第5章:技術者の大罪と、泥だらけの盾
ノワールが、ガクンと膝を突く。
完全に戦意を喪失し、操縦桿から手を離してしまった俺の機体は、ただの巨大な黒い的でしかなかった。
その無防備な頭部へ向けて、巨躯の異形が、丸太のような豪腕を無慈悲に振り下ろそうとする。
――死ぬ。
だが、今の俺にはそれを避ける気力すら湧かなかった。こいつらに殺されるなら、それが俺の背負うべき因果なのだと、冷たい諦めが脳を支配していた。
ガガァァァンッ!!
「……っ!?」
だが、俺を押し潰すはずだった巨躯の豪腕は、横から飛び込んできた白い機体――エレナの『ヴォルフ・ハウンド』によって、強引に弾き飛ばされた。
『しっかりしなさい、ヴァンス! 貴方らしくないわよ!』
エレナの焦燥に満ちた声が響く。
彼女はハウンドの装甲を軋ませながら巨躯の機体と鍔迫り合いを展開し、同時に、俺の脳をハッキングしている細身の異形の『マナの波長』を解析し始めた。
ヴァンスをこれほどまでに精神崩壊させた原因を特定し、そのリンクを強制切断するために。
『精神汚染の波長を逆探知する……。生体パーツと機体を繋ぐ、中枢の制御システムにアクセス……っ』
コンソールを叩くエレナの指が、ふと、ピタリと止まった。
『……え?』
彼女の口から漏れたのは、ひどく間の抜けた、呆然とした声だった。
ヴォルフ・ハウンドのモニターに羅列された、二機の異形の脳髄を支配し、感情を縛り付けている中枢システムの『制御コード』。
『嘘、でしょ……』
それは、アレスの他の誰が書いたものでもない。
コードの構成、マナのバイパスの引き方、そして、人間の感情を「不要なノイズ」として切り捨てるための、あまりにも冷徹で完璧な数式。
『これ……私の書いたプログラムだわ……ッ!』
エレナの絶叫が、コックピットに響き渡った。
「……え、れな……?」
俺が掠れた声を出すと、通信機越しのエレナは、過呼吸を起こしたように激しく息を乱していた。
『アレスの軍事研究所で……私が組んだ【プロジェクト・イモータル】のオリジナルコード。それが、完全に、そのままこいつらの脳髄に焼き付けられてる……!』
交差する地獄。
俺が見捨てたから、この兄弟たちは生き地獄に落とされた。
だが、その兄弟たちの脳髄を切り刻み、永遠の防衛兵器として感情を縛り付けていた鎖は――他でもない、俺の相棒であるエレナが作り出した技術だったのだ。
『ああ……あぁぁっ……!』
エレナの心が、凄絶な罪の重みに耐えきれず、悲鳴を上げた。
自分が無菌室で目を背けて書いた数式が、今、目の前で自分の最も大切な相棒の「家族」を、何年もの間、永遠の苦痛に閉じ込めている。
その残酷すぎる真実に直面し、エレナは完全にフリーズした。
ヴォルフ・ハウンドの動きが止まる。
その隙を、巨躯の異形が見逃すはずがなかった。
絶対零度の冷気を纏った豪腕が、無防備になった白い機体へと振り下ろされる。
「――避けろ、エレナッ!!」
俺の叫びは間に合わなかった。
メシャァァッ!!
装甲がひしゃげる凄惨な音が響き、ヴォルフ・ハウンドが氷の床を派手に転がる。
右腕と肩の装甲が完全に叩き割られ、火花を散らして機能停止していた。もし直撃の瞬間に機体が自動で姿勢を逸らしていなければ、コックピットごとミンチにされていただろう。
『……っ、あ……』
傷ついたハウンドの中で、エレナは放心したように呟いた。
自分の罪が招いた結果に、彼女はもう、操縦桿を握る力すら失っていた。
巨躯の異形が、動けなくなったハウンドへとゆっくりと歩み寄り、トドメの一撃を振り上げようとする。
(……ふざけ、るな)
俺は、唇を強く噛み破った。
口の中に広がる、鉄錆のような血の味。
細身の異形から絶え間なく流れ込んでくる『兄弟たちの激痛』が、脳髄を焼き切ろうとしている。今すぐ狂ってしまいたいほどの絶望。
だが、目の前で、不器用で意地っ張りな相棒が、俺のせいで死のうとしている。
それだけは、絶対に許せなかった。
「……動け。動けよ、俺の鉄屑ッ!!」
俺は血を吐くような咆哮と共に、無理やりノワールの操縦桿を引いた。
全身の筋肉が断裂しそうな痛みに耐え、スラスターのペダルを蹴り抜く。
ガガァァァンッッ!!!
巨躯の異形の拳が振り下ろされる直前。
その巨体とハウンドの間に、漆黒の機体が割って入った。
『……ヴァンス……?』
エレナの震える声。
俺のノワールは、巨躯の異形が放つ絶対零度の重撃を、背中の装甲でモロに受け止めていた。
装甲がひしゃげ、警報音がコックピットに鳴り響く。だが、俺は一歩も引かず、後ろでへたり込む白い機体を庇うように立ち塞がった。
「……綺麗なツラして、絶望してんじゃねえよ。技術将校サマ」
血まみれの口元を歪め、俺は通信機越しに笑ってみせた。
「言ったはずだぜ。お前が書いた悪魔のコードが残ってるってんなら、お前自身の手で引導を渡してやれってな」
『でも……私が……私のせいで、貴方の家族が……っ!』
「関係ねえッ!!」
俺はエレナの懺悔を、怒鳴り声で叩き斬った。
「俺が逃げて、お前が数式を書いた。俺も、お前も、立派に罪まみれの下っ端だ。……だったら、意地でも最後まで泥を被ろうぜ。過去の亡霊に押し潰されて死ぬくらいなら、せめて……こいつらを縛り付けてるその悪魔の鎖を、お前の手で断ち切ってからにしやがれ!」
不器用で、身勝手で、泥だらけの傭兵の理屈。
その時、コンソールの上に青白い光が強く集中した。
『……マスターの言う通りよ、エレナ』
セリアのホログラムが、珍しく扇を閉じたまま、静かに、しかし鋭く告げる。
『貴方が泣いている間にも、彼は脳を直接焼かれながら、貴方の盾になっているわ。一流のハッカーなら、泣き言の前にキーボードを叩きなさい。……それに』
セリアの瞳が、細身の異形の制御コードを冷ややかに睨みつけた。
『このプログラムの署名、私にもよく分かるわ。貴方が若い頃に書いた、未熟で残酷な数式。……でも、今の貴方なら、もっと上手く上書きできるはずよ。私の演算領域を全部渡してあげる。私のマスターを、これ以上傷物にしないで』
セリアの言葉は、からかうような響きを一切持たず、ただ冷たく、そして確かな信頼を帯びていた。
ノワールの装甲がさらに軋みを上げ、限界が近づく。
だが、ハウンドのメインカメラに、再び強い光が灯った。
『……サイテーの傭兵。本当に、貴方って男は。……そして、生意気な魔女ね』
通信機越しに聞こえたエレナの声から、迷いと震えが消え去っていた。
彼女は深く息を吸い込み、再びコンソールへ向かう。
『巨躯の絶対防御……【マナの凍結】を突破するわ。私が、私の書いたプロジェクト・イモータルの最高権限を強制的に上書きして、あいつのシステムにコンマ数秒の『隙』を作る』
「上等だ。それで十分だ」
俺はノワールの左腕――パイルバンカーを再び背後へと引き絞った。
『セリア、演算領域をフルオープン! 私の思考速度に追いつきなさい!』
『ええ、やってあげるわ。野犬どもに極上の狩り場を!』
俺たちを苦しめてきた過去の罪が、今、最大の武器となって反逆の牙を剥く。
技術者の大罪を背負ったハッカーと、泥だらけの盾となった傭兵、そして黒の魔女による、亡霊への介錯が始まろうとしていた。




