隠蔽
頭ではやることが分かっていたが、それでもなぜか手が震えていた。
私はスタッフルームに入ると、自分のデスクに向かった。注射器にカバーをつけ、それを自分の鞄の奥底へ隠した。
落ち着け、と自らに言い聞かせ、私は須藤先生に電話をかけた。
八時十分。
注射したのが八時ごろだった、そこからもう十分ほど経っていた。
十コール目で先生は出るが、その声はひどく眠たげだった。
「高木くんか、どうした?」
しかし寝起きでも、よく通る低い声だった。
「西田さんがベッドから急にいなくなってしまいました」
数秒の間、沈黙が生まれた。
「本当か?トイレとかにいないのか」
「探しました、けどどこにもいなかったです」
自分が冷静に嘘を言えていることに、少し驚いていた。
「窓が開いていて、多分そこから出たように思います」
着替えているのだろうか、電話越しに布ずれの音が聞こえた。
須藤先生はややためらい、声を一段と低くして、
「警察に通報は、まだしないでくれるか?」
と言った。
私は自分がスマートフォンを強く握りしめていることに気がついた。自分が西田を徘徊させたと言うことを棚に上げて、須藤先生がこのことを内々で処理したいと願うことに、いやらしさを覚えてしまった。
「…分かりました」
「すぐに向かうよ、二十分くらいはかかるから、あたりを探していてくれ」
「鈴井さんは呼ばないほうがいいですよね?」
須藤先生は少し間を開けて「ああ」と答えた。
そして電話は切れた。
私は西田が本当に遠くまで行ったのか確認しようと思った。
スマートフォンのライトをつけ、職員用の出口から出た。
外は暗く、完全な闇が広がっている、人感センサーの電灯と手元の光だけが私の進む道を示していた。
昼間まで雨が降っていたせいだろうか、濡れた地面の匂いがしており、冷気をまとった夜風が吹くと、私は不安な気持ちになった。
「西田さん」
私は大声でそう呼んだ、しかし返事は返ってこない。
病院の外周を回り、西田がいた病室まで一直線に向かった。
最短距離を歩いたが、靴の底に泥がくっついて歩きずらい。
当然のことながら窓は開いており、地面がぬかるんでいるせいか、西田のものと思われる足跡がついていた。
その足跡は一直線に病院の裏口まで伸びており、私は踏まないようにそれを辿った。道路に差し掛かると泥の足跡が付いていたが、次第にそれもなくなる。
道の端にある大きな影を見て、息を呑んだ。
しかしそれはただの岩だと気づき、自嘲気味に笑った。
どこに行ったのか追跡できなくなり、とりあえず足跡の延長線上を進んでみることにした。
狭く曲がりくねった道路だったが、舗装はされているようで歩きやすい。
数分間、無心で道なりに進み続けた、すると川を横断する橋が見えた。
この先はほとんど民家も何もない。
橋についてる電灯の光が、黄色の絵の具が滲んだように闇の上でぼやけていた。
その光は橋の下まで照らされており、少しして大きな立方体があることに気がつく。それは岩を見間違えただと思っていたが、胸がざわついていた。
私は土手を降りた。近づくにつれ、その影が人の形をしていることに気がつく。
─西田じゃない、あれは違う。
うつ伏せに倒れている人影からは、てらてらとした赤黒いものが流れ出ていた。
私はスマートフォンのライトで顔を照らす。
口と目は一文字に閉じ、やや苦しそうに眉根をひそめていた、シワだらけの顔は暗がりでも判断がついた。
西田の顔だった。
力が抜けたせいで、うまく立つことができない。息が吸えず、目の前がぼやけている。
私は西田に声をかけた、しかし眠っているように返事がない。
まぶたを開け、目に光を当てたが反応がない。手首で脈を測ったが、鼓動がなかった。
─私が殺した。
気がついたら、手元のスマートフォンが振動していた。
慌てて画面を見ると、須藤先生から電話がかかっていたのが見えた。
「高木くん、今どこに─」
「西田さんが死んで見つかりました」
須藤先生は少し間を開けた、電話越しに息を呑む音が聞こえる。
「どこにいるんだ」
「橋です、橋の下、ええと─」
舌打ちの音が聞こえた。
「ああ、大体場所はわかった、すぐに行くよ、警察は僕が呼んでおく」
須藤はそう言うと、電話を切った。
西田のそばで膝を折り、彼の手握る。
私の手はひどく震えていた。
そして数分が経つと、白の軽自動車が土手の上で止まる。
「須藤先生!ここです」
私は怒鳴る。喉が裂けてしまうほど、大きな声で叫んだ。
車のドアが開き、須藤先生は小走りで私の元に来た。
それに続くように、遠くからパトカーが走ってくる。
警官だろうか、背後から男が走った。
須藤先生は何かを叫んでいる。
その事に気がつくのに、時間がかかった。
「─高木くん」
「はい、なんですか」
須藤先生は私の手元に目線を落として、
「手を離しなさい」
「はい?」
「西田の手を離しなさい、警察の邪魔になる」
私は少しして手を離すことができた。




