第一話
短編を書きました。下書きは終わっているので数日で完結投稿する予定です。
楽しく読んで頂けたら嬉しく思います。
暗い。
目を開けても、閉じても、何も変わらない。
湿った木材の臭いと、どこからか入り込んでくる冷たい風。
床には埃が積もり、壁の隅には蜘蛛の巣が張っている。小さな窓がひとつ、そこから、かろうじて外の光が差し込んでいた。
ここは物置だ。
そして私は、そこに閉じ込められている。
「……お腹、空いたな」
声に出したつもりだったが、喉から漏れたのは掠れた息だけだった。
最後に食事を口にしたのは、いつだっただろう。
毎日一度、扉の隙間から押し込まれる食事とも呼べない代物。冷え切った残飯に、傷みかけた野菜の切れ端。時には、食べ物なのかどうかすら判別できないものが混ざっている。
それでも、食べなければ死ぬ。
だから私は、腐臭のするそれを、泣きながら口に運んできた。
この家に嫁いでから、ずっと。
私はセレスティア。二十一歳。
元は子爵家の娘で、現在は男爵夫人という肩書きを持っている。
もっとも、夫人と呼ばれたことなど、数えるほどしかない。
夫の名は、レオニード・ヴァルデン。
二十九歳。元平民で、かつて傭兵団を率いていた男だ。
その圧倒的な武勇を王家に認められ、魔物討伐隊の隊長に抜擢された。数々の功績を立てた彼は男爵位を授けられ、貴族社会に足場を築くため、私との結婚を命じられたのだという。
私が彼と結婚したのは、一年前。
顔も知らない相手だった。
父に呼び出され、突然、結婚が決まったと告げられた。相手がどんな人間なのか、どこで暮らしているのか、私の意思など一切尋ねられなかった。
子爵家の財政は苦しく、私には持参金を用意する価値もなかったらしい。
そんな娘を引き取ってくれる相手がいるのなら、ありがたく差し出すべきだと。
父は、そう言った。
母は何も言わず、兄は私と目を合わせなかった。
私は泣かなかった。
泣いたところで、何も変わらないと知っていたから。
そして嫁いだ先で待っていたのは、夫の不在と、彼の親族による支配だった。
レオニードは一度たりとも屋敷に帰ってこなかった。
魔物討伐の任務が忙しいのだろう。そう考えようとした時期もある。
けれど、手紙一通届かない。結婚してから今まで、夫の声すら聞いたことがなかった。
屋敷を取り仕切っていたのは、夫の叔母と、その娘である従姉妹だった。
彼女たちは私を男爵夫人として扱わなかった。
ろくに仕事もできない役立たず。夫に見捨てられた哀れな女。平民出身の当主に嫁いできたくせに、貴族令嬢としての誇りだけは一人前。
そんな言葉を浴びせられ、使用人たちからも笑われた。
逆らえば食事を減らされ、口答えすれば殴られた。
やがて私は物置に閉じ込められ、屋敷の中で存在しない人間のように扱われるようになった。
誰も助けてくれない。
実家に手紙を出すこともできない。まぁ、手紙を読んだとしても助けてくれるとは思えないが。
夫は帰ってこない。
私はこのまま、誰にも知られず死んでいくのだろう。
そう思った、そのときだった。
――あれ?
不意に、頭の中で何かが弾けた。
知らないはずの記憶が、濁流のように押し寄せてくる。
コンビニの明かり。洗濯物の山。夕食の献立に悩みながら、スマートフォンを片手にソファへ沈み込む自分。
そして、寝る前に読んでいた一冊の小説。
そうだ。
私は、この世界の人間ではなかった。
前世の私は、どこにでもいる普通の主婦だったのだ。
特別な才能もなければ、華々しい功績もない。毎日家事をこなし、たまに贅沢をして、好きな小説を読むことを楽しみに生きていた。
そんな私が、なぜこんなことに。
いや、待って。
私は今、自分が置かれている状況に覚えがある。
この世界。
この国。
そして、ヴァルデン男爵家。
前世で読んだ小説の舞台ではないか。
タイトルは確か、『氷刃の英雄と花冠の王女』。
魔物討伐で数々の功績を挙げた孤高の英雄レオニードが、心に深い傷を抱えながらも、明るく健気な王女と出会い、少しずつ人間らしい感情を取り戻していく恋愛物語だ。
強面で無愛想な英雄が、王女の前でだけ不器用な優しさを見せる。
身分差も年齢差も乗り越え、最後には国中から祝福される二人。
そう、あれはなかなか面白い小説だった。
……面白かった、のだけれど。
私は震える手で、自分の顔を覆った。
「嘘、でしょ……」
思い出した。
私は、その小説に登場する脇役だった。
しかも、ただの脇役ではない。
物語の序盤で死に、ヒーローに深いトラウマを植えつけるためだけに存在する、噛ませ役の男爵夫人。
つまり、私だ。
セレスティア。
英雄レオニードの妻でありながら、彼に愛されることもなく、夫の親族から虐待され、最後には衰弱死する女。
彼女の死を知ったレオニードは、自分が妻を守れなかったことを悔やみ、他人を信じることができなくなる。
そんな彼を救うのが、ヒロインである王女だった。
王女は彼の傷ついた心に寄り添い、彼が抱える罪悪感を少しずつ溶かしていく。
そして二人は恋に落ちる。
めでたし、めでたし。
……ふざけるな。
「ふざけるなあああああっ!」
叫んだつもりだった。
しかし、喉はかすかに震えただけで、声にならなかった。
それでも、私の心の中では盛大な怒号が響き渡っていた。
誰が死んでやるものか。
誰が他人の恋愛の踏み台になってやるものか。
そもそも、夫のトラウマになるために生まれてきたわけではない!
私は、ただ普通に生きたいだけなのだ。
おいしいものを食べて、好きな本を読んで、気が向いたら旅行に行く。たまには高級なお菓子を買って、誰にも気兼ねせずに昼寝をする。
そんな、ささやかな幸せを楽しみながら生きていきたい。
なのに、どうして物置で餓死しなければならないのか。
冗談ではない。
私はまだ二十一歳だ。
人生は、これからではないか。
「……絶対に、生き残ってやる」
今度は、ほんの少しだけ声が出た。
私は震える腕を動かし、床に手をついた。指先は冷え切り、身体にはほとんど力が入らない。それでも、私はゆっくりと顔を上げた。
死んでたまるか。
まずは食べる。
次に体力を取り戻す。
それから、この屋敷を出る方法を考える。
最終目標は――離婚だ。
夫がどんなに強かろうと、どれほど英雄と呼ばれていようと、私には関係ない。
会ったこともない男のために、人生を棒に振るつもりはなかった。
ましてや、彼の恋愛を盛り上げるために死ぬなんて、まっぴらごめんである。
……ただし。
ひとつだけ問題があった。
今の私は、立ち上がることすら難しい。
「まずは……食料の確保、を」
幸いなことに、私は前世の記憶を取り戻した。
普通の主婦として生きた経験がある。料理もできるし、家事もできる。人付き合いだって、得意ではないが、最低限のことなら問題ないはずだ。
それに、この世界の常識を知らないわけでもない。
小説を読んだ記憶がある。
物語の細部まですべて覚えているわけではないけれど、少なくとも、この先に何が起きるのかは知っている。
ならば、利用できるものは利用する。
まずは生きること。
そのためなら、男爵夫人の肩書きだって捨ててやる。
私は、暗闇の中で小さく拳を握った。
その日、物置の片隅で。
物語のために死ぬはずだった女は、二度目の人生を始めたのだった。
*
それから三日間、私は死に物狂いで体力を回復させた。
といっても、豪華な食事を与えられたわけではない。相変わらず運ばれてくるのは残飯ばかりだったが、腐っていない部分を選んで少しずつ口にし、水を飲み、身体を休めた。
幸い、私はまだ完全に衰弱しきっていたわけではなかったらしい。
四日目の朝には、壁に手をつきながらも、どうにか立ち上がれるようになった。
そこで、私は決行した。
脱出である。
もちろん、正面から堂々と出ていくつもりはない。
この屋敷では、叔母と従姉妹はもちろん、使用人たちも彼女たちの顔色をうかがっているため、私に協力してくれる者はいないだろう。
だが幸いなことに、屋敷の連中は私に関心がないから、昼間いなくても気づかれもしない。夜だけ潜り込んで寝床を確保しつつ、ここで資金を貯めよう。
物置の扉は、外側から鍵がかけられている。でも動けるようになった今なら小窓から抜け出すことが可能だ。
裏庭に抜け出せたときには、思わず泣きそうになった。
外は、朝の光に満ちていた。
眩しい。
こんなに明るい場所が、世界にはあったのか。
私はしばらくその場に立ち尽くし、それから誰にも見つからないよう、裏門へと向かった。
幸い、屋敷の人間は私が裏庭へ出てくるとは思っていなかったようだ。
私は深く息を吸い込んだ。
冷たい空気が肺に流れ込む。
生きている。
私は、まだ生きているのだ。
「……よし」
感慨に浸るのは後回しだ。
まずは食料。できれば、今後も継続的に食べられる場所を確保したい。
そして、できることなら収入も欲しい。
離婚するにしても、家を出て暮らすにしても、お金は必要だ。実家に頼るつもりはないし、夫の財産を当てにするのも癪だった。
そう考えながら歩いていると、屋敷から少し離れた場所に、小さな町が見えてきた。
男爵領の中心街だ。
街に入ると、景色は一変した。石畳の道には荷車が行き交い、露店からは焼きたてのパンの香りが漂ってくる。市場では商人たちが声を張り上げ、買い物客が楽しげに品物を選んでいた。
人々の営みが、そこにはあった。
私は足を止め、パン屋の店先を見つめた。
こんがりと焼けた丸いパン。
表面はぱりっとしていて、割れば湯気が立ち上るに違いない。
ああ。
食べたい。
心の底から、食べたい。
しかし、私の懐には一枚の銅貨もない。
結婚前に持っていたわずかな私物は、屋敷に入った際にすべて取り上げられていた。装飾品も衣服も、今の私には何ひとつ残されていない。
つまり、無一文である。
「……働くしかないわね」
幸い、着ている服はみすぼらしいものの、破れてはいなかった。髪をまとめ、顔を隠すようにフードをかぶれば、男爵夫人だと気づかれる可能性も低いだろう。
私は市場の通りを歩きながら、求人の貼り紙を探した。
すると、通りの奥に、年季の入った看板を掲げる食堂が目に入った。
窓からは温かな湯気が流れ、店の中からは食器の触れ合う音と、威勢のいい声が聞こえてくる。扉の前には、日替わり定食の内容を書いた木札が置かれていた。
煮込み料理に、焼きたてのパン。
そして、たっぷりの野菜。
私は思わず立ち止まった。
食べたい。
働いてでも、ここで食べたい。
……いや、待て。
これは、むしろ好都合なのではないだろうか。
食堂なら、料理の手伝いをすれば食事にありつけるかもしれない。仕事を覚えれば、給金だってもらえるだろう。
住み込みで雇ってもらえれば、屋敷から離れる足がかりにもなる。
そうと決まれば、行動あるのみだ。
私はフードを深くかぶり直し、食堂の扉を押し開けた。
カラン、と小さな鐘が鳴る。
「いらっしゃい!……って、なんだい。ずいぶん顔色が悪いね」
カウンターの向こうから、恰幅のいい女性が顔を出した。四十代くらいだろうか。袖をまくった腕はたくましく、声には張りがある。
彼女は私の姿を上から下まで眺めると、怪訝そうに眉を寄せた。
「食事かい?それとも、何か用かね?」
私は一度、唇を引き結んだ。
ここで断られたら、次を探すしかない。
けれど、今の私には余裕がないのだ。意地も体裁も、いったん横へ置くしかない。
「……あの、こちらで働かせていただけませんか?」
「働く?」
「はい。掃除でも、皿洗いでも、できることなら何でもします。食事は一日一度でも構いません。お給金も、最初は少なくて大丈夫です」
言いながら、自分でも情けなくなった。
男爵夫人が、食堂の女将に仕事を乞う。
少し前までの私なら、想像すらできなかっただろう。
けれど、そんなことはどうでもいい。
生きるためなら、頭だって下げる。
女将はしばらく黙って私を見ていたが、やがて大きなため息をついた。
「……あんた、家出でもしてきたのかい?」
私は答えられなかった。
その沈黙をどう受け取ったのか、彼女はそれ以上追及せず、カウンターの上に置かれていた布巾を手に取った。
「うちは忙しいよ。働くなら、きっちり働いてもらう。皿洗いだけで済むと思わないことだね。掃除も配膳も、料理の下ごしらえもやってもらうよ」
「はい!」
「それと、食事は一日一度なんてけちなことは言わない。働いた分は食べな。倒れられたら、こっちが困るからね」
その言葉に、私は目を見開いた。
働いた分は、食べていい。
当たり前のことだ。
当たり前のことなのに、どうしてこんなにも胸が熱くなるのだろう。
「……ありがとうございます」
頭を下げると、女将は照れくさそうに鼻を鳴らした。
「礼は仕事を覚えてから言いな。ほら、まずは何か食べな。話はそれからだ」
彼女が差し出したのは、湯気の立つスープと、焼きたてのパンだった。
私は震える手で匙を握った。
スープをひと口、口に運ぶ。
野菜の甘みと、肉の旨味。温かな汁が喉を通り、冷え切っていた身体の奥へと染み込んでいく。
パンをちぎると、ふんわりとした生地から香ばしい匂いが立ち上った。
ひと口食べた瞬間、涙がこぼれた。
「ちょ、ちょっと。そんなにお腹が空いていたのかい?」
女将が慌てたように声を上げる。
私は何度も頷いた。
空いていた。
ずっと、ずっと空いていた。
お腹だけではない。
温かい食事も、安心して眠れる場所も、人として扱われることも。
私はずっと、飢えていたのだ。
「……おいじいですっ」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
女将は何も聞かず、私の前にもう一切れパンを置いた。
「なら、たくさん食べな。うちの料理は、腹いっぱい食べてこそだよ」
私はそのパンを見つめ、胸の中でそっと誓った。
絶対に、ここから這い上がってみせる。
屋敷に戻るのは、夜だけでいい。昼間はここで働き、食事をして、お金を貯める。体力が戻ったら、住む場所を探そう。
そして、いずれは夫と離婚する。
英雄の妻なんて肩書きも、貴族夫人という立場も、もういらない。
私は私の人生を生きる。
物語の都合で死ぬなんて、まっぴらだ。
ましてや、これから王女と恋に落ちる予定の夫のために、命を差し出す義理など欠片もない。
レオニード・ヴァルデン。
あなたがどんな英雄だろうと、私はもう、あなたの物語の脇役ではない。
――覚悟しておきなさい。
あなたの妻は、そう簡単には死なないのだから。
こうして私は、男爵夫人としての人生を捨てるため、下町の小さな食堂で働き始めた。
このときの私は、まだ知らなかった。
このささやかな一歩が、物語の筋書きを大きく狂わせることになるなど。
もちろん、そんな未来を知っていたとしても、私の決意は変わらなかっただろう。
目指せ、離婚。
ついでに、おいしいものを毎日食べられる生活!
気に入っていただけましたら、お気に入りやリアクションをお願いします。
作者のモチベ凄くあがります!笑




