第5章:魔女の調律と、漆黒の領域
雷光に照らされたコンテナの内部。
分厚い冷却ガスの中で静かに眠る『白銀のパーツ』へと、ノワールが一歩踏み込もうとした、その瞬間だった。
『――マスター、列車のシステムに異常な動きがあるわ! 第九車両の前後の連結器が、強制的にパージされた!』
セリアの警告と同時、ガコンッ!という重い金属音が響き、俺たちが乗る第九車両だけが、荒野の鉄路の上に取り残されるように切り離された。
「チッ、尻尾切りか! だが、ただ置いていくにしては……」
『ヴァンス、逃げて!! すぐにその車両から跳躍して離脱しなさい!!』
通信機から、エレナの悲鳴に近い絶叫が飛び込んできた。
はるか後方でスコープを覗く彼女の戦術モニターには、俺たちとは違う絶望の光景が映っているはずだった。
『先行した第十車両の後部から、異常なエネルギー集束を確認……アレスの軍用攻城マナ・カノンよ! 出力、最大臨界を突破! 冗談じゃないわ、あの熱量ならバジリスクの装甲だろうが車両ごと一瞬で分子レベルに蒸発させられる……! 間に合わなくてもいい、今すぐ跳躍して!!』
元アレスの技術将校だからこそ分かる、その兵器の「絶対的な死」の質量。
完全にパニックに陥ったエレナの焦りが、通信の向こうの激しい息遣いから痛いほど伝わってくる。一本の鉄路という直線軌道の上、左右は崖。跳躍したところで爆風の餌食だ。文字通り、生身の魔導鎧にとって絶体絶命の状況だった。
豪雨の向こう、遠ざかる前方の車両群から、太陽でも落としたかのような白熱の極光が膨れ上がった。
「……おいおい、あのバカげた熱量、確かにドン亀の時なら脳を焼き切ってリミッターを開けても灰になってたな」
『ええ。でも、慌てる必要なんて微塵もないわ、マスター』
網膜に投影されたセリアのホログラムが、漆黒の扇をゆっくりと閉じた。
その青い花飾りに彩られた美しい横顔には、自らの城と騎士を誇るような、圧倒的な気高さが満ちていた。
『以前のツギハギのフレームじゃ、この力を引き出せば貴方の脳神経が負荷に耐えきれず死んでいた。でも、今のノワールには完全な器があり、そして何より……私が、このOSの最深部まで完璧に調律を終えているわ』
セリアが優雅に指先を弾く。
コックピット内の照明が、深海のような静かな青白い光へと切り替わった。
『歯を食いしばる必要なんてないのよ。私にすべてを委ねて、ただ優雅に立っていなさい』
――システム・リミッター、完全解放へ移行。
ノワールの深層コアが、静かに脈動を始める。
だが、俺の右手は、無意識のうちに操縦桿をギリッと軋むほど強く握りしめていた。
脳裏を過るのは、先ほどの番兵との死闘の後にフラッシュバックした、あの赤黒い獣の咆哮。
圧倒的すぎる力は、人間としての輪郭を容易く焼き切る。弾丸の重さと、引き金の感触だけを頼りに正気を保つ『泥臭い傭兵』にとって、理不尽な神の力に身を委ねることは、己の魂を悪魔に売り渡すことと同義に思えた。
「……セリア。俺は」
喉の奥が乾く。抗いがたい微かな躊躇いが、俺の指先を硬直させていた。
『……大丈夫よ、ヴァンス。貴方の魂は、絶対に私が繋ぎ止めてみせる』
網膜のホログラムが、不安を打ち消すように、ふわりと優しく微笑んだ。
『理不尽な力に呑まれるんじゃないわ。貴方と私の絆で、この力を『従える』のよ』
「……チッ。本当に、タチの悪い呪いだよ、お前は」
俺は小さく息を吐き出し、軋むほど握りしめていた操縦桿から、ゆっくりと力を抜いた。
機械に、力に屈するんじゃない。俺はただ、この世界で唯一俺の脳髄に居座る魔女を、信じただけだ。
俺は抵抗を捨て、静かにノワールを直立させた。
ゴバァァァァァァァッッ!!
大気を、世界を焼き尽くすような轟音と共に、極大マナ・カノンの熱線が第九車両へと到達する。
エレナが通信の向こうで息を呑む音が聞こえた。
だが、その圧倒的な破壊の奔流は、ノワールの装甲に触れることすらできなかった。
黒のレガリアの真の力――『局所慣性偏向』
セリアの超絶的な演算によって制御されたその力は、ノワールと第九車両を包み込むように『見えない球体の領域』を展開していた。
直撃したはずの熱線の持つ「直進しようとする物理法則」が、その領域に触れた瞬間、川の水を岩が裂くように、極めて滑らかに左右へと捻じ曲げられたのだ。
「……嘘、でしょ……?」
通信機から漏れたのは、エレナの呆然とした、現実を拒絶するような呟きだった。
当然だ。マナのバリアで防いだのではない。熱量が相殺されたわけでもない。現行の魔導技術の粋を極めた彼女の頭脳を以てしても、今目の前で起きた「そこにある空間の法則の書き換え」という異質さは、理解の範疇を超えていた。
ノワールは、豪雨と極大ビームが左右に真っ二つに割れる中、ただ静かに、煤一つ被ることなく佇んでいた。
コックピットの中には、激しいGも、脳を焼くような痛覚のフィードバックも一切ない。ただ、セリアの心地よい演算のハミングだけが、静かに響いていた。
『どう? 泥まみれのステップもいいけれど、たまにはこういうエレガントな防衛術も悪くないでしょう?』
「……ああ。お前のエステ代をケチらずに済んで、助かるぜ」
俺は小さく息を吐き、再び操縦桿を握り直した。掌に伝わる確かな鉄の冷たさが、俺がまだ「人間」であることを教えてくれていた。
光の奔流が過ぎ去った後、荒野の泥は広範囲にわたってガラス化していたが、俺たちのいる第九車両だけは、まるで切り取られた箱庭のように無傷で残されていた。
「さて、白い塔の豚どもに、これ以上手出しは無駄だと教えてやった。……お目当ての品を、引き取らせてもらうとするか」
ノワールは前進し、分厚い冷却ガスの中、青白く静かに光る『白銀のパーツ』へと、漆黒のマニピュレーターを伸ばした。




