エピローグ:次の厄介事への乾杯
数日後。
中立の港湾都市『ニケ・ハーバー』の裏路地で、俺はリリアを降ろした。
ここから先は、彼女の父親が手配していた逃走ルートが生きている。アレスの追手も、すぐには手出しできないはずだ。
「……ありがとう、ヴァンス。セリアも」
防塵マントを被り直したリリアが、ふいに距離を詰めて俺を見上げた。
海風に乗って、あの甘い香水の匂いが鼻腔をくすぐる。数日前の怯えていたお嬢様の面影はほとんどなく、その瞳はひどく熱を帯び、真っ直ぐに俺を射抜いていた。
「あなたのような人がいる限り、この世界はまだ、完全に腐りきってはいないのかもしれないわね」
「買い被りすぎだ。俺はただ、前金分きっちり働いただけの戦争屋さ」
俺がわざとらしく視線を外すと、彼女はふっと艶やかな笑みを零した。
柔らかい指先が、傷だらけの俺の掌をなぞるように滑り、一枚の小さなデータチップを押し付けてくる。
重なる体温の余韻だけを残し、リリアはヒールの音を響かせて人混みの中へと消えていった。
*
辺境の酒場。
泥水みたいなバーボンのグラスを傾ける俺の隣で、ふわりと青白い粒子が舞った。
『……随分と、熱っぽいお別れだったこと』
甘い吐息でも吹きかけんばかりの距離で、セリアのホログラムが俺の耳元で囁く。
漆黒のベールの奥で光る瞳は、からかうような色を帯びつつ、ひどく独占欲に満ちていた。
彼女の視線の先には、リリアが残したデータチップが宙に映し出した、不鮮明な画像があった。
『クロノス評議会が、ノワールとは別に『もう一つのレガリア』を発掘し、密かに再起動実験を進めているなんてね』
画像に浮かび上がるのは、俺たちの漆黒とは対極をなす、白銀の装甲を持った異形の巨神のシルエットだった。
「……どうやらあの白い塔の豚どもは、本気で神様になるつもりらしいな」
俺はグラスの氷を指先で弄び、残りのバーボンを一息に喉の奥へ流し込んだ。強いアルコールの熱が、血を巡っていく。
ノワールの過去。クロノス・アークの陰謀。そして、新たな白銀のレガリア。
「セリア。しばらく優雅なティータイムはお預けになりそうだぜ」
俺が新しく煙草に火を点けると、セリアはグラスの縁を細い指先でなぞるような仕草を見せ、艶やかに唇を歪めた。
『ええ。……でも、あなたと踊る泥まみれのダンスも、悪くないわ』
紫煙の向こう側で、妖しい微笑みが溶けていく。
どうやら次は、もっと面倒で、ひどく血生臭い厄介事が待っていそうだった。
(第1話「傭兵と黒の魔女 ―白い塔の亡霊―」・了)




