第四幕【ノワール】プロローグ:冥界の迷子と黒い番犬
太陽の届かぬ冥界の最下層。
無数の廃棄パイプから汚水が滴り落ちる薄暗い迷宮を、激しい駆動音と火花を散らしながら、一機のボロボロになった中量級魔導鎧が必死に逃走していた。
「はぁっ……はぁっ……! もう少し、あの座標まで辿り着けば……!」
コックピットの中で必死に操縦桿を握るのは、顔を泥と汗で汚した女パイロットだった。だが、機体はすでに限界を超えており、装甲のあちこちから黒煙が噴き出している。
絶望は、すぐ背後まで迫っていた。
ヒュンッ……! と、空気を切り裂く不気味な音が響き、中量級魔導鎧の脚部スラスターが赤い閃光によって完全に破壊された。
「きゃあぁッ!?」
バランスを崩した機体が、泥水の中に激しく横転する。
振り返った先の暗闇から、高度な光学迷彩を解きながら三つの『歪み』が姿を現した。アレス・セキュリティが飼い慣らす非公式特務機関――通称『アレス暗部』の重装魔導鎧だ。
『――目標の逃走能力を喪失させた。これより機密データを回収し、対象を処分する』
隊長機が冷酷な電子音を発し、大口径のマナ・ライフルを倒れた機体のコックピットへと向けた。
ここまでか。女パイロットが死を覚悟し、胸に抱えた生体ロック付きのアタッシュケースを強く握りしめた、その瞬間だった。
ズドォォォォォンッ!!
暗部の機体の頭上、分厚いコンクリートの天井が突如として爆発四散した。
降り注ぐ瓦礫と粉塵の雨。その真ん中に、圧倒的な質量を伴って『漆黒の巨躯』が舞い降りた。
「なっ……何者だ!?」
暗部の隊長が驚愕の声を上げる。
粉塵を切り裂いて姿を現したのは、バジリスクから毟り取った超高密度合金で胸部装甲を再構築し、完全なオーバーホールを終えた俺の相棒――黒のレガリア『ノワール』だった。
「……ネズミ駆除の依頼なんて受けてねえんだがな。爺さんのガレージの目と鼻の先でドンパチやられちゃ、隠れ家がバレちまうだろうが」
俺が操縦桿を握り込むと、ノワールの単眼センサーが黄金色に鋭く発光した。
『まったく、いい迷惑よ。エレナに左腕のアクチュエータを微調整させている最中だったのに。……マスター、こいつら、そのボロボロの機体を追ってきたアレスの猟犬ね』
セリアの呆れたような声と共に、網膜へ青白い戦術領域が展開される。
「迎撃しろ! 相手は一機だ、高圧縮マナ・ライフルで焼き払え!」
隊長機の号令で、暗部の三機が一斉に極太の火線をノワールへと集中させた。
俺は回避行動をとらず、スロットルを押し込んで真っ直ぐに突進した。
ガガガガガッ!!
マナの光条がノワールの胸部に直撃し、凄まじい閃光を散らす。
しかし、煙が晴れた後に現れた漆黒の装甲には、ただの一つの傷も刻まれてはいなかった。鉄の王から受け継いだ超高密度合金は、マナの熱量すら物理的に弾き返していたのだ。
「馬鹿な……!? マナ・ライフルの直撃を装甲だけで……!」
「てめえらの生温い光線じゃ、俺の相棒の煤払いにもならねえよ」
敵が驚愕に硬直した一瞬。それは、ノワールの速度において『永遠の隙』に等しかった。
シュッ……!
ノワールの巨体が、超高速のステップで瞬時に隊長機の懐へと潜り込む。
俺は右腕に固定された巨大な複合兵装『ノワール・ブラスター』を、敵機の腹部へと力任せに叩き込んだ。
「まずは一匹ッ!」
ズガァァァァンッ!!
ゼロ距離で極大の散弾が炸裂。
隊長機の重装甲が内側から弾け飛び、火柱と共に上半身がスクラップとなって吹き飛んだ。
「た、隊長!? この化け物めッ!」
残る二機がパニックに陥り、背部のミサイルポッドを乱射しようとする。
だが、俺の肉体と完全に同調したノワールは、流れるような格闘射撃術《ガン=カタ》の型へともう移行していた。
『左後方、二四度の角度でブレード接近! そのまま反転して!』
俺はノワールを独楽のようにスピンさせ、銃身から伸びる巨大な銃剣で、背後から迫っていた敵の腕を武器ごと鮮やかに切り飛ばす。
斬撃の遠心力をそのまま利用し、空いた左手で体勢を崩した敵機の頭部を鷲掴みにすると、岩盤の壁面へと数千トンの力で激突させた。
メキィィンッ! と、電子頭脳がひしゃげる不快な音が響く。
最後の一機が、恐怖に震えながら逃走を図ろうとスラスターを吹かした。
『逃がすと思う? 右足のスタビライザー、ロック解除。……踏み込みなさい!』
俺は操縦桿のトリガーを限界まで引き絞った。
ダンッ!! と、ノワールが岩盤を砕いて跳躍する。
逃げる敵機の真上へと一瞬で到達し、落下エネルギーのすべてを乗せ、ノワール・ブラスターの銃剣を、敵機の脳天から股下まで一刀両断に振り下ろした。
ズバァァァンッ!!
真っ二つに裂けた暗部の魔導鎧が、遅れて爆発を起こし、エレボスの底に二つの火柱を上げる。
戦闘開始から、わずか十数秒。
圧倒的な暴力と速度の嵐が過ぎ去り、そこには硝煙を纏って静かに佇む黒き死神だけが残されていた。
「……怪我はねえか」
俺がノワールの外部スピーカー越しに声をかけると、横転した中量級魔導鎧のハッチが開き、中から一人の女が転がり出てきた。
「あ、あなたが……リリア様が仰っていた、黒の傭兵……」
女は震える手で、大切に抱え込んでいたアタッシュケースを差し出した。
「リリアだと?」
俺は目を細めた。
以前依頼で出会った、あの温室育ちの甘い香水が似合うお嬢様。だが、彼女は怯えを捨て、自らの足で偽りの『黄金の檻』と決別する覚悟を決めた、反逆のヒロインでもあった。
「私はリリア様の秘書を務めております。これを……あなたに。どうか、お受け取りください。リリア様からの、至急の依頼です」
俺はノワールのマニピュレーターを精密に動かし、その小さなケースを傷つけないように拾い上げた。
「……チッ。どうやら、安酒を飲んでゆっくり休む時間は終わりらしいな」
俺はケースをコックピット内に収めると、秘書の女を拾い上げ、冥界の泥を跳ね飛ばしながらロキのガレージへと機体を反転させた。




