幕間:【白亜の箱庭と、うさぎの見る夢】
塵一つない、純白の空間。
空調の微かな駆動音と、サーバーが発する規則的な電子音だけが心地よく響く、アテナ・ドミナンス第2階級の特別研究室。
「……遅い、遅いわ! アテナのメインフレームのくせに、なんで私の暗算よりコンマ二秒も遅れるのよ!」
部屋の中央。大人用の大きなオフィスチェアに深く腰掛け、両足を宙でブラブラと揺らしていたリリス・アストライアが、不満げに声を上げた。
彼女の目の前に展開されたホログラムの数式群は、凡人には文字の羅列にすら見えない、極めて高次元なマナの流動方程式だった。
「ごめんなさいね、リリス。貴女の計算速度に、今のシステムじゃどうしても追いつけないみたいなの。後で処理回路を増設しておくわ」
傍らに立つ白衣の若い女性――リリスが『助手のお姉さん』と慕う研究員が、困ったように微笑みながら温かい紅茶をデスクに置いた。
「もうっ、お姉さんたちもしっかりしてよね! 私がわざわざ位相の歪みを『視て』、一番効率のいいバイパスを組んであげてるのに、機械がポンコツじゃ意味ないじゃない!」
リリスは頬を膨らませ、生意気な口調でまくし立てる。
だが、その手はすかさず紅茶の横に添えられた合成甘味料のクッキーへと伸びていた。
「ははは。すまないね、リリス。我々の造り上げた機械よりも、君のその小さな頭脳の方が遥かに優秀だということだよ」
奥の部屋から、白髭を蓄えた初老の男性が歩み出てきた。
特別研究室の責任者であり、リリスが『所長のおじいちゃん』と呼ぶ人物だ。彼は優しく目を細め、リリスのプラチナブロンドの髪を大きな手でぽんぽんと撫でた。
「あの未完成の理論式を、たった三日でここまで組み上げるとは。……素晴らしい。さすがは我々アテナの未来、第2階級の至宝だ」
「と、当然よ! 私を誰だと思ってるの!」
リリスはツンと顎を反らせて強がるが、その赤い瞳は嬉しさでキラキラと輝き、撫でられる手にすり寄るように頭を預けていた。
口では生意気なことを言っていても、褒められれば隠しきれないほど喜ぶ。その姿は、本物の神童でありながら、年相応の幼い少女そのものだった。
所長は愛し子を見るような目で彼女を見つめていたが、その瞳の奥には、同時に『最高傑作の精密機器』を鑑賞するような、研究者特有の冷たい熱情が混じっていた。
(……ええ。君は我々の最高傑作だ。いずれマナのすべてを解き明かし、我々を神の領域へと導く、生きた演算ユニット……)
リリスは、そんな大人たちの裏の感情に『薄々』気づいていた。
自分の視界にだけ、マナが色を持ったリボンのように見えていること。周囲の人間とは明らかに違う、作られたような完璧な知能。
だが、彼女は決してそれを深く考えようとはしなかった。
「……ねえ、おじいちゃん。この方程式が完成したら、外の世界の『野蛮人』たちはどうなるの?」
リリスはクッキーをかじりながら、ふと窓の外を見た。
分厚いガラスドームの向こうには、荒涼とした新大陸の赤茶けた大地が広がっている。泥と血にまみれ、暴力が支配するスラムの世界。
「何も心配はいらないよ。我々が高次元のエネルギーを完全に掌握すれば、あのような野蛮な世界に怯える必要もなくなる。君はずっと、この美しく安全な箱庭で、我々と一緒に計算をしていればいいんだ」
「……うんっ!」
リリスは花が咲くような笑顔を見せ、再びホログラムの数式へと向き直った。
外の世界なんて、泥と野蛮人だけの汚い場所。
自分は特別に選ばれた天才で、ずっとこの白くて綺麗な部屋で、優しい家族たちと一緒に生きていく。それが彼女の信じる、完璧に計算された幸福な未来だった。
――自分が組み上げているこの数式が、いずれ何万人もの下層の人間を犠牲にする『神殺しの首輪』の設計図になることなど、彼女は深く知ろうとしなかった。
ただ、大好きな人たちに褒めてもらうために。
頭を撫でて、自分の居場所を肯定してもらうために。
純白の箱庭の中で、ウサギのような赤い目をした少女は、今日も無邪気に悪魔の数式を解き続ける。
その完璧で幸福な世界が、たった一つの黄金の光によって、無慈悲に灰燼に帰す日が来るなどとは、欠片ほども疑うことなく。




