エピローグ:燃え落ちる象牙の塔と、金のレガリア
エレベーターが上昇するにつれ、機体に染み付いた血とヘドロの匂いは、次第に消毒液とオゾンの無機質な匂いへと包み込まれていった。
非常用の赤いランプは消え、完全な無菌状態を保つための青白い光が、エレベーターの隙間から差し込んでくる。
そして、上昇が止まった。
機体を包んでいた重力がスッと抜け、静寂が訪れる。
プシュゥゥゥ……
気圧を調整する心地よい排気音と共に、巨大な白亜の扉が、ゆっくりと左右に開いていった。
俺とエレナは、アテナの特権階級どもが作り上げた『神の箱庭』へ、泥まみれの銃弾を叩き込むべく武器を構えた。
だが……
扉の向こうに広がっていた光景を見て、俺たちは言葉を失い、完全に動きを止めた。
「……嘘、でしょ」
隣でエレナが、信じられないものを見るように呟いた。
そこに『神の箱庭』はなかった。
あるのは、業火と、圧倒的な蹂躙の痕跡だけだった。
塵一つなかった純白の大理石は、爆撃を受けたようにひび割れ、黒焦げになっている。見上げるほど巨大だったデータサーバー群は、ドロドロに溶け落ちて原形を留めていない。
無敵を誇った美しい流線型の防衛ドローンたちは、まるでおもちゃのようにバラバラに引き裂かれ、火花を散らして転がっていた。
そして、俺たちを見下していたはずの白衣のエリート学者たちは……崩落した瓦礫の下で、声すら上げずに息絶えている。
無菌状態だったはずの大図書館は、むせ返るような煙と、焦げた肉の匂いが立ち込める『地獄』へと変わっていた。
『マスター、気をつけて……! 上空の空間マナ濃度が、あり得ない数値を叩き出しているわ!』
セリアの切羽詰まった、しかしどこか戦慄を含んだ声がコックピットに響く。
バチバチと青白い放電が走る炎の向こう側。
粉々に吹き飛んだ人工空から、荒野の濁った風が吹き込んでいる。
その巨大な風穴の中心に、一機の魔導鎧が静かに滞空していた。
燃え盛る炎の赤すらも霞ませる、眩いほどの黄金の装甲。
背部から展開された光の翼が、周囲の空間そのものを歪めるほどの極大マナを放っている。
「……金のレガリア」
俺の口から、乾いた声が漏れた。
俺の直感が答えを導き出す。
「あれは…アークメイジ…なのか?」
奴に追い詰められたトラウマがフラッシュバックとなって俺の脳裏を襲う。操縦管を持つ手が震える。
アテナの狂人たちが総力を結集し、地下で何万人もの命を犠牲にして作り上げようとしていた「神を殺すための檻」など、彼にとっては取るに足らない砂上の楼閣に過ぎなかったのだ。
俺たちが地下の泥水の中で足掻いている間に、彼は一足先にこの白亜の象牙の塔へ舞い降り、ただの「散歩」でもするかのように、すべてを燃やし尽くした。
黄金の機体が、ゆっくりと旋回する。
だが、そのメインカメラが俺たちを捉えることはなかった。
一瞥すら、しない。
かつて自身の影として造られ、地下で使い潰された『失敗作』の顔など、彼の記憶の片隅にも残ってはいないのだ。彼にとって俺たちは、足元で蠢く羽虫以下の存在でしかない。ただ己の歩く道にあった障害物を、無造作に蹴散らしただけ。
絶対的な傲慢。隔絶された次元の差。
金のレガリアは、ただ無言のまま光の翼を羽ばたかせた。
莫大なマナの余波が突風となって吹き荒れ、大図書館の残骸をさらに粉砕する。
俺とエレナは、機体の姿勢を保つのが精一杯で、空の彼方へと飛び去っていくその神々しい姿を、ただ見送ることしかできなかった。
「……やってくれるじゃねえか。泥を塗る手間が省けたぜ」
吹き荒れる熱風の中、俺は血の滲んだ唇を歪め、ノワール・ブラスターの銃口をゆっくりと空へと向けた。
どれほど見下されようと、記憶にすら残っていなかろうと構わない。
いつの間にか手の震えは止まっていた。地下の闇の中で、命を懸けてこの扉を開けてくれた真紅の蜘蛛の残像が、まだ俺の背中を熱く押しているからだ。
燃え落ちる白亜の塔の頂上で、黒のレガリアの野犬は、はるか空の彼方に消えた金のレガリアへと静かに牙を剥いた。
シャーリー。お前が残してくれた想いは、無駄にはしない。
次に会う時は、きっと……。
『……マスター。無茶はほどほどになさいね。……でも、今回は……許してあげるわ。』
セリアの声が、優しく諭すように響いた。
『但し、心して対峙しなさい。あれは……私と同じレガリア……世界を滅ぼす力を持つ…金のレガリアよ。』
知ってるさ…あれを見た瞬間に気づいた。
エレナは何も言わず、ただヴォルフ・ハウンドの操縦桿を強く握りしめていた。その横顔には、悔しさと、決意の炎が静かに燃えていた。
俺は煙草を咥え、火を点けた。
紫煙が、崩壊する神の箱庭の空に溶けていく。
唐突に訪れた幕切れに、俺達は苦い余韻を味わいながら、無言で燃える塔を見つめ続けた。
【第6幕:傭兵と黒の魔女 ―白亜の狂気と賞金首― 完】




