第2章:老犬の悔恨と、不器用な親子
テントの入り口の分厚い布が、乱暴な音を立てて引き剥がされた。
「お、親父! ヴァンス! 大変だ……ッ!」
転がり込んできたザックの顔面は、土気色を通り越して真っ青だった。肩で激しく息をし、額からは脂汗が滴り落ちている。
「『黄昏の採掘場』の防衛ラインが抜かれた! 第一小隊が……前衛が完全に崩壊寸前だ!」
その悲痛な叫びが響いた瞬間、テント内の空気が一変した。
ガルドの顔から、先ほどまでの飄々《ひょうひょう》とした笑みがスッと消え失せる。彼が手にしていたウイスキーのボトルが、傍らのドラム缶のテーブルにゴンッ、と重い音を立てて置かれた。
そこに座っていたのは、酔いどれの親父ではない。数え切れないほどの死線を潜り抜けてきた、歴戦の傭兵指揮官の顔だった。
「……落ち着け、ザック。第一小隊の連中はどこでドンパチやってる? 状況を正確に吐け」
地を這うような、重く低いガルドの声。
ザックは血の滲む唇を強く噛み締め、両手で顔を覆いながら言葉を絞り出した。
「二つの都市国家が奪い合ってる『黄昏の採掘場』の局地防衛だ。……資金繰りが、もう限界だったんだ。
だから、俺の独断でその泥臭い代理戦争の依頼を引き受けちまった。高所と地の利を生かして粘れば、なんとか凌げると思ってたんだ……!」
ザックの握りしめた拳が、膝の上で小刻みに震えている。
自分の甘い判断が、兄弟たちを死地に追いやったという絶望が、彼を押し潰そうとしていた。
「だが、敵対する都市国家が雇ったPMCが……事前の情報と全く違ったんだ。ただの傭兵崩れじゃない。アレス・セキュリティの暗部崩れか、あるいは正規軍の偽装部隊だ。奴ら、最新鋭の重装魔導鎧を揃えた、完全な殲滅部隊を投入してきやがった!」
俺はザックの言葉を聞き、外に並んでいたボロボロの量産機を思い出した。
いくらエレナがガムテープの配線を直し、限界までチューンナップを施したところで、あんな紙装甲でアレスの重火器とやり合えば、文字通り挽肉にされる。
俺は視線を、パイプ椅子に深く沈み込んでいるガルドへと向けた。
親父は、自身の失われた右脚の義足を、太い手でギリギリと音を立てて握りしめていた。火傷の痕が残る顔は苦渋に歪み、その濁った瞳の奥には、どうしようもないほどの『無力感』が渦巻いている。
親父がここ数日、飯も食わずにテントに引きこもっていた本当の理由。……それは、ただの体調不良なんかじゃない。
自分が第一線を退き、満足に前線へ出られないもどかしさ。そして、資金難という現実の前に、不甲斐ない自分を庇うように息子たちが絶望的な戦場へ赴くのを、ただ黙って見送るしかなかった、血を吐くような自責の念だったのだ。
「……親父。どうしてもっと早く、俺を呼ばなかった」
俺が静かに問いかけると、ガルドは義足から手を離し、傍らの杖を強く握り直した。
「馬鹿野郎。独立した身内に、自分たちのケツ拭きを頼めるか」
ガルドがギリッと歯を軋ませる。
「お前が昔、この『灰犬』を出て行く時……俺はなんて言って送り出したか覚えてるか?」
その言葉に、俺の脳裏に古い記憶が蘇る。
――『いいか、ヴァンス。お前はもうアレスの部品じゃねえ。俺の道具でもねえ。これからは、誰かのための盾になるんじゃなく、テメエが美味い飯を食うために引き金を引け。自分の命の使い道は、自分で決めろ』
「……ああ。骨の髄まで叩き込まれたよ。俺は俺の、泥臭い美学のために戦えってな」
「そうだ。なら、お前は関わるな、ヴァンス。お前にはお前の、背負ってる厄介事があるんだろうが」
ガルドは俺から顔を背け、ウイスキーのボトルに再び手を伸ばした。
「これは俺たち『灰犬』のシノギだ。ザック、撤退の信号を出せ。しんがりは……俺が出る」
「親父! あんたのその脚で出撃なんて、死に行くようなもんだぞ!」
ザックが泣き叫ぶように引き止める。
重苦しい沈黙が、テントの中を支配した。
俺は黙ってポケットからひしゃげたジッポライターを取り出し、カチン、と小気味よい音を立てて火を点けた。新しい煙草を咥え、紫煙を細く天井へと吐き出す。
「……まったく。いつまで経っても、俺を味のしねえレーションを黙って食うだけのガキ扱いしやがる」
俺はパイプ椅子に座るガルドの正面に立ち、見下ろすようにしてニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「美味え飯を食うためには、自分の手で狩りをしなきゃならねえ。親父にそう教わった。……今の俺には、世界一腕の立つ専属メカニックと、俺の脳髄を管理する最高に優秀なAIがついてる。アレスの極大マナ・カノンすら弾く、特注の盾もな」
「ヴァンス……お前……」
ガルドの濁った瞳が、微かに揺れた。
「俺の契約書に、『家族を見捨てる』なんてくだらねえ項目はねえんだよ」
俺は咥えていた煙草を取り、ガルドの分厚い唇の端に押し付けた。
「……親父への長年のツケだ。今回だけは契約金ゼロで、俺の好きにさせてもらうぜ」
ガルドは俺から押し付けられた煙草を深く吸い込み、むせることもなく煙を吐き出した。その口元が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
「……生意気な口を叩くようになったじゃねえか。なら、好きにしろ」
『……ふふっ。本当に、不器用な親子ね』
ずっと黙って二人のやり取りを見つめていたセリアのホログラムが、優雅に扇を広げて艶やかに微笑んだ。
『マスターの泥んこ遊び、私も完璧なエスコートでお付き合いしてあげるわ。お義父様への恩返しのためにね。……ザックと言ったかしら? 座標を寄越しなさい』
「あ、ああ! 頼む、ヴァンス! そっちの姉ちゃんも!」
ザックが涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を袖で拭い、データ端末を差し出す。
俺はテントの出口へと背を向け、外の光へと向かって歩き出した。
「行くぞ。……アレスの犬どもに、本物の野犬の噛み付き方を教えてやる」




