幕間:灰色の日常と黒の鼓動
エレボス最下層、ロキのガレージ。
バジリスク戦から二週間が経過した。
包帯はようやく取れたが、未だに全身の関節が重く軋む。脳神経の過負荷の後遺症は、夜中に突然の頭痛として俺を襲ってくる。
限界を手動でこじ開けた『ベルゼルク』の代償は、俺が思っていた以上に根深かった。
「ほら、今日はこれだけね。無理は絶対ダメよ」
エレナがトレイに載せた薬と栄養剤を差し出す。彼女は相変わらず世話焼きで、毎日欠かさず俺のバイタルをチェックしに来る。
「へいへい。相変わらず手厳しい主治医サマだ」
「元技術将校よ。機体も乗り手も、ポンコツの管理は私の専門分野なんだから」
俺は苦笑しながら不味い薬を飲み干し、ガレージの中央に鎮座する『ノワール』を見上げた。
黒のレガリアはほぼ完全復活を遂げていた。バジリスクから毟り取った超高密度合金のおかげで、胸部装甲の強度が以前より上がっている。ロキの爺さんが徹夜で溶接した跡が、鈍い光を放っていた。
『おはよう、マスター。今日も死にそうな顔してるわね。脳の修復率は78%よ。もう少し大人しくしていれば、来週には100%に戻ると思うけど?』
コンソールの上で青白い粒子が舞い、セリアのホログラムがいつもの不遜な笑みで浮かび上がる。
「ポンコツAI。俺が大人しくベッドで寝てたら、お前が話し相手もいなくて暇で腐るだろ」
『あら、図星? ……まあいいわ。今日はノワールの微調整を手伝ってあげる。左腕のアクチュエータの反応速度が0.03秒遅れてるの、直してちょうだい』
俺は作業服に着替え、重い工具箱を引っ張り出す。血みどろの狂騒から離れた、こんな「日常」が最近の俺のルーティンだった。
朝は、ノワールのメンテナンス。
昼は、ロキの爺さんと武器の調整や、近場の依頼(主に護衛や廃墟探索)。
夜は、エレナが作る飯を食いながら、セリアと次の『アークメイジ』関連の情報を洗う。
シンプルで、静かで――そして、どこかひどく物足りない。
「ヴァンス、今日も整備?」
不意に、ガレージの入り口から聞き慣れた声がした。
振り返ると、そこには見覚えのある小柄な影。銀髪の少女――ミラが立っていた。
「おい……お前ら、上層に戻ったんじゃなかったのか?」
「うん。でも、ちょっと……様子を見に来ただけ。お兄ちゃんは別の情報収集で忙しいから、私だけ先に来たの」
ミラは照れくさそうに視線を彷徨わせながら近づいてくる。その両手には、小さな瓶の包みが握られていた。
「これ……林檎のジャム。エレボスの上層で手に入れたの。前に食べさせたやつより、甘いと思う」
「……サンキュ。嬢ちゃんの林檎には縁があるな」
俺が受け取ると、彼女は耳まで真っ赤にして俯いた。
セリアがからかうように、優雅に扇を広げる。
『あらあら、また可愛いメイドさんが増えたわね。マスター、羨ましい限りだわ』
「うるせえ」
そんな他愛もないやり取りをしながら、俺はノワールの左腕の装甲パネルを開き、アクセスポートにケーブルを繋ぐ。
ふと、工具を握る手が、わずかに震えた。
過負荷の記憶が、時折フラッシュバックする。あの赤黒く染まった視界、獣の咆哮、鉄の尾を力任せに引きちぎる生々しい感触……。
「……ヴァンス? 大丈夫?」
ミラが心配そうに覗き込んでくる。
「ああ……ちょっと昔の不愉快な夢を思い出しただけだ」
俺は薄く笑って誤魔化し、スパナを再び動かした。
この穏やかな日常は、きっと長くは続かない。
アレスの暗部、そして金髪の亡霊『アークメイジ』の影は、確実に近づいている。
何より、俺の体の中にある「野獣」の血は、いつか必ず再びあの赤黒い咆哮を求めるだろう。
それでも今は――。
鈍い工具の音と、騒がしくも温かい誰かの声が響くこのガレージの時間が、俺にとってのささやかな「休息」だった。




