偽装
須藤先生の車に乗り込むと、まず先にタバコの匂いが鼻を刺した。
彼はベビースモーカーで、診察する時以外は常にタバコを吸っているような人だ。
車が進むと背後からパトカーがついてきた。私はあの警官のことを思い出して身震いした。
今はタバコを吸いたい気分なのだろうな、と思うほど顔は歪んでおり、夜なのに車は物凄いスピードで進んでいた。
「高木くんは…西田さんと仲が良かったよね」
そのため、そう切り出された時、私は驚いた。
「ええ、そうです」
「話しすぎて時間内に記録が上がらない時もあったね」
須藤先生は笑う。私の見た限り、今晩で初めて見せた笑顔だった。
「そんなこともありましたね」
その時でも須藤先生はあまり怒らなかった。
「西田さんも喜んでたんじゃないかな、最後に君と話せて」
相当酷い顔をしていたのだろうか、彼は私を慰めようとしてくれているようだ。
私も屈託のあるぎこちない笑みを向けた。
「そうですね」
「彼はここに入院してなかったら孤独死だった」
「息子さんって今何してるんですか」
赤信号になり車が止まる。
須藤先生はため息を吐きながら伸びをした。
「西田祐一くんのことか?医者だよ」
「…だから来れないんですかね」
「そうだな、西田が入院した時に話したことがあるが、相当忙しいらしい」
それならば仕方がない面もあるのだろう。だが、胸の中には鬱屈とした思いがあった。
西田祐一が父親を介護していれば、こんな事故は起きなかったのに…
そんな思いが頭をよぎり、慌ててそれを打ち消した。
「医者って大変なんですよね」
「ああ、それに彼は奨学金の返済にも追われている」
祐一にも人生がある、仕方がないのだろう。
次第に須藤医院が見えてきた、いつも働いている場所なのに、なぜか禍々しく映った。
背後のパトカーも手伝い、私はひどく泣きたい気分になる。
今から記録を偽造しなければならない。警察が見るよりも早く、七時半に薬を打ったと書き直さないと、時間についての嘘がバレてしまう。
記録はプリントアウトされた紙にボールペンで書き込んでいる。
そのため、完全に消すことはできない、修正液でも警察が調べた場合はバレてしまう。
だから、新しい紙で記録を作り直すことにした。
車が駐車場で止まる。
私は息を吐くと、須藤先生にお礼を言い、車から降りた。
背後ではパトカーから警官も降りる。
不思議と警官はニヤニヤと笑っているように見えた。
須藤先生も少し遅れて降りた。私の背中に手を当て、ゆっくりと微笑みかける。
私は警官を職員用の入り口に案内した。
電気は付けっぱなしで出たため、一瞬、中に人がいるのではと錯覚してしまった。
「西田さんの病室に案内してもらっても?」
警官は鋭い目つきを私に向けた。
私は頷くと、ゆっくりと病室に向かう。
確か記録の紙はスタッフルームにあるはずだ。私のデスクの中に入れていた。
新しい紙もスタッフルームにある。
紙を手に入れるには警官の気を逸らさなければならない。私が書いた方は後で処理するとして、新しく紙に書くのは二、三分はかかるだろう。
「ここが西田さんが入院していた所です」
病室には西田がいなかった。一瞬、いつものように気の抜けた表情でベッドの上に眠っている姿を想像したが、窓から風が吹き、ベッドのシーツをめくっている。
病室を区切る乳白色のカーテンは開け切っており、ブラインドも窓も開かれたままだ。
その光景を見て、私は助けを求めるように須藤先生を見つめた。
「なるほど、窓は誰でも開けられるの?」
「ええ、そうですね、西田さんが入院し始めて、四日ほどしかたっていなくて、まだ対応ができなかったんです」
それを裏付けるように、西田の病室にはセンサーマットが敷かれていなかった。
認知症患者が徘徊しても、気がつけるものが何もなかったのだ。
警官は納得したのかしていないのか、無表情でメモに書くと、須藤先生に職員の数を質問し始めた。
「西田さんって窓を開けているの?」
「ああ、そうらしいね、夜風を浴びてるみたいだよ」
チャンスか?
警官は須藤先生を探るように、慎重に質問をしていた。
私は気取られないように部屋の隅に移動した。
幸いなことに二人の視線は窓の方に向いていた、私は息を殺して病室から出る、そしてやや小走りでスタッフルームに入った。
部屋の中は暗く、私はデスクの上にあるスタンドライトをつけた。
精々稼げて三十秒ほどだろう。
私はデスクから紙を取り出すと、ボールペンで記入を始めた。
ペタペタと足音が聞こえてくる。
警官が気づいたのだ。
私の肩が跳ね上がった、急いでペン先を走らせる。
十二時までは記入し終えた。
「どうかした?」
警官がそう言う。
これを逃したら、二度目はないだろう。
記録を書く、最後のチャンスだった。
ゴミ袋があることに気がつく、私はそれを何枚かスタッフルームの入り口の近くに投げた。
部屋が暗いため、ゴミ袋がどこに落ちたのかは見えなかった。
「ああ…西田さんの記録を用意してくれているの?」
警官の表情が分からない。
ただ、一歩ずつ私の方に進んでいた。
「ありがとう」
警官は大袈裟に嬉しがって答えた。
あと少し、三時まで記録は書き終わる。
警官は近づいてくる。
字は不自然にならないように書かなければならない。
「おっと」
警官は少しよろけた。
それだけだった。
「見せてもらっても?」
「…いいですよ」
私の手には汗が浮かんでいた。
四時の所までしか記録が書き終わっていない。
これでは怪しまれてしまう。
事情聴取の際、記録を書いていた、と言ってしまった。
何かないか。
時間を稼ぐ方法。
その時、頭に妙案が浮かんだ。
私は警官に近づいた。
わざと転んで、ボールペンを頬に突き刺した。
鋭い痛み。異物感と肉を貫く音で吐き気が込み上げてきた。
大袈裟に悲鳴をあげる。
「だ、大丈夫か?」
警官は私に近寄った。
須藤先生も少し遅れてスタッフルームに入る。
「どうしたんだ」
「ボールペンが顔に刺さったんだ」
警官は少し取り乱したが、冷静に私の顔を観察していた。
私は新しい記録の紙をズボンの中に入れた。
須藤先生はスタッフルームの電気をつけた。
「ガーゼを取ってくるよ」
そして須藤先生は倉庫に向かう。
私はゆっくりと立ち上がった。
「床を汚したくないんで、トイレの洗面台の方まで行ってきます」
警官はギョッとしたような顔になる。
「いやいや、そんなこと気にしないで、安静にしてくれ」
私は左手を皿のようにして、流れ出る血を受けていた。ピクピクと左頬が震えている。
私は警官の言葉を無視してトイレに駆け込んだ。
歩いている途中でボールペンは頬から落ちた。
新しいボールペンをポケットから取り出す、鏡に紙を当てて、続きを書く。
その間も耳をすませて足音を確認していた。
一分ほどで、記録は書き終わった。
私は記録をズボンのポケットに入れ、ゆっくりとスタッフルームに向かった。
「大丈夫かい?」
須藤先生は困惑顔でそう聞いた。
「ええ、薄皮一枚めくれただけですから」
先生がガーゼを私の顔に当て止血をした。強く押さえたため、少し痛かったが、どうでもよかった。
これでシナリオの綻びは消えた。
「あそこにゴミ袋があったんだ、私も転びそうだった」
警官は忌々しそうにゴミ袋を摘むとそう言う。
須藤先生は私の頬にガーゼを貼り付け、私を椅子に座らせる。
「大丈夫かな?後遺症とかは」
言外に早く取り調べをさせろ、といったニュアンスが含まれてある気がしたが、それはおそらく考えすぎだろう。
「まあ、大丈夫そうだよ」
須藤先生はゆっくりと椅子に腰掛けながらそう言った。
大丈夫そうですかね、と警官は呟くと、私を見据え、
「記録を見せていただいても?」
と言う。
私は記録の紙を取り出すと警官に渡した。
警官は無表情でそれを一瞥する。そして眉根をひそめた。
「これを預かってもいい?」
一瞬、返事を考えたが「いいですよ」と言った。
「徘徊なのかな、それで橋の方まで行って亡くなったと」
警官はメモを睨みながらそう言う。
私はメモを覗こうとしたが、警官の頭が邪魔をして見れなかった。
警官は腕時計を見ると、
「もうこんな時間ですね、後日また伺います」
と言った。
警官は私と須藤先生に電話番号を聞き出すと、そのまま病院から出て行く。
「今日は帰ってすぐに寝なさい、後のことは私に任せて」
須藤先生はそう言うと、有無を言わさず私を病院から出した。
古い方の記録はデスクの中に入ったままだったが、まあ良いだろう。
私は車に乗り込むと、しばらくの間、呆然としていた。
ハンドルに頭を打ちつけ、須藤医院を見た。
軒下で須藤先生はタバコを吸っていた。




