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第五話





屋敷の奥へ進むにつれ、空気が変わっていった。


玄関付近はそれなりに整えられていたが、廊下を進むほどに手入れが行き届かなくなっていく。壁には埃が積もり、床板の一部は軋んでいた。


明かりも少ない。


使用人たちが暮らす区画を抜け、さらに奥へ向かうにつれ、屋敷の中とは思えないほど薄暗くなっていった。


「……おい」


レオンが足を止めた。


「妻の部屋は、こんな場所にあるのか?」


「そ、それは……」


執事は顔を伏せたまま、答えようとしない。


副団長も、さすがに笑いを引っ込めていた。


「団長……」


「ああ」


レオンは短く返事をした。


胸の奥に、嫌な予感が膨らんでいく。


この先に何があるのか。


考えたくもない。


それでも、足を止めるわけにはいかなかった。


やがて、廊下の突き当たりに古びた扉が見えてきた。


扉の周囲には、長い間掃除されていないらしい埃が積もっている。壁際には使い古された道具や壊れた家具が乱雑に置かれ、天井の隅には蜘蛛の巣が張っていた。


人が暮らしている場所には見えない。


むしろ、物置か倉庫と呼ぶのがふさわしい場所だった。


レオンは、扉を見つめた。


「……ここは何だ」


執事の身体が、びくりと震えた。


「答えろ」


「……奥様が、おられる場所でございます」


一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


レオンは、ゆっくりと執事を振り返った。


「今、何と言った?」


「お、奥様は……こちらに……」


副団長が、愕然とした顔でレオンを見た。


「団長……まさか、ここに奥さんが?」


「……」


レオンは答えなかった。


ただ、扉を見つめる目が、みるみる険しくなっていく。


妻は体調を崩して寝込んでいる。


そう言っていたはずだ。


それなのに、案内されたのは、こんな薄暗い物置だった。


嫌な予感が、確信に変わりつつあった。


「どういうことだ」


声が震えるほどの怒りを押し殺し、レオンは執事に問いかけた。


「妻は、ここで何をしている?」


執事は、床に膝をついた。


「も、申し訳ございません……!」


「謝罪など聞いていない。説明しろ!」


「奥様は……その……」


男は何度も唾を飲み込んだ。


もう、隠し通せない。


そう悟ったのだろう。


震える声で、ようやく真実を語り始めた。


「奥様は……、こちらに閉じ込められておいででした」


「……閉じ込めていた?」


「は、はい。叔母君様と従妹君のご指示で……」


レオンの表情が凍りついた。


「食事はどうしていた」


「朝に一度だけ、扉の小窓から……」


「一度だけ?」


「……残飯を、お渡ししておりました」


言葉が途切れた。


副団長が、信じられないという顔で執事を見下ろす。


「おい、待て。残飯って、何だよ」


「そ、それは……厨房で余ったものなどを……」


「厨房で余ったもの?」


副団長の声が低くなった。


「食えるものをちゃんと出していたんだろうな?」


執事は答えなかった。


その沈黙が、何より雄弁だった。


レオンの頭の中で、何かが音を立てて崩れていく。


妻は、自分を嫌っている。


会いたくないと言っている。


だから、金だけ送ればいい。


そう考えていた。


だが、実際はどうだ。


妻は、物置に閉じ込められていた。


一日中、暗い部屋に押し込められ、与えられる食事は朝の一度きり。それも残飯。


それなのに、自分は何も知らなかった。


「……金はどうした」


レオンの声が、低く響いた。


「俺が屋敷に送っていた金は、どこへ消えた?」


執事の顔が、さらに青ざめる。


「そ、それは……」


「答えろ」


「叔母君様と従妹君が……管理を……」


「管理?」


レオンは、ゆっくりと繰り返した。


「俺が妻の生活のために送った金を、あの女たちが使っていたというのか?」


「……申し訳ございません!」


執事は、額を床にこすりつけた。


「私も、逆らうことができず……! 旦那様が屋敷にお戻りにならないことをいいことに、叔母君様たちは……奥様を物置に閉じ込め、金銭もすべてご自分たちのために……!」


それ以上は、言葉にならなかった。


レオンは、呆然と立ち尽くしていた。


妻は、自分を嫌っているのではなかった。


そもそも、妻の口から直接聞いた言葉など、ひとつもない。


会いたくないと言っている。


夫婦としての生活を望んでいない。


金さえあればいい。


それらはすべて、屋敷の者たちが伝えてきた話だった。


そして、その屋敷の者たちは、妻を物置に閉じ込めていた。


妻がどんな思いで過ごしていたのか。


どれほど苦しみ、どれほど助けを求めていたのか。


考えただけで、胸の奥が焼けるようだった。


「……お前」


レオンは、ゆっくりと執事に歩み寄った。


「よくも……」


「ひっ……!」


執事が悲鳴を上げた。


レオンの手が、男の喉元へ伸びる。


殺してやりたい。


その一言が、頭の中を埋め尽くした。


当主である自分が屋敷を放置していた。その責任は、間違いなく自分にもある。


だが、それとこれとは別だ。


自分がいない間に、妻を虐待し、食事も与えず、金まで奪っていた。


それを知りながら、見て見ぬふりをしていた。


許せるはずがなかった。


レオンの指が、執事の襟元を強くつかんだ。


「団長!」


副団長が、慌てて腕をつかんだ。


「気持ちは分かりますが、まずは奥さんを!」


「……っ」


その言葉に、レオンははっとした。


そうだ。


今、最優先すべきなのは、目の前の男を痛めつけることではない。


妻だ。


物置に閉じ込められ、食事も満足に与えられなかった妻。


今も、この扉の向こうにいる妻。


彼女がどんな状態なのか、まだ分からない。


レオンは、震える息を吐き出し、執事を突き放した。


「鍵を出せ」


「は、はいっ!」


「今すぐ開けろ!」


執事は転がるように立ち上がり、懐から鍵束を取り出した。


その手は震えていて、鍵穴に差し込むまでに何度も失敗した。


かちゃり、と金属音が響く。


古びた扉が、ゆっくりと開いた。





*





その瞬間。


レオンと副団長は、そろって動きを止めた。


「……は?」


副団長の間の抜けた声が、薄暗い廊下に響く。


物置の中には、壊れた家具や古い道具が積み上げられていた。床には埃が舞い、壁際には使い古された箱が乱雑に置かれている。


確かに、人が長く暮らすような場所ではない。


だが。


その部屋の奥にある、小さな窓。


そこから、ひとりの女性が「よっこいせ」とばかりに窓枠を跨ぎ、部屋の中へ足を下ろそうとしていた。


どうにか無事に床へ降り立った彼女は、ようやく扉の前に立ち尽くす二人の男に気づいた。ぱちぱちと瞬きをする。


「あれ、団長さんと副団長さん?」


まるで、仕事帰りに知り合いと出くわしたかのような気安い声だった。


一方、レオンは目の前の女性と、彼女が今まさに跨いでいた窓を交互に見やった。想像していた、虐待を受けまともに動くこともできないはずの妻の姿とは、何もかもが違っている。


それでも、目の前の女性が自分の妻だという確信だけは、妙にはっきりと胸に湧き上がってきた。


「ま、まさか……君が、俺の妻のセレスティアなのか?」


震える声で呟き、レオンは一歩、彼女へと近づいた。


その瞬間、セレスティアの表情がすっと消えた。


妻。セレスティア。つまり、目の前にいる男は――。


「あんたが……!」


一年もの間、薄暗い物置に閉じ込められ、まともな食事も与えられず、夫の顔を見ることすらできなかった。その元凶である夫が、今まで散々世話になった食堂の常連客として、何食わぬ顔で目の前に立っている。


セレスティアの脳裏で、さまざまな感情が渦巻いた。驚き、呆れ、怒り、そして、これまで溜まりに溜まった鬱憤。


それらすべてが、たったひとつの叫びとなって口から飛び出した。


「クソ旦那かーーー!!」


「――ぐはっ!?」


見事な踏み込みから繰り出された拳が、レオンの顎を正確に捉えた。


戦場で幾多の魔物を屠り『氷の英雄』と恐れられた男は、反応する間もなく、見事なまでに仰け反った。


「だ、団長ーーーっ!?」


副団長の悲鳴が、薄暗い物置に響き渡った。





*





セレスティアの目の前には、レオンがきっちりと正座させられていた。


大柄な体を窮屈そうに折り曲げ、膝の上に拳を置いている。戦場では数多の魔物を屠り恐れられた男も、今はすっかり意気消沈し、目の前の妻に向かってただただ頭を垂れていた。


その隣では、副団長が呆れた顔で成り行きを見守っている。


「本当に、本当に……何と君に詫びればよいのか……」


レオン――いや、レオニード男爵は、沈痛な面持ちで絞り出すように言った。


セレスティアは腕を組み、冷ややかな眼差しで夫を見下ろしている。つい先ほどまで食堂で顔を合わせていた男だと思うと、怒りを通り越して、もはや呆れるほかなかった。


「ふーん。少しは申し訳ないと思っているんですねぇ」


わざとらしく感心した声を出してから、セレスティアは大きくため息をついた。


「私、あのまま放置されていたら、本当に死ぬかと思ったんですよ? 何とか食堂の女将さんに拾ってもらって、今日まで生き延びられましたけど」


言葉を重ねるごとに、声から温度が失われていく。


「……俺が気づいてやれていれば」


レオニードが顔を上げかけたが、セレスティアの視線に射抜かれ、すぐさま再び俯いた。


「今さらそれを言います? 食事は一日一回、しかも残飯。部屋は物置。窓から出入りしなければ外にも出られない。おまけに、あなたが送っていたお金は、親戚の方々が仲良く使い込んでいたそうですね?」


「……っ」


レオニードの顔が、苦痛に歪んだ。


自分が知らなかったとはいえ、妻をこんな目に遭わせてしまった。その事実は、どんな敵の刃よりも深く彼の胸を抉っていた。


「二度と、このようなことが起こらないようにする! 君を苦しめた者たちにも、必ず責任を取らせる。だから……償わせてくれ。何でもするから!」


必死の訴えだった。


その言葉を聞いた瞬間、セレスティアの目がすっと細められる。


「何でも――言いましたね?」


口元に、にんまりと笑みが浮かんだ。


よし、言質取ったど!


これまでの苦労を思えば、これくらいの要求は当然だろう。むしろ、こちらが遠慮してやる必要など、どこにもない。


セレスティアは、ここぞとばかりに告げた。


「なら、離婚してください!」


「――――ッ!」


レオニードの肩が、びくりと跳ねた。


「何でもしてくれるんですよね? 私、離婚してほしいんです」


セレスティアは念を押すように、にっこりと微笑んだ。


夫婦としての情など、これっぽっちもない。顔も事情も知ろうとせず、挙げ句の果てには妻を放置する男だ。そんな相手と、この先も夫婦でいる理由などない。


さあ、約束どおり離婚届にサインしてもらおう。


そう思っていたのに。


「……それだけは、できない」


「は?」


思いもよらない返答に、セレスティアは目を見開いた。


つい先ほどまで、何でもすると言っていたではないか。


セレスティアの笑顔が、ぴしりと凍りついた。





*





俺は今日も、下町の食堂にいた。


セレスティアはいない。まあ、当然だろう。あれだけの仕打ちを受けたのだ。


俺は男爵家屋敷には帰っていない。今は俺の顔を見るのも嫌に違いない。無理に会いに行ったところで、また見事な拳を食らうのが関の山だ。


……いや、あれは本当に見事な一撃だった。


そんなことを考えている場合ではない。俺は深々と溜息をついた。


あの日、屋敷で主のように振る舞っていた叔母と従姉妹は、憲兵に突き出した。貴族を欺き、その妻を虐げていた罪は重い。死罪を免れたとしても、鉱山奴隷として生涯を過ごすことになるだろう。


セレスを虐げていた使用人たちも同様だ。直接関わっていなかった者を除き、全員が鉱山で一生働くことになる。


あの屋敷で、たった一人でも俺に真実を告げる者がいたならば。


そう思わずにはいられないが、今さら悔やんだところで何も変わらない。俺が妻を顧みなかった事実も、彼女がどれほど苦しい思いをしたのかも、消えてなくなるわけではないのだから。


「全く、あんたがステラの旦那だったとはねぇ。しかも、二人とも貴族だったなんて驚いたよ」


女将が、注文した料理をテーブルにドンと置いた。


いつもなら食欲をそそる匂いに腹も鳴るところだが、今日はどうにも箸が進まない。女将はそんな俺をじろりと睨みつけると、腰に手を当てた。


「それで、ステラにはちゃんと謝ったのかい?」


「謝るには謝ったが……」


思わず口ごもる。


謝罪はした。心の底から詫びたつもりだ。だが、その直後に離婚を突きつけられ、俺がそれを拒否したせいで、事態はさらに悪化した。


セレスティアの怒った顔が脳裏に浮かぶ。


……いや、あれは怒った顔というより、俺をゴミか何かを見るような目だった。


「聞いてくれよ、女将!」


そこへ、隣で飯をかき込んでいた副団長が、待ってましたとばかりに割り込んできた。


「ステラちゃんが離婚を切り出したのに、団長ったら『それだけは絶対に嫌だ』って、首を縦に振らなくてさ。おかげでステラちゃん、ますます怒っちゃって大変だったんだから!」


「…………」


食堂の空気が、すっと冷えた。


女将だけではない。周囲で飯を食っていた傭兵たちまでが、揃って俺を見る。


その目が語っている。


――往生際が悪いな、この男。


……うるさい。俺にだって譲れないものがある。


俺は周囲からの無言の非難を全力で無視し、黙々と料理に手を伸ばした。


「いやあ、うちも大変だったぜ」


すると、向かいに座っていた傭兵が苦笑いを浮かべた。


「俺、嫁さんに団長のことを話したんだよ。そしたら、すげえ怒っちゃってさ。『女の敵なんだから、ぶん殴ってこい!』だとよ」


「俺も俺も。彼女に話したら、団長のことを呆れ果ててたぞ。ステラさんが可哀想すぎるって、しまいには泣かれちまった」


「俺んとこの女房なんて、『そんなクソ旦那、タマ切ってこい』って命令されたぞ」


「ひえっ……ヒュンッてなった」


……俺もヒュンッてなった。


いや、待て。なぜ俺まで、自分の命の危機を感じなければならないのだ。


確かに俺は、とんでもない失態をやらかした。妻を顧みず、傷つけてしまったことは反省しているし、これからは精一杯愛するつもりだ。その気持ちに嘘はない。


だが、タマを切られるような覚えは――。


……いや、あるのか? あるのかもしれない。


いやいや、今はそこではない!


「それでもっ!」


俺は空気を断ち切るように、テーブルを両手でバンッと叩いて立ち上がった。


食堂にいた全員の視線が、一斉に俺へと集まる。


「離婚だけは、絶対にしない!」


俺が力強く宣言すると、皆が呆れたような目を向けてきた。


「いや、してやれよ」


ぼそりと呟いたのは誰だ! 聞こえているぞ!


女将に至っては、呆れ果てたように深々と溜息をついている。……なぜだ。俺はただ、愛する妻と一緒にいたいだけなのに。


「……あんたねぇ。自分が何を言ってるのか、分かってるのかい?」


「分かっている!」


俺は胸を張った。


いや、正確には分かっているつもりだ。セレスが俺を嫌っていることも、離婚したがっていることも、今の俺が彼女にとって最悪の夫であることも。


それでも、だ。


誠心誠意、彼女に尽くす。彼女が望むことを叶え、二度と同じ過ちを繰り返さないと行動で示す。いつか、ほんの少しでも俺を信じてもらえるように、できることは何でもする。


一生をかけて償うんだ。


そう決めた。


だって、俺は彼女が好きなのだから。


妻だと知る前から、セレスティアのことが気になっていた。気さくで、物怖じせず、時には遠慮なく俺に意見してくる。彼女と話している時間は、戦場で張り詰めていた心が不思議と安らいだ。


まさか、彼女が自分の妻だったとは思いもしなかったが。


知ってしまった以上、この気持ちを止めることなどできるはずがない。


……まあ、妻のほうは俺のことを心底嫌っているようだが。


「よし!」


俺は拳を握りしめた。


「まずは、セレスティアに誠心誠意謝罪する。そして、彼女が安心して暮らせるように環境を整える。どんなに罵られようとも、決して諦めない!」


「いつか必ず、彼女に振り向いてもらう!」


「……団長、ひとつ聞いていいか?」


副団長が、心底呆れた顔で俺を見上げた。


「その決意表明、ステラちゃん本人にはしたのか?」


「…………」


俺は、そっと腰を下ろした。


していない。


というより、会おうとするたびに逃げられている。いや、正確には逃げられているというより、俺が近づくと「来るな、クソ旦那!」と怒鳴られるのだ。


……どうすればいい。


「ま、まあ、これからだ!」


俺は咳払いをして、無理やり話を締めくくった。


そう、これからなのだ。


こうして、妻に嫌われきった男爵レオニードと、夫に愛想を尽かした男爵夫人セレスティアの、果てしない攻防戦が幕を開けたのであった。






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