第十三話
目を覚ますと、見慣れた男爵家の自分の部屋だった。
見覚えのある天蓋。窓から差し込む柔らかな光。そして、ベッドの傍らに座り、心配そうにこちらを見つめるレオニード様の姿。
「セレスティア、目覚めたか。気分はどうだ? 医者は安静にしていればよいと言っていたが、本当に苦しいところや痛いところはないか?」
矢継ぎ早に尋ねる声は、いつになく優しかった。私の顔色をうかがいながら、少しでも異変があればすぐに医者を呼ぶつもりなのだろう。その眼差しには、隠しきれない心配と、私を労わろうとする温かさが滲んでいた。
「レオニード様……」
私は、彼の言葉を遮るように名前を呼んだ。
「申し訳ありません」
ベッドから身体を起こし、まずは深く頭を下げる。
思いがけない言葉だったのだろう。レオニード様は驚いたように目を見開いた。
「どうして謝るんだ? 君を守ると言っておきながら守れなかった俺が、謝るべきなのに」
悔しさを押し殺したような声だった。
「いえ、私の家族がご迷惑をおかけしました。本当に恥ずかしいです。こうなっては、私の実家の存在も貴方の負担になるだけです……」
今は、言葉を重ねるたびに胸が締めつけられる。これまでなら平気で告げられたはずなのに、喉の奥につかえたものが、どうしても消えてくれなかった。
「――どうか、私と離婚をしてください」
口にしたのは、これまで何度も伝えてきた言葉だった。彼と離れ、自分の人生を歩む。そのために必要なことだと、ずっと思っていた。
それなのに、泣きそうな気持ちでいっぱいになる。
おかしいな。ようやく自由になれるはずの言葉なのに。
レオニード様は、真剣な眼差しで私を見つめていた。
しばらく、互いに何も言わず見つめ合う。やがて彼は、静かに口を開いた。
「言っただろう。何があっても、君と離婚するつもりはないよ」
「なぜっ。私を妻にするメリットなどありませんよね」
気づけば、涙の滲んだ声で反論していた。
私には、彼の妻でいる資格などない。実家の問題まで持ち込んで、彼に余計な苦労をかけるばかりだ。これ以上、何を望めばいいというのだろう。
けれど、彼は迷わなかった。
「君を愛しているんだ」
息が止まった。
これまでのような媚びも、必死に私を繋ぎ止めようとする焦りも感じられなかった。ただ、そこにある事実を告げるように、彼は言った。
だからこそ、それが彼の本心なのだと分かった。
「俺と夫婦になることで君が死んでしまうというのなら、考える」
レオニード様の表情が苦しげに歪む。自分の望みを口にすることさえ、私を追い詰めてしまうのではないかと恐れているようだった。
「でも、そうじゃないのなら。少しでも俺を受け入れてくれるなら、一緒に生きていきたい。君と添い遂げたいんだ」
その真剣な眼差しに、射抜かれた。
もう、強がることはできなかった。堪えていた涙が次々と溢れ、視界が滲んでいく。喉が震えて、うまく声が出ない。それでも、どうしても伝えたかった。
「私は、貴方と離れて生きていくことが、自分の幸せだと思っていました」
彼の表情が、わずかに揺れた。
「あの悪夢のような一年を……貴方を見るたびに、思い出してしまうから」
彼の顔が、ひどく苦しそうに歪んだ。
あの頃のことを、彼も忘れてはいないのだろう。私がどれほど傷ついたのか。そして、自分がどれほど取り返しのつかないことをしてしまったのか。彼の表情からは、今も消えない後悔が伝わってきた。
けれど、私はもう目を逸らさなかった。
「ですが、この数ヶ月、貴方と過ごすうちに……辛い気持ちが、どんどん消えていったんです」
涙を拭うことも忘れ、私は続けた。
「そして、喜びや楽しさ、いろいろな気持ちで上書きされて……いつしか、物置小屋が怖くなくなりました」
レオニード様が、目を見開いた。
驚きの色が浮かんだその瞳に、やがて安堵が滲む。彼は何も言わなかった。ただ、私がこれからも幸せに過ごせることを、心の底から願っている。そんな温かさが伝わってきて、固く閉ざしていた心が、また少しずつほどけていった。
「今日、久しぶりに、あの恐ろしい気持ちが蘇りました」
暗闇の中で感じた恐怖。もう二度と戻りたくないと思っていた、あの場所。
そして、助けを求めることすら諦めかけたときに、頭に浮かんだ人。
「でも、貴方は来てくれた」
私は、まっすぐに彼を見つめた。
「助けてと願ったときに、来てくれた」
あの暗闇の中で、私は彼の名前を呼んだ。
来てほしいと願った。会いたいと願った。彼の腕の中に帰りたいと、心の底から願ってしまった。
それが、私の本当の気持ちだったのだ。
「もう、自分の心に嘘はつけません……」
溢れる想いは、もう止められなかった。
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、私は泣き笑う。
「レオニード様、貴方を愛しています」
ようやく、言えた。
ずっと認めることを恐れていた想い。何度も心の奥に押し込め、なかったことにしようとしてきた気持ち。
私はようやく、彼に本当の想いを伝えることができたのだった。
*
あの日、私が自分の想いを告げてから、レオニード様の行動は驚くほど早かった。
それまでは私に気を遣い、男爵家に泊まることさえ遠慮していた彼が、今では仕事のない日は朝から私のそばを離れなくなったのだ。朝食を共にし、食後には庭を散歩する。私が本を読んでいれば隣に座り、何を読んでいるのかと尋ねてくる。私が話し始めれば、どんな些細なことにも興味深そうに耳を傾けてくれた。
もちろん、彼が自分のことを話してくれる時間も増えた。魔物討伐隊の仕事のこと、団員たちとの付き合い、これまでどんなふうに生きてきたのか。今まで知らなかった彼の一面に触れるたび、私は新しい発見をしたような気持ちになった。
やがて、私の好みや望んでいることをおおよそ把握した頃、レオニード様は改めてプロポーズしてきた。今度は、ただ夫婦としてやり直すのではなく、心から愛する妻として私を迎えたいのだと、真剣な眼差しで告げてくれたのだ。
私は恥ずかしさに顔を赤くしながらも、彼の手を取って頷いた。
すると、彼はぱっと表情を明るくしたかと思うと、その日のうちに結婚式の準備を始めてしまった。
その行動の早さには、さすがの私も目を丸くした。
「レオニード様、そんなに急がなくても……」
「これ以上、君を待たせたくないんだ」
彼は私の手を両手で包み込み、真剣な顔でそう答えた。
「もちろん、君が望まないことはしない。式についても、何か希望があれば遠慮なく言ってほしい」
「希望、ですか?」
「ああ。君が一番幸せだと思える式にしたいんだ」
その言葉を聞いたとき、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
以前の私は、結婚式にどんな夢を抱いていたのだろう。もう、はっきりとは思い出せない。けれど、少なくとも大勢の貴族に囲まれ、格式ばった挨拶を交わすような式を望んでいたわけではなかった。
私がそう伝えると、レオニード様はすぐに頷いた。
「なら、君の大切な人たちを招こう。女将さんにも、ぜひ来てもらわないとね」
その提案に、私は思わず笑顔になった。
食堂の女将さんは、つらい時期に私を支えてくれた大切な人だ。ほかにも、私を気にかけてくれた人たちがいる。そんな人たちに見守られながら式を挙げられるなら、どんなに素敵だろう。
私の反応を見て、レオニード様も満足そうに微笑んだ。
「決まりだな。君が喜んでくれるなら、俺も嬉しい」
それからの彼は、準備に余念がなかった。仕事の合間を縫って式場の手配を進め、招待する人たちへの連絡も自ら確認する。私が疲れていないか、無理をしていないかと気遣うことも忘れなかった。
何かを決めるたびに、必ず私の意見を聞いてくれる。私が迷っているときは急かさずに待ち、希望を伝えれば、それを叶えようと力を尽くしてくれた。
感謝の気持ちを伝えるたび、彼は決まって幸せそうに笑う。
「まだまだ足りないよ。君を幸せにしたいんだから、もっと頑張りたいんだ」
そんなことを言われると、嬉しいやら照れくさいやらで、どう反応していいのかわからなくなってしまう。まったく、困った人だ。
けれど、彼の言葉が嬉しくて、つい笑みがこぼれてしまうのだった。
*
実家で起きた一件は、レオニード様がすぐに決着をつけてくれた。
普段は私の前で穏やかに振る舞おうとしてくれる彼が、あれほど冷たい表情を見せたのは初めてだった。
「自分の娘を金と引き換えに売り渡そうとするなど、到底許せることではない。ましてや、本人の意思を無視して閉じ込めるとは……!」
押し殺した声には、隠しきれない怒りが滲んでいた。
父と兄は、子爵家としての立場を失いたくなければ、今後一切、私に接触しないよう厳しく言い渡された。もし約束を破れば、相応の責任を取らせるとも。
レオニード様は、二人が二度と私に手を出せないよう、必要な手続きを進めてくれたのだった。
母についても、彼の怒りは収まらなかった。
母は、私が虐げられていることを知らなかったわけではない。それなのに、父や兄を止めようともせず、ただ関わらないようにしていたのだ。
「直接手を下していないからといって、何も責任がないと思っているのか。君がどれほど苦しんでいたか、知ろうともしなかったくせに」
その言葉を聞いたとき、私は胸の奥が痛んだ。
結局、母もまた、私を守ってはくれなかった。
レオニード様は、そんな私の気持ちまで察したのか、そっと手を握ってくれた。
「もう、君をあの家に戻すつもりはない。これからは俺が守る。君の人生を、誰にも好き勝手にさせたりしない」
その言葉に、私は静かに頷いた。
もう、あの家の人たちに振り回される必要はない。これからは、自分の人生を自分で選んでいいのだ。
そう思えたことが、何よりも嬉しかった。
*
そして、迎えた結婚式当日。
朝から身支度を整え、鏡の前に座っていた私は、侍女に髪を結い上げてもらいながら、何度も落ち着かない気持ちを味わっていた。
純白のドレスは、華美すぎず、それでいて繊細なレースや刺繍が美しいものだった。身頃には体に沿った柔らかな飾りが施され、裾には幾重にも布が重なっている。動くたびに揺れる生地を見つめていると、今日という日が少しずつ現実味を帯びてきた。
「奥様、とてもお綺麗です」
メイドの言葉に、私は頬を染めた。
かつては、彼とこんな日を迎えることなど想像もできなかった。夫婦でありながら心は遠く離れ、私は彼に愛されていないのだと思い込んでいた。もう一度、彼の隣に立ちたいと願う日が来るなんて、あの頃の私に教えても、きっと信じなかっただろう。
支度を終え、式場へ向かうと、そこにはすでに大勢の人たちが集まっていた。
食堂の女将さんの姿を見つけた瞬間、胸がいっぱいになった。女将さんは私に気づくと、目を細め、まるで自分の娘を見守るような温かな笑顔を浮かべてくれた。その隣には、副団長や見慣れた顔の傭兵たちもいる。彼らは私を見るなり、口々に祝福の言葉をかけてくれた。
「セレスティアさん、今日は本当に綺麗ですよ!」
「団長にはもったいないくらいだな!」
「おい、本人に聞こえてるぞ!」
そんなやり取りが聞こえてきて、私は思わず笑ってしまった。いつもと変わらない彼らの賑やかさに、緊張していた心が少しずつほぐれていく。
やがて、式が始まる時刻になった。
祭壇の前には、レオニード様が立っていた。いつも身につけている傭兵団の装いとは違い、今日はきちんとした礼装に身を包んでいる。背筋を伸ばし、私が現れるのを待っていた彼は、こちらに気づくと目を見開いた。
そして、私と目が合った途端、ひどく幸せそうに微笑んだ。
その表情を見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
私は彼のもとへ歩み寄り、差し出された手に自分の手を重ねた。彼の手は少しだけ強張っていた。普段はどんな魔物を前にしても動じない人なのに、今日ばかりは緊張しているらしい。
「……綺麗だ。セレスティア。まるで美の女神だ」
耳元で囁かれ、私は思わず顔を赤くした。
「レオニード様、声が大きいです……!」
「すまない。だが、本当に綺麗だから」
悪びれる様子もなく言い切られて、私は困ったように笑うしかなかった。
神父様の前に並んだ私たちは、互いに向き合った。
式は穏やかに進み、神父様の言葉に続いて、私たちは夫婦としての誓いを交わした。レオニード様は私の手をしっかりと握り、真っ直ぐに私を見つめていた。その眼差しには、もう迷いも、ためらいもなかった。
「それでは、誓いのキスを」
神父様がそう告げた途端、傭兵団の仲間たちから口笛が鳴り響いた。
「団長、男を見せろよ!」
「今度こそ、奥さんを幸せにしてやれよ!」
「お前ら、少しは静かにしろ!」
冷やかしと笑い声が入り交じり、式場は一気に賑やかになった。
私は思わずレオニード様と顔を見合わせた。彼は困ったように眉を下げていたけれど、その口元には笑みが浮かんでいる。私もつられて笑ってしまった。
こんなに賑やかで、温かな結婚式になるなんて。
かつての私は、誰かに祝福されながら彼と並ぶ未来など、思い描くことすらできなかった。
けれど今、私の目の前には、心から愛しいと思える人がいる。そして、その人と歩んでいく未来を、こんなにも多くの人たちが祝福してくれている。
レオニード様がそっと私の頬に手を添えた。
「愛しているよ、セレスティア」
「……私も、愛しています」
そう答えると、彼は嬉しそうに目を細めた。
降り注ぐ歓声に包まれながら、私たちはゆっくりと顔を寄せ、誓いのキスを交わした。
*
その夜。
結婚式を終え、招待客たちを見送った私たちは、ようやく二人きりになった。
夫婦の部屋には、柔らかな灯りがともっていた。窓辺には薄いカーテンが揺れ、寝台には清潔なシーツが整えられている。部屋の隅には花が飾られ、ほのかな香りが漂っていた。
華やかな一日が終わったのだと実感した途端、私は急に恥ずかしくなった。
これからは、名実ともに夫婦として暮らしていくのだ。
そう思うと、レオニード様の顔をまともに見られなくなってしまう。隣に立つ彼も、いつもより少しばかり落ち着かない様子だった。目が合うたびに微笑んでくれるのだけれど、その手は私の手を離そうとしない。
「……セレスティア」
「はい」
「今日まで、たくさん苦労をかけた」
不意に告げられた言葉に、私は顔を上げた。
レオニード様は私の手を包み込むように握り、真剣な眼差しで続けた。
「君を傷つけたことを、なかったことにはできない。俺がどれだけ後悔しても、君が苦しんだ時間は戻らない。それでも、これからは君を大切にしたい。君が安心して笑っていられる場所を、二人で作っていきたいんだ」
胸の奥が熱くなった。
彼は、過去を忘れたふりをしない。私が傷ついたことも、二人が遠回りをしたことも、すべて受け止めたうえで、これからのことを考えてくれている。
だからこそ、私は彼を信じたいと思えたのだ。
「……ありがとうございます。でも、これからは一人で頑張りすぎないでくださいね。私も、あなたを幸せにしたいんですから」
そう答えると、レオニード様は一瞬目を見開き、それから泣きそうな顔で笑った。
「……ああ。約束する」
彼がそっと腕を伸ばし、私を抱き寄せる。私はその胸に身を預け、彼の背中に腕を回した。
夫婦でありながら心を通わせることのできなかった私たち。
けれど今は、こうして互いの温もりを確かめ合うことができる。
レオニード様は私の髪にそっと口づけ、愛しいと囁いた。私も彼の胸元に顔を寄せながら、その名を呼ぶ。彼の腕の中は温かく、心まで満たされていくようだった。
その夜、私たちは互いの想いを確かめながら、甘く穏やかな時間を過ごした。
ようやく、心から愛する人と結ばれたのだ。
これから先、きっと困難が訪れることもあるだろう。けれど、もう一人で耐える必要はない。嬉しいことも、悲しいことも、二人で分かち合っていけばいい。
互いを想い、互いの幸せを願う。
そんな当たり前のことを、私たちは長い時間をかけて、ようやく知ることができた。
私は彼の手を握り返し、そっと微笑んだ。
今度こそ、この人と一緒に幸せになろう。
そう、心から思った。
―完―
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