エピローグ:猟犬たちの休息と、新たな旅立ち
エレボス最下層、ロキのガレージ。
バジリスクとの死闘から数日が経った今、そこにはいつもの機械油の匂いに混じって、穏やかな空気が漂っていた。
「ほら、口を開けなさいヴァンス。まだ内臓にダメージが残ってるんだから、この特製スープを全部飲むのよ」
「……おいエレナ、一口の量が多すぎるだろ。俺の喉を火傷させる気か」
救護用ベッドに全身包帯ぐるぐる巻きにされた俺は、元アレス技術将校の艶やかな手によって、半ば強制的にスプーンを口に運ばれていた。
「文句を言わないの。これは命の恩人への、私なりのアフターケアなんだから」
エレナがふうふうとスープを冷ましていると、反対側から小柄な影が素早く割り込んできた。
「エ、エレナのスープは後回し! ヴァンス、林檎剥いたから、こっちを先に食べて!」
真っ赤な顔をしたミラが、ウサギの形に可愛らしくカットされた林檎をフォークに刺して差し出してきた。暗殺者仕込みの完璧なナイフ捌きが、こんなところで花開くとは思わなかった。
「……お前らなぁ、傷病人を両側から挟み撃ちにするんじゃねえよ。自力で食えるっての」
『あら、いいじゃないの。二人の甲斐甲斐しいメイドに囲まれて、傭兵殿は随分とご満悦みたいね。そのまま一生ベッドの上で寝たきりになれば?』
コンソール上でセリアのホログラムが腕を組み、冷ややかな視線を投げてくる。
脳神経の過負荷による強制シャットダウンが、彼女のAIプライドを相当傷つけたらしい。あの日以来、セリアはずっとチクチクと嫌味を飛ばし続けていた。
「ポンコツAIは黙ってろ。……嬢ちゃん、林檎もらうぜ」
俺がフォークから林檎をかじり取ると、ミラは「えへへ」と年相応の無邪気な笑みを浮かべた。
そこへ、ガレージの奥から重い足音が近づいてきた。
「……随分と賑やかだな」
現れたライオスは、数日前までの青白い顔が嘘のように血色を取り戻していた。セリアが精製したバジリスク由来の抗体が、劇的な効果を発揮したのだ。
「よお、兄貴。足取りがだいぶ軽くなったじゃねえか」
「ああ。信じられないくらい呼吸が楽だ。……改めて、魔女殿とあんたには感謝しかない」
ライオスは深く頭を下げた後、真剣な眼差しで俺を見た。
「……今日、俺たちはこのガレージを出る。上層部に戻って、『アークメイジ』の情報を本格的に探るつもりだ」
その言葉に、エレナとミラの動きが止まり、俺もゆっくりと上体を起こした。
「そうか。新大陸の裏社会を片っ端から洗うしかねえな」
「ああ。俺たちの両親の仇であり、あんたの因縁の相手でもある。尻尾を掴んだら、必ず連絡を入れる」
ライオスが右手を差し出す。
俺は包帯だらけの右手を伸ばし、猟犬同士の固い握手を交わした。
「……ヴァンス」
ライオスの背後から、ミラが少し寂しげに進み出た。
「行くのか、嬢ちゃん。次に会うまでに、その恐ろしいダガーの腕をもっと磨いとけよ。俺がまたドン亀に乗る羽目になったら、背中を守ってもらうからな」
俺が軽く笑って彼女の銀髪をポンと撫でると、ミラはビクッと肩を震わせ、顔を真っ赤にして俯いた。
「……当たり前でしょ! あんたはすぐ無茶するんだから、私がいないとダメなんだから! だから……その……」
指先をモジモジさせながら、蚊の鳴くような声で付け加える。
「……また、一緒に戦ってあげる。だから、死なないでよ」
「ああ。約束するぜ」
俺が笑って答えると、ミラは弾かれたように背を向け、「お、お兄ちゃん! 早く行くよ!」と小走りでシャッターに向かった。
その後ろ姿を見送りながら、ライオスは肩をすくめて小さく息を吐いた。
(……やれやれ。、まさかミラが男に惚れ込む日が来るとは)
不器用な妹の態度が、命を懸けて自分を庇ってくれた男への純粋な好意だと、勘の良い兄が見逃すはずがなかった。
「……色々と厄介事を持たせてしまったようだな、傭兵」
「何の話だ?」
「いや、こっちの話だ。……エレナも、じゃあな。また会おう」
「ええ。気をつけて、ライオス」
重い金属音と共にシャッターが閉まり、猟犬の兄妹は再び彼らの狩り場へと帰っていった。
「さて、嵐のような兄妹もいなくなったことだし、こっちも本腰を入れるわね」
エレナが救急箱を片付けながら、ドックの中央を見上げる。
そこには、俺の『ノワール』が静かに鎮座していた。ロキの徹夜の溶接と、バジリスクから奪った超高密度合金のおかげで、炭化した装甲と焼き切れた駆動系はほぼ完全修復を終えようとしていた。
『ええ。私の体が最高の状態になるまで、あと少しよ。ヴァンス、あんたがベッドから這い出る頃には、冥界の底すらぶち抜ける出力を出してあげるわ』
「楽しみにしてるぜ、相棒」
俺は再びベッドに背中を預け、目を閉じた。
太陽のない街で出会った、不器用な猟犬たちとの奇妙な共闘。
そして、必ず決着をつけなければならない『アークメイジ』の影。
熱を帯びた脳の奥底で、俺は黒のレガリアが再び吠えるその時を、静かに待ち続けていた。
(第3幕「傭兵と黒の魔女 ―冥界の猟犬たち―」・了)




