第七話
「セレスティア、今度の休みは空いているだろうか?」
屋敷を訪ねてきたレオニードにそう尋ねられ、セレスティアは首を傾げた。
先日、山のようなドレスや宝石を贈られたばかりである。あれから彼は食堂にも顔を出し、なぜか圧力鍋や包丁について真剣に質問していた。どうやら、こちらが欲しいと言ったものを本気で用意するつもりらしい。
その熱意だけは認めてもいい。もっとも、だからといって夫婦を続ける気にはならないのだが。
「何か御用ですか?」
「……これまで君にしてきたことを、改めて詫びたいと思っている。だから、せめて一日、俺に街を案内させてくれないだろうか」
レオニードは、いつになく真剣な面持ちで頭を下げた。
「君がどんなものを好むのか、どんな場所で過ごしているのか、俺は何も知らなかった。これからは、少しずつでも君のことを知りたいんだ」
その言葉に、セレスティアはしばし考え込んだ。
確かに、夫婦として暮らしていくつもりがあるのなら、互いを知ることは大切だろう。しかし、彼女にはそんなつもりはない。いずれ離婚するのだから、今さら夫婦らしい交流を深める必要もないと思っていた。
とはいえ、せっかく向こうから歩み寄ってきたのだ。ここで無下に断るのも得策ではない。
それに、街へ出かけるのなら、ついでに買い物もできるだろう。
「……分かりました。では、一日お付き合いします」
「本当か!?」
レオニードの顔が、ぱっと明るくなった。
まさか了承してもらえるとは思わなかったのだろう。普段は冷静な男が、目に見えて喜んでいる。
その様子を見て、セレスティアは内心で首を傾げた。
(そんなに嬉しいことかな? まあ、慰謝料代わりに食事くらいはご馳走してもらおう)
一方のレオニードは、心の中で拳を握りしめていた。
(よし! まずは二人でゆっくり食事をして、彼女の好きなものを知る。それから街を案内すれば、きっと喜んでもらえるはずだ!)
こうして、二人の認識が大きく食い違ったまま、お出かけの日が決まったのである。
レオニードはそれを、妻との距離を縮めるための大切な一日だと考えていた。
セレスティアはそれを、慰謝料代わりの食事と離婚交渉の機会だと考えていた。
この時点で、すでに前途多難である。
*
約束の日。
レオニードは、貴族御用達の高級レストランを予約していた。
落ち着いた内装に、磨き上げられた銀器。窓際の席からは美しい庭園が見渡せ、給仕たちの所作も洗練されている。普段の食堂とは何もかもが違う、上品で格式高い店だった。
「どうだろう。気に入ってもらえたか?」
向かいに座るレオニードが、期待を込めた眼差しを向けてくる。
「……ええ、とても素敵なお店ですね」
セレスティアは、にこりと微笑んだ。
嘘ではない。内装も調度品も見事なものだし、料理も美しく盛りつけられている。貴族の令嬢として見れば、申し分のない店なのだろう。
ただし。
(……落ち着かない)
背筋を伸ばして座る客たち。控えめな声で交わされる会話。料理が運ばれてくるたび、給仕が恭しく皿を置く。
なんだか、食事を楽しむというより、作法の試験を受けているような気分になる。
しかも、出てきた料理はどれも小ぶりだった。
美しく飾られた前菜を食べ終えたところで、セレスティアは思わず考える。
(……これで一品? 次のお皿はいつ来るのかな)
続いて運ばれてきたスープも、上品な器に少しだけ。メイン料理に至っては、立派な肉料理の横に野菜がちょこんと添えられているだけだった。
もちろん、味は申し分ない。素材も良いし、手間もかかっているのだろう。
しかし、食堂でしっかり働いているセレスティアにとっては、いかんせん量が足りなかった。
せめて、あの食堂の煮込み料理が食べたい。
大きな鍋でじっくり煮込まれた肉は柔らかく、野菜には旨味が染み込んでいる。湯気の立つ料理を大きな器に盛り、焼き立てのパンと一緒に食べる。あの温かさと満足感は、こうした上品な料理とはまた違う魅力があるのだ。
「……下町の、あの食堂の煮込み料理の方が、温かくて美味しいのに」
ぽつりと漏れた本音だった。
「…………え?」
レオニードの表情が凍りついた。
今、何と言った?
この高級レストランより、食堂の煮込み料理の方が美味しいと? 確かに食堂の料理はとても旨いが。
いや、待て。彼女があの食堂を気に入っていることは知っている。そこで働いていたのだから、思い入れがあるのも当然だろう。
だが、特別な場所で、特別な時間を過ごしたら彼女喜ぶと思ってしまった。
「そ、そうか……。ここの料理は、君の口には合わなかったか?」
「いえ、そんなことはありません。とても美味しいです。ただ、量が少なくて……」
セレスティアは悪気なく答えた。
「お肉も、もう少し食べたいですね。あの食堂なら、料理をおかわりできますし」
「お、おかわり……」
レオニードは呆然と呟いた。
確かに、あの食堂なら気兼ねなく食べられるだろう。彼自身、何度も通っているから知っている。
しかし、今日のために選んだ店は、王都でも指折りの高級店なのだ。予約を取るのだって簡単ではなかった。
それなのに、妻が求めていたのは、おかわりのできる食堂の料理だった。
(……俺は、何をやっているんだ)
レオニードは、そっと額を押さえた。
良かれと思って選んだのに。
どうやら、またしても盛大に空回りしたらしい。
*
食事を終えた二人は、店を出て街へと繰り出した。
レオニードは、先ほどの失敗を引きずっていた。妻を喜ばせるつもりが、かえって気を遣わせてしまったのではないか。自分の選択は、いつも彼女の望みからずれているのではないか。
そんな考えが頭から離れない。
「……セレスティア」
「はい?」
「次は、君の好きな場所へ行こう。俺が勝手に決めるのではなく、君が行きたいところへ」
セレスティアは少し驚いた顔をした後、ぱっと表情を明るくした。
「いいんですか?」
「ああ。もちろんだ」
「それなら、市場へ行きたいです!」
即答だった。
レオニードは一瞬きょとんとしたが、すぐに頷いた。
「分かった。案内してくれ」
「はい!」
先ほどまでの遠慮がちな態度はどこへやら。セレスティアは軽い足取りで歩き始めた。
*
下町の市場は、昼過ぎになっても活気に満ちていた。
野菜を売る商人の呼び声、焼き立てのパンの香り、威勢のいい魚売りの声。あちこちから人々の笑い声が聞こえ、通りには買い物客が行き交っている。
セレスティアは、そんな市場の光景を目にした途端、まるで水を得た魚のように生き生きとし始めた。
「わあ、今日は珍しい豆が入っているんですね!」
野菜の露店に駆け寄り、店主と楽しそうに話しながら品物を選ぶ。
「この豆なら、煮込み料理に入れても美味しそう。あ、こちらの根菜もください。あと、その乾燥ハーブはどんな料理に使うんですか?」
次々と質問し、気に入ったものを見つけるたびに目を輝かせる。
レオニードは、そんな彼女の姿を少し離れた場所から見つめていた。
(……こんな顔をするんだな)
屋敷で見かけたときのセレスティアは、いつもどこか警戒していた。自分と話すときも、表面上は礼儀正しくても、心の距離は遠いままだった。
それが今は、心から楽しそうに笑っている。
市場の商人たちとも顔なじみらしく、親しげに声を掛けられていた。彼女もまた、相手の名前を呼び、気軽に言葉を交わしている。
その光景を見て、レオニードの胸がちくりと痛んだ。
彼女は、この街で自分の居場所を見つけていたのだ。
自分が知らないところで、誰かに助けられ、働き、笑いながら暮らしていた。
妻のことを何も知らなかった自分が、今さら夫として隣に立っている。その事実を思い知らされるようだった。
「レオニード様、こっちですよ!」
セレスティアに呼ばれ、彼は慌てて顔を上げた。
「これ、すごく美味しそうですよ!」
彼女が指差した先には、串に刺した肉を炭火で焼く露店があった。香ばしい匂いが漂い、焼き立ての肉からはじゅうじゅうと音が立っている。
「一本ずつ買いましょう!」
「あ、ああ」
「おや、姉ちゃんのいい人かい? すみにおけないねぇ」
レオニードが照れながらも代金を払うと、店主はにやりと笑って二人に串焼きを手渡した。
セレスティアは、さっそく一口かじる。
「んー!美味しい!」
頬を緩める彼女を見て、レオニードもようやく少しだけ肩の力を抜いた。
高級レストランでは見られなかった笑顔だ。
やはり、彼女にはこちらの方が合っているのかもしれない。
「レオニード様も食べてみてください」
セレスティアは自分の串焼きを差し出した。
「ほら、一口どうぞ」
「…………っ!?」
レオニードの動きが止まった。
目の前には、焼き立ての串焼き。そして、それを差し出すセレスティア。
彼女は何の気なしに微笑んでいる。
(こ、これは……!)
レオニードの脳裏に、ある言葉が浮かんだ。
――あーん。
そう。これは、いわゆる「あーん」というやつではないのか!?
妻が自分に食べさせようとしている。しかも、あのセレスティアが。先日まで顔を見るのも嫌だというような態度だった彼女が、今、自分に串焼きを差し出しているのだ。
これを喜ばずして、何を喜べというのか。
「……セレスティア」
「はい?」
「そ、それは……」
レオニードの顔が、見る見るうちに赤くなった。
魔物討伐では、どれほど危険な相手を前にしても動じない男が、たった一本の串焼きを差し出されただけで、どうしていいか分からなくなっている。
セレスティアは、不思議そうに首を傾げた。
「どうしました? じっと見ていたので、こちらも味見したいのかと思って」
「…………」
違った。
どうやらセレスティアは、俺が別の種類の串焼きも食べたがっていると思い、差し出してくれただけらしい。
彼女にとっては、食堂で客に料理を勧めるのと変わらない、ごく自然な気遣いだった。
それでもレオニードは、しばらく固まったまま動けなかった。
「……いただきます」
ようやくそう答え、串焼きにかぶりつく。
肉は香ばしく、確かに美味しかった。
だが、それ以上に心臓がうるさい。
(……危なかった。今、俺は確実に死ぬところだった)
恋の病とは、これほどまでに恐ろしいものだったのか。
一方、セレスティアは自分の串焼きを食べながら、次の露店へ視線を向けていた。
「あっ、あちらのお店も気になりますね。行ってみましょう!」
「あ、ああ!」
レオニードは慌てて彼女の後を追った。
彼女は楽しそうだ。今日一日、少なくとも市場では笑顔を見せてくれている。
それだけでも、今の自分には十分すぎるほど嬉しかった。
……ただし、彼女が楽しんでいる理由が、自分との時間を喜んでいるからではなく、市場そのものが楽しいからだということには、まだ気づいていなかった。
セレスティアは、買い物袋を手に満足げに微笑んでいた。
(今日はいい買い物ができたわ。美味しいものも食べられたし、レオニード様とも少しずつ話しやすくなってきた。これなら、慰謝料の話も穏便に進められるかもしれないわね)
レオニードは、隣でひとり赤くなっていた。
(次は、もっと彼女を喜ばせよう……!)
二人は同じ道を歩きながら、まったく違うことを考えていたのである。




