第一幕【白い塔の亡霊】プロローグ:酒と煙草と傭兵
砂と錆、そして安いアルコールと硝煙の匂い。
この新大陸の辺境街を構成する成分なんて、どうせその四つくらいのものだ。
カウンターの奥でグラスを拭いているマスターの背後には、ひび割れた窓がある。そこから遠く地平線の彼方を見遣れば、分厚い防壁に囲まれた巨大な『都市国家』の摩天楼が、特権階級どもの傲慢さを象徴するように嫌な輝きを放っていた。
だが、あそこの連中がどれだけ美味い水を飲み、綺麗なシーツで眠ろうとも、この掃き溜めのような酒場には何の関係もない。
店の外から、重低音のエンジン音と、キャタピラが砂利を噛み砕く音が響いてきた。
黒い排気ガスを撒き散らしながら通り過ぎていくのは、どこかの自警団か野盗が乗った魔導鎧だろう。旧世界の遺物をツギハギして、粗悪な代替燃料で無理やり動かしている鉄屑だ。
その騒音に合わせるように、俺は咥えていた煙草を灰皿に押し付け、氷の溶けきったぬるいバーボンを喉に流し込んだ。
『……またそんな泥水みたいな酒を飲んでいるの? 舌だけでなく、脳細胞まで錆びつくわよ、ヴァンス』
不意に、網膜に直接投影された視界の隅で、女の呆れたような声が響いた。
視線を向けると、そこには漆黒のゴシックドレスにベールを纏った、エレガントなホログラムの女――俺の相棒であるAIのセリアが、優雅に腕を組んで宙に浮いていた。
首元までかっちりとボタンの留まった美しく気品ある出で立ちは、汗と泥にまみれたこの酒場にはひどく不釣り合いだ。
「うるせえな。俺の魂は、この安酒のアルコールと煙草の苦味で、ギリギリの正気を保ってるんだよ」
俺は心の中で毒づきながら、新しく煙草を一本咥え、オイルライターで火を点けた。
『言い訳だけは一流ね。……だいたい、あなたが私の能力を制限して、ただの重いだけの魔導鎧として泥臭く立ち回るから、無駄に疲労が溜まるのよ。私に一任してくれれば、指先一つで重力ごと捻じ曲げて、スマートに仕事を片付けてあげるのに』
「過ぎた力ってのは、どうも肌に合わねえんだよ。……弾丸の重さと、自分の引き金のタイミング。戦場じゃ、手のひらに収まるその実感だけが頼りだ」
『ええ、ええ。その泥臭い美学のせいで、私の美しい黒の装甲が今日も煤だらけになるわけね。本当に強情な人』
セリアがわざとらしく肩をすくめる。
こいつの言う通り、俺の背中――酒場の裏手の薄暗いガレージには、偽装パーツでただの魔導鎧を装った規格外の化け物、『黒のレガリア』が静かに眠っている。
俺が傭兵として、この狂った世界で今日まで生き延びてこられたのは、間違いなくこいつのおかげだ。だが、あの「理不尽な力」は、代償として俺の人間性すらも焼き切ろうとする。
だからこそ、俺はこうして安酒と煙草で、自分の中の「ただの人間」の部分を必死に繋ぎ止めているのだ。
――ギィィィッ。
その時、錆びついた酒場のスイングドアが、乱暴な音を立てて開いた。
乾いた風と共に、外の砂埃が店内に舞い込む。
騒がしかった荒くれ者たちの喧騒が、潮が引くようにスッと静まり返った。
「……」
入り口に立っていたのは、一人の美しい女だった。
すり切れた防塵マントを深く被ってはいるが、その下から覗く衣服の生地は上質で、荒野の人間が着るような代物じゃない。
息を切らし、怯えたように店内を見回すその瞳の奥には、追いつめられた獲物特有の切羽詰まった光が宿っていた。
ひと目でわかる。あんな「甘い匂い」のする人間は、あの遠くに見える高い壁の向こう側――富を独占する都市国家の住人だ。
女の視線が、店内を彷徨い……やがて、カウンターの隅で煙草を吹かしている俺の姿を真っ直ぐに捉えた。
『……あら。どうやら、あなたのその泥臭い美学を、また披露する時間が来たみたいね、ヴァンス』
視界の隅でセリアが口元を綻ばせるのを聞きながら、俺は短く息を吐き、煙草の煙を天井に向けて細く吐き出した。
厄介事はいつも決まって、面倒な依頼の形をしてやってくる。
どうやら今日も、ゆっくりと酒を味わう時間はなさそうだった。




