幕間:老犬の独白と、空っぽのグラス
灰犬のキャンプに、白み始めた夜明けの風が吹き込んでいた。
昨夜の馬鹿騒ぎの熱はとうに冷め、広場にはザックやバークスたちがいびきをかいて泥のように眠っている。
俺は冷たくなった焚き火の前に義足を投げ出し、一人でパイプ椅子に深く腰を沈めていた。
手元にあるのは、ヴァンスと共に飲み干した特上ウイスキーの空ボトルと、くすんだグラスが一つ。
……痛覚がないってのは、無敵なんかじゃねえ。ただの地獄だ。
十数年前、アレスの研究所から逃げ出し、荒野で行き倒れていたあの金髪のガキを見つけた時のことを、今でも鮮明に覚えている。
あの時、ガキの右腕はひどく折れ曲がり、白い骨が皮膚を突き破っていた。普通なら痛みに狂って泣き叫ぶほどの重傷だ。だが、血まみれで倒れていたあいつの瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。ただ、無機質なレンズのような目で、空の雲を見上げていた。
『痛くないのか』と聞いた俺に、ガキは首を傾げた。
『痛いって何?』
そう答えたあいつの声には、恐怖も、絶望も、ただの一滴も混じっていなかった。
俺は震える手で、あいつの無傷な方の頬を全力で殴り飛ばした。
痛覚を奪われ、感情の配線を焼き切られた空っぽの器。アレスの白衣を着た外道どもは、この小さなガキから「人間」としての機能をすべて奪い、ただ引き金を引くための部品に作り変えたのだと悟ったからだ。
飯の味も分からず、悲しい時に泣くことも、怒ることもできねえ。
そんなふざけた人生があるか。
だから俺は、あいつを『ヴァンス』と名付けた。
無理やりにでも泥水を啜らせ、不味い肉を食わせ、戦場でヘマをしたら容赦なく怒鳴り散らした。人間が人間として生きるためのバグを、あいつの空っぽの脳髄に叩き込み続けた。
いつか、あいつが自分で自分の命の使い道を見つける日のために。
俺は空のグラスを弄りながら、フッと短く息を吐いた。
「……まったくだ。生意気な口を利くようになったじゃねえか」
数年ぶりに帰ってきた放蕩息子は、見違えるようなツラをしていた。
昔は無表情のまま命令に従うだけだったあの不器用なガキが、自分から貧乏くじを引いて、家族の命のために家賃半年分のバカ高い弾丸を撃ち込みやがった。
理不尽な世界に対して、誰かのためじゃなく、自分自身の意思で怒りの炎を燃やしていた。
しかも、あいつの横には、とびきり上等で口の悪い専属メカニックの嬢ちゃんと、あいつの脳髄を守り抜く狂ったように過保護なAIがついていた。
俺が教えられなかった「ぬくもり」や「背中を預けること」の意味を、あの二人の女が教え込んでいるのだろう。
あいつが今から向かう先は、俺の想像もつかないほど深く、暗い地獄の底だ。
あの『白銀』が引き寄せた、かつてあいつの心を壊した「金髪の亡霊」との決着。それは俺たちみたいな三流の傭兵が束になっても敵わない、バケモノ同士の戦争だ。
親としては、無理やりにでも首根っこを掴んで止めるのが正解なのかもしれない。
だが、あいつはもう俺の庇護が必要な迷子のガキじゃない。
誰よりも泥臭く、誰よりも人間らしくあろうと足掻く、立派な一匹の野犬だ。
「……行け、ヴァンス」
俺は空のグラスを焚き火の灰の上に置き、東の空へと視線を向けた。
白み始めた荒野の果てには、新大陸の巨大な影が横たわっている。
「テメエの過去に、テメエの意思でケリをつけてこい。……そして、美味え飯を食うために、必ず生きて帰ってこい。馬鹿野郎」
老犬の不器用な祈りは、朝の風に溶けて荒野へと消えていった。




