第4章:神経共鳴と、置き去りの地獄
真っ赤なノイズが視界を埋め尽くし、次の瞬間、俺はひどく冷たくて、無機質な白い部屋に立っていた。
鼻を突く強烈な消毒液の匂い。足元には、生ぬるい赤黒い水たまり。
(……ここは)
幻覚だと頭では分かっているのに、皮膚を刺すような冷気も、噎せ返るような血の匂いも、ひどく現実的だった。
俺がずっと心の奥底に分厚い鍵をかけて沈めていた、すべての始まりの場所。アレス第0研究所の地下培養室。
視界の先で、黄金の極光が閃いた。
大人たちの絶叫が響く。俺たちをモルモットとして扱っていた白衣の研究員たちが、ただの肉塊に変わっていく。
その血の海の中央で、光の翼を広げた無邪気な悪魔――アークメイジが、まるで新しいおもちゃを手に入れた子供のように無邪気に笑っていた。
俺は息を殺し、ただ生き延びるためだけに、血の海を這いつくばって出口のダクトへと向かっていた。
だが、記憶は俺の都合の良いようには終わらなかった。
細身の異形が放つ【神経共鳴】は、俺が自己防衛のために無意識に消し去っていた「あの夜の本当の記憶」を、脳髄の奥底から容赦なく引きずり出す。
『……助けて』
背後から聞こえた、幼く震える声。
這いずって逃げようとする俺の足首を、ひどく冷たい手が掴んだ。
振り返ると、そこには割れた培養槽の中から這い出してきた、何人もの子供たちがいた。
彼らの顔を見て、俺は息を呑んだ。
俺と同じ顔。同じ髪色。同じ体格。
極大マナを宿した『光』を生み出すための比較対象として、マナを持たずに作られた『影』のスペアたち。俺と全く同じ遺伝子から作られた、出来損ないの同胞だった。
『痛いよ……置いていかないで……』
『怖いよぉ……っ、一緒に連れてって……っ』
恐怖に泣き叫び、血まみれの手で俺の足にすがりつく同胞たち。
マナを持たない脆弱な彼らでは、一人でこの地獄を抜け出すことなど不可能だった。助けるためには、背負うしかない。
だが、あの日の俺は――。
(……離せッ!)
俺は、その震える手を力任せに振り払い、振り返ることなく暗いダクトへと逃げ込んだ。
後ろから聞こえる絶望の悲鳴を、耳を塞いで無視しながら。自分が生き残るためだけに、俺は「自分と同じ顔をした兄弟たち」を見捨てたのだ。
「ガ、ハァッ……! ゲホッ、アアァァァッ!!」
現実のコックピット。俺は激しく咳き込み、込み上げてくる胃液を必死で飲み込んだ。全身から滝のような冷や汗が吹き出している。
フラッシュバックは過去の記憶だけでは終わらない。
今度はマナの波長に乗って、細身の異形から直接、膨大な『他者の記憶』と『感覚』が俺の脳髄へ濁流のように流れ込んできた。
――ガガガガガッ!!
(アァァァァァッ!?)
生きたまま手術台に縛り付けられ、麻酔もなしに肉体を切り刻まれる激痛。
手足が切断され、不要な臓器が摘出されていく。
開頭された頭蓋骨から脳髄の奥深くに、太く冷たい神経ケーブルが強引にねじ込まれていく。
「悲しみ」も「恐怖」もすべてシステムに書き換えられ、ただ防衛を命じられるだけの永遠の部品にされる絶望。
あの夜、俺が見捨てたから。
俺が逃げた後に残された彼らは、死ぬことすら許されず、狂気に満ちた大人の手によって異形の防衛兵器に作り変えられたのだ。
光の届かないこの氷の牢獄で、何年も、何年も……感情を奪われたまま、ただ立ち尽くし続けていた。
「……ハァッ……ハァッ……」
モニター越しに、絶対零度の氷の奥で佇む二機の異形を見る。
巨躯の機体。細身の機体。
こいつらは、あの夜俺が見捨てた、あの子供たちの成れの果てだ。
「……俺が……逃げたから……っ。俺が代わりに、地獄を見るべきだったのに……っ」
傭兵として、これまでどんな死地でも「自分が生き残るため」と割り切ってきた。それが泥を啜る野犬の生き方だと信じてきた。
だが、俺のそのしぶとい命は、こいつらを犠牲にして成り立っていただけの、卑怯で最低の代物だったのだ。
これまでにない圧倒的な罪悪感と自己嫌悪が、俺の心を完全にへし折った。
絶対に手放さなかった操縦桿から、ズルリと手の力が抜けていく。
ノワールの動力が急激に落ち、巨体が前のめりに崩れ落ちそうになる。
『ヴァンス! 応答して、ヴァンス!!』
通信機越しに叫ぶエレナの悲痛な声すら、今の俺にはもう、ただの遠いノイズにしか聞こえなかった。




