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傭兵と黒の魔女  作者: KK
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第1章:泥水と甘い香水の交差点

砂と錆、そして安いアルコールと硝煙の匂い。

 この新大陸の辺境街を構成する成分なんて、どうせその四つくらいのものだ。


 カウンターの奥でグラスを拭いているマスターの背後、ひび割れた窓の向こうに、分厚い防壁に囲まれた巨大な都市国家クロノス・アークの摩天楼が、嫌らしい輝きを放っていた。あの連中がどれだけ美味い水を飲み、ふかふかのベッドで眠ろうと、ここには何の関係もない。


 ――ギィィィッ。

 錆びついたスイングドアが乱暴に開き、乾いた風と砂埃が店内に舞い込んだ。荒くれ者たちの喧騒が、潮が引くように静まり返る。


 入り口に立っていたのは、一人の女だった。

 すり切れた防塵マントを深く被っているが、その下の衣服は首元までボタンを留めた上質な生地で、荒野の人間のものとは明らかに違う。息を切らし、怯えた目で店内を見回す瞳の奥には、追いつめられた獲物特有の切羽詰まった光が宿っていた。

挿絵(By みてみん)


 ひと目でわかった。あんな「甘い匂い」のする人間は、あの白い壁の向こう側――特権階級の住人だ。


 女の視線が店内を彷徨い、やがてカウンターの隅で煙草を吹かしている俺を捉えた。

 彼女が一歩、また一歩と近づいてくるたび、酒場の澱んだ悪臭を切り裂くように、場違いな甘い香水の匂いが漂ってきた。


『……あら。随分と甘い香りがするわね。ただの金持ちのお嬢様ってわけじゃなさそうだけれど』

 網膜の端で、漆黒のゴシックドレスにベールを纏ったセリアのホログラムが、優雅に腕を組んで呟いた。俺にしか見えない相棒だ。


「……おや、随分と上等な迷子犬が紛れ込んだもんだな。悪いが、ここは温かいミルクの代わりに泥水しか出ねえ店だぜ」

 俺はグラスの氷に視線を落としたまま、煙草の煙を細く吐き出した。


 女は俺の隣の丸椅子に腰を下ろすと、震える手を必死に抑えながら、真っ直ぐに俺の黄金色の瞳を見つめ返してきた。顔には砂埃がこびりつき、唇は乾いてひび割れていたが、その奥の意志の強さは本物だった。


「あなたが……ヴァンスね。どんな汚れ仕事でも、金さえ払えば引き受けるというフリーの傭兵」


「そりゃ光栄だ。広報担当には特別ボーナスを弾まないとな。……で? 白い壁の向こうで綺麗な水でも飲んでりゃいいお嬢様が、こんな便所の底みたいな街で誰の頭を吹き飛ばしたいんだ?」

 俺が鼻で笑うと、女は周囲の視線を気にするように声を潜めた。


「私の名前は、リリア・ヘリオス」


「……ヘリオスだと?」

 俺はグラスを傾ける手を止めた。


 ヘリオス・カンパニー。新大陸の頂点に君臨するクロノス・アークにおいて、水と劣化マナ結晶の利権を独占する巨大企業。その名を冠するということは、目の前の小娘は支配者層のど真ん中にいる人間だ。


『ビンゴね、ヴァンス。クロノス最大の資源企業の次期後継者候補よ。そんなVIPが護衛も付けずに震えているなんて……最高にきな臭いわ』

 セリアが楽しげに唇を歪める。こいつは俺がトラブルに巻き込まれるのを、どこか娯楽にしている節がある。


「先日、父が視察中の事故で死んだわ」


「そいつはご愁傷様。……ただ、俺は神父じゃねえ。アーメンと祈ってほしいなら向かいの教会へどうぞ」

「事故じゃない!」


 リリアは身を乗り出し、カウンターを叩いた。その勢いでフードが落ち、手入れの行き届いた亜麻色の髪と、血の気の引いた青白い顔が露わになった。


「父は殺されたの……ティタン評議会の誰かに。そして今、私自身もアレス・セキュリティの暗殺部隊に狙われている」


 アレス・セキュリティ。クロノス最大のPMCだ。連中が本気なら、この女はすでに「歩く死体」同然だった。

「おっと、そこまでだ。他を当たってくれ」


「えっ……」


「アレスの暗殺部隊? 冗談がきついぜ。俺の寿命と、お前さんの小切手のゼロの数が釣り合うわけねえ。命知らずのバカなら外に腐るほどいる」


 俺が手を振って追い払おうとすると、リリアは唇を噛み、懐から分厚い金属製のケースを取り出してカウンターに滑らせた。表面には厳重な生体ロックが施されている。

「報酬ならいくらでも払う。私の全財産をあなたに渡すわ。……それに、これなら?」


「なんだ、そりゃ」


「父が死の直前に託した、『黒い箱』のデータへのアクセス権。評議会が進めている『マナ再覚醒計画』……そして、血眼になって探している『失われたレガリア』に関する記録も入っているはずよ」


 その単語が出た瞬間、セリアのホログラムがピクリと反応した。

『……ヴァンス』


 いつもの余裕が消え、冷ややかで熱を帯びた声になる。

『そのデータ、裏を取る価値があるわ。私がどこで、誰に掘り起こされたのか……あの白い塔の連中が手がかりを持っているかもしれない』


 俺は小さく息を吐き、頭を掻いた。

 背中のガレージで眠る黒のレガリア《ノワール》。あれは俺が偶然拾った鉄屑なんかじゃない。元々はクロノスの調査隊が発掘したものを、俺がかっ攫った代物だ。


 俺はケースに置かれたリリアの手を、真っ向から見据えた。

「……はぁ。どうやら俺の計算機は、少しポンコツになったらしい」


「え?」


「ひとつだけ条件だ、お嬢様。俺は立派な盾にはなれねえ。飛んでくる鉛玉からレディを優しく庇うような柄じゃねえんだ。俺にできるのは、そいつらが引き金を引く前に脳天に風穴を開けることだけだ。その野蛮なやり方で我慢できるなら、商談成立だ」


 リリアは一瞬目を丸くし、やがて安堵と決意の混じった、不器用な笑みを浮かべた。

「ええ……頼むわ、傭兵さん」


 俺は残ったぬるいバーボンを一息に飲み干し、立ち上がった。

 甘い香水の残り香が、酒場の淀んだ空気に溶けていく。

 厄介事の契約書には、いつだって見えない血のサインが求められる。


 俺はコートの襟を立て、ガレージで眠る相棒の封印を解くために、重い足取りで酒場を後にした。

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