第5話 君が歌う場所
旅に出てから、ずいぶん長い時間が過ぎた。
最初の頃は、街が変わるたびに二人とも足を止めていた。見たことのない建物があれば中を覗き、露店に知らない食べ物が並んでいればアスカが迷わず買い、珍しい魔法道具を見つければ今度はサワラが動かなくなる。
人間の街だけではない。石造りの建物が地下深くまで続く土地もあれば、獣人たちが多く暮らす賑やかな国もあった。言葉の違いに困ったことも、食文化の違いに驚いたこともある。道を間違えて予定とはまるで違う場所へ出た日には、アスカが面白がってそのまま進もうとし、サワラが地図を片手に止めたこともあった。
そうして幾つもの国を歩くうちに、かつては何もかもが新鮮だった外の世界も、少しずつ二人の日常へ変わっていった。
その日も、特別な目的地があったわけではない。
次の街まではまだ数日の距離があったため、日が沈む前に街道を外れ、森の中に野営できそうな場所を見つけた。木々の間にぽっかりと開いた地面へ火を起こし、簡単な食事を済ませる頃には、枝葉の隙間から覗く空はすっかり夜の色へ変わっていた。
火の中で薪が弾け、小さな火の粉が舞う。
「明日は、このまま街道を北でいいんだよね?」
食事に使った器を片づけながらアスカが尋ねると、サワラは荷物から折り畳んだ地図を取り出し、火の明かりへかざした。
「たぶんね。昼前には川を越えるはずだから、そこまで行って何もなかったら道を間違えてると思う」
「今、たぶんって言った?」
「この地図が古いんだよ。買った時にも確認したでしょ。橋が残ってるかどうかも怪しいって」
「そうだったっけ。まあ、道がなくなってたら、その時はその時で考えればいいよ」
「アスカはもう少し地図を信用して歩いてよ。僕が見てなかったら、今まで何回知らない方向に行ってたと思ってるの」
注意されても、アスカは気にした様子もなく笑っている。
こうしたやり取りも、旅を始めた頃からほとんど変わっていない。アスカが気になったものへ寄っていき、サワラが現在地や予定を確認する。もっとも、珍しい術式や魔法道具を見つければサワラも簡単に足を止めるため、どちらがしっかりしているのかは場面によるのだが。
地図を畳んだサワラは、火のそばに置いていた水筒を手に取った。軽く振ってみると、中から返ってくる音が小さい。
「水、汲んでくるよ。さっき通ったところに小川があったから」
「じゃあ僕も行くよ」
「近いから大丈夫。アスカは火を見てて」
立ち上がりかけたアスカを手で制し、サワラは水筒を持って森へ入った。
野営地から小川までは、それほど離れていない。昼間とは違って木々の間は暗かったため、足元を確認できる程度の小さな光を浮かべる。淡い光が草や木の根を照らし、その向こうから虫の声と葉擦れの音、それに流れる水の気配が聞こえてきた。
ほどなくして木々の向こうが開け、月明かりを反射する細い小川が見える。
岸辺にしゃがんだサワラは水筒の蓋を外し、澄んだ流れへ沈めた。指先に触れた水は夜気よりさらに冷たく、その感触を確かめながら中が満ちるのを待つ。
水筒の口を閉じ、立ち上がろうとした時だった。
遠くから、声が聞こえた。
サワラの手が止まる。
誰かが話しているわけではない。風や獣の声とも違うそれは、途切れながらも旋律を伴って木々の間を流れてくる。
歌だった。
そして、ほんの数節を聞いただけで誰が歌っているのかも分かった。
「……アスカ?」
間違えるはずがなかった。
その歌声を、サワラはずっと昔から知っている。
まだ二人がこの世界へ来るより前。画面越しに聞くこともあれば、もっと近い距離で耳にしたこともある。アスカにとって歌うことは特別な催しではなく、日常の中へ当たり前に存在していた。
だからこそ、サワラは動けなかった。
懐かしいからではない。
知らない歌声だったからでもない。
この世界で記憶を取り戻してから、アスカが歌うところを一度も見ていなかったからだ。
前世のことを話す機会はいくらでもあった。旅先で吟遊詩人の歌を聞いたこともあれば、祭りで歌い手の舞台を見たこともある。それでもアスカ自身が歌うことはなく、サワラもそれを深く考えたことはなかった。
生活が変われば、昔していたことをしなくなることくらいある。
その程度に考えていた。
けれど、アスカは歌わなくなったわけではなかった。
今、確かに歌っている。
声は野営地とは少し違う方向から聞こえていた。水筒を手にしたまま森を進むと、旋律が少しずつ鮮明になる。
柔らかく、よく通る声だった。
前世で何度も聞いた歌声と同じなのに、まったく同じではない。声そのものだけではなく、歌い方にも長い年月が積み重なっているように感じられた。
やがて木々が途切れ、少し開けた場所へ出る。
倒れた大木の幹に腰掛け、アスカは空を見上げていた。月明かりを受けた白に近い灰色の髪が夜風に揺れている。
こちらには気づいていない。
サワラは声をかけなかった。
今のアスカが、誰かへ聞かせるために歌っているのではないことくらいは分かったからだ。
普段のように楽しげに身体を揺らすこともなく、観客へ向けるような笑顔もない。ただ夜の森で一人、静かに歌っている。
その姿を見ていることに少しだけ後ろめたさを覚え、サワラは離れた木の幹へ背を預けた。
歌だけを聞く。
昔なら、アスカが歌うことに特別な意味など感じなかった。
配信の最後に一曲歌うのも、ふとした時に口ずさむのも、あまりに当たり前だったからだ。
けれど今は、その当たり前がずっと失われていたことに初めて気づく。
やがて曲が終わった。
最後の音が木々の間へ溶け、少し遅れて虫の声が戻ってくる。
アスカはしばらくそのまま空を見ていたが、やがて大木から立ち上がった。野営地へ戻ろうと振り返り――そこでサワラと目が合う。
表情が固まった。
サワラも一瞬だけ迷ったあと、持っていた水筒を軽く持ち上げる。
「水を汲みに来たんだけど、戻ろうとしたら聞こえてきた。邪魔しない方がいいと思って、そのまま聞いてた」
「……いつからいたの?」
いつもの声より、ほんの少しだけ低い。
「途中から。半分くらいかな」
「結構聞いてるじゃん」
「うん。ごめん、聞かれたくなかったなら謝る」
誤魔化しても仕方がないので、そのまま答える。
アスカは困ったように眉を寄せ、片手で髪をかき上げた。普段ならここで冗談の一つでも返してきそうなのに、言葉が続かない。
「別に怒ってないよ。サワラが来たことに気づかなかった僕も悪いし。ただ……聞かれると思ってなかったから、びっくりしただけ」
そう答えながら、アスカの指先が服の裾を摘んでいる。
ほんの小さな仕草だったが、長く一緒にいるサワラには、それが言葉ほど平気ではないことくらい分かった。
だから、それ以上は近づかなかった。
「こっちに来てからも、歌ってたんだね。僕が聞いたことなかったから、もう歌わなくなったのかと思ってた」
「一人の時は、たまにね。誰もいない場所なら歌えるから」
その言葉だけで、十分だった。
歌が嫌いになったわけではない。
歌えなくなったわけでもない。
人がいるところでは歌わない。
思い返してみれば、そう考えれば納得できることはいくつもあった。酒場で客が歌っていてもアスカは聞く側に回り、祭りで歌を頼まれた時にも笑って断っていた。
前世ではあれほど人前で歌っていたアスカが、今は誰もいない場所を選んでいる。
理由がないはずはない。
それでもサワラは尋ねなかった。
「サワラ」
「なに?」
「……感想とか言わなくていいからね」
思わず口元が緩んだ。
「まだ何も言ってないよ。昔から知ってるんだから、今さら歌が上手いとか言っても仕方ないでしょ」
「それもそうなんだけど……そういう問題でもないんだよなあ」
アスカが露骨に顔を背ける。
少しだけ、いつもの調子が戻っていた。
それなら今は、それでいい。
「じゃあ戻ろうか。火を放ってきたの、アスカでしょ」
「サワラが全然帰ってこないから、ちょっとくらいなら大丈夫かなって」
「僕が遅くなった原因、アスカの歌なんだけど」
「それを言われると何も返せない」
二人は並んで森を歩き始めた。
足元には先ほど浮かべた小さな光があり、その外側には夜の森が広がっている。
しばらく歩いたところで、アスカが不意に口を開いた。
「ねえ、サワラ」
「なに?」
「……僕がどうして人前で歌わないのか、聞かないの?」
サワラは歩く速度を変えなかった。
「アスカは、聞いてほしいの?」
「そういう返しする?」
「だって、話したいなら聞くよ。でも僕が知りたいからって、アスカが話したくないことまで聞く必要はないでしょ」
隣から返事はなかった。
木々の向こうには、野営地の火が見え始めている。
長い付き合いだからといって、何もかも知っているわけではない。むしろ長く一緒にいるからこそ、相手が自分から話さないことへ無理に踏み込まない距離も、いつの間にか分かるようになっていた。
やがてアスカが、小さく息を吐く。
「……そっか」
それ以上は続かなかった。
サワラも続きを求めず、二人はそのまま火のところまで戻った。
◇
夜が更けても、サワラはなかなか眠れなかった。
火はすでに小さくなり、残っているのは赤い熾火だけだった。向かい側ではアスカが毛布に包まり、静かな寝息を立てている。
サワラは仰向けになったまま、木々の隙間から見える夜空を眺めていた。
頭に残っているのは、先ほどの歌だった。
歌そのものが懐かしかったわけではない。
アスカの歌なら昔から知っているし、記憶を取り戻してからも、前世の配信や音楽について話したことは何度もある。
昔の知り合いや、配信中に起きた出来事。好きだったものや嫌いだったもの、当時は大変だったのに今となっては笑える失敗。
歌の話だって当然した。
それでもアスカは、この世界では人前で歌わなかった。
サワラが思い返したのは、歌声よりも、もっと昔の記憶だった。
画面の向こうで笑うアスカには、大勢の人が言葉を送っていた。歌を楽しみにする者もいれば、配信そのものを待っている者もいる。その中に、少し距離の取り方がおかしくなっていった人間がいたことを、サワラも覚えている。
最初は熱心なファンの一人だった。
何度も姿を見せ、歌を褒め、応援の言葉を送っていた。それがいつからか、自分だけは特別だというような言葉へ変わり、アスカが他の誰かと楽しそうにしていれば不満をぶつけるようになった。
アスカ自身から相談を受けたこともあったし、困っていたことも知っている。
ただ、その後に何があったのかまでは知らなかった。
アスカが前の世界でどうして死んだのか。
どんな最期を迎えたのか。
記憶を取り戻したあとも、サワラは尋ねていない。
自分の死について積極的に話したい人間など多くないだろうし、アスカが話さない以上、聞く必要もないと思っていたからだ。
けれど今夜、誰もいないと思っている場所で歌う姿を見た。
自分に聞かれていたと知った瞬間の表情も、服の裾を摘んでいた指先も覚えている。
そこに過去の何かが関わっているのかもしれない。
けれど、それはまだサワラの想像にすぎなかった。
分からないなら、今は分からないままでいい。
サワラは身体を横へ向け、熾火の向こうで眠っているアスカを見る。
聞きたくなったから尋ねるのではなく、アスカが話したくなった時に聞けばいい。
そう決めると、それ以上考えるのをやめて目を閉じた。
◇
暗い部屋に、画面の光だけが浮かんでいる。
流れていく文字の中には、いつものように歌を求める声があった。
今日も楽しみにしている。
この曲が聞きたい。
好きだ、大好きだ、ずっと応援している。
アスカは画面の向こうへ笑いかけ、配信の最後に一曲歌った。
昔から変わらない時間だった。
歌えば喜んでもらえる。それが嬉しかったし、自分自身も歌うことが好きだった。顔の見えない相手であっても、声を届ければ文字や言葉になって返ってくる。そのやり取りも含めて、歌うことはアスカと誰かを繋ぐものだった。
いつからだったのか、一つの名前が妙に目につくようになった。
最初は他の人と何も変わらなかった。歌を褒め、応援し、何度も配信へ来てくれる。そういう人は他にもいたし、その一人だと思っていた。
しかし、少しずつ言葉が変わった。
どうして返事をくれないのか。自分のことを覚えているはずだ。あの人より自分の方が昔から応援している。今日は誰といたのか。そんな歌を他の人へ歌わないでほしい。
最初は冗談なのかと思った。
そうではないと分かった頃には、周囲から距離を置いた方がいいと言われていた。
怖くなかったわけではない。
それでも画面の向こうにいる人間だと思っていたし、一人のために好きな歌を捨てることもしたくなかった。
だから、その日もいつも通り歌った。
いつも通り笑い、いつも通り配信を終えた。
外へ出ると、空気が冷たかった。
背後から足音が近づき、自分を呼ぶ声がする。
振り向いた先にいた人間の顔を、アスカは知っていた。
どうしてここにいるのか。
そう尋ねるより先に距離を詰められ、視界の端で何かが光った。
次の瞬間、腹部に強い衝撃が走った。
最初は痛みだと分からなかった。ただ身体を強く押されたような感覚があり、遅れて焼けるような熱が腹から広がっていく。
足から力が抜け、視界が傾いた。
倒れた自分へ、相手が何かを言っている。
好きだった。
自分だけのものになってほしかった。
途切れ途切れに聞こえる言葉と、かつて歌を褒めてくれた文字が重なっていく。
息を吸おうとしても、うまく入ってこない。
喉を動かしても声が出なかった。
あれほど当たり前だった歌が、もう歌えない。
「――っ」
アスカは目を開いた。
目の前にあったのは、暗い森と消えかけた火だった。
遠くで虫が鳴いている。
すぐには身体を動かせず、毛布の中で腹部へ手を当てる。もちろん傷などないし、血も流れていない。
それでも指先はわずかに震えていた。
ゆっくり息を吐いて隣を見ると、サワラが眠っている。黒髪が頬へかかり、規則正しい呼吸に合わせて毛布が小さく上下していた。
起こしてはいない。
アスカは静かに身体を起こし、膝を抱えた。
あの日の夢を見ること自体は、もう珍しくなかった。昔ほど頻繁ではなくなったものの、完全に消えたわけでもない。
特に、歌った日は思い出しやすい。
今夜は久しぶりに歌った。
誰もいないと思ったからだ。
森の中なら聞く者はいない。それなら声を出せると思った。
なのに、サワラがいた。
聞かれていたと分かった瞬間、胸の奥が冷えた。上手いと思われるか、下手だと思われるか、そんなことはどうでもよかった。
誰かが自分の歌を聞いている。
その状況そのものが怖かった。
それでも、相手がサワラだと分かってから、身体の強張りは少しずつ消えていった。
前の世界から知っている。
この世界へ来てからは、それより遥かに長い時間を一緒に過ごしてきた。
けれど、安心できた理由は付き合いの長さだけではないのだろう。
『アスカは、聞いてほしいの?』
森の中で返された言葉を思い出す。
話したいなら聞く。
そうでないなら、自分からは踏み込まない。
サワラは理由を知りたかったはずなのに、それ以上尋ねてこなかった。
アスカは抱えた膝へ額を預ける。
「……ずるいなあ」
小さく漏れた声が、夜の森へ消えていく。
何がずるいのか、自分でもうまく説明できなかった。
ただ、聞かれなかったことで、いつかなら自分から話してもいいと思ってしまった。
今すぐではない。
全部を話せるわけでもない。
それでも、いつか自分で選んで言葉にできるかもしれない。
そう思えたことが、アスカには少しだけ不思議だった。
◇
翌朝、二人は何事もなかったように旅を再開した。
昨夜の歌についてアスカから触れることはなく、サワラも尋ねない。古い地図に描かれていた橋が半分ほど崩れていたせいで、昼前には二人揃って浅瀬を探すことになり、靴を濡らしたアスカが文句を言えば、サワラが「だから橋が使える保証はないって言ったでしょ」と返した。
その後も、旅は変わらず続いた。
街へ入り、依頼を受け、また知らない土地へ向かう。
ただ、あの夜から少しだけ変わったことがあった。
最初に気づいたのは、雨宿りをしていた時だった。
街道の途中で突然雨が強くなり、二人で大きな岩の下へ逃げ込んだ。サワラが濡れないよう地図を広げて次の道を確認していると、その隣から小さな鼻歌が聞こえてきた。
ほんの短い旋律だった。
サワラは顔を上げなかった。
聞こえていることをわざわざ示す必要はないと思ったからだ。
アスカも途中でやめなかった。
それからしばらく経った別の夜、二人で野営していると、食事を終えたアスカが火を眺めながら自然に歌い始めた。
今度は、最初からサワラがいると分かっている。
少し驚きはしたものの、サワラは何も言わず、手にしていた薪を火へ足した。
歌が終わってから、ようやく尋ねる。
「今日は感想言っていい?」
「駄目。聞くだけにして」
「まだ駄目なんだ」
「聞かれるのに慣れるのと、感想を聞くのは別だから」
「分かった。じゃあ何も言わない」
理由を確かめる必要はなかった。
何が変わったのか、言葉にして確認しなくても分かることがある。
アスカは少しずつ、サワラがいる場所でも歌えるようになっていた。
◇
季節が変わる頃には、歌は二人の旅の中へ静かに混ざるようになっていた。
毎日ではないし、頼めば歌ってくれるわけでもない。人のいる場所では相変わらず歌わず、酒場で誰かが歌っていれば聞く側に回り、祭りで誘われても笑って断る。
それでも二人きりなら、ごく稀にアスカの方から歌うようになった。
そんなある晩、二人は小さな湖のほとりで野営していた。
風はほとんどなく、月の姿が水面へ綺麗に映っている。食事を終えたサワラは火のそばに座り、昼間に拾った小さな魔石を手の中で調べていた。
向かい側では、アスカが湖を眺めている。
「サワラ」
「なに?」
「それ、今じゃないと駄目?」
珍しい聞き方だった。
サワラは魔石とアスカを交互に見てから、手元の石を布へ包む。
「別に明日でもいいよ」
「じゃあ、置いて」
荷物へ魔石を戻し、空いた両手を見せる。
「これでいい?」
「うん」
アスカは少しだけ間を置き、それから歌い始めた。
サワラは何も言わずに聞く。
最初の夜のように姿を隠す必要はない。
アスカも、途中でこちらを気にすることなく、月の映る湖を眺めながら最後まで歌った。
曲が終わっても、サワラはすぐには口を開かなかった。
水辺では小さな虫が鳴き、火の中で薪が静かに崩れている。
「ねえ、サワラ」
湖を見たまま、アスカが呼ぶ。
「なに?」
「僕さ。歌うの、嫌いになったわけじゃないんだよ」
サワラは返事を急がず、続きを待った。
「今でも好きだと思う。歌ってる時は楽しいし、一人なら普通に歌える。だから余計に、自分でも面倒だなって思うんだけど……誰かに聞かれてるって思うと駄目なんだ」
アスカは足元から小石を一つ拾い、掌の上でゆっくり転がした。
「知らない人だから怖いってわけでもないんだ。相手が悪いことをするって思ってなくても、人が増えるほど無理になる。昔は逆だったのにね。聞いてくれる人がいるから歌ってたのに」
そこで言葉が途切れる。
サワラは先を促さなかった。
火が揺れるたび、地面に伸びた二人の影もゆっくり形を変える。
「前の世界でさ。ちょっと面倒な人がいたの、サワラも覚えてる?」
「覚えてるよ。途中から距離の取り方がおかしくなった人でしょ」
「……うん」
それ以上、アスカは話さなかった。
サワラにも聞きたいことはあった。
あの人物がその後どうなったのか。
アスカの死と関係しているのか。
歌を聞かれることへの恐怖が、どこから生まれたのか。
けれど、それを尋ねるのは簡単だったし、答えるのはアスカだ。
自分が知りたいというだけで、その負担を相手へ渡す必要はない。
だからサワラは、今聞いたことだけを受け取った。
「じゃあ、僕が聞いてるのは平気になったんだね」
アスカが顔を上げる。
「……たぶん」
「まだ、たぶんなんだ」
「最初は普通に嫌だったからね。あの森で聞かれてたって分かった時、本当にどうしようかと思った」
「それはごめん。途中で声をかけようとも思ったけど、たぶん歌うのをやめると思ったから」
「間違いなくやめてたよ」
アスカは少し笑い、それから湖へ視線を戻した。
「でも、サワラだったからかな。次に歌った時は前ほど怖くなかった。それで何回か歌ってたら、いつの間にか気にならなくなってた」
「それならよかった」
「……それだけ?」
「他に何て言えばいいの?」
「いや、もうちょっと喜んでもよくない? 僕、結構すごいこと言ってると思うんだけど」
「じゃあ、喜んでるよ」
「後から言われると急に嘘っぽくなるんだよなあ」
アスカが肩を揺らして笑い、サワラもつられて笑った。
湖に映っていた月が、吹き始めたわずかな風でゆっくり揺れる。
笑いが収まってから、アスカは小さく息を吐いた。
「サワラの前なら、大丈夫みたい」
今度は冗談めかした声ではなかった。
サワラはその横顔を見る。
前世では、自分もアスカの歌を何度も聞いていた。
あの頃は特別なことではなかった。
歌いたい時に歌い、それを聞く。
それだけのことだったはずなのに、長い時間を越えた今、同じことへ戻るまでには随分と時間がかかった。
だからといって、特別な返事をする必要もないと思った。
「そっか。じゃあ、歌いたくなった時に歌えばいいよ。僕は勝手に聞いてるから」
「感想は?」
「言っていいなら言うけど」
「それはまだいい」
「やっぱり駄目なんだ」
「聞かれるのに慣れただけだからね。そこは別」
「結構厳しいね」
「そのうち」
アスカはそう答えると、もう一度湖へ顔を向けた。
そして今度は、先ほどとは違う歌を歌い始める。
サワラは火へ薪を足すことも、置いた魔石へ手を伸ばすこともしなかった。
ただ隣で聞いていた。
昔から知っている声だった。
かつては大勢の人へ向けられ、画面の向こうでその歌を待つ人たちがいた。サワラもその頃からアスカが歌うことを知っていたし、その声を何度も聞いてきた。
今、その歌を聞いているのは一人だけだった。
いつかまた大勢の前で歌うようになるのか、それとも二度とそうならないのかは分からない。
けれど、どちらであっても構わない。
昔と同じ形へ戻ることが正しいわけではないのだから。
今のアスカが歌いたいと思った時に、無理なく声を出せる場所が一つある。
それで十分だった。
曲の途中で、アスカがふとこちらを見た。
視線が重なる。
最初の森であれば、それだけで歌声は止まっていただろう。
けれど今は違う。
アスカはほんの少し笑い、そのまま続きを歌った。
サワラも何も言わず、目を逸らさない。
静かな湖畔を、昔から知っている歌声が流れていく。
誰もいないから歌える場所ではない。
誰かがいることを知ったうえで、それでも歌いたいと思える場所。
長い時間をかけて、サワラはもう一度、その場所になっていた。




