第6章:野犬の介錯
細身の異形から絶え間なく流れ込んでくる『地獄の追体験』が、俺の脳髄を内側から焼き切ろうとしている。
視界は血の涙を流しているように真っ赤に染まり、奥歯を噛み砕きそうなほどの激痛が全身の神経を蹂躙していた。
「ガ、アアアァァァッ……!」
それでも、俺はノワールの操縦桿を絶対に手放さなかった。
痛覚を遮断して逃げることはできた。だが、俺がかつて見捨てた兄弟たちが、何年もの間この冷たい氷の底で味わい続けてきた痛みに比べれば、こんなもの、傭兵の俺が背負うべき当然の「ツケ」だ。
『……っ、システムへの逆ハッキング開始! アレスの基本コードは私が書いたものよ、書き換えは……できる!』
背後で、エレナがハウンドのコンソールを血の滲むような速さで叩き続けている。
セリアの演算領域をフル稼働させ、巨躯の異形が展開する絶対防御【マナの凍結】の制御権を奪い取ろうとする。
だが、相手は生身の脳髄をリミッターなしでオーバークロックさせた狂気のシステムだ。
『くそっ……! 演算速度が異常すぎる! マナの波長がランダムに変異して、相殺のための位相計算が追いつかない……! このままじゃ、ハウンドの処理回路が焼き切れるわ!』
エレナが悲鳴のような声を上げた。
彼女のデータ至上主義の限界。人間の脳の狂気的な揺らぎに、純粋な機械の計算だけでは追いつけないのだ。
『――どきなさい、この石頭の野蛮人!』
その時。
ノイズまみれの極秘通信回線に、甲高い少女の声が強引に割り込んできた。
『……リリス!?』
エレナが驚愕する。
遥か後方、ロキのガレージ。そこに残してきたはずの天才少女が、遠隔のデータリンク越しに息を荒らげて叫んでいた。
『私がアテナのメインフレームの残存データを使って、あんたたちの戦闘ログをずっとモニターしてたのよ! ……位相が狂ってるのは、その機体が「痛み」を感じてマナを痙攣させてるからよ! 計算式に「揺らぎの変数」を代入しなさい! 第4バイパス、マナの流動を右へ0.08秒だけ遅らせて逆位相をぶつけるの!』
『……っ、そんな無茶苦茶な数式……でも、貴女のその「眼」が見えているなら!』
エレナは一瞬の逡巡も無く、リリスの叫んだ「直感と視覚」に基づく変則的な数式をコードに打ち込んだ。
完璧な技術者と、規格外の神童。
二人の天才の頭脳が遠隔で完全にリンクし、異形の防衛システムに致命的なバグを仕込んでいく。
『……シィィィィィッ!!』
自身の制御が奪われようとしていることに気づいた細身の異形が、不気味なノイズを上げ、俺の脳への【神経共鳴】を強めると同時に、背中の巨大な神経ケーブルを触手のように振り上げ、ハウンドのコックピットを直接貫こうと襲いかかってきた。
「させないよッ!!」
上空の暗闇から、白銀の山猫が急降下した。
ミラの『シルバー・リンクス』だ。彼女は両手の熱光学ダガーを最大出力で起動し、細身の機体が伸ばした触手ケーブルを、クロスさせた刃で一気に溶断した。
『ギ、ィィィィッ!?』
「今だ、お兄ちゃん!!」
ミラの叫びと同時、通路の奥から轟音が響いた。
ライオスの『アッシュ・ウォッチャー』が放った超精密狙撃。極太のマナの閃光が、細身の機体の足元――分厚い氷の床を正確に撃ち抜いた。
足場を失い、細身の機体が大きく体勢を崩す。
その瞬間、俺の脳を支配していた【神経共鳴】のノイズが、ほんの一瞬だけ弱まった。
「よくやった……猟犬どもッ!」
猟犬兄妹の物理的な援護と、天才二人のハッキング。
すべてのピースが噛み合った。
『――ロック、解除! 巨躯の絶対防御が落ちるわ!』
エレナの絶叫。
『時間はたったの0.8秒! 外したら承知しないわよ、野蛮人!』
リリスの悲鳴。
「十分だッ!!」
俺は限界を超えてスラスターを踏み抜き、ノワールを前進させた。
巨躯の異形の周囲十メートルを覆っていた「絶対零度の壁」が、ノイズと共にフッと消え去る。
無防備になった分厚い胸部装甲のド真ん中へ。
俺は、背後に引き絞っていたノワールの左腕――機体の全質量とジェネレーターの極大出力を乗せた『パイルバンカー』を突き出した。
「オオオォォォォォッ!!」
怒りではない。復讐でもない。
それは、長年この暗く冷たい氷の底で、感情を奪われ、ただの部品として痛みに耐え続けてきた「家族」への、遅すぎる落とし前だった。
(……ごめんな。助けに来るのが、こんなに遅くなっちまって)
俺は心の中で、あの夜見捨てた小さな背中たちに向かって語りかけた。
(もう、終わらせてやる。ゆっくり……眠れッ!!)
――ズガァァァァァァァァァンッッ!!!!
凄まじい炸裂音と共に、超音速で射出された鋼鉄の杭が、巨躯の分厚い装甲を粉砕し、その奥深くに埋め込まれていた「制御コア」と「脳髄の入ったカプセル」を完全に貫いた。
『…………』
時間にして、ほんの一瞬。
巨躯の機体がビクリと痙攣し、その後ろで繋がっていた細身の機体も、同時に力なく膝を突いた。
パイルバンカーを突き刺したまま、俺のノワールは荒い駆動音を響かせて静止する。
氷のドームに、沈黙が落ちた。
俺の脳髄を焼き切ろうとしていた狂気のノイズは嘘のように消え去り、絶対零度の冷気も、急速にその力を失って溶け始めていた。
俺たち野犬の群れが、過去の亡霊たちに引導を渡した瞬間だった。




