかがいながら一生懸命に話しかけてくる彼に、もう一度会いたい。
いつの間に、こんなにも彼を求めるようになってしまったのだろう。
離婚したいと思っていたはずなのに。彼のことを簡単には許せないと、何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに。
今はただ、彼に会いたかった。
そのときだった。
――バタバタバタッ!
不意に、外から騒がしい物音が聞こえてきた。
誰かが走っている。複数の人間の声が響き、何かを問いただすような怒鳴り声が続いた。遠くで聞こえていた喧騒は、少しずつこちらへ近づいてくる。
セレスティアは、はっと顔を上げた。
何が起きているのだろう。
父や兄が、何かを始めたのだろうか。それとも、隣国へ送り出す準備が始まったのか。
嫌な想像が頭をよぎり、彼女は身を硬くした。
けれど、聞こえてくる声には、どこか聞き覚えがあった。
荒々しく、よく通る声。
その声を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
まさか。
そんなはずはない。
期待してはいけない。期待して、また裏切られたら、今度こそ立ち直れないかもしれない。
それでも、胸の奥で小さな希望が膨らんでいく。
――私を助けに来てくれたの?
何度も、諦めかけていた。
レオニードは、本当に自分を助けに来てくれるのだろうか。自分のことを、そこまで大切に思ってくれているのだろうか。
自分は、物語の主人公ではない。
原作小説では、主人公たちの恋を引き立てるために用意された、ただの噛ませ役だ。そんな自分の危機に誰かが救いに来てくれるなど、都合のよい夢ではないだろうか。
けれど。
もし、彼が来てくれたのなら。
もし、本当に自分を見つけてくれたのなら。
そのときは、もう少しだけ、彼を信じてみてもいいのだろうか。
セレスティアは涙に濡れた顔を上げ、扉を見つめた。
足音が、すぐそこまで迫ってくる。
誰かが怒鳴る声。慌てふためく男たちの声。そして、荒々しい足音が廊下を駆け抜けた。
次の瞬間。
「セレスティア!」
聞き慣れた声が、彼女の名を呼んだ。
胸の奥が、震えた。
その声は、間違いなく彼のものだった。
直後、倉庫の扉が乱暴に解き放たれた。
暗闇に差し込んだ光の向こうに、ひとりの男が立っていた。
肩で息をし、鋭い眼差しで室内を見渡す男。その顔には、隠しきれない焦燥と怒りが浮かんでいる。
けれど、彼の視線がセレスティアを捉えた瞬間、その表情が変わった。
まるで、ようやく探し求めていたものを見つけたかのように。
セレスティアは、涙で滲む視界の向こうに立つ男を見つめた。
――レオニード様。
声にならなかった。
ただ、彼の名を胸の中で繰り返す。
彼は本当に来てくれた。
自分を見つけるために、ここまで来てくれたのだ。
*
時は少し遡る。
レオニードは、傭兵団の精鋭たちを率い、子爵邸へ向けて馬を飛ばしていた。
男爵領から数時間。目的地が近づくにつれ、彼の胸中には焦燥と怒りが渦巻いていた。
もし、セレスティアがここにいなかったら。
もし、手がかりが間違っていたら。
考えたくもない可能性が、次々と脳裏をよぎる。だが、今は立ち止まるわけにはいかなかった。わずかな疑いであっても、確かめずにいることなどできない。
やがて、子爵邸の門が見えてきた。
先頭のレオニードたちが馬を止めると、門番たちは一斉に顔色を変えた。突然、大勢の屈強な傭兵たちが押しかけてきたのだ。彼らが何者なのかを察したのか、門番たちは慌てふためき、互いに顔を見合わせている。
「門を開けろ」
レオニードが低く命じた。
その声に気圧された門番たちは、慌てて門を開いた。
彼は馬を降りると、傭兵たちを従えて正面玄関へ向かった。屋敷の使用人たちは、突然の来訪者を前に怯えた様子を見せ、こちらをうかがうばかりで、誰ひとりとして積極的に声をかけようとはしなかった。
その様子を見た瞬間、レオニードの脳裏に、かつての屋敷での光景がよみがえった。
叔母たちがセレスティアを監禁していたときも、使用人たちは怯え、見て見ぬふりをしていた。誰も彼女を助けず、誰も声を上げなかった。
あのときと、よく似ている。
胸の奥で、何かが煮え立った。
――まさか、また。
彼の怒りが限界に達するより先に、屋敷の奥から二人の男が慌てて姿を現した。
子爵と、その息子。セレスティアの父と兄だった。
二人はレオニードの姿を認めると、驚きを隠せない様子で顔を見合わせた。だが、すぐに取り繕うような笑みを浮かべる。
「これはこれは、男爵殿。突然、どうなさいましたかな?」
「何かご用でも?」
愛想笑いを浮かべる二人を、レオニードは冷ややかに見据えた。
「セレスティアはどこだ」
挨拶も、前置きもなかった。
二人の顔から、笑みが消えた。
「……セレスティア?」
「私の妻だ。ここにいるのだろう。どこにいると聞いている」
子爵は、すぐに首を横に振った。
「何をおっしゃっているのか、わかりませんな。娘はここにはおりません」
「そうです。セレスティアは長らく実家にも顔を出していませんので。何かの間違いでは?」
兄も、すかさず言葉を重ねた。
あまりにも早い否定だった。
まるで、あらかじめ答えを用意していたかのように。
レオニードの目が、すっと細くなる。
「……そうか」
低い声が落ちた。
「では、屋敷の中を調べさせてもらう」
「なっ! それは困ります!」
「ここは我が家ですぞ!いくら男爵殿といえど、勝手に立ち入ることは――」
「黙れ」
たった一言で、二人の声が止まった。
レオニードは子爵へ歩み寄ると、その襟首をつかみ上げた。
「ひっ……!」
子爵の身体が、床からわずかに浮いた。
首元を締め上げられ、顔がみるみる青ざめていく。レオニードは、彼を見下ろしたまま、低く、恐ろしい声で問いただした。
「もう一度だけ聞く。セレスティアはどこだ」
「く、苦し……っ!」
「答えろ」
怒りを押し殺した声だった。
戦場で数多の魔物を屠ってきた男の眼差しが、今は目の前の人間へ向けられている。その迫力に、子爵はまともに息をすることさえできなくなった。
「わ、わかりました! お、お教えしますから……!」
隣では、兄が腰を抜かしていた。
先ほどまでの余裕は、跡形もない。レオニードの腕を止めようとすることも、父を助けようとすることもできず、ただ怯えた顔で彼を見上げている。
レオニードは、子爵を床へ下ろした。
「案内しろ」
短く告げる。
二人はもはや逆らえなかった。
青ざめた子爵と、震える兄を先に立たせ、レオニードは傭兵たちとともに屋敷の奥へ進んだ。
廊下を曲がり、階段を下り、人気のない一角へ向かう。
やがて、古びた扉が見えてきた。
その扉を目にした瞬間、レオニードの表情が凍りついた。
倉庫だった。
人が長く過ごすための場所ではない。薄暗く、窓もなく、外から鍵をかけられる造りになっている。
――また、こんな場所に。
怒りで、頭の奥が熱くなった。
彼女は、ここで何を思っていたのだろう。
どれほど心細い思いをしたのだろう。
自分がどれほど反省し、どれほど後悔しても、彼女が味わった苦しみは消えない。だからこそ、二度と同じ思いをさせないと誓ったはずだった。
それなのに、また。
レオニードは扉の前に立つと、鍵を確認する間も惜しむように、力任せに扉を開け放った。
「セレスティア!」
彼女の名を叫ぶ。
暗い室内へ視線を走らせた、その先に――
涙を流しながら、こちらを見つめている、美しい妻セレスティアがいた。
*
目の前に、レオニード様がいる。
薄暗い倉庫の入り口に立つ彼を見つめながら、私はしばらく瞬きすらできなかった。
来てくれた。
本当に、来てくれたのだ。
張り詰めていたものが一気に緩み、安堵と喜びが混ざり合って視界が滲んだ。つい先ほどまで、もう二度と彼に会えないかもしれないと思っていた。隣国の老伯爵に売られ、知らない土地で、慰み者として生きていくのだと。
そんな未来しか残されていないのだと、絶望しかけていた。
それなのに、彼はここにいる。
「れおにーど……さま」
かすれた声で、ようやく名前を呼んだ。
次の瞬間、レオニード様がこちらへ駆け寄ってきた。大きな身体が目の前に迫り、気づいたときには、私は彼の腕の中にいた。
ぎゅっと、強く抱きしめられる。
「……っ」
息が止まりそうなほど、力強い抱擁だった。
けれど、不思議と苦しくはなかった。大きな腕に包まれ、彼の体温が伝わってくる。胸元から聞こえる鼓動も、私を包み込む温もりも、すべてが確かなものだった。
レオニード様に抱きしめられたのは、これが初めてだ。
夫婦なのに、今までこんなふうに触れ合ったことすらなかった。手を差し伸べてくれる彼を警戒し、近づきすぎると逃げるように距離を取っていたのは、ほかでもない私だ。
それなのに今は、彼の腕の中から離れたくなかった。
ああ、助かったのだ。
ようやく、その実感が胸の奥に染み込んでくる。
「セレスティア、待たせてすまなかった……」
頭上から、低い声が降ってきた。
その声には、深い後悔が滲んでいた。
まるで、私がこんな目に遭ったことさえ、自分の責任だと思っているような声だった。
それを聞いた瞬間、胸の奥で必死に堪えていたものが、音を立てて崩れた。
「ふっ、ふうぅっ……」
もう、我慢できなかった。
「こわ、くて……暗い所は、きらい、です……。帰りたい、ヒッ、ヒクッ……」
言葉が途切れ、嗚咽がこみ上げる。
こんなふうに泣くつもりなんてなかった。助けに来てくれた彼に、心配をかけたくなかった。それなのに、一度溢れ出した涙は止まらなかった。
怖かった。
父と兄の顔も、金のために自分を売り渡そうとした言葉も、何もかもが恐ろしかった。
また暗い場所に閉じ込められたことも、ここから逃げ出せないかもしれないと思ったことも。
そして何より、もうレオニード様に会えないかもしれないと思ったことが、たまらなく怖かった。
「……っ、帰りたい……」
子どものように泣きじゃくる私を、彼は何も言わずに抱きしめてくれた。
大きな手が、そっと背中を撫でる。
その優しさに、また涙が溢れた。
どれほど泣いただろう。
やがて、身体がふわりと浮き上がった。
「……え?」
驚いて顔を上げると、私はレオニード様に横抱きにされていた。いわゆるお姫様抱っこだ。
あまりに自然に抱き上げられたため、一瞬、何が起きたのかわからなかった。
けれど、彼の腕はしっかりと私を支えている。落とす心配など微塵も感じさせないほど、頼もしい抱き方だった。
彼は涙に濡れた私の顔を見つめ、静かに微笑んだ。
「さあ、男爵家に帰ろう。みんなが君を心配して待っているよ」
とても優しい声だった。
その言葉を聞いた途端、張り詰めていた心が、ようやく安らぎを取り戻した。
帰れる。
レオニード様と一緒に、あの屋敷へ帰れるのだ。
もう、ここにいなくていい。
「……はい」
かろうじて返事をすると、彼の胸元に頬を寄せた。
温かい。
心地よい揺れに身を任せているうちに、ひどく身体が重くなってきた。薬の影響がまだ残っているのかもしれない。泣き疲れたせいもあるのだろう。
まぶたが、どうしても開かなくなっていく。
でも、今は怖くなかった。
彼がいる。
私を抱きしめ、帰ろうと言ってくれた人が、ここにいる。
そう思うだけで、安心できた。
私は彼の胸に身を預けたまま、ゆっくりと意識を手放した。
*
腕の中のセレスティアが眠りについたことを確かめると、レオニードは彼女の顔を覗き込んだ。
涙の跡が残る頬。泣き腫らした目元。普段は気丈に振る舞っている彼女が、今は力なく自分に身を委ねている。
その姿に、胸が締めつけられた。
どれほど怖い思いをしたのだろう。
どれほど心細かったのだろう。
助けに来るのが遅れたことが、悔しくてたまらなかった。
「……副団長」
低い声で呼ぶと、少し離れた場所にいた副団長がすぐに振り返った。
「子爵とその息子を憲兵に引き渡せ。それから、子爵夫人がどこにいるのか調べろ。あとは任せた」
「おう、わかった。こっちは任せろ!」
副団長は力強くうなずいたあと、腕の中で眠るセレスティアに視線を落とした。
「……早くセレスティアちゃんを休ませてやんな。みんな、心配して待ってるぞ」
「ああ」
レオニードが短く答えると、副団長は周囲の団員たちに目配せした。
彼らもまた、セレスティアに同情的な眼差しを向けていた。
隣国の老伯爵の後妻として、金と引き換えに売り渡されそうになっていた。
それも、本人の意思など一切無視して。
子爵たちを案内させる道中、団員たちは彼らから事情を聞き出していた。最初は曖昧な言い逃れをしていた子爵と兄も、レオニードの剣幕と傭兵たちの追及に耐えきれず、とうとう計画を白状したのだ。
話を聞いたとき、レオニードは本気で剣を抜きそうになった。
よく思いとどまったものだと、今になって自分を褒めてやりたいくらいだった。
実の父親が、娘を金のために売り渡そうとした。
兄もそれを止めるどころか、当然のように加担していた。
そんな連中に、セレスティアは再び閉じ込められていたのだ。
レオニードは、眠る妻を見つめた。
彼女は、泣きながら自分の名前を呼んだ。
縋るように、必死に。
美しい蒼の瞳から、透き通った涙を零しながら。
そして、自分が抱きしめると、ようやく安心したように眠りについた。
その事実が、たまらなく愛おしかった。
これまで、彼女の気持ちを知りたいと願ってきた。
自分を許してほしい。もう一度、夫として向き合ってほしい。できることなら、いつか心から愛してもらいたい。
そのために、何度も謝り、何度も失敗し、それでも諦めずに想いを伝え続けてきた。
けれど、今はそんなことを考える余裕もなかった。
ただ、彼女が無事でよかった。
腕の中にいる。
それだけで、胸がいっぱいだった。
今回のことで、レオニードは確信してしまった。
やはり、手放すことなどできない。
たとえ彼女が自分を許してくれなくても。いつか離婚したいと、再び告げられることがあったとしても。
それでも、彼女を諦めることなどできそうになかった。
セレスティアは、自分にとってそれほどまでに大切な女性なのだ。
彼は妻の身体を抱き直し、冷たい外気に触れないよう、そっと自分の上着で包み込んだ。
「……帰ろう、セレスティア」
眠っている彼女に、静かに語りかける。
「もう大丈夫だ。俺がいる」
その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
けれど、彼女を抱く腕には、二度と離すまいとするかのような強い想いが込められていた。




