警官の推理
「高木くん、入るよ」
ぼくはカーテンの方に目を向ける、看護師のお兄さんが入ってきた。
窓から太陽の光が差し込んでくる。
ぼくは朝が嫌いだった。
「おはよう」
お兄さんは微笑みながらそう言う。爽やかな声だった。
ぼくは本をベッドの隣の机に乗せると、怯えを顔に出さないようにした。
─また注射か。
ぼくは一週間ほど入院している、明後日の心臓の手術のために準備をしているらしい。
「体調はどうかな?」
「いい感じ」
そっか、と言うと、お兄さんはぼくのベッドに腰掛けた。
「お兄さんちょっとサボっちゃおうかなー」
「またなの?」
ぼくはくすくす笑うと、お兄さんを見つめた。
彼はいつもぼくのベッドでサボる。上司に怒られないのかな、と思うけど平気らしい。
「退院したら何したい?」
ぼくはその質問には答えられなかった。答えがいっぱい浮かびすぎたからだ。
「えっと、京都に行きたい」
「京都に?どうして」
「クラスのみんなが修学旅行で行ったから」
お兄さんは眉根を上げた。そのせいで額にシワがよる。
「そうかあ」
クラス全員がぼくに渡したお土産は、その日のうちに病室のゴミ箱に突っ込んだ。
「清水寺に行って、そのあと金閣寺に…」
「ふうん、寺が好きなんだ」
「…いや、別に好きじゃない」
お兄さんは微笑んだ、そして少しの間私を見つめる。
「君はクラスのみんなと同じようになりたいのか?」
「どういうこと?」
ぼくにはよく分からなかった。
「…いや、なんでもないよ」
そしてお兄さんは手を伸ばしてぼくの頭に乗せた。
「ねえ、君はみんなと同じようなことじゃなくて、したいことをして良いんだよ」
したいことはなんだろうかと考えた。
ぼくはお兄さんを見つめた。
「したいこと、あるよ」
私は目を覚ました。
布団にくるまっているが、寒くて仕方がない。枕が外れていたせいで、首が痛んでいる。
すぐに洗面所に行き、顔を洗った。
水を顔にかけると、お腹や足元に水が跳ねる。
タオルで顔を拭くと、寝室に戻った。
昨日のことが頭をよぎり、慌てて忘れようとしたが、西田の呆然とした顔が浮かんでくる。
私は何かの発作のように、クローゼットを蹴飛ばした。
爪先が痛んで、その感覚で少し冷静になれた。
私はもう一度クローゼットを蹴った。今度は爪が割れ、鋭い痛みが襲ってきた。
ため息を吐く。のろのろと寝室に向かうと、棚から絆創膏を取り出した。足の爪に巻きつける。
嫌な汗が全身から噴き出した。
看護師のお兄さんを思い出していた。
あの人は今、何をしているのだろうか。
─私は今、彼に顔向けできる看護師なのだろうか。
その時、チャイムの音が鳴った。
思わず舌打ちをした、別に何か予定があるわけでもないのに。
ゆっくりと玄関までに向かい、ドアスコープを覗き込む。
警官がいた。
ざわり、と耳の後ろあたりの毛が逆立つのが分かる。
落ち着け、と自らに言い聞かせた。
ドアを開ける、その手はやけに重く感じた。
「こんにちは」
警官は笑顔でそう言った。
「ええ、こんにちは」
私も笑顔で答えた。
笑顔がぎこちないかもしれない。そもそも警官が家に来たのに笑顔はおかしいか?
そのような考えが雨雲のように広がっていた。
「いやあ、すみません、突然押しかけて」
「ああ、別に平気ですよ、暇だったので」
私はドアをさらに広げた。
「西田さんのことで話があるんだ」
「よかったら、うちに上がります?」
警官は少し考えるように、目線を私の足元に落とす。
「いや、近くの喫茶店に行こう」
「分かりました、準備するので少し待っててください」
私は再び洗面台に向かうと顔を洗った。
冷蔵庫からエナジードリンクを取り出して口いっぱいに飲み込んだ。
クローゼットを開こうとしたが、歪んでいたため、開けるのに手間取った。
すぐに服を取り出して着替えると、玄関のドアを開けた。
警官は腕時計をいじりながら待っている。
「ああ、じゃあ行こうか」
「ええ」
警官は少し笑顔で歩いている、しかし時々私の方を監視するように見やった。
「カフナ・カフェでいいかな」
「カフナ・カフェですか?あそこのコーヒーは高いですよ」
「あはは、私が奢るから平気だよ」
そうですか、と私は言う。
私の膝頭は震えていて、一歩歩くたびに体が崩れそうになる。
数分間歩いていると、『カフナ』と書かれている看板が見えてきた。
二人でそこに入る、昼前ということもあり人は少なかった。
シャンデリアや印象派の絵画があり、店内はそれなりに広い、豪華な印象を受けるが、優しいメロディが流れているため落ち着ける。
警官は人が少ないことを知っていたのだろうが、還暦寸前の男が何度もここに通っている姿を思い浮かべるのには、想像力が必要だなと思った。
若い女の店員に席を案内されると、警官はソファに座った。
私も彼の前に座る。革張りのソファで、爪で跡をつけたくなるような高級さがあった。
警官は店員を呼び止めると、ブラックコーヒーを頼んで、私はウィンナーコーヒーを頼んだ。
「いやあ、すみませんね」
「平気ですよ、それで西田さん事故の話って?」
警官はソファの背もたれに体重を預ける。
「『事故』ねえ、あなたは本気でそれを言ってるの?」
一瞬、息が止まった。
何が言いたい。
私は笑顔を口に貼り付けたまま、固まった。
「はい?あれは事故じゃないんですか?」
「『事故』というのは、確かに表面をなぞればそう見えるかもしれないけど…」
「何が言いたいんです」
警官は唇の端を歪めた、私は初めてこの人が怖いと思った。
「まず、あの夜、あなたたちから事情を聞いた後、須藤医院の足跡を調べた」
「それがどうしたんです?」
「見つかったのは二つだけ、西田さんの足跡と─あなたの足跡だ」
私は唇を舐めた。
そして深呼吸をした。
「何がおかしいんです?私の足跡がついたのは当たり前でしょう、西田さんがいなくなったと気がついた時に、慌てて探したんですから」
「そう、足跡がつくのは当たり前なんだ─しかし、これはおかしい」
警官はバッグから三枚ほどの写真を取り出した。
三枚とも須藤医院のものと思われる足跡が写っていた。
西田の足跡はスリッパの足跡で、私の足跡はスニーカーのものだった。
スニーカーの足跡は一直線にスリッパの足跡の方に向かっていた。
私は目線を警官にやって、続きを促した。
「まず、あなたが西田さんが失踪したと気がついたのなら、最初に何をするはずだろうか」
「院内を確認します、中にいないなら外を確認しますね」
「そう、そうするはずだ、あなたもそれを真似て外を探すふりをした─そこであなたはミスを起こしたんだ」
私は沈黙した。
女の店員がコーヒーを二人の目の前に置いた。
湯気がゆらゆらとひどく情けない軌道を描いている。
「見てみて、この足跡は初めから西田が病院から出た場所が分かってたみたいに、一直線に歩いているんだ」
そうか─あの時、私は最短距離を歩いてしまった。本来ならば窓から西田が出たとは考えられないから、もっと別の出入り口を探すのが自然なのだ。
「なるほど?」
私はあくまでも冷静を装った。おかしな推理をしてきた警官を笑うように、困ったような笑みを浮かべる。
「確かに面白い推理ですけどね、ただ、強引すぎませんかね、私がただ偶然そうしただけかもしれませんよ」
「偶然そうした?」
「ええ、私が偶然窓の方に歩いただけかもしれない」
「そう?こんなに迷いなく最短距離を歩いたのは偶然では考えらない」
私はコーヒーの上に乗っかっている生クリームを舐めた。
「窓が開いていたから、窓から徘徊してしまったと考えたんですよ」
「いいや、西田さんは窓を普段から開けていた、それは須藤先生も証言している、それに病室の床にはセンサーマットも敷かれていなかった。この際、病院の設備不足には目を瞑るとして、窓から西田が出たと考えにくいんだ」
「それだけですか?」
私の声は震えていた。
「うん、そう、でも今の反応で確定した、あなたは何かしでかしたね」
「警察が印象論に走るんですか、これでは冤罪も発生しますね」
警官はふふと笑うと、体を前のめりにした。
「鑑識の調べだと、転落死と出たんだ」
心臓に重い衝撃が走った。
転落死?
「はい?転落死なんですか?」
「そうだけど」
「どこから落ちたと予測されているんです?」
「橋の上からだよ?」
思わず倒れ込みそうになる。
西田はどうして橋の上から落ちたのか…
「いくら西田が認知症だとしても、電灯のついてある橋の上から転落するのは考えにくい。
私は調べたんだが、徘徊って本人なりの理屈があってその行動をしているんだ、例えば家に帰りたいだとか、目的地を探しているだとかね、だとしたら、わざわざ橋の方まで行くのは考えづらいんじゃないかな。
まあプロの看護師に言うのは釈迦に説法かもしれないけど」
警官の長広舌も、皮肉も、右から左に抜けていた。
転落死というのは、私の予想外のことだった。
「転落死した理由がわかるか?─」
私は立ち上がった。
西田が転落した理由が、分かってしまった。
「もう、あんたと話している暇はない」
「はい?」
「コーヒーごちそうさま」
警官は立ち上がると、私の肩を掴んだ。
「自首しろ、今なら罪は軽くなる」
「さっさと私を逮捕しないのは、足跡くらいしか証拠がないからだろう、それに私は何もしていない」
「ああ、そうだよ、証拠は何もない」
私は手を振り払うと、そのままカフェを出る。
お兄さん。
私はあなたになれませんでした。




