第六話
セレスティアは、新しく移った部屋を落ち着かない様子で見回していた。
あの騒動の後、彼女は早々に男爵夫人の部屋へと案内された。これまで自分を物置に閉じ込め、虐げてきた夫の叔母や従姉妹、そして加担していた使用人たちは、すでに捕らえられている。代わりに新しく雇われた若いメイドが、身の回りの世話をしてくれることになった。
広々とした室内には、上等な家具が揃い、大きな窓からは明るい陽光が差し込んでいる。かつて閉じ込められていた薄暗い物置とは、まるで別世界だ。
けれど、セレスティアはどうにも落ち着かなかった。
「それでも、離婚してもらえるよう説得しなきゃ」
ぽつりと呟き、彼女は気合いを入れるように両手を握りしめた。
幸い、前世の知識や経験があるおかげで、自立して生きていくことに不安はない。今までどおり食堂で働き、自分の力で生活を築いていけばいいのだ。せっかく新しい人生を歩み始めたのだから、これからは誰にも縛られず、自由に暮らしたい。
問題は、夫であるレオニードが離婚に同意してくれないことだった。
まったく、何を考えているのだろう。妻を放置した挙げ句、物置で死にかけるような目に遭わせておいて、今さら夫婦を続けたいなどと言われても困る。
とはいえ、幸いにも二人の間に夫婦としての生活はなかった。教会に白い結婚を申し立てられるようになるまで、あと一年と少し。それまで夫をあまり刺激せず、慎重に時を過ごせばいい。
(そう。今までだって何とか生き延びてきたんだから、これからだって大丈夫!)
セレスティアはぐっと拳を握りしめた。
まずは身支度を整えて、いつもの食堂へ向かおう。慣れ親しんだ仕事ができると思うと、気持ちも少しばかり軽くなる。
髪を手早くまとめ、動きやすい普段着に着替えると、彼女は意気揚々と部屋を後にした。
目指すは、いつもの食堂。
自由な人生を取り戻すため、セレスティアは今日も働くのだ。
※
「……はぁ」
レオニードは、何度目になるか分からない深いため息をついた。
傭兵団の詰所。その一角で、彼はどんよりとした顔でうなだれていた。普段なら、どんな難題を前にしても泰然としている団長が、今やすっかり見る影もない。
団員たちは、そんな彼を気の毒そうに眺めながらも、どこか呆れた様子だった。
確かに落ち込む理由なら、いくらでもある。
何しろ、自分の妻を長い間ひどい目に遭わせてしまった挙げ句、ようやく会えたかと思えば「クソ旦那!」と罵られ、思いきり殴られたうえに、離婚まで突きつけられたのだ。
とはいえ、いつまでもこうしていられても困る。と、見ていられなくなった副団長が、とうとう口を開いた。
「なぁ、団長。意地を張ってないで、セレスティアちゃんと離婚してやれよ。彼女、ものすごく怒ってただろ」
以前はステラと呼ばれていた彼女も、正体が判明してからは本名で呼ばれるようになった。
「うるさい。そんなことは分かっている……だが、離婚だけは絶対にしないぞ」
即答だった。
「うわぁ……セレスティアちゃん、可哀想」
団員の一人が、思わず呟く。
まったくもって、そのとおりであるのだが。
――俺の、初恋なのだ。
見た目も性格も好ましいと思っていた女性が、まさか自分の妻だったなんて。そんな運命めいた事実を知ってしまった以上、レオニードにとって、セレスティアはもう手放せない存在になっていた。
もちろん、彼女がどれほどの苦しみを味わったのかは理解している。自分が妻を顧みなかったせいで、彼女は長い間、暗い物置に閉じ込められ、満足に食事を与えられることもなく過ごしていたのだ。
その絶望は、想像するだけでも胸が痛む。
一生をかけて償いたい。
罵られても構わない。殴られても構わない。何なら、刺されたって文句は言わない。
だが、離婚だけはしたくなかった。
彼女を苦しめた自分が、こんな願いを口にする資格などないことは分かっている。それでも、どうしても諦められないのだ。
「とにかく、彼女に今までの詫びをする!」
レオニードは勢いよく立ち上がった。
いつまでも落ち込んでいるだけでは、何も始まらない。まずはセレスティアに誠意を示し、少しでも自分を見直してもらえるよう努力するのだ。
「……団長、何をするつもりだ?」
副団長が、嫌な予感を覚えたように尋ねる。
「決まっているだろう。彼女のためにできることをする!」
力強く宣言するレオニード。
こうして、妻の信頼を取り戻すべく、レオニードの必死のアプローチが始まった。
*
レオニードが最初に目をつけたのは、貴族御用達の高級宝飾店だった。
「女性に詫びるなら、贈り物だろう?」
「……まあ、間違いじゃないが」
副団長は曖昧に頷いた。
「特に貴族の女性なら、宝石やドレスを贈れば喜ぶんじゃないか?」
「そうだよな! よし、店に案内しろ!」
こうして、レオニード男爵による、妻への贈り物攻勢が始まった。
彼は宝石商に詰所まで来させ、最高級の品々を次々と選んだ。繊細な細工を施した金のネックレス、希少な宝石をあしらった耳飾り、職人が何カ月もかけて仕立てたドレス。どれも一級品であり、普通の貴族令嬢なら歓声を上げて喜びそうな品ばかりだった。
「これも、あれも、全部俺の屋敷に届けてくれ!」
「かしこまりました、男爵様!」
宝石商はほくほく顔で帰っていった。
レオニードは満足げに頷く。
これで少しはセレスティアも喜んでくれるだろう。
……問題は、彼女が自分の贈り物を受け取ってくれるかどうかだが。
「団長。ちなみに、セレスティアちゃんが何を好きなのかは知ってるのか?」
「…………」
「知らないんだな」
副団長は深く溜息をついた。
「うるさい。これから知っていけばいいだろう!」
レオニードは強引に話を打ち切った。
そうだ。夫婦なのだから、これから少しずつ理解を深めていけばいい。最初から何もかも分かるはずがないのだ。
彼は自分にそう言い聞かせた。
そして翌日。
「……これは、何?」
セレスティアは、自室に運び込まれた品々を前に、心の底から困惑していた。
ベッドの上には色とりどりのドレスが積まれ、机には宝石箱が並んでいる。侍女たちが運び込んだ品々は、部屋の一角を埋め尽くすほどの量だった。
「レオニード男爵様から、奥様への贈り物でございます」
新しく雇われた若いメイドが、少しばかり羨ましそうな顔で答えた。
「奥様に喜んでいただきたいと、たいそう張り切っておられました」
「……そうですか」
セレスティアは、目の前に広がる光景を冷ややかに見つめた。
なるほど。夫は妻に贈り物をすれば喜ぶと思っているらしい。
いや、貴族の女性に高級なドレスや宝石を贈るという発想そのものは、決して間違っていないのだろう。実際、そういう贈り物を喜ぶ女性は多いはずだ。
ただし、それは相手の好みを知っている場合の話である。
セレスティアは、山積みになったドレスの一着を手に取った。
繊細なレースに、惜しみなく使われた高級な生地。刺繍も見事で、仕立てにかかった金額を考えれば、相当な品だろう。
しかし。
「……こんな重くて動きづらいドレス、いつ着るのかしら?」
「えっ?」
メイドが目を丸くした。
セレスティアはドレスを元の場所に戻すと、今度は宝石箱を開けた。中には大粒の宝石を連ねたネックレスが収められている。光を受けてきらきらと輝くそれは、確かに美しい。
だが、彼女の感想は違った。
「これ、肩が凝りそうですね」
「お、奥様……?」
「それに、こんな大きな宝石を首から下げていたら、仕事の邪魔になりません?」
セレスティアは首を傾げた。
食堂で働くときに、こんなものを身につけていたらどうなるだろう。鍋を運ぶたびに引っかかり、洗い物をすれば水に濡れ、うっかり落とせば大変なことになる。
考えるだけでも恐ろしい。
そもそも、自分は貴族ではあるが、社交界デビューすらしていないのだ。親である子爵家に必要とされない娘だったから……。親しい貴族令嬢もいない、そんな自分にこんな高価なドレスや宝石を送るなんて宝の持ちぐされだと思う。
眉根を寄せ難しい顔をして贈り物を見つめているとメイドが慌てたようにレオニードを擁護し始める。
「男爵様は、奥様に大変な額をかけて下さいました。少しはお喜びになっても……」
「それは分かってるわ。でも、私が欲しいものじゃないの」
セレスティアはきっぱりと言い切った。
高価なものを買ってもらうこと自体に興味がないわけではない。前世の記憶がある彼女にとって、金銭的な価値のあるものは、生活を安定させるための大切な資産でもある。
しかし、着もしないドレスを何着も持っていても仕方がない。
宝石だって、身につける趣味がなければ宝の持ち腐れだ。
それよりも、今の自分に必要なものは別にある。
「……食堂使っている、特製の圧力鍋が欲しいわ」
「圧力鍋、ですか?」
「ええ。それと、よく切れる包丁。あと、軽くて動きやすい普段着も欲しいわ」
セレスティアは指を折りながら、欲しいものを挙げていった。
圧力鍋があれば、煮込み料理の時間を短縮できる。よく切れる包丁があれば、食材の下ごしらえも楽になる。動きやすい服は、仕事をするうえで欠かせない。
どれも、今の自分の生活に役立つものばかりだ。そして、離婚後の生活にも使える。
「男爵様には、そう伝えてもらえる?」
「は、はい……」
メイドは戸惑いながらも頷いた。
セレスティアは、宝石箱を閉じて小さく息をつく。
せっかく贈ってくれたのだから、無下に扱うつもりはない。けれど、夫婦関係を続ける気がない以上、これで機嫌を取られたところで困るのだ。
それにしても、これだけの品を買うお金があるのなら、離婚の際に支払う慰謝料も期待できるのではないだろうか。
(……この宝石、売ったらいくらになるのかしら)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
もちろん、勝手に売るつもりはない。贈り物とはいえ、まだ受け取るとも返事をしていないのだから。
ただ、これだけの価値がある品なら、離婚後の生活資金としては申し分ないだろう。
「いえ、待って。ドレスも売れば、当面は働かなくても暮らせるかもしれないわね……」
セレスティアは小さく呟くと、真剣な顔で計算を始めてしまった。自分の考えに夢中で、その様子をメイドにしっかり見られていることには、まるで気づいていなかった。
そして、その日の夕方。
「何だと! 宝石を売るだと!?」
報告を受けたレオニードは、傭兵団の詰所で思わず立ち上がった。
「いや、まだ売ると決まったわけじゃない。セレスティアちゃんが、売ったらいくらになるのかって考えていたらしい、というだけだ」
「同じことだろう!」
「いや、全然違うと思うが……」
副団長は額を押さえた。
レオニードは頭を抱えた。
せっかく彼女に喜んでもらおうと、最高級の品を揃えたのだ。それなのに、妻は宝石の価値を換金額として計算していたという。
しかも、欲しいものは圧力鍋と包丁と普段着。
「……俺は、何を間違えたんだ?」
「相手の好みを調べずに、勝手に高いものを買い込んだところじゃないか?」
「ぐっ……!」
正論だった。
ぐうの音も出ない。
だが、ここで諦めるわけにはいかない。セレスティアが望むものを贈れば、今度こそ喜んでもらえるはずだ。
「よし。圧力鍋と包丁を買いに行くぞ!」
「……団長、ちょっと待て」
「何だ?」
「その前に、ひとつだけ確認したいんだが」
副団長は、嫌な予感を覚えながら尋ねた。
「圧力鍋って、どこで売っているか知っているのか?」
「…………」
レオニードは固まった。
貴族御用達の商店に、そんなものが売られているとは思えない。
そもそも、圧力鍋とは何だ。
包丁なら分かる。だが、よく切れる包丁というのは、どの程度のものを指すのだろう。剣を鍛える鍛冶屋に頼めばいいのか? いや、料理用の包丁と剣では、用途が違うのではないか。
レオニードは、これまで数々の魔物討伐を指揮してきた男である。
魔物の習性を見極め、地形を読み、隊員たちを的確に配置する。どれほど危険な討伐であろうと、冷静に状況を判断し、幾度となく仲間たちを窮地から救ってきた。
だが今、彼は生まれて初めて、魔物との戦いよりも厄介な問題に直面していた。
「……副団長」
「何だよ」
「食堂に行くぞ」
「最初からそうしろよ!」
副団長の叫びが、詰所に響き渡った。
こうしてレオニードは、妻の心を取り戻すため、人生で初めて圧力鍋と包丁を求めて奔走することになったのである。




