幕間:魔女と雌豹のティータイム
ニケ・ハーバーの裏通り、埃まみれの貸しガレージ。
エレボス・シンジケートへ向かう準備を整えるため、俺たちは一時的にこの場所に身を潜めていた。
深夜。ひどく不味いインスタントコーヒーを啜りながら、俺はパイプ椅子に深く腰を沈めていた。
視線の先では、エレナがノワールの開け放たれたコックピットに身を乗り出し、何本ものケーブルを自前のデータ端末へと繋いでいる。彼女が俺の専属メカニックとして契約を結んでから、これが初めての本格的な『機体検診』だった。
「……信じられないわね。アレスの暗号化プロトコルなんか目じゃないくらい、分厚くて複雑なブラックボックスだわ」
エレナがコンソールを叩く手を止め、苛立たしげに前髪を掻き上げた。
「ハードウェアの損傷は私の目で見れば分かる。でも、この機体の中枢……OSの深層部分に、まるで巨大な城壁みたいなファイアウォールが張られていて、指一本触れられないのよ。これじゃ、スラスターの出力調整すら――」
『ええ、当然よ。泥まみれの工具を持ったまま、レディの寝室に土足で踏み込もうだなんて、随分と野蛮な雌豹ね』
突如、ガレージの暗がりを切り裂くように、青白い光の粒子が舞い散った。
ノワールのコンソール上部に設置された外部プロジェクターが強制的に起動し、空中に一つのシルエットを描き出す。
漆黒のゴシックドレスに身を包み、退廃的な美しさを漂わせる大人の女。俺の網膜の中だけでふんぞり返っていた『黒の魔女』が、ついに現実の空間へとその姿を現したのだ。
「……な、何これ」
エレナが息を呑み、一歩後ずさった。
元アレスの技術将校である彼女の常識からすれば、完全に独立した自我を持ち、これほど高精細なホログラムとして顕現するAIなど、おとぎ話の産物でしかない。
「前に言っただろ。俺の頭の中に棲みついてる、嫉妬深い幽霊さ」
俺がコーヒーの紙コップを揺らしながら言うと、セリアは不機嫌そうに俺を横目で睨み、再びエレナへと向き直った。
『初めまして、新米のメカニックさん。私はセリア。このノワールの深層システムであり、ヴァンスの唯一の『相棒』よ。……船の上では随分と勝手な真似をしてくれたわね』
「……あなたが、セリア。ヴァンスが空に向かって独り言を言っていた原因ね」
エレナは一瞬の驚きの後、すぐに技術者としての鋭い目つきを取り戻した。
彼女はホログラムのセリアの周囲を歩きながら、信じられないものを見るように目を細める。
「驚異的だわ。マナの干渉波を完全に遮断した状態でも、これほどの演算能力を維持しているなんて。……もしかして、あなた自身が旧世界の『レガリア』の制御コアなの?」
『気安く分析しないで頂ける? 私はあなたの夫が作ったような、無骨な機械とは違うのよ』
セリアが腕を組み、ベールの奥で冷ややかに微笑む。
『契約上、あなたがこの機体の外装や関節のグリスを塗ることは許可してあげるわ。でも、システム領域の主導権は絶対に渡さない。……ヴァンスの命を預かるのは、私だけで十分よ』
あからさまな牽制。
だが、エレナもただ黙って引き下がるような女ではない。彼女はフッと艶やかな笑みを零し、自分のデータ端末を軽く指先で叩いた。
「そう。でも、あなたがいくら優秀なソフトウェアでも、歪んだフレームや焼き切れた配線までは直せないでしょう? 結局、ヴァンスを生かして戦わせるには、私の『泥臭い手』が必要なのよ」
エレナが一歩、セリアのホログラムへと距離を詰める。
「それに、ソフトウェアの主導権って言うけれど……さっき私が組んだクラッキング・コード、あなたのファイアウォールの第一層までは数秒で突破していたわよ。本気でやり合えば、お互いのキャッシュが消し飛ぶくらいの手傷は負わせられるはずだけど?」
『……ふん。生意気な口を叩くじゃない』
魔女と雌豹。
実体のないAIと、生身のメカニック。
二人の間に、目に見えない火花がパチパチと散っているのが、離れて見ている俺にもはっきりと分かった。
「おいおい。俺の機体を巻き込んで、女同士の喧嘩を始める気なら外でやれ」
俺が呆れたように割って入ると、二人は同時にこちらを振り向き、まったく同じタイミングで鼻で笑った。
「勘違いしないで、ヴァンス。私はただ、この気位の高いお姫様に、現実のハードウェアの重要性を教育してあげようと思っただけよ」
『ええ。私も、この新入りのメイドに、レガリアを触る上での『作法』を教えてあげようと思っただけ。……まあ、アレスの量産機しか知らない小娘にしては、少しは見どころがあるようだけど』
言葉の端々に棘を残しながらも、エレナはデータ端末のケーブルを抜き、セリアも外部プロジェクターの出力を落としてふわりと宙に浮いた。
「……悪くないわ」
エレナがふと、口元を緩めて呟く。
「これなら、少しは退屈せずに済みそうね。セリア、あなたのシステムの癖、これからじっくりと丸裸にしてあげるから覚悟しておきなさい」
『ふふっ。やれるものならやってみなさいな。……すぐに泣きを入れて、私にシステム調整を泣きつくことになるんだから』
どうやら、最悪の殺し合いには発展せずに済んだらしい。
だが、俺の胃痛の種がまた一つ増えたことだけは間違いなかった。
「……ったく。どいつもこいつも、我が強すぎる」
俺は冷めきった不味いコーヒーを喉に流し込み、深々と溜め息をついた。
冥界へと下る前の、短くも濃密なティータイム。
黒の魔女と硝煙の花嫁という、世界で一番厄介な二人の女を引き連れて、俺たちは光の届かない地下都市へと歩みを進めるのだった。




