第四話
食堂を出たのは、夜もかなり更けた頃だった。
傭兵たちはすっかり酔いが回り、互いの肩を組みながら宿の前で盛り上がっている。副団長は最後までセレスティアの夫を懲らしめる方法について熱弁を振るっていたが、女将に追い立てられ、ようやく店を出た。
「ステラちゃん、明日も来るからな!」
「はい。お待ちしていますね。皆さん、気をつけて帰ってください」
セレスティアは扉の前で手を振った。
レオンは、彼女を振り返った。
「……今日は、ありがとう」
「え?何がですか?」
「いろいろと、考えるきっかけになった」
セレスティアは不思議そうに首を傾げたあと、ふわりと微笑んだ。
「それなら、よかったです。奥様と仲良くできるといいですね」
仲良く。
その言葉に、レオンは返事ができなかった。
妻と仲良くしたいのかどうか。
正直に言えば、まだ分からない。
そもそも、結婚相手にどんな感情を抱けばいいのかも、よく分かっていなかった。
だが、少なくとも一度は会って、話をしてみるべきだ。
彼女が本当に自分を拒んでいるのか。
屋敷で、どんな暮らしをしているのか。
自分が知らないだけで、何か問題が起きているのではないか。
確かめるべきことは、いくらでもあった。
「ああ。そうしてみる」
「はい。頑張ってくださいね」
彼女は、笑って応援してくれた。
*
食堂を出たレオンは、宿へ戻ることなく、そのまま男爵家の屋敷へ向かうことにした。
「団長、本当に今から行くんですか?」
隣を歩く副団長が、少々呆れたように尋ねた。
「ああ」
「いや、そりゃあ帰るって決めたのは聞きましたけどね。もう夜も遅いですし、明日の朝でもいいんじゃないですか?」
「思い立ったときに動かなければ、また先延ばしにするだろう」
「……まあ、団長ならそうでしょうけど」
副団長は肩をすくめた。
レオンは、先ほど食堂で交わした会話を思い返していた。
彼女の言葉が、どうにも頭から離れなかった。
自分の妻は、本当に会いたくないと思っているのだろうか。
屋敷の者からそう聞かされていたが、本人に確認したことはない。結婚の手続きこそ済ませたものの、妻とは一度も顔を合わせていなかった。
それでも、妻が自分との生活を望んでいないのなら、無理に押しかけるのもどうかと思っていたのだ。
だが、今は違う。
一度くらい、直接話をしてみよう。
そう決めた以上、先延ばしにする理由はなかった。
「お前たちも来い。屋敷の様子を確認する」
「へいへい。団長の奥様にやっとお会いできますね」
「……黙れ」
副団長は、にやにやと笑った。
その後ろでは、野次馬根性の団員たちもぞろぞろとついてきている。セレスティアの夫を懲らしめると息巻いていた彼らだったが、まさかその夫の屋敷へ向かうことになるとは思っていなかっただろう。
もっとも、レオン自身も、こんな大人数で帰宅することになるとは考えていなかった。
しかし、今さら引き返すつもりはない。
屋敷の門が見えてくる頃には、彼の胸の内で、妻に対する漠然とした疑問が少しずつ膨らんでいた。
*
男爵家の屋敷に到着したのは、夜も更けた頃だった。
門番は、突然現れた当主と大勢の傭兵たちを見て、目を見開いた。
「だ、旦那様!?」
「久しぶりだな。門を開けろ」
「は、はいっ!」
慌てて門が開かれる。
レオンは挨拶もそこそこに敷地内へ足を踏み入れた。副団長たちも続き、屈強な男たちが一斉に屋敷へ向かって歩いていく。
先触れも出さず、突然の帰宅。
出迎えの準備など、できているはずもない。
それでも、当主が帰ってきたのだ。普通なら、使用人たちが慌ただしく出迎え、執事がすぐさま姿を見せるはずだった。
ところが。
「……妙だな」
玄関に入ったレオンは、足を止めた。
使用人たちが何人か集まっていたが、誰もすぐには近づいてこない。それどころか、彼の姿を見るなり、顔を引きつらせたり、互いに目配せをしたりしている。
歓迎されていないというより、何かを恐れているようだった。
「旦那様、どうして急に……」
ようやく一人の使用人が声をかけてきたものの、言葉の途中で口をつぐんだ。
「帰ってきてはいけなかったか?」
「い、いえ! そのようなことは決して……」
「ならば、なぜそんな顔をしている」
「そ、それは……」
使用人は答えに窮し、うつむいた。
レオンの眉間に皺が寄る。
そのとき、奥の廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「まあ、レオニード! 突然お戻りになるなんて、どうなさったのですか?」
姿を現したのは、叔母と、その娘である従姉妹だった。
二人とは、それほど親しく付き合っていたわけではない。だが、魔物の討伐に追われ、屋敷を留守にしがちな彼を気遣い、管理を引き受けると申し出てくれたため、ありがたく任せることにしたのだ。
叔母は驚いたように胸元へ手を当て、従姉妹は心配そうに眉を下げている。二人とも身なりは立派で、髪も衣服もきちんと整えられていた。
だが、レオンは二人の表情に違和感を覚えた。
驚いているというより、動揺している。
しかも、叔母は彼の背後に並ぶ傭兵たちを見るなり、わずかに顔色を変えた。
「……何かあったのか?」
「い、いいえ。何もございませんわ」
叔母はすぐに笑顔を作った。
「ただ、奥様が少々体調を崩されておりまして……。今はお部屋でお休みになっているのです」
「妻が?」
レオンは、思わず聞き返した。
妻が体調を崩している。
そんな話は初耳だった。連絡がなかったことに僅かな憤りを感じた。
「はい。以前からお身体が弱くていらっしゃるのですが、ここ数日は特にお悪くて……。今も寝込んでおいでですわ」
「医師には診せたのか?」
「そ、それは……」
叔母の視線が泳いだ。
その隣で、従姉妹が慌てて口を開く。
「お、お医者様を呼ぶほどではありませんの! 少し休めばよくなると、本人も申しておりますし……」
「本人がそう言ったのか?」
「ええ、もちろんですわ!」
あまりにも早い返答だった。
レオンは二人を見比べた。
そのとき、叔母が、さも心を痛めているといった様子で首を振った。
「それに、奥様はあなたにお会いしたくないと、以前からおっしゃっているのです。あなたのことを大変嫌っていて……。今顔を合わせれば、きっとお互いに傷つくことになるでしょう」
「……俺を嫌っている? 本当に?」
「ええ。ですから、どうか今夜はお帰りくださいませ。奥様のお気持ちが落ち着くまで、そっとしておいて差し上げるのが一番ですわ」
「そうですわ! レオニードも、奥様に拒絶されてはおつらいでしょう?」
従姉妹も、ここぞとばかりに言葉を重ねる。
レオンは黙って二人を見つめた。
妻が自分を嫌っている。
それは、これまでにも聞かされていた話だ。
だが、なぜだろう。
目の前の二人は、妻を心配しているように見えない。
むしろ、何が何でも自分を妻に会わせまいとしているようだった。
「……妻は、どこで寝込んでいる?」
「で、ですから、お部屋で……」
「案内しろ」
「えっ?」
「妻の部屋へ案内しろと言っている」
レオンの声が低くなった。
叔母の笑顔が引きつる。
「し、しかし、レオニード……」
「体調を崩しているのだろう? 夫が見舞いに行くのに、何か問題があるのか?」
「そ、それは……」
「まさか、俺に妻の顔を見せられない理由でもあるのか?」
二人が同時に息を呑んだ。
その反応だけで、十分だった。
レオンは、ゆっくりと周囲を見渡した。
使用人たちは、誰一人として彼と目を合わせようとしない。執事の姿も見えなかった。真っ先に出迎えるはずの男が、どこにもいないのだ。
そして、妻が体調を崩しているというのに、医師を呼んだ形跡もなければ、看病のために人を配置している様子もない。
何かがおかしい。
それも、少しばかりの行き違いなどではない。
「執事を呼べ」
「だ、旦那様……!」
「今すぐだ」
有無を言わせぬ声に、使用人の一人が青ざめながら走り出した。
叔母と従姉妹は、互いに顔を見合わせている。
レオンの背後では、副団長が腕を組み、険しい顔で二人を見つめていた。
「……なあ、団長」
「何だ」
副団長は、叔母たちを顎で示した。
「こいつら、何か隠してませんか?」
「俺もそう思っている」
レオンは、短く答えた。
その声には、すでに温度がなかった。
*
しばらくして、ようやく執事が姿を現した。
年配の男は、レオンの前に立つなり、深々と頭を下げた。
「旦那様、お帰りなさいませ。長旅でお疲れのところ、何かご用でしょうか」
「妻の部屋へ案内しろ」
「……奥様のお部屋、でございますか?」
「そうだ」
執事は一瞬、言葉に詰まった。
ほんのわずかな間だったが、レオンは見逃さなかった。
「どうした。何か問題でもあるのか?」
「い、いえ。奥様は今、体調を崩されておりまして……。お休みになっておられますので、今夜はそっとしておかれたほうがよろしいかと」
「叔母にも同じことを言われた」
レオンは一歩、執事に近づいた。
「妻は体調を崩している。俺には会いたくない。だから帰れ。……お前たちは、揃いも揃って同じことしか言わないな」
「そ、それは……」
「俺は妻の顔を見に来た。案内しろ」
「で、ですが……」
「まだ何かあるのか?」
執事は口を閉ざした。
その目が、助けを求めるように叔母たちへ向けられる。
それを見た瞬間、レオンの中で何かが切れた。
「……そうか」
低い声とともに、彼は執事の襟首をつかみ上げた。
「ひっ……!」
「お前は、俺の命令より、あの女たちの言葉を優先するのか?」
「だ、旦那様! お待ちください!」
「妻がどこにいるのか、なぜ言えない?」
レオンの手に力がこもる。
執事の足が床から浮きかけた。
「ぐっ……!」
「答えろ」
「わ、私は……!」
「妻はどこだ」
「そ、それは……!」
執事の顔がみるみる青ざめていく。
レオンは、これまで自分がどれほど屋敷を放置してきたのか、改めて思い知らされていた。
当主である自分が帰ってこない間、この屋敷を取り仕切っていたのは叔母たちだ。執事も使用人も、彼女たちの言いなりになっていたのだろう。
だが、それにしてもおかしい。
なぜ、妻の居場所を答えるだけのことができないのか。
なぜ、誰も妻の様子を見に行かせようとしないのか。
「……まさか、妻に何かしたのか?」
「ち、違います! 私は……!」
「ならば、案内しろっ!」
怒声が屋敷に響き渡った。
執事は声にならない悲鳴を上げ、首を締め付けられ苦しそうに顔を歪めている。レオンの腕は、傭兵として鍛え上げられた男のものだ。手加減しているつもりでも、相手にとっては十分すぎるほどの圧力だった。
副団長が慌てて口を挟む。
「団長、ちょっと待ってください!このままだと、本当に死んじまいます!」
「死なせるつもりはない」
「いや、顔がもう紫色ですよ!」
レオンは舌打ちし、執事を床へ下ろした。
男はその場に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。涙と鼻水で顔を濡らし、肩で息をしている。
「ひっ……はっ……!」
「もう一度聞く。妻はどこだ」
執事は震えながら顔を上げた。
そして、絶対零度のレオンの目を見た瞬間、ついに観念したように口を開いた。
「……ご、案内いたします」
「最初からそう言えばいい」
レオンは冷たく言い放った。
執事は震える足で立ち上がり、廊下の奥へと歩き始めた。
だが、その前に叔母が立ちはだかった。
「お待ちください、旦那様! 奥様は本当に体調を崩されていて……!」
「黙れ」
「なっ……!」
「お前たちの話は、もう聞き飽きた」
レオンの眼差しが、氷のように冷たくなる。
「妻の様子を確認する。それだけだ。邪魔をするなら、相応の扱いを受けることになるぞ」
叔母は言葉を失った。
従姉妹が何か言い返そうとしたが、その前に副団長たちが動いた。
「はいはい、お二人さん。ちょっとこっちで待っていてもらいましょうかね」
「な、何をするのです!」
「何って、団長の邪魔をしないように見張るだけですよ。なあ、お前ら」
「おう!」
団員たちは、叔母と従姉妹、そして口を挟もうとする使用人たちを取り囲んだ。
「旦那様! お考え直しくださいませ!」
「奥様はお会いになりたくないと……!」
「うるせえなあ。本人に聞けば済む話だろうが」
副団長は、彼女たちを押さえながら呆れたように言った。
「それとも、本人に会わせたら困る理由でもあるんですかね?」
その問いに、誰も答えられなかった。
レオンは一度だけ振り返り、叔母たちの青ざめた顔を見た。
そして、執事の後を追った。




