第八話
レオニードは、仕事のない日には必ずと言っていいほど屋敷を訪れるようになっていた。
もちろん、妻に会うためである。
最初のうちはセレスティアも露骨に嫌そうな顔をしていたが、最近では「また来たんですか」と呆れたように言うだけになった。歓迎されているとは到底思えないものの、追い返されないだけ進歩したのだと、レオニードは前向きに解釈していた。
何しろ、彼には時間が必要だった。
長い間、妻を放置してしまったのだ。今さら夫面をしても信頼してもらえるはずがない。ならば、せめて彼女の役に立とう。少しずつでも誠意を示していけば、いつか自分を見直してくれるかもしれない。
そう考えたレオニードは、まずセレスティアの望みを聞くことにした。
「セレスティア。何か俺にできることはないだろうか?」
ある日の午後、屋敷の庭でお茶を飲んでいたセレスティアに、彼は真剣な顔で尋ねた。
「できること、ですか?」
「ああ。君が望むことなら、何でも力になりたい」
何でも。
その言葉を聞いて、セレスティアは少し考え込んだ。
彼女は、屋敷に戻ってからも食堂での仕事を続けていた。レオニードはそれを止めようとはしなかったが、会いに来るたびに何かできることはないかと聞いてくる。
最初は、離婚を思いとどまらせるための方便だろうと思っていた。けれど、どうやら本人は本気らしい。
だったら、せっかくだからお願いしてみよう。
「そうですね……。この庭の一角で、家庭菜園をしてみたいんです」
「家庭菜園?」
「はい。自分で育てた野菜を料理して食べられたら素敵だと思いませんか?食堂で使う野菜も、自分で育てられたら便利ですし」
セレスティアは、楽しそうに微笑んだ。
前世では、いつか自分の小さな菜園を持つことに憧れていた。大げさなものでなくていい。季節の野菜を少しずつ育て、収穫したものを食卓に並べる。そんな暮らしに、彼女はささやかな魅力を感じていた。
「なるほど……家庭菜園か」
レオニードは、深く頷いた。
「分かった。任せてくれ!」
その返事を聞いて、セレスティアはほっとした。
庭の一角を少し耕すくらいなら、それほど難しいことでもないだろう。彼が手伝ってくれるのなら、土を掘る作業も早く終わりそうだ。
「ありがとうございます。あまり広くなくていいので、あちらの花壇の隣あたりに……」
「心配するな。君が満足できるものを用意しよう!」
レオニードは力強く請け負った。
その表情には、戦場で作戦を立てるときと同じ真剣さがあった。
セレスティアは、ほんの少しだけ嫌な予感を覚えた。
しかし、まさか庭の一角を耕すだけの話で、あそこまで大事になるとは思わなかったのである。
*
翌朝。
「団長!この辺りでよろしいでしょうか!」
「いや、もっと奥まで耕せ! 土が固い場所を残すな!」
「了解!」
屋敷の庭に、野太い男たちの声が響き渡っていた。
セレスティアが窓から外を覗くと、そこには信じられない光景が広がっていた。
屈強な傭兵たちが十人以上も集まり、鍬や鋤を手に庭の土を掘り返している。庭師が大切に手入れしていた芝生はすでに姿を消し、花壇の隣には立派な耕作地ができあがりつつあった。
「…………は?」
セレスティアは窓辺で固まった。
その中央で、レオニードが腕まくりをして鍬を振るっている。上着を脱ぎ、シャツの袖を捲り上げた姿は、やたらと様になっていた。
「団長! こちらの土も柔らかくなりました!」
「よし! 水はけを確認しろ。 畝を作るなら、排水のことも考えなければならん!」
「さすが団長! 戦場だけでなく農作業の指揮も完璧ですね!」
「当たり前だ! 畑を作るのも、地形を見極めるのが重要だからな!」
何やら、妙な方向に盛り上がっている。
セレスティアは、そっと窓を閉めた。
……見なかったことにしよう。
そう思ったのだが、時すでに遅し。
「セレスティア!」
大きな声に振り返ると、泥だらけのレオニードが満面の笑みで駆け寄ってきた。
「見てくれ! 君のための畑だ!」
彼が胸を張って示した先には、庭の一角どころか、庭の半分近くを占める広大な耕作地ができあがっていた。
しかも、きれいに畝まで作られている。本格的な農業が営めること間違いなしだ。
「……あの」
「これだけ広ければ、野菜をたくさん育てられるだろう? 土も十分に耕した。水路も作ったし、日当たりも問題ない。必要なら柵も設置しよう!」
レオニードは誇らしげに説明した。
「部下たちにも手伝ってもらったんだ。俺たちが力を合わせれば、この程度の作業はあっという間だな!」
「…………」
セレスティアは、広大な畑と、泥だらけで笑っている夫を交互に見つめた。
家庭菜園。
彼女が望んだのは、ちょっとした家庭菜園だった。
薬味や葉物野菜を育てたり、トマトや豆を植えたり。毎日の料理に少しずつ使える程度の、小さな菜園でよかったのだ。
それなのに、目の前にあるのは、どう見ても立派な農場である。
「……レオニード様」
「何だ?」
「私、農場を経営するつもりはないんですけど」
「…………え?」
レオニードの笑顔が固まった。
*
その日の午後。
セレスティアは、庭の片隅に残された小さな区画を見つめていた。
結局、傭兵たちが耕した広大な土地のうち、実際に使うのはほんの一部だけということになった。残りの土地は庭師に相談して、花壇や芝生を元に戻す予定である。
レオニードはしょんぼりしていたが、セレスティアとしても、彼がせっかく頑張ってくれたこと自体を否定したいわけではない。
ただ、どうしてこう極端なのだろう。
「……まあ、土は柔らかくなりましたし。せっかくですから、こちらで野菜を育てましょう」
「本当か!?」
レオニードの顔が、ぱっと明るくなった。
「ええ。ただし、次からは事前に相談してくださいね」
「分かった!」
返事だけは実にいい。
セレスティアは、ほんの少しだけ頭が痛くなった。
この人、本当に優秀な傭兵だったのだろうか。
*
それから数日後。
セレスティアが市場で買い出しをしていると、いつものようにレオニードがついてきた。
「荷物は俺が持とう!」
そう言うなり、彼は彼女の手から買い物袋を取り上げた。
「え?でも、そんなに重くありませんよ」
「遠慮するな。これくらい何でもない!」
レオニードは、両手にいくつもの袋を提げて胸を張った。
確かに、傭兵団長を務める男である。鍛え上げられた腕力は並外れており、野菜や肉、豆や調味料を詰め込んだ袋など、いくら持っても苦にならない。
セレスティアは、ありがたいと思わないでもなかった。
重い荷物を持ってもらえるのは助かる。だが、問題はそこではない。
「……レオニード様、近いです」
「ん? そうか?」
「はい。もう少し離れてください」
彼はセレスティアのすぐ隣を歩いていた。しかも、彼女が人混みでぶつからないようにと、やたらと身体を寄せてくる。
護衛のつもりなのだろう。
だが、身長も肩幅もある大柄な男が、ぴったり横について歩いているのである。周囲の人々が避けてくれるのはいいが、セレスティア自身も歩きづらくて仕方がない。
「人が多いからな。君に何かあったら困る」
「ありがとうございます。でも、圧が凄いです」
「圧?」
「それに、筋肉が邪魔で歩きにくいです」
「…………筋肉が、邪魔?」
レオニードは愕然とした。
鍛え抜かれた身体は、戦場で何度も自分を救ってきた。傭兵団の仲間からも頼りにされている。筋肉が邪魔だと言われたことなど、これまで一度もなかった。
それなのに、愛する妻からはっきりと告げられてしまった。
筋肉が邪魔。
これは、かなりの衝撃だった。
「……すまない」
レオニードは、しょんぼりと肩を落とした。
セレスティアは、そんな彼をちらりと見上げた。
「いえ、荷物を持ってくださるのは助かっていますよ。ただ、普通に隣を歩いてくれればいいんです」
「……そうか。普通に、だな」
「はい」
レオニードは、彼女との距離を半歩ほど空けた。
それだけで、ずいぶん歩きやすくなった。
しかし、本人はといえば、どこか納得のいかない顔をしている。
どうやら彼は、妻を守るためには近くにいるべきだと思い込んでいたらしい。けれど、セレスティアが求めているのは、圧倒的な存在感を発揮する護衛ではなく、隣を歩いても気にならない程度の距離感だった。
その違いを理解するまでには、もう少し時間がかかりそうである。
*
買い出しを終え、屋敷へ戻る道すがら。
レオニードは、両手いっぱいの荷物を持ったまま、真剣に考え込んでいた。
武術なら自信がある。肉体労働も得意だ。護衛なら、誰にも負けるつもりはない。
だが、妻が望むことは、そのどれもが自分の考えていたこととは少し違っていた。
畑を作れば大きすぎると言われ、荷物を持てば距離が近すぎると言われる。高級な贈り物をすれば、欲しいものは圧力鍋と包丁だと言われた。
では、いったい何をすればいいのだろう。
(……俺は、こんなにも無力だったのか)
戦場では、己の力を信じて進めばよかった。敵を倒し、仲間を守り、勝利をつかむ。それだけで十分だった。
だが、セレスティアの心を取り戻すためには、力だけではどうにもならないらしい。
レオニードは、隣を歩く妻をそっと見た。
彼女は買ったばかりの野菜を確認しながら、明日の食堂の献立を考えているようだった。ときおり楽しそうに呟く姿が、何とも愛らしい。
この笑顔を、もっと見たい。
自分が原因で失われた時間を、少しでも取り戻したい。
そのためなら、何度失敗したって構わない。
「セレスティア」
「はい?」
「また何かあれば、遠慮なく言ってくれ。俺にできることなら、何でもするから」
セレスティアは、少しだけ困ったように笑った。
「そうですね。では、次からは畑を作る前に相談してください」
「……分かった」
「それから、荷物を持ってくださるときは、もう少し距離を空けてくださいね」
「……分かった」
「あと、できれば離婚にも同意してくださると助か――」
「それだけは無理だっ!」
食い気味に即答した。
セレスティアは、にっこりと微笑んだ。
「いつか、考え直して下さいね?」
「…………善処する」
レオニードは、ぐっと言葉に詰まった。
妻の信頼を取り戻す道のりは、想像以上に険しい。
それでも彼は、決して諦めるつもりはなかった。
たとえ筋肉が邪魔だと言われようとも。
たとえ畑を耕しすぎてしまおうとも。
愛する妻のために、自分にできることを探し続けるのだ。
……ただし、次に何かを始める前には、必ずセレスティアに相談する。
それだけは、どうやら学習したらしい。
*
「団長。いい加減、気づいたほうがいいと思うぞ」
詰所で書類を片づけていたレオニードは、向かいに座る副団長の言葉に顔を上げた。
「何にだ?」
「セレスティアちゃんへのアプローチだよ」
その一言に、レオニードの眉間に深い皺が寄った。
ここ最近、彼は妻のために努力を重ねている。高価な贈り物を用意し、町を案内し、買い物の荷物を持ち、さらには家庭菜園まで作った。どれもセレスティアの役に立ちたい一心でやったことだ。
しかし、結果は散々だった。
贈り物は売られそうになり、誘った高級店の料理は彼女の口に合わず、家庭菜園を作れば畑が広がりすぎだと叱られた。荷物を持てば筋肉が邪魔だと言われる始末である。
「俺は、妻のためにできることをしているつもりだ」
「その気持ちはわかるがよ。団長が必死になっているのは。長年の付き合いだしな」
副団長は深々とうなずいた。
「だが、団長。女は花束とか甘い言葉に弱い!」
「花束と、甘い言葉……?」
「そうだ! 美しい花を贈って、愛の言葉を囁く。これが基本!」
副団長は力説した。
魔物討伐隊の隊長として、数々の危険な討伐を指揮し、どんな強敵を前にしても冷静さを失わなかった男が、たった一人の女性を前にして右往左往している。団員たちにとっては、これまで見たこともない珍しい光景だった。
しかも、その相手はほかでもない、かつて放置していた妻である。
笑ってはいけない。そう思うほど、笑いがこみ上げてくる。
「……わかった。やってみよう」
レオニードは真剣な顔でうなずいた。
副団長は、その素直さに一瞬だけ感動した。
この人も、ようやく学ぶ気になったのか。
「なら、まずは甘い言葉から練習しよう。そうだな……セレスティアちゃんを見つめて、『君の瞳は夜空に輝く星のようだ』とか」
「君の瞳は、夜空に輝く星のようだ……」
「そうそう! そんな感じ!」
レオニードは腕を組み、真剣に考え込んだ。
そして数秒後、何かを決意したように顔を上げる。
「お前の瞳は、俺が生涯守るべき唯一の宝だ」
「……おおっ?」
「その髪に触れる風すら、俺は妬ましく思う。お前が笑うなら、この命など惜しくはない」
「おおおっ!?」
予想以上に熱烈だった。
副団長は思わず身を乗り出した。普段のレオニードからは想像もつかない言葉の数々だが、声は低く、表情は真剣そのもの。戦場で誓いを立てるときと同じ迫力がある。
ただし。
「団長、それはちょいと……いや、かなり重い」
「そうか?」
「もっとこう、軽やかに! 相手が照れるような感じで!」
「照れる……」
レオニードは再び考え込んだ。
その結果、彼は離婚を求める妻に向かって、これまで一度も口にしたことのない言葉を告げることになった。
*
「セレスティア。少し、話がある」
その日の午後。
庭の一角に作った家庭菜園で、セレスティアが苗の様子を確認していると、レオニードがやってきた。
彼女は手にしていた小さな移植ごてを置き、振り返る。
「何でしょう?」
「……お前は、今日も美しいな」
「…………はい?」
セレスティアは、ぽかんと口を開けた。
目の前の男は、冗談を言っているようには見えない。むしろ、今にも魔物が襲いかかってきそうな場所で、敵の気配を探っているときのような、ひどく真剣な顔をしていた。
……控えめに言っても、こわい。
セリフと顔が、まるで一致していないのだ。
「その髪も、瞳も、俺には何より眩しい。お前がそばにいるだけで、俺の世界は――」
「ちょ、ちょっと待ってください」
セレスティアは思わず片手を上げた。
「どうした?」
「レオニード様、どこか具合が悪いんですか?」
「……は?」
「お顔が赤いですし、普段と様子が違います。熱でもあるんですか?」
彼女は心配そうに一歩近づき、レオニードの額に手を当てた。
その瞬間、レオニードの全身が硬直した。
妻の手が額に触れている。
柔らかい。温かい。近い。
彼女から自分に触れてくれたことなど、今までなかったのではないか。
頭の中で何かが弾けた。
「……っ」
「熱はなさそうですね。でも、顔が赤いですよ?」
「問題ない!」
「本当に?」
「本当だ!」
「そうですか。では、どうぞお大事に」
セレスティアはあっさりと手を離し、再び菜園へ向き直った。
レオニードは、その場に立ち尽くしていた。
妻に触れてもらえた。額とはいえ、セレスティアのほうから触れてくれたのだ。
(これは、前進ではないだろうか)
いや、間違いなく前進だ。
レオニードは感動に打ち震えながら、誰にも気づかれないよう、ぎゅっと拳を握りしめた。今なら魔物の群れを前にしたって、いつも以上の力を発揮できそうな気がする。
その一部始終を物陰から見ていた副団長は、深いため息をつくと、両手で顔を覆った。
「団長……今のはあんたへの好意じゃなくて、ただの診察……」
残念ながら副団長の言葉は、幸せ絶頂の団長に届くことはなかった。




