第7章:星の見えない夜と、泣き虫の居場所
深夜。ロキのガレージに響いていた甲高い金属音や怒号は、とうに止んでいた。
ノワール・ブラスターの改修作業は難航を極めたものの、リリスの『眼』とエレナたちの制御システム構築によって、最も危険な山場を越えていた。
過労と緊張から解放されたエレナたちは、ドックの隅に設営された仮眠室で深い眠りについている。
俺は一人、静まり返った薄暗いガレージの片隅で、ひしゃげた煙草に火を点けた。
換気扇が重々しく回る音だけが響く空間。紫煙を吐き出しながら、明日へ向かう『ゆりかご』での死闘に思考を巡らせていた、その時だった。
「……ひっ……ぐすっ……うぅ……っ」
微かな、息を殺すようなしゃくり上げが、暗がりから鼓膜を打った。
俺は足音を消して、声のする方――積み上げられた廃タイヤと防塵シートの陰へと近づいた。
そこにいたのは、配給された毛布にくるまり、膝を抱えて丸くなっているリリスだった。
昼間はあれだけキャンキャンと喚き散らしていた彼女は今、自分の身分証である青い『第2階級』のIDタグを両手でギュッと握りしめ、ボロボロと大粒の涙をこぼしていた。
「……なんだ、天才サマ。寝ぼけて計算式でも間違えたか」
俺があえていつも通りのぶっきらぼうな声をかけると、リリスはビクッと肩を跳ねさせ、慌てて袖で涙を乱暴に拭った。
「な、なによ……っ。野蛮人が、勝手に覗かないでよ……っ」
精一杯の虚勢を張るが、その声はひどく震え、真っ赤に腫れた瞳からは後から後から涙が溢れ出している。
無理もない。
アテナ・ドミナンスが崩壊し、瓦礫の中から拾い上げられてからというもの、彼女はスカベンジャーの襲撃やノワールの改修作業など、怒涛の展開に巻き込まれ続けてきた。
パニックを起こし、癇癪を起こすことでギリギリの精神状態を保っていたが、静寂な夜が訪れ、ようやく彼女の脳が「現実」に追いついてしまったのだ。
「……泣きたいなら、声出して泣けよ。誰も笑わねえよ」
俺は彼女の隣の木箱に腰を下ろし、ランタンの灯りを少しだけ絞った。
暗くなった空間に安堵したのか、リリスの口から、堰を切ったように嗚咽が漏れ始めた。
「……っ、みんな、死んじゃった……っ。所長のおじいちゃんも、いつもデータ入力してた助手のお姉さんも……みんないなくなっちゃった……っ」
リリスはIDタグを額に押し当て、子供のように泣きじゃくった。
「私、ずっとあの研究室にいたの……。計算が遅いと怒られたけど……でも、新しい数式を解くと、みんな『さすがアテナの未来だ』って、頭を撫でてくれた……。外の世界は野蛮だからって、ずっとあの白くて綺麗な部屋で、みんなと一緒に……っ」
彼女の言葉を聞きながら、俺は静かに煙草の灰を落とした。
アテナの連中にとって、彼女は自分たちの野望を叶えるための「生きた演算ユニット」――都合の良い実験動物だったのかもしれない。
だが、無菌室の培養槽から生み出された彼女にとっては、あの狂った研究者たちこそが、世界で唯一の『家族』だったのだ。
自分を肯定し、居場所を与えてくれた世界。
それが、あの黄金の極光によって、たった数分で理不尽に灰燼に帰した。自分がどれだけ頭が良くても、どれだけ完璧な計算ができても、守りたかったものは何一つ守れなかった。
「……なんで……なんで私だけ、生き残っちゃったの……っ。私だけ置いていかれた……っ。あんな瓦礫の底で、一人ぼっちなんて……いやだよぉ……っ」
特権階級の天才少女ではなく、ただの迷子になった泣き虫の子供。
それが、リリス・アストライアの隠された本質だった。
「……俺も、昔はお前と同じだった」
俺がポツリとこぼした言葉に、リリスはしゃくり上げながら、ウサギのような赤い目をこちらへ向けた。
「あの金髪の亡霊のせいで、俺も生まれた場所を失った。行き場なんてどこにもなくて、泥水啜って、痛い思いして、生きる意味なんか一つも分からなかった」
親父ガルドに拾われ、傭兵としての生き方を叩き込まれる前の、空っぽだったあの頃。
俺は煙草を携帯灰皿に押し込み、リリスの頭にポンと無造作に手を置いた。
「っ……なによ、撫でたって計算は……」
「しねえよ、バカ。慰めてるわけじゃねえ。ただの野犬の先輩からの忠告だ」
俺は、戸惑う彼女の瞳を真っ直ぐに見据えて言った。
「生き残っちまった理由なんか、後からいくらでもでっち上げりゃいい。お前の家族が残したかったもんが何なのかは知らねえが、お前のその頭ん中には、あいつらと生きた証が全部詰まってるんだろ」
「……っ」
リリスの瞳が、小さく揺れた。
「だったら、意地でもその頭蓋骨を守り抜け。一人ぼっちが怖いなら、俺たちの背中に隠れてればいい。お前がその眼で道を指し示す限り、俺たち猟犬が、お前に二度とあの黄金の理不尽を近づけさせねえからよ」
俺の不器用な言葉に、リリスはしばらく呆然と俺の顔を見上げていた。
やがて、彼女は強く唇を噛み締め、毛布を引き寄せて顔を半分隠しながら、小さく、本当に小さく頷いた。
「……っ、ふん。下層の野蛮人のくせに、偉そうに……っ」
憎まれ口を叩くその声は、まだ鼻声だったが、先ほどまでの絶望に塗り潰された響きは消えていた。
彼女はギュッとIDタグを胸に抱き直すと、毛布の中で丸くなり、やがてスースーと疲れ切った寝息を立て始めた。
「……手のかかるガキだぜ」
俺は自分の羽織っていた上着を脱ぎ、寝こけている彼女の毛布の上にバサリと掛けた。
ガレージの小さな天窓から、白み始めた夜明けの光が差し込んでくる。
家族を奪われた猟犬の兄妹。
居場所を失った泣き虫の神童。
そして、影として生まれた俺。
何もかもを奪われたはぐれ者たちが、一本の牙を研ぎ澄まし、すべての始まりである深淵――『ゆりかご』へと向かう朝が、すぐそこまで迫っていた。




