第4章:深淵の棘と錆びた街
巨大タンカー『鉄の鯨』が、金属の軋む悲鳴を上げてドックへと固定された。
海上資源採掘基地『クロノス・デプス・ノード03』――通称「深淵の棘」
ここは単なる掘削施設ではない。海上で暮らす数千人の作業員、技術者、そして彼らから毟り取るために集まった商人がひしめき合う、海に浮かぶもう一つの『街』だった。
空気を満たすのは、重油の焦げた匂いと、海水の生臭さ。頭上のパイプからは絶えず謎の廃液が滴り、錆びついた鉄板の通路を濡らしている。
「お前たちのIDカードだ。有効期限は荷降ろしが完了するまでの二十四時間。……居住区より奥の制限区域に一歩でも立ち入ってみろ。アレスの警備兵がその頭に鉛玉をブチ込むぞ」
ドックの不機嫌な管理官が、俺とエレナの胸元にプラスチックの薄いカードを放り投げた。
表向きは正規の護衛。だが、俺たちが求める真実は、その制限区域のさらに奥、エレナの夫が遺した【何か】が研究室に眠っている。
「……行きましょう」
エレナは軍服の襟を立て、帽子を深く被り直して歩き出した。
通路を進むと、網の目のように組まれた足場の向こうに、ネオンサインが明滅する歪な繁華街が現れた。
ドックの熱気と喧騒が押し寄せる。作業服を着た男たちが、劣化マナ結晶の煙を吸いながら、怪しげな露店を冷やかしていた。
俺たちは、その一角にある薄暗い酒場『鉄錆の涙』の重い鉄扉を押し開けた。
店内に満ちているのは、安酒と煙草の匂い。
カウンターの奥では、片腕が剥き出しの義肢になった老バーテンダーが、濁ったグラスを退屈そうに拭いている。
「新顔だな。何にする」
「泥水みたいなバーボンを二つ。それと……少し『高い』情報が欲しい」
俺はカウンターに数枚の硬貨を滑らせた。バーテンダーは目を細め、その硬貨を素早く懐に仕舞い込む。
「何が知りたい?」
「半年前に起きた、独立型融合炉の爆発事故だ。あの区画で働いていた『ヴォルフ』って技術者について、何か知ってる奴はいないか」
その名前を口にした瞬間、酒場の一角にいた男たちの空気が一変した。
奥のボックス席から、アレス・セキュリティの旧式なプロテクターを着込んだ四人のゴロツキが、椅子を引きずる不快な音を立てて立ち上がる。
「おいおい、余所者が死んだ技術屋の詮索か? ……しかも、そっちのいい女は、アレスの軍服を着てやがるな」
先頭のガタイのいい男が、下品な薄笑いを浮かべてエレナの前に立ち塞がった。
「将校サマが、こんな掃き溜めに何の用だ? 半年前の事故はただの機能不全。評議会の公式発表だ。それ以上首を突っ込むと……その綺麗な顔に傷がつくぜ」
男がエレナの黒髪に手を伸ばそうとした。
「触るな、犬が」
エレナの氷のような声。
その指先が彼女に触れるより早く、俺は手元にあった空のグラスを男の顔面に向けて叩きつけた。
ガシャァンッ!!
「ぶふぉっ!?」
鼻骨が砕ける派手な音と共に、男が悲鳴を上げて後ろざまに倒れ込む。
荒事の始まりだ。
「この野郎っ!」
残りの三人が一斉に腰のナイフや警棒を引き抜く。
俺はカウンターを蹴って間合いを詰め、一人目の突き出しを半身で躱しながら、その手首を掴んで強引に捻り上げた。関節の砕ける音が響き、落ちたナイフを空中でキャッチする。
そのまま振り返りざまに、二人目の太腿へと深くナイフを突き立てた。
「ガッ、アアァッ!」
三人目が背後から鉄パイプを振り下ろしてくる。
だが、そいつの頭部に向けて、凄まじい風切り音と共に『鉄製のレンチ』が飛来し、正確にその側頭部を強打した。
ドサリ、と三人目が意識を失って倒れる。
見れば、エレナが軍服のポケットから予備の工具を片手に、冷徹な瞳で残りの一人を睨みつけていた。元技術将校のCQCも、なかなかに年季が入っている。
「……ひっ」
最後に残ったアレスの末端兵が、腰を抜かして床を這いつくばった。
俺はそいつの胸ぐらを乱暴に掴み上げ、カウンターへと叩きつける。
「いいか、一度しか言わねえ。半年前、ヴォルフをハメた奴はどいつだ。裏を引いているアレスの指揮官の名前を吐け」
「あ、アンスバッハ特務大尉だ! あの人の命令で、俺たちは事故の証拠を処分した……! 今日も制限区域の最深部、アレスの極秘ドックで何かの実験に立ち会っているはずだ!」
「……アンスバッハ」
エレナがその名を反芻するように呟いた。彼女の拳が、怒りで白くなるほど強く握りしめられている。夫を殺した直接の仇だ。
「裏取りは済んだな。ありがとよ」
俺は兵士を気絶させ、そいつの腰に下がっていた『特務IDキー』を毟り取った。
酒場の裏口から外に出て、薄暗い制限区域のハッチの前へと移動する。
俺は奪ったIDキーをコンソールに差し込んだ。
「セリア。お前の出番だ。この腐った街のシステムをこじ開けろ」
『了解。……ふん、アレスの軍用プロトコルね。ザルみたいなセキュリティだわ。私の演算領域を舐めないことね』
網膜の隅で、セリアのホログラムが優雅に指先を弾く。
ディスプレイの文字列が高速で書き換わり、数秒の後、プシューッという重々しい空気の抜ける音と共に、制限区域の巨大な防壁ハッチがゆっくりと左右にスライドした。
『ハッキング完了よ。……さあ、潜入開始ね、ヴァンス。亡霊の正体を暴きに行きましょう』
ハッチの向こうには、淡い赤黒い光が伸びる、冷たい鋼鉄の回廊がどこまでも続いていた。
俺とエレナは互いに視線を交わし、銃の安全装置を外して、深淵の底へと足を踏み入れた。




