第三話
食堂の閉店時間が近づく頃には、客の姿もまばらになっていた。
最後まで残っているのは、レオン率いる傭兵団の面々だけだ。彼らはこの店の常連であり、女将とも顔なじみだった。店の周辺で揉め事が起きれば真っ先に駆けつけてくれるため、実質的な用心棒のような役割も果たしている。
そのため女将も、彼らが閉店間際まで居座ることを咎めなかった。むしろ、店を閉めたあとは気兼ねなく飲めるよう、残った料理を大皿に盛ってテーブルへ運んでいる。
「ほら、これで最後だよ。明日の仕込みもあるんだから、あんまり遅くまで騒ぐんじゃないよ」
「へいへい、女将さん。いつもありがとな!」
「返事だけは一人前だね、まったく」
豪快に笑う傭兵たちを眺めながら、セレスティアは空いた酒瓶を片づけていた。
この光景にも、すっかり慣れたものだ。
働き始めた頃は、屈強な男たちに囲まれるだけで緊張していた。なにしろ、彼らの腕は自分の太腿ほどもあり、腰には剣やら短剣やらがぶら下がっている。声も大きければ、食べる量も飲む量も桁違いだ。
けれど、実際に付き合ってみれば、気のいい人たちばかりだった。
多少口は悪いものの、困っている者を見捨てない。女主人には頭が上がらず、セレスティアが重い鍋を運ぼうとすれば、誰かがすぐに手を貸してくれる。
もちろん、全員が善人というわけではないだろう。それでも、少なくともこの食堂に集まる彼らは、セレスティアにとって安心できる人たちだった。
「ステラちゃん、こっちにも酒を頼む!」
「はいはい。副団長さんは、もう十分飲んでいると思いますけど?」
「何を言う! 俺はまだまだいけるぞ!」
「その台詞、さっきから五回くらい聞いていますよ」
「がはははっ! こいつは一本取られたな!」
周囲から笑い声が上がる。
副団長の男は、頬を真っ赤に染めながらセレスティアに手招きした。彼女が水差しを持って近づくと、男は待っていましたとばかりに身を乗り出した。
「なあ、ステラちゃん。ちょっと聞いてくれよ」
「はい、何でしょう?」
「うちの団長ってばさあ……」
「おい」
すかさず、低い声が飛んだ。
少し離れた席で酒を飲んでいたレオンが、鋭い眼差しを副団長へ向けている。
だが、酔っぱらいはそんな視線など気にしなかった。
「いいじゃねえか! 今日はもう仕事も終わったし、ステラちゃんだって知っておいたほうがいいだろ!」
「何をだ」
「団長の人間性についてだよ!」
「お前、明日覚えていろよ」
「ひええ、怖い怖い!」
そう言いながらも、副団長はまったく怖がっていない。むしろ、普段は無口な団長をからかえる絶好の機会だと、すっかり調子に乗っているようだった。
セレスティアは苦笑しながら、空いている椅子を引いた。
「それで、団長さんがどうかしたんですか?」
「聞いてくれよ、ステラちゃん! 団長ってば、結婚してるくせに、全然家に帰らねえんだぜ? これって最低じゃないか?」
「……えっ?」
思わず、手が止まった。
結婚?
誰が?
団長さんが?
セレスティアは目を丸くして、テーブルの向こうに座る団長を見た。
彼はいつもどおりの無愛想な顔で、こちらを見返している。
……結婚していたの?
いや、待ってほしい。
レオンは傭兵団の団長だ。町で暮らしている平民で、仕事の都合で各地を転々としている。そういう認識だった。
もちろん、二十九歳という年齢なら結婚していても不思議ではない。むしろ、彼ほどの男なら、相手に困ることもなさそうだ。
精悍な顔立ちで、背が高く、身体つきも立派。少々無愛想ではあるものの、根は優しい。女性に人気があってもおかしくないだろう。
しかし、実際に結婚していたとは。家庭持ちの気配など一切感じなかったというのに。
セレスティアは、ほんの少しだけ複雑な気持ちになった。
自分が結婚していることを棚に上げるつもりはない。そもそも彼女自身、夫の顔さえ知らないのだから、他人の結婚事情に口を出せる立場ではなかった。
ただ、毎日のように顔を合わせ、気安く話せる相手に妻がいると知れば、多少の驚きはある。
「……団長さん、結婚されていたんですね」
「ああ。まあ、そういうこともある」
レオンは気まずそうに酒杯を傾けた。
副団長がすかさず口を挟む。
「そういうこともある、じゃねえよ! 結婚してから一度も家に帰ってないんだぞ? 嫁さん、寂しがってるに決まってるだろ!」
「寂しがっているとは限らん」
「じゃあ、心配してるかもしれねえだろ!」
「……どうだかな」
レオンの声が、わずかに低くなった。
副団長はその変化に気づかないまま、セレスティアへ向き直る。
「そもそも、こいつは戦場と宿屋とこの食堂を行ったり来たりするばっかりでよ。屋敷を構えてるって話は聞いたことがあるが、そこに帰ってるところなんざ見たこともねえんだ」
「まあ……」
セレスティアは曖昧に相槌を打った。
戦場と宿屋と食堂。
なるほど。それなら、確かに家に帰る暇もなさそうだ。
……いや、でも。
結婚しているのなら、せめて一度くらいは妻に顔を見せてあげればいいのに。
彼女は思わず、レオンの顔を見つめた。
当の本人は、面白くなさそうに眉間へ皺を寄せている。
「しょうがないだろ。周囲に押しつけられた結婚だったんだ」
その言葉に、場の空気が少しだけ変わった。
レオンは酒杯をテーブルに置き、視線を落とした。
「俺が望んだわけじゃない。相手だって同じだろう。互いに納得していない結婚なら、無理に夫婦らしく振る舞う必要もない」
「だからって、帰らなくていい理由にはならねえだろ」
「金は送っている。生活に困らないだけの金はな」
レオンは淡々と答えた。
しかし、その声音には、どこか自分自身に言い聞かせるような響きがあった。
「それに、彼女は俺に会いたくないと言っているらしい。金さえあれば問題ないそうだ」
「……はあ?」
副団長が間の抜けた声を出した。
「誰から聞いたんだよ、そんな話」
「屋敷の者からだ。俺に会うつもりはないし、夫婦としての生活も望んでいないと」
「なんだそりゃ。本人に会ったこともねえんだろ?」
「……そうだな」
レオンは自嘲するように笑った。
ほんのわずかな笑みだったが、セレスティアには、それが妙に寂しげに見えた。
結婚を押しつけられた。
妻は自分に会いたがっていない。
だから金だけ送って、家には帰らない。
それで互いに問題なく暮らせるのなら、合理的な判断なのかもしれない。
けれど。
セレスティアは、胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
彼女自身、似たような境遇にいるからこそ、思うところがあったのだ。
自分だって、望まない結婚をした。
夫の顔も知らないまま嫁がされ、親族には虐げられ、食事さえ満足に与えられなかった。
もし団長さんが奥さんへが生活費を送っていたのだとしても、それだけで何もかも解決するわけではない。
お金は大切だ。
生きていくためには、絶対に必要なものだ。
けれど、それだけでは足りないこともある。
事情を知りたい。話をしたい。どうしてこんなことになっているのか、直接聞きたい。
そして、どうせ夫婦として暮らす気がないのなら、きちんと話し合って離婚してほしい。
それが、今のセレスティアの切実な願いだった。
だからこそ、彼女は思わず口を開いていた。
「……あの、団長さん」
「なんだ?」
「それ、ご本人から直接聞いたんですか?」
レオンが顔を上げた。
セレスティアは、彼の目をまっすぐに見つめていた。
「奥様から、直接そう言われたんですか? 団長さんには会いたくない、お金さえあればいいって」
「それは……」
レオンの言葉が途切れた。
ほんの一瞬、視線が揺れる。
その反応を見て、セレスティアは小さく息をついた。
「やっぱり、直接ではないんですね」
「……屋敷の者から聞いた話だ」
「でしたら、一度は直接お話ししたほうがいいと思います」
思いがけずきっぱりとした口調になった。
レオンだけでなく、周囲の傭兵たちまで、興味深そうにこちらを見ている。
セレスティアは少しだけ頬を赤らめたものの、言葉を続けた。
「どうして会いたくないのか、本当にお金さえあればいいと思っているのか。ご本人と話してみなければ、分からないこともあるでしょう?」
「だが、彼女が本当に俺を嫌っているのなら……」
「それでも、です」
セレスティアはきっぱりと言い切った。
「嫌われているのなら、なおさら理由を聞いてみたらいいと思います。何か誤解があるかもしれませんし、奥様だって、団長さんに伝えたいことがあるかもしれません」
自分で口にしておきながら、胸が少し痛んだ。
伝えたいことなら、自分にも山ほどある。
どうして一度も帰ってこないのか。
なぜ、妻が虐げられているのを放っておいたのか。
そもそも、私と結婚したことをどう思っているのか。
直接会って、思いきり問い詰めてぶん殴ってやりたい。
そして最後には、こう言うのだ。
――私たち、離婚しましょう。
あなたにはあなたの人生があるでしょうし、私には私の人生があります。互いに愛情もないのなら、夫婦でいる理由はありませんよね、と。
もちろん、今のところは妄想にすぎない。
なにしろ、夫は屋敷に帰ってこない。まともに話し合える機会など、いつ訪れるのか分からない。
だからこそ、目の前のレオンには、同じ轍を踏んでほしくなかった。
「夫婦って、結婚しただけで相手のことが分かるわけじゃないと思うんです」
その言葉を聞きながら、レオンは黙り込んでいた。
彼女の言うことは、もっともだった。
妻本人から、会いたくないと言われたわけではない。
屋敷の者から聞かされた話を、そのまま信じていただけだ。
それでも、彼は考えないようにしていた。
妻が自分を拒んでいるのなら、無理に顔を合わせる必要はない。金を送り、生活を保障しておけば、少なくとも彼女を困窮させることはないだろう。
そう考えていた。
だが、本当にそれでよかったのだろうか。
「……ステラちゃん、あんたも苦労してるもんねえ」
そこへ、女将が話に加わった。
厨房から出てきた彼女は、空になった皿を片づけながら、呆れたように首を振る。
「同居してる旦那の親戚がろくでなしで、食事も満足にもらえなかったんだろう? それでも旦那は帰ってこないんだから、あんたも大変だよ」
「……はい」
セレスティアは素直に頷いた。
レオンの手が止まった。
「ちょっと待て。ステラ、お前も結婚しているのか?」
「あれ、団長さん、知らなかったのかい?」
女将が不思議そうに目を瞬かせた。
「そうだよ。この子はれっきとした人妻さ。もっとも、この子も旦那の顔をろくに知らないそうだけどね」
「……人妻?」
副団長が、信じられないものを見るようにセレスティアを見た。
ほかの傭兵たちも、いっせいに彼女へ視線を向ける。
「ステラちゃん、結婚してたのか!?」
「はい。まあ……いろいろありまして」
セレスティアは苦笑した。
まさか、この場で自分の結婚事情を話すことになるとは思わなかった。
しかし、詳しい身分や名前を明かすつもりはない。今の自分は、ただの食堂の店員だ。それ以上でも、それ以下でもなかった。
「旦那様は仕事が忙しいのか、それとも遊び歩いているのか……。私にはさっぱり分かりませんけどね」
「そいつはひでえ話だな!」
副団長が声を上げた。
「自分の嫁を放っておくなんて、何を考えてやがるんだ!」
「本当だよ。おまけに親戚連中が食事も満足に与えないなんて、まともな家じゃないね」
女将も憤慨した様子で腕を組む。
「ステラ、あんた、よく我慢してるねえ」
「我慢というか……。今は、どうにかする方法を考えているところです」
「どうにかする方法?」
尋ねられ、セレスティアは小さく頷いた。
「はい。ちゃんと旦那様と話し合って、離婚したいと思っています」
店内が、しんと静まり返った。
誰もが、思いがけない言葉を聞いたような顔をしている。
セレスティアは、少しだけ苦笑した。
「だって、結婚したままでは、何かと不便ですから。私は自分で働いて暮らせるようになりたいんです。旦那様が何を考えているのかも分からないまま、ずっと夫婦でいるのは嫌ですし……」
そこで、彼女は少しだけ眉を寄せた。
「それに、忙しくとも一度くらいは顔を見せてほしいですよね。文句のひとつくらい、言いたいです」
最後の言葉には、少しばかり本音が混じっていた。
いや、かなり混じっていた。
できることなら、文句どころか、今までの恨みつらみをすべてぶつけてやりたい。
そのうえで、離婚届に署名してもらう。
それがセレスティアの理想だった。
「そうだ、そうだ!」
副団長がテーブルを叩いた。
「そんな旦那、俺たちが懲らしめてやる!」
「おう!」
「嫁をほったらかしにするなんざ、男の風上にも置けねえ!」
「ステラちゃんがこんなに頑張ってるってのに、何やってんだ、その旦那は!」
傭兵たちが口々に騒ぎ始めた。
先ほどまで団長の結婚生活を話題にしていたはずなのに、いつの間にか話の矛先はセレスティアの夫へと移っていた。
「よし、そいつの名前を教えろ! 俺たちが一発、説教してやる!」
「いや、説教じゃ済まねえだろ! 団長に鍛えてもらうか?」
「お前ら、勝手に話を進めるな!」
レオンが低い声で制したものの、誰も聞く耳を持たなかった。むしろ、その声を聞いた副団長が、意味ありげな笑みを浮かべて振り返る。
「ところで団長。嫁を放っておくような男って、どう思います?」
「……は?」
「せっかく妻がいるのに、ろくに顔も見せず、寂しい思いをさせてるような男ですよ。そういう奴は、一度痛い目を見たほうがいいと思いませんか?」
「……そうだな」
レオンは、わずかに顔を引きつらせながら答えた。副団長の言葉が誰に向けられたものなのか、分からないほど鈍くはない。
(こいつ、俺に遠回しに嫌味を言っているな)
しかも、周囲の傭兵たちまで何やら納得した顔で頷いている。まさか、全員そろって自分を責めるつもりではあるまいな。
「やっぱりそう思いますよね、団長?」
副団長は、追い打ちをかけるように笑顔で尋ねた。
「……一度、きちんと話をする必要はあるだろう」
「おっ、団長も賛成か!」
レオンの苦々しい返答をよそに、傭兵たちはますます盛り上がっていく。
(……まったく。人のことを言えないのは分かっているが、今ここで蒸し返すことはないだろう)
レオンは口に出せない不満を飲み込みながら、これ以上余計なことを言われる前に話題が変わることを願うのだった。
そして場は、まだまだ盛り上がる。
「当たり前だ! ステラちゃんを悲しませる男なんざ、許せるか!」
「よし、今度そいつが町に来たら、俺たちで――」
「だから、勝手に決めるなと言っている!」
またもや怒声が飛び、店内は大きな笑い声に包まれた。
セレスティアも、つられて笑った。
こんなふうに、自分のために怒ってくれる人がいる。
それが、なんだか嬉しかった。
今まで、誰も助けてくれなかった。
実家の家族も、夫の親族も、屋敷の使用人たちも。誰一人として、自分の味方になってくれる人はいなかった。
だからこそ、何気ない言葉であっても、こうして気にかけてもらえることがありがたい。
「皆さん、ありがとうございます。でも、まずは自分で話し合ってみますね」
「ステラちゃんは優しいなあ!」
「優しいというか、当然のことですよ。話し合いもせずに、いきなり殴り込みなんて駄目です」
「うっ……。そりゃそうか」
傭兵たちが気まずそうに頭をかいた。
その様子を見て、セレスティアはまた笑った。
そして、少し離れた席に座るレオンを見た。
「団長さんも、奥様と話し合ってみてくださいね。きっと、そのほうがいいと思います」
まっすぐな言葉だった。
レオンは、しばらく彼女を見つめていた。
淡い金色の髪。儚げな顔立ち。笑うと柔らかく細められる蒼い瞳。
その姿は、今まで彼が見てきたどの女性とも違っていた。
彼女は、相手を責めるために言っているのではない。
自分自身も苦しんでいるからこそ、同じように苦しんでいるかもしれない誰かに、手を差し伸べようとしているのだ。
自分の夫に不満があると言いながら、それでも一度は話し合おうとしている。
ならば、自分はどうだ。
妻が自分に会いたくないという話を、確かめもせずに信じていた。
屋敷の者たちに任せきりにして、妻がどんな暮らしをしているのかさえ知らない。
金を送っているのだから問題ない。
そう考えていたのは、自分が面倒なことから目を背けていただけではないのか。
レオンは酒杯を置いた。
「……そうだな。俺も、一度は話をしてみるべきなのかもしれない」
「はい。きっと、そのほうがいいですよ」
セレスティアは、嬉しそうに頷いた。
その笑顔を見つめながら、レオンは胸の奥に小さな痛みを覚えた。
彼女の夫は、彼女が働いていることを知っているのだろうか。
親戚に虐げられ、食事も満足に与えられなかったことを。
それでも彼女が、自分の力で生きようと懸命に働いていることを。
知らないのだとしたら。
それは、あまりにも無責任ではないか。
――いや。
レオンは、内心で苦笑した。
人のことを言える立場ではない。
自分だって、妻のことを何ひとつ知らないのだから。




