第2章:無菌室の亡霊
分厚い氷の隔壁を粉砕し、俺たちは光の届かない地下通路へと足を踏み入れた。
ノワールとヴォルフ・ハウンドの強力なサーチライトが、漆黒の闇を切り裂く。
地下の最深部へと下っていくその広大な施設は、かつてここで起きた凄惨な光景を、氷の中に完璧な状態で保存していた。
ひしゃげた防爆扉。
壁にこびりつき、赤黒い華のように凍りついた大量の血痕。
そして、等間隔に並べられた巨大な円筒形のカプセル――俺やアークメイジを生み出した『遺伝子培養槽』の無惨な残骸。
「……趣味の悪いタイムカプセルだぜ」
十数年前、あの金髪の亡霊がすべてを蹂躙し、焼き尽くしたはずの地獄。それが、なぜか絶対零度の氷に閉ざされ、時間が止まったままここに取り残されている。
不気味なほどの静寂の中、俺たちの魔導鎧の重い駆動音だけが、コンクリートの壁に虚しく反響していた。
『……っ、はぁっ……はぁっ……』
ふと、通信帯域に乱れたノイズが混じった。
エレナの息遣いだ。
見れば、俺の隣を歩くヴォルフ・ハウンドの足取りが、明らかに鈍っている。機体の挙動には、パイロットの心理状態が如実に表れるものだ。常に冷静沈着な彼女の機体が、まるで幽霊でも見たように微かに震えていた。
「どうした、技術将校サマ。暗い所が怖いなら、猟犬どもの後ろに隠れてるか?」
俺があえて茶化すように言うと、エレナは『違うわ……』と、ひどく掠れた声で答えた。
『……あの設備。通路の奥にある、あの異様な手術台と……天井から垂れ下がっている神経接続用のケーブル群を見て』
サーチライトの光を奥へと向ける。
そこにあったのは、培養槽とは違う、明らかに「人間を解剖し、機械と直接繋ぐため」の禍々《まがまが》しい拘束具が付いたユニット群だった。分厚い氷に覆われてはいるが、それが尋常な医療機器ではないことは一目でわかる。
「……あんな拷問器具、俺の記憶にはねえな。アレスの連中が使ってたのか?」
『……ええ。そして、あの悪魔の機械を制御するための基本プログラムを書いたのは……私よ』
通信機越しに聞こえたエレナの声は、深い絶望と、吐き気のような罪悪感に震えていた。
『……アレスの軍事研究所にいた頃。私は純粋な技術的探求心から、人間の脳髄から記憶や意識をデータとして抽出し、デジタルに置換する研究をしていたわ。
不治の病や、寿命から人間の魂を救うためのシステム……その名を【プロジェクト・イモータル】』
エレナの言葉に、俺は黙って操縦桿を握り直した。
『でも、軍の連中が欲しかったのは「永遠の命」なんかじゃなかった。彼らは私の技術を悪用したの。……人間の脳から「恐怖」や「悲しみ」といった感情のデータだけを強制的に削除し、痛覚を遮断し、肉体を捨てて魔導鎧のシステムコアへ直接繋ぎ合わせる……完全に統制された「生きた部品」を作るために』
感情を消し去り、魂を機械の歯車にする。
それが、彼女がかつて所属し、アレスが行っていた非人道的な研究の正体。
『私は……怖かった。自分の純粋な数式が、生身の人間を削り取っていくのを見るのが。だから、私は顔を背けた。感情なんて不確かなものは見ないフリをして、ただ目の前のモニターの「データ」だけを信じるようにしたの。……自分がどれほど恐ろしい罪を犯しているか、気づかないフリをして!』
エレナが常にデータを絶対視し、感情論を切り捨ててきた理由。
それは、データ至上主義という氷の鎧を被っていなければ、過去の自分の罪――削り取ってしまった無数の魂の重みに押し潰されてしまうからだった。
『……こんなものっ!どうして、まだ残っているのよ……!』
氷に閉ざされた亡霊たちを前に、エレナはコックピットの中で顔を覆い、過去の罪の意識に縛られて身動きが取れなくなっていた。
「……くだらねえ」
俺は短く吐き捨て、ノワールのマニピュレーターで、ヴォルフ・ハウンドの白い肩装甲をガァンッと乱暴に殴りつけた。
『……っ!? なにをするのよ!』
「顔を上げろ、エレナ。お前が目を背けてきたのは、お前自身の弱さだ」
俺はフロントモニター越しに、凍りついた拷問台を冷ややかに見据えた。
「俺は、自分の手で何人もの人間を撃ち殺してきた傭兵だ。お前は、机の上で人間の魂を殺した技術者。……どっちも、立派に地獄行きのクズで、罪まみれの下っ端だ。今さら綺麗なツラして、被害者ぶってんじゃねえよ」
『ヴァンス……』
「だがな」
俺は煙草の箱が潰れてしまっていることを思い出し、舌打ちをしてから言葉を続けた。
「過去にどんな泥を被っていようが、俺たちは今、あの金髪の亡霊の喉元を喰いちぎるためにここまで来たんだ。……お前の書いた悪魔のコードが残ってるってんなら、お前自身の手で、その亡霊どもに引導を渡してやれ。それが、泥まみれの技術将校サマの『落とし前』だろ」
甘い慰めなんて、傭兵の俺には似合わない。
ただ、同じ地獄を歩く共犯者として、俺は隣の相棒にそう告げた。
数十秒の、重い沈黙。
やがて、通信機越しにエレナの深い深呼吸の音が聞こえ、ヴォルフ・ハウンドのメインカメラに強い光が戻った。
『……ええ。そうね。貴方の言う通りだわ、ヴァンス。本当に、貴方って男は……サイテーの傭兵ね』
その声にはまだ微かな震えが残っていたが、いつもの勝気な響きがしっかりと宿っていた。
「褒め言葉として受け取っとくぜ」
俺たちは再び並び立ち、地下通路のさらに奥へと歩みを進めた。
空間の温度が、さらに急激に下がっていく。
そして、通路の突き当たり。
『メインフレーム室』と書かれた、ひときわ巨大な隔壁の前に辿り着いた時――俺の中の『影』の胎動は、吐き気を催すほどのピークに達していた。
この氷の扉の向こうにいるのは、アークメイジではない。
もっとおぞましく、悲しい、過去の亡霊が待ち受けている。
「……行くぞ」
俺はノワールのパイルバンカーを構え、ゆりかごの最深部へと通じる最後の扉を蹴り開けた。




