第二話
数ヶ月後。
「いらっしゃいませ! あら、団長さん。今日はいつもより早いんですね」
昼下がりの食堂に、明るい声が響いた。
カウンターの向こうで笑顔を浮かべているのは、セレスティア・ヴァルデン男爵夫人――のはずなのだが、今の彼女を貴族の夫人だと見抜ける者は、おそらく一人もいないだろう。
淡い金色の髪は後ろでひとつに束ね、質素な生成りのブラウスに、使い込まれた濃紺のスカート。華奢な身体つきと、透き通るような白い肌は以前と変わらない。伏せた睫毛の影や、ふとした仕草には、どこか儚げな美しさが残っていた。
けれど、その蒼の瞳には、かつての怯えた色はない。
今のセレスティアは、よく食べ、よく働き、よく笑う。
そして何より、逞しかった。
ここでは平民のステラと名乗っている。
「いつもと同じだ。傭兵団の連中が来る前に、少し腹に入れておこうと思ってな」
「ふふっ。団長さんのところは、皆さんよく食べますものね。今日は煮込み料理がおすすめですよ。お肉もたっぷり入っています!」
「なら、それを頼む」
「はーい!」
セレスティアが弾むような返事をすると、男はわずかに目を細めた。
彼の名は、レオン。
この町を拠点に活動する傭兵団の団長である。
年齢は二十九歳。日に焼けた精悍な顔立ちに、整った鼻筋と鋭い眼差し。鍛え上げられた身体は大柄で、椅子に腰かけているだけでも、周囲とは明らかに異なる存在感を放っている。
荒くれ者の多い傭兵たちを束ねるだけあって、気性はさっぱりとしていて、無駄なことは言わない。けれど、弱い者を見捨てるような男でもなかった。
もともと、この食堂はレオン率いる傭兵団の行きつけだった。安くて量が多く、味もいい。女将の気風もよく、多少騒がしい連中が集まっても、きっちりと仕切ってくれる。
傭兵たちにとって、これほど居心地のいい店はなかった。
レオン自身も以前から店を利用していたが、セレスティアが働き始めてからは、彼女と顔を合わせる機会が増えた。
きっかけは、酔っぱらいだった。
*
その日、店は夕方になっても混雑していた。
傭兵たちが次々と押し寄せ、酒を飲み、料理を平らげ、騒がしく笑い合っている。セレスティアは忙しく立ち回りながら、空いた皿を下げ、追加の注文を取り、厨房と客席を何度も往復していた。
ようやくひと息つけそうだと思った矢先、店の隅に座っていた男が彼女を呼び止めた。
「おい、姉ちゃん。こっちに来て酌をしろよ」
「申し訳ありません。うちはお酒をお出しするだけで、酌はしていないんです」
「いいじゃねえか。ちょっとくらい」
男はすっかり酔っていた。
セレスティアは笑顔を崩さず、手にしていた注文票を胸元に引き寄せる。
「ほかのお客様のご注文もありますので。お酒のおかわりでしたら、すぐにお持ちしますね」
「そうじゃねえよ。俺が呼んでるんだから、こっちに来いって言ってんだ!」
男が立ち上がり、彼女の腕をつかもうとした。
セレスティアは反射的に身を引いたが、背後にはテーブルがある。逃げ場がない。
困ったわね。
心の中で小さく息をつく。
以前の彼女なら、こういう場面では相手を刺激しないよう、ただ怯えていたかもしれない。
けれど、今は違う。
酔っぱらいへの対処法くらい、数ヶ月の食堂勤めで身につけている。女将からも、危険な客には無理に逆らわず、すぐに助けを呼ぶよう言われていた。
ただ、今日は店が忙しすぎる。
女将は厨房に入っており、ほかの店員たちも手が離せない。
どうしたものかと考えた、そのとき。
「嫌がっているだろう」
低く、よく通る声が響いた。
次の瞬間、男の手首がつかまれた。
「いっ……てえな! なんだ、てめえ!」
「聞こえなかったのか。嫌がっていると言ったんだ」
レオンだった。
いつの間に席を立ったのか、彼は酔っぱらいの前に立ち、冷ややかな眼差しを向けている。
その表情は、普段セレスティアに見せる穏やかなものとはまるで違っていた。
荒事に慣れた男の、容赦のない眼差し。
酔っぱらいは一瞬たじろいだものの、酒の勢いもあってか、すぐに顔を赤くした。
「てめえ、誰に向かって――」
「店で騒ぎを起こすつもりなら、表に出ろ。相手をしてやる」
レオンは淡々と言った。
怒鳴りもしなければ、威嚇するように声を張り上げることもない。ただ、相手の手首をつかむ指に、わずかに力を込めただけだった。
それだけで、酔っぱらいの顔色が変わった。
男は自分の腕を引き抜こうとしたが、びくともしない。
「くそっ……覚えてろよ!」
捨て台詞を吐き、男は逃げるように店を出ていった。
その背中を見送ってから、レオンはセレスティアに向き直った。
「大丈夫か?」
「はい。ありがとうございます、団長さん」
セレスティアはほっとしたように微笑んだ。
「助かりました。あのままだと、どうお断りしようか悩んでいたところなんです」
「悩む必要はない。嫌なものは嫌だと言えばいい」
「そうなんですけどね。お店の中で騒ぎになるのも困りますし」
彼女は困ったように笑い、それから、ふと思いついたように顔を上げた。
「……あの、よかったら、お礼をさせてください。次のお食事、少しだけおまけしますね」
「いや、そんなつもりで助けたわけじゃない」
「私がしたいんです。だめですか?」
まっすぐに見上げられ、レオンは一瞬、返事に詰まった。
淡い蒼色の瞳が、窓から差し込む夕日を受けて柔らかく輝いている。華奢で、今にも壊れてしまいそうな雰囲気をまとっているのに、その眼差しには不思議な芯の強さがあった。
やがて彼は、わずかに肩をすくめた。
「……好きにしろ」
「はい! ありがとうございます」
ぱっと明るくなった彼女の表情に、レオンはなぜか目を離せなくなった。
その日を境に、二人はよく話すようになったのだった。
*
「はい、お待たせしました。熱いので気をつけてくださいね」
セレスティアが煮込み料理を運んでくると、レオンは我に返った。
「ああ、ありがとう」
「パンも焼きたてですよ。今日は少し多めに入れておきました」
「……ずいぶん気前がいいな」
「いつも傭兵団の皆さんにはお世話になっていますから。それに、団長さんはよく食べてくださるので、作る側としても嬉しいんです」
屈託のない笑顔だった。
レオンは皿に目を落とし、肉と野菜がたっぷり入った煮込み料理を見つめた。
この店の料理はうまい。
それは間違いない。だが、彼がこのところ足繁く通っている理由は、料理だけではなかった。
目の前の娘と話すのが、妙に心地よいのだ。
セレスティアは、彼が何者なのかを知らない。
傭兵団の団長であることは知っているが、それ以上のことには興味を示さなかった。身分を尋ねることも、金を持っているか探ることもない。ただ、目の前にいる一人の客として接してくれる。
レオンにとって、それはひどく新鮮なことだった。
彼には、もうひとつの顔がある。
王家から男爵位を授けられた、レオニード・ヴァルデン。
魔物討伐隊の隊長を務める、王国屈指の武人だ。
だが、貴族社会には窮屈さを感じていた。爵位を得たのは自分の望みというより、功績に対する報奨と、王家の都合によるところが大きい。
男爵という地位を得てからも、彼の生活はほとんど変わらなかった。
討伐任務に出て、傭兵たちと野営し、魔物を狩る。屋敷で礼儀作法を気にしながら食事をするより、野外で火を囲み、仲間と食事をするほうが性に合っていた。
だからこそ、町にいるときは貴族としての身分を隠し、傭兵団の団長として振る舞っている。
名乗る名前も変えていた。
レオニード・ヴァルデンではなく、レオン。
その名で呼ばれることに、何の不都合もなかった。
そして、もうひとつ。
彼には妻がいる。
セレスティア・ヴァルデン。
子爵家の娘で、結婚してから一度も顔を合わせていない妻だ。
結婚そのものに、彼は積極的ではなかった。
貴族社会に足場を固めるため、王家と周囲の貴族たちがまとめた縁談だった。相手がどんな女性なのかも知らず、婚姻の手続きだけを済ませた。
その後は魔物討伐に追われ、屋敷に戻る機会もないまま、今日に至っている。
そもそも、自分との結婚をどう思っているのか。考えたことがないわけではない。
だが、彼女のことを知ろうとするには、あまりにも時間がなかった。
少しでもコミュニケーションを取ろうと自分が送った手紙は全て破り捨てていると聞いてからは送るのを止めた。
それに、彼女にとっても、顔も知らない男との結婚など望んだものではなかっただろう。
平民との結婚は屈辱であったと嘆き悲しんでいるという。せめてもの気晴らしになればとそれなりの金は与えている。
そこまで苦しめているのならば、無理に夫婦らしく振る舞うことが正しいとも思えなかった。
互いに干渉せず、必要なものを与え、自由に暮らす。
それが一番いいのではないか。
そう思っていた。
残念なことに、レオニードは、まさかその妻が今、目の前で笑っているとは知らずにいるのだが。
「団長さん?」
呼びかけられ、レオンは顔を上げた。
「……なんだ?」
「お料理、冷めちゃいますよ?」
「ああ、悪い」
「考え事ですか?」
「少しな」
「お仕事、大変そうですものね」
セレスティアはそう言って、彼の前に水差しを置いた。
「でも、あんまり無理はしないでくださいね。団長さんが倒れたら、傭兵団の皆さんも困るでしょう?」
何気ない言葉だった。
特別な意味などない。客の健康を気遣う、ただそれだけの言葉。
けれど、レオンは一瞬、匙を持つ手を止めた。
無理をするな。
そんな言葉を、誰かにかけられたのはいつ以来だろう。
彼の周囲にいる者たちは、いつだって彼の強さを頼りにしていた。魔物を倒せる男。どんな敵にもひるまない男。危険な任務を任せられる男。
だから、彼が疲れているかどうかなど、誰も気に留めない。
自分自身でさえ、気にしたことはなかった。
「……あんたは、変わったことを言うな」
「そうですか?」
「俺みたいな男を心配する必要はないだろう」
「どうしてです?」
セレスティアはきょとんとした。
「団長さんだって人間でしょう? 疲れることもあれば、具合が悪くなることだってありますよ」
あまりにも当たり前の返答に、レオンは言葉を失った。
彼女は不思議そうに首を傾げている。
その姿を見て、レオンの口元がかすかに緩んだ。
「……そうだな」
「はい。ですから、ちゃんと食べて、ちゃんと休んでくださいね」
「わかった。ありがたく忠告を受け取っておく」
そう答えると、セレスティアは満足そうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、レオンの胸の奥に、これまで感じたことのない温かさが広がった。
――もう少し、この店に通ってみるか。
そんな考えが、自然と浮かんだ。
*
一方、その頃。
セレスティアは厨房に戻りながら、密かに満足していた。
よし。今日も団長さんはちゃんと食べてくれた。
彼は無口で愛想がいいとは言い難いが、根は優しい人だ。困っている人がいれば助けるし、店の者にも横柄な態度を取らない。傭兵団の団長という立場にありながら、偉ぶるところもなかった。
彼女にとって、レオンはこの数ヶ月で知り合った、数少ない気の置けない相手の一人だった。
もっとも、彼女が彼に親しみを感じている理由は、それだけではない。
あの酔っぱらいから助けてもらったとき、レオンは彼女の身の上を詮索しなかった。
どうして一人で働いているのか。なぜ、そんなに痩せているのか。どこから来たのか。
何ひとつ聞かず、ただ困っている彼女を助けてくれた。
その距離感が、ありがたかった。
親切にしてくれる人が、必ずしも自分の事情を知りたがるわけではない。
そして、自分の事情をすべて話さなくても、誰かと親しくなることはできるのだ。
だから、レオンにも詳しい身の上を尋ねるつもりはなかった。
彼が話したいことを話してくれれば、それでいい。
それに、今の彼女には、他人の事情を気にしている余裕などないのだ。
目標は離婚。
そして、自分の力で暮らせるだけのお金を貯めること。
それさえ達成できれば、ひとまず人生の第一段階は成功である。
「ステラ、そこの皿を下げておくれ!」
「はーい!」
女将に呼ばれ、セレスティアは元気よく返事をした。
さあ、午後も働こう。
今日の夕食は何だろう。帰りに市場で安い野菜があれば買っておこうか。そろそろ貯金も増えてきたし、少しずつ先のことも考えなければ。
そんなことを考えながら、彼女は忙しく店内を動き回る。
その背中を、レオンは食事の合間に何度も目で追っていた。
華奢で儚げな娘だ。
けれど、よく笑い、よく働き、誰に対しても気持ちのいい態度で接する。
見ていると、不思議と心が安らいだ。
彼女が何者なのか、どこから来たのか。
知らないことは、まだたくさんある。
それでも、もう少し知りたいと思った。
彼女の好きな食べ物。嫌いなもの。どんなときに笑うのか。何を考え、何を大切にしているのか。
そんな些細なことを、知りたくなったのだ。
――妙なものだな。
レオンは内心で苦笑した。
これまで、誰かと親しくなりたいなどと思ったことは、ほとんどなかった。
それなのに、たった一人の娘が笑いかけてくれるだけで、また明日もここへ来ようと思ってしまう。
彼は知らない。
自分が心を惹かれ始めた相手こそ、顔も知らずに結婚した妻であることを。
そしてセレスティアも、知らない。
いつか離婚するつもりでいる夫が、毎日のように食堂へ通い、自分の作った料理を食べ、自分の声に耳を傾けていることを。
夫婦は、互いの正体を知らぬまま、少しずつ距離を縮めていく。
その先に待っているのが、離婚届を突きつける日なのか。
それとも、思いもよらない夫婦の再会なのか。
今の彼女たちには、まだ知る由もなかった。




