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医療事故


午後八時、準備室の電気のスイッチを押す。

一瞬で明るくなったが、老朽化が進んでいるせいだろうか、チカチカと点滅を繰り返していた。

今日は電灯の調子が悪いようで、部屋が少し薄暗かった。

少し歩き、薬品が保管されている棚の前に立ち、私は『セリオミン』と書かれている瓶を取り出した。

ため息を吐き、バイアルに注射針を突き刺して吸い上げる。注射器の中に透明な薬液が入った。一つの瓶にほぼ一回分の薬液が入っているため、バイアルは空になる。

瓶専用のゴミ箱にバイアルを捨てた。中にいくつも瓶が入っていたせいで、カチャンと音がする。

須藤医院には現在、夜勤の私しかいない。同僚も、須藤先生も家に帰っていた。

私は少しだけぼーっとした後、気を取り直し、西田の病室へと向かった。

短い廊下を進むと、突き当たりに病室が見えた。

私はドアを開け、病室に入る。中には二つのベッドがある、片方は使われていないが、もう片方には西田がいる、乳白色のカーテンに仕切られて見えないが、おそらく、天井を見つめているのだろう。

「西田さん、入りますよ」

カーテンを開けると、中には老人がいる。私の予想通り天井を見つめていた。

西田の左腕にはギプスが装着されており、時折それを邪魔そうにいじっている。

少しして、私の存在に気がついたのか、

「ここは、どこなんだ?」

と、か細い声で言った。

「ここは、病院、ですよ」

私は十三回目の質問にゆっくりと答えた。

「ああ、そうか、そうなのか」

西田は私を見据えていた。その目は意外にも力強く、認知症患者のそれとは思えなかった。

「家に帰りたい」

「家にはね、まだ帰れないです」

「そうか」

「腕折っちゃったでしょ、西田さんは家に一人じゃ生活できないから、様子見でここに入院して欲しいの」

西田は「ああ」と呟くと、再び天井を見つめ始めた。

ベッドのすぐ隣には大きな窓がある。今はブラインドが閉められている。窓の外はすぐ地面で緑の草むらが見える。

普段は窓を開けて夜風を浴びていたが、今はブラインドも閉められていた。

彼は夜の町を徘徊したせいで転倒したらしい、認知症のため自宅での安静ができないと判断され、入院となった。

入院から四日ほど経っていたが、西田の息子は一度も面会に来ていない。疎遠になっているようだった。

「鎮痛剤、今から注射しますよ」

私は注射器を取り出し、針のカバーを取った。

西田のやや太い右腕に針を突き刺した。そして薬液を注入する。

薬をほとんど入れ終わった時、私は違和感を覚えた。

『セリオミン』の一回の量はこんなに多かったか?

いや、もっと少なかった気がする。

私の心臓は激しく動き始めていた。注射器を握る手は震え、腕から針を抜くのに数秒かかった。

「あの…なにか体に変化はありますか?」

「んん?」

西田は眉を上げた。

「ちょっと、頭が痛いような気がしてきたな」

『セリオミン』にそんな副作用はない。

─医療ミス。

その言葉が頭に浮かんだ。

西田は私の顔をじっと見つめた。

まるで、私を貫くように…

私は弾けたように走り出した。病室のドアを開け、短い廊下を突っ切った。

準備室に入ると、瓶のゴミ箱を見た。しかし、瓶が多すぎてどの瓶が西田に使ったものなのか分からない。

棚を乱暴に開く『セリオミン』の瓶を探す。一瞬で見つかったが、それと同時に嫌なものも見つけてしまった。

その一段下には『エリオニン』と書かれた瓶があった。

膝頭も、喉も、歯も震えていた。

『エリオニン』

─血圧を下げる薬だった。

準備室が薄暗いせいで、二つの瓶を見間違えたのかもしれない。

私はあの時、ダブルチェックも怠っていた。

今この医院には当直の私だけ、須藤先生はどんなに急いでも家から二十分はかかる。

私は病室に向かう、西田は目と口を開けていた。目線は私を見つめていない。

「西田さん、実は…」

私はその先を続けることができなかった。

─隠蔽してしまおうか。

一瞬、ほんの一瞬だった。

そんな考えが頭をよぎる。

今、ここで誰かに報告したら、これは重大な医療ミスだとニュースになるだろう。下手したら全国放送されるかもしれない。

私は仕事をクビになり、裁判にかけられる…

その現実的な想像は私の頭いっぱいに広がった。

心臓は痛いほど鳴っていた、もし仮に自分が過去に戻れるのなら、代わりに『エリオニン』を打ったっていい。

スマートフォンを取り出し、須藤先生に電話をかけようとしたが、指が震えていた。

西田の呼吸はリズムがおかしいように思えた。

─どうせ今からじゃ助からない。

スマートフォンをしまった。

しばらくの間、西田の顔を見つめる。こんな時間すら惜しいと、分かってはいた。

「…ん?どうした」

ひどく間を開けて、そう聞き返した。それは認知症のせいだとは思えなかった。

「私は…」

声が、震えていた。

西田の体はぐったりしているように見えた。

「…家族が迎えにきましたよ」

西田はぼーっと天井を見つめた後「そうか」と言った。

私はブラインドの紐を下ろす、何度も下ろしブラインドを半分ほど上げた。

そして窓を開く、夜風が吹いており、背後のカーテンが揺れる。

「今、玄関が使えないので、ここから出てください」

少し間が開き、西田は立ち上がる。

西田は窓枠に右手をかけ、片足を乗せた。そして外に降りた。

「ここから、ずっと道なりに進んでください」

西田が頷いたのかどうかは見えなかった。

彼はゆっくりと私に背を向け、敷地の外に出た。

遠くに、ずっと遠くに行ってほしい、と切実に願った。


ちなみに作中で出てくる『セリオミン』も『エリオニン』も実在しません

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