第4話 知らない世界
森を出てから最初に見つけた街道は、二人が想像していたよりもずっと賑やかだった。
踏み固められた土の道を荷車がゆっくりと進み、その脇を大きな荷を背負った商人や、腰に剣を下げた旅人たちが行き交っている。荷車を引く獣の手綱を握りながら、隣を歩く男と笑っている老人もいた。
人間、商人、冒険者、街道、荷車。
どれも里で学んだ知識の中には存在していたし、絵や文章でなら何度も目にしている。それでも、実際に目の前を通り過ぎていく光景は、紙の上で覚えたものとはまるで違っていた。
「サワラ、あれ見た? 荷車を引いてるの、里の資料に載ってたやつと角の形が違う」
「見たよ。それよりアスカ、前を見て歩いて。さっきから後ろばっかり振り返ってるでしょ」
「ちゃんと見てるって。ほら、こうして前にも――」
言いながら向き直った直後、アスカの足先が道端の石に引っかかった。転ぶほどではなく、一歩大きく踏み出して体勢を戻したものの、その一部始終を隣で見ていたサワラの口元がわずかに緩む。
「……今、笑った?」
「笑ってないよ。前を見てって言った直後だったから、ちょっと面白かっただけ」
「それを笑ったって言うんじゃない?」
「転ばなかったんだからいいでしょ。ほら、それより前」
サワラが顎で示した先、緩やかな丘を越えた向こうに石造りの壁が見えていた。その内側にはいくつもの屋根が重なり、さらに奥には周囲より頭一つ高い建物も見える。
二人が初めて訪れる、本格的な人間の街だった。
気づいたアスカの足が止まる。
「……街だ」
弾んだ声に、サワラも少しだけ目を細めた。
里を出てから小さな集落や旅人向けの休憩所を利用することはあった。それでも、多くの人々が暮らし、商売をし、外から来た者を受け入れるほど大きな街へ入るのは初めてだった。
「走らないでよ。門の前で息を切らしてたら恥ずかしいから」
「走らないって。ちょっと歩くのが速くなるくらい」
「もう速くなってるよ」
そう言いながら隣に並んだサワラ自身も、いつの間にか歩幅が大きくなっている。
アスカがそれに気づいて笑ったが、今度はサワラも否定しなかった。
◇ ◇ ◇
街へ入る者たちの列は、思っていたより早く進んだ。
門の前には武装した兵士が立ち、旅人の身分や荷車の中身を確認している。自分たちの順番を待っている間にも、アスカの視線は忙しなく動いていた。
「サワラ、前の人」
小声で呼ばれ、示された方を見る。
列の少し先を歩いている者の頭には、人間にはない獣の耳が生えていた。腰から伸びた尾も、歩くたびにゆっくり左右へ揺れている。
「獣人だね。習った通りだけど、あんまりじろじろ見たら失礼だよ」
「分かってる。でも、本当に耳って動くんだね」
「そこまでは本に書いてなかったからね」
サワラ自身も興味はあった。知識として存在を知っていることと、同じ道の上を歩いている姿を見ることはやはり違う。
その直後、反対側を歩く小柄でがっしりした男を見つけたアスカが再び何かを言おうとしたので、サワラは先回りする。
「今度はドワーフでしょ」
「まだ何も言ってないんだけど」
「顔に書いてあった」
「便利だね、その能力」
「アスカが分かりやすいだけだよ」
そんなやり取りをしているうちに列は進み、やがて二人の番が来た。
門番は二人の身分証と荷物を確認し、腰にある武器へ目を向ける。
「旅人だな。街中では武器を抜くな。揉め事があっても勝手に手を出さず、必要なら衛兵を呼べ」
「分かりました。しばらく滞在する予定なので、気をつけます」
サワラが答えると、隣のアスカも素直に頷いた。特に問題はなかったらしく、門番が道を空ける。
「よし、入っていい」
礼を告げて門をくぐった、その数歩先。
二人を包む音が一気に変わった。
荷車の車輪が石を踏む音、店先から客を呼び込む声、どこかで金属を叩く規則的な響き。人々の話し声に笑い声が重なり、さらに奥からは動物の鳴き声まで聞こえてくる。
森にも音は満ちていた。しかし、鳥や虫、風や水が作っていた里の音とは違い、ここにあるもののほとんどは人の暮らしから生まれている。
「……すごいね、これ」
珍しく少し静かなアスカの声に、サワラも返事をせず街を見渡した。
石と木で造られた建物が道の両側へ並び、一階をそのまま店にしている場所も多い。軒先には商品が吊られ、その前を人間だけでなく獣人やドワーフが行き交っている。
音だけではない。焼いた肉の脂、香辛料、果物、煙、土、熱された金属。森では嗅いだことのない匂いが幾重にも混ざり、風向きが変わるたび別のものが鼻をくすぐった。
「サワラ、あれ何?」
アスカが早くも露店を指している。
大きな鉄板の上に薄い生地を広げ、刻んだ肉と野菜を乗せて香辛料を振っていた。サワラにも料理名までは分からない。
「知らない。でも食べるのは宿を取ってからね。荷物を背負ったまま一日中歩くつもり?」
「一個くらいなら今でも食べられるよ」
「食べられるかどうかじゃなくて、先に宿。そのあと冒険者ギルドへ行って、登録が終わったら好きに見ればいいでしょ」
アスカは未練がましく露店を見たあと、自分の背負っている荷物を振り返るような仕草をした。
「……じゃあ、あとで絶対戻ってこよう」
「覚えてたらね」
「こういうのは絶対覚えてるから」
その返事だけは妙に自信があった。
◇ ◇ ◇
宿へ荷物を置くと、アスカは宣言通り先ほどの露店へ戻った。
薄く焼かれた生地に肉と野菜を巻いた料理を二つ買い、受け取るなり一口かじる。数回噛んだところで目を見開いた。
「辛い。でもこれ、かなり好きかも。サワラも食べてみて」
勧められるまま口にすると、最初に焼いた肉の脂と香ばしさが広がり、そのあとを追うように強い香辛料の刺激が舌へ残った。里でも香草は使っていたが、ここまで味を強くする料理はあまりない。
「確かに辛いね。でも肉には合ってる」
「でしょ? 外の料理ってこういう感じなのかな」
「一品食べただけで決めるのは早いよ。これからいくらでも違うものがあるでしょ」
その言葉を証明するように、少し歩けば果実を絞った飲み物や焼き菓子、串に刺した肉、見覚えのない野菜が次々と目に入る。
すべてに足を止めていたら日が暮れるので、サワラは菓子の前で動かなくなったアスカの背中を押した。
「帰りにね。先にギルド」
「見てただけなのに」
「足まで止まってたよ」
不満そうではあったが、アスカも今度は素直に歩き始める。
しばらく進んだところで、今度はサワラの方が立ち止まった。
建物の外壁に、小さな魔法陣が一定間隔で刻まれている。
「これ……たぶん照明だ」
近づいて術式を目で追う。魔力を蓄える部分と発光術式が繋がっているが、里で使われていたものより構造が単純で、効率だけを考えるなら削れる部分も多い。
それでも無駄というより、誰でも扱えるよう意図的に分かりやすく組まれているように見えた。
「サワラ」
「ちょっと待って。ここの接続、たぶん魔力の流れを安定させるために――」
「ギルド」
肩を掴まれ、ようやく顔を上げる。
アスカが楽しそうに笑っていた。
「人のこと言えないじゃん。僕が食べ物見てる時と何が違うの?」
「全然違うよ。これは術式の研究だから」
「僕だって料理を研究してる」
「食べたいだけでしょ」
「サワラだって見たいだけじゃん」
否定しようとして、サワラは口を閉じた。
少なくとも、魔法陣の前から動かなくなっていたという点では同じだった。
「……帰りに見る」
「じゃあ僕も帰りにお菓子買う」
「それとこれは別」
「ずるいなあ」
そんな話をしながら歩いていると、剣と杖を組み合わせた意匠の看板が見えてきた。
冒険者ギルド。
今度は二人とも寄り道をせず、その扉をくぐった。
◇ ◇ ◇
ギルドの中は、街とはまた種類の違う喧騒に満ちていた。
革と金属、それに酒の匂いが混じり、壁際の大きな掲示板には何枚もの依頼書が貼られている。武器を背負った者たちがその前に集まり、奥に併設された酒場では昼間から杯を傾けている冒険者もいた。
「思ってたより、ちゃんと冒険者ギルドだね」
「どういう想像してたの?」
「もっと役所みたいに静かな場所かと思ってた。資料で見た時は、音までは分からなかったし」
それなら分からなくもない。
受付の列へ並び、順番を待っている間にもアスカは掲示板の依頼を眺めていたが、サワラは今度こそ寄り道させなかった。
やがて順番が来る。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
「二人とも、冒険者登録をお願いします」
受付の女性から渡された用紙を受け取り、二人は記入台へ移動した。
名前、年齢、種族、使用武器、得意分野。
サワラは上から順に書いていく。
サワラ・ユグ・ザラク。二百歳。ハイエルフ。
年齢を書いた時には、これを人間が見たらどう思うのだろうと一瞬だけ考えたものの、嘘を書く理由もない。そのまま次へ進み――そこで筆が止まった。
隣を見ると、アスカもまったく同じ場所で止まっている。
性別。
男、女。
用意されている選択肢は二つだけだった。
「……ないね」
「ないね。空欄でいいのかな」
里では必要になったことのない項目だった。性が定着していない者など珍しくもなく、それをわざわざ書類へ記載する理由もなかったからだ。
勝手に判断するより聞いた方が早い。
二人で受付へ戻り、サワラが用紙を示す。
「すみません。この性別の欄なんですが、僕たちに該当するものがありません。空欄でも大丈夫でしょうか?」
受付の女性が一度瞬きをした。
「該当しない、というのは……男性でも女性でもないということでしょうか?」
「今はそうです。ハイエルフは生まれた時には性別を持たなくて、自分自身で性を認識した時に身体も定着するので、僕たちはまだどちらでもありません」
女性はサワラを見たあと、アスカへ視線を移す。困惑というより、知らないものをどう処理すればいいのか考えている顔だった。
「少々お待ちください。確認してまいります」
奥へ向かった女性を見送り、アスカが小声で尋ねる。
「僕たち、面倒な客になってない?」
「制度に項目がないだけだから、僕たちが悪いわけじゃないよ。それにハイエルフ自体、この辺じゃ珍しいんじゃない?」
しばらくして、別の職員と相談を終えた女性が戻ってきた。
「お待たせしました。性別欄は空欄で構いません。こちらで補足しておきます。私もハイエルフの方の登録を担当するのは初めてでして、勉強不足で申し訳ありません」
「いえ、僕たちも人間の冒険者ギルドに登録するのは初めてなので、お互い様ですよ」
横からアスカがそう返すと、女性も小さく笑った。
サワラは再び用紙へ視線を落とす。
里では一度も問題にならなかったことが、ここでは最初から想定されていない。
どちらが正しいという話ではない。
ただ、暮らしてきた場所が違えば、当たり前だと思っているものも変わる。
その違いを、サワラは初めて自分自身のこととして感じていた。
◇ ◇ ◇
登録を終えた二人は、そのまま併設された酒場で遅めの昼食を取ることにした。
厚く切った肉を焼いたものと野菜の煮込み、それに黒っぽいパンを頼む。パンは里で食べていたものよりかなり硬かったが、周囲の冒険者を真似して煮込みへ浸すとちょうどよく柔らかくなった。
「こうやって食べるんだ。サワラ、よく分かったね」
「向こうの人たちがやってたから。外では分からないことが多いし、周りを見るのが一番早そう」
「なるほど。じゃあ僕はサワラ見てればいい?」
「自分でも見てよ」
アスカが笑いながら肉へ手を伸ばした、その時だった。
「なあ、あんた」
声をかけられ、二人が同時に顔を上げる。
立っていたのは若い冒険者だった。視線は明らかにアスカへ向いている。
「さっき登録してたよな。この街は初めてか? もしそうなら、あとで案内しようかと思ってさ。美味い店とか、結構知ってるんだ」
少し緊張した声と表情を見て、サワラは何となく意図を察した。
しかし、アスカは気づいていないらしい。
「ありがとうございます。でも今日はサワラと街を見る予定なので、大丈夫です」
「ああ、そっか。二人で来てるんだな」
男は残念そうにしながら、今度はサワラを見る。
「もしかして、二人ってそういう関係?」
「そういう?」
アスカが本気で首を傾げたので、サワラは手にしていたパンを置いた。
「たぶんその人、アスカを女性だと思って声をかけたんじゃない?」
数秒の沈黙が落ちた。
「……僕?」
自分を指さすアスカに、今度は男の方が固まる。
「違うのか?」
「女性ではないですよ。というか、まだ男性でも女性でもないです」
「……え?」
先ほどの受付とは違い、完全に理解が追いついていないらしい。男はアスカとサワラを交互に見たあと、困ったように頭を掻いた。
「そういう種族……なのか?」
「そういう種族です。だから気にしなくて大丈夫ですよ。女性だと思われたことも、別に嫌ではないので」
アスカが普段通りに答えると、男は少しだけ安心したようだった。
「ならよかった。邪魔して悪かったな」
男が去ったあと、アスカはようやく納得したようにその背中を見る。
「普通に親切な人だと思ってた」
「初対面の人に街を案内してもらおうとしないでよ。悪い人じゃなかったからよかったけど、外ではもう少し警戒して」
「でも断ったでしょ?」
「理由が『サワラと回るから』だったよね。僕がいなかったらついていった可能性あるでしょ」
少し考えてから、アスカは目を逸らした。
「……そこは今後気をつけます」
「そうして」
二人にとって性別が定まっていないことは、説明するほどのことでもない日常だった。
けれど、外の人間は見た目から相手の性を判断し、それを前提に関係を作ろうとすることがある。
ギルドで感じた「制度の違い」とはまた別の形で、自分たちの普通が通じない。
サワラには、それが少し面白く思えた。
◇ ◇ ◇
酒場を出る頃には午後の日差しが傾き始めていたが、アスカの好奇心はまだ尽きていなかった。
露店の並ぶ通りを歩き、旅用の香草を売っている店で小瓶を手に取る。
「これ買おうよ。保存した肉にも使えるって」
「荷物増えるよ」
「このくらいなら大丈夫でしょ。旅の途中でも美味しい方がいいし」
二人のやり取りを聞いていた年配の店主が、楽しそうに笑った。
「仲がいいな。ずっと一緒に旅してるのか?」
「里を出てからはずっと一緒です。その前から長いですけど」
アスカが答えると、店主は二人を見比べる。
「てっきり夫婦かと思ったが、違うのか?」
「友達ですよ」
今度はアスカもすぐに答えた。
店主は「ああ、そうか」と頷きかけ、それでも何か引っかかったのか、二人をもう一度見比べた。
「しかし……最初はそっちが奥さんだと思ったんだが、よく見ると二人ともどっちか分からんな」
「どっちか分からなくて合ってますよ」
サワラが笑って返す。
ここでまた最初から説明する必要もないと思い、それ以上は続けなかった。
店主も深く追及することはなく、「世の中いろんな旅人がいるもんだ」と笑い、香草の瓶をアスカへ渡した。
「旅の途中なら持っとけ。保存肉の臭みが多少ましになる」
「ありがとうございます。じゃあ、これください」
代金を払い、店を離れる。
少し歩いたところでアスカが小瓶を眺めながら口を開いた。
「さっきの人、あんまり気にしなかったね」
「知らないから驚く人もいれば、そういうものなんだって終わる人もいるんじゃない? 僕たちだって今日、獣人の耳が本当に動くのを見て驚いたし」
「確かに。知らないものを見てるのは、お互い様か」
その言葉に、サワラは少しだけ笑った。
外の世界が自分たちをどう見るのか。
里にいた頃は考えたこともなかったが、それを知ることも旅の一部なのかもしれない。
◇ ◇ ◇
夕方が近づくにつれ、街の空気は目に見えて変わっていった。
朝から商売をしていた者が店を片づける一方で、これから酒や食事を売る露店が準備を始める。職人たちは今日の仕事を終わらせようと手を動かし、商人は残った商品を売り切ろうと声を張り上げていた。
「明日の朝には出るぞ! 次に来るのは十日後だ、買うなら今日にしてくれ!」
通りの向こうから聞こえた声に、アスカが足を止める。
「十日後って、そんなに待つ感じなのかな。僕たちならすぐだよね」
「人間にとっては、僕たちとは違うんだろうね」
人間の寿命については学んでいた。
けれど数字として知っていることと、その時間を生きる人々の暮らしを見ることは違う。
二人なら一つの術式を調べているうちに十日が過ぎることもある。何年も同じ研究を続ける者だって里には珍しくなかった。
この街では、一日ごとに仕事があり、商品の仕入れがあり、約束や期限がある。
朝と夕方ですら、同じ通りの顔ぶれが変わっていく。
「なんか、みんな忙しいね」
「うん。でも嫌な感じじゃない。止まってないっていうか……街そのものがずっと動いてる感じがする」
サワラの言葉に、アスカも通りを眺めながら頷いた。
同じ世界に生きているのに、時間の重さまで同じとは限らない。
その違いは、書物で寿命の数字を覚えるだけでは分からないものだった。
◇ ◇ ◇
日が沈み始めると、街のあちこちに灯りがともった。
昼間にサワラが立ち止まった外壁の魔法陣にも魔力が流れ込み、淡い光が周囲を照らしている。
「やっぱり照明だった」
サワラが近づくと、アスカも隣へ並んだ。
昼間はただ刻まれているだけだった線の中を、今は実際に魔力が巡っている。その流れを追えば、里の術式より明るさを抑える代わりに、消費する魔力を少なくしていることが分かった。
「街中にたくさん置くなら、こっちの方が便利なのかもね。少ない魔力で長く使えるようにしてる」
「サワラ、楽しそう」
「面白いからね。実際に動いてるところを見ると、昼間には分からなかった部分も――」
言いかけて、アスカの笑っている顔に気づく。
「何?」
「僕が料理見てる時と同じ顔してるなと思って」
「まだ言うの、それ」
「だって同じじゃん。僕は知らない料理が気になる。サワラは知らない魔法が気になる」
今度は、サワラも否定しなかった。
視線を魔法陣から外し、夕暮れの街を見る。
昼とは違う店が開き、仕事を終えた職人たちが酒場へ入っていく。走って家へ帰る子供の横を獣人が通り、その向こうではドワーフが店主と大声で笑っていた。
里を出る時、サワラにはアスカほど外の世界への強い憧れがあったわけではない。
アスカが行きたいと言ったから、一緒に来た。
それは今も間違っていない。
けれど、それだけではなくなり始めている。
「サワラも、外に来てよかったでしょ?」
隣から聞かれ、サワラは素直に頷いた。
「うん。来てよかったよ。まだ知らないことばっかりだけど、それを自分で見られるのは結構楽しい」
「でしょ? じゃあ明日は依頼見に行こう。冒険者登録したんだから、一個くらいやってみたい」
「最初は内容をちゃんと見て決めようね。里での訓練と実際の仕事は違うんだから」
「そういうところ、サワラが一緒でよかった」
あまりにも自然に言われ、サワラは一瞬だけ返事を忘れた。
「……僕がいなかったらどうするつもりだったの?」
「その時は自分で考えてたよ。たぶん」
「最後の一言で全部信用できなくなった」
笑いながら歩き出したアスカを追い、サワラも魔法陣から離れた。
◇ ◇ ◇
宿へ戻る途中、昼間にアスカが足を止めていた焼き菓子の店を通った。
何も言わずに立ち止まったアスカを見て、サワラも足を止める。
「……約束、覚えてたんだ」
「もちろん。帰りに買うって言ったじゃん」
「まだ食べるの?」
「甘いものは別だから」
結局、二つ買った。
外側を少し硬めに焼いた生地の中には、甘く煮た果実が詰められている。歩きながら一口食べたサワラが思わず「美味しい」と漏らすと、アスカがすぐに振り向いた。
「サワラも今日そればっかりじゃん」
「今日は初めて食べるものばかりなんだから仕方ないでしょ」
「明日もたぶん言うよ」
「それは明日になってからのお楽しみだね」
二人は並んで、夜へ変わり始めた街を歩く。
里では夜になれば、必要な場所にだけ灯りを置き、あとは月や星の光に任せていた。
けれど、この街は暗くなっても眠らない。
酒場から笑い声が聞こえ、通りにはまだ多くの人が行き交い、壁に刻まれた魔法の灯りがその足元を照らしている。
「ねえ、アスカ。外に出たいって言ってた時、こういう場所を想像してた?」
聞かれたアスカは、焼き菓子を食べながら少し考えた。
「全然。もっとすごいものを想像してた気もするし、逆にもっと普通だと思ってた気もする。でも実際に来てみたら、そのどっちとも違った」
「僕もそんな感じ」
「だから来たかったんだよ。聞いただけじゃ分からないことって、やっぱりあるから」
その言葉を聞きながら、サワラは今日一日を思い返した。
獣人の耳が感情に合わせて動くことも、ドワーフの笑い声が思っていたよりずっと大きいことも、人間の街の料理が濃い味付けであることも知らなかった。
里とは違う考え方で組まれた魔法があり、人間たちは自分たちより短い時間の中で、朝から夜まで絶えず街を動かしている。
そして、自分たちが当たり前だと思っていた身体の在り方も、ここでは珍しい。
けれど、それはどちらかがおかしいという話ではなかった。
違う場所で、違う時間を生きてきた。
だから知らない。
ただ、それだけだった。
少し先を歩いていたアスカが、人混みの中で振り返る。
「サワラ、置いてくよ」
「置いていかれるほど離れてないよ」
そう返しながら追いつき、再び隣へ並ぶ。
二百年の間、何度も繰り返してきたことだった。
アスカが少し先へ行き、サワラがそれを追う。
変わったのは、その周囲にある景色だった。
世界樹は見えず、森の匂いもしない。行き交う者たちのほとんどは名前すら知らない他人で、頭上には見慣れない術式から生まれた光が並んでいる。
それでも、隣を歩いている相手だけは変わらない。
「明日の朝、寝坊しないでね。今日楽しかったからって、遅くまで起きてそうだし」
「しないって。それよりサワラこそ、僕が寝たあとであの魔法陣を調べに戻らないでよ」
返事をしなかったサワラを見て、アスカが目を細める。
「……戻るつもりだった?」
「少しだけ」
「駄目。今日は宿に帰る」
「分かってるよ。明日また見ればいいでしょ」
明日。
その言葉が、里にいた頃より少しだけ楽しみに感じられた。
明日は初めて依頼を受けるかもしれない。その先では別の街へ行き、知らない国を歩くことになるかもしれない。
どんな人と出会い、どれほど長く旅をするのか。
今はまだ何も決まっていない。
それでも二人は、行き先を急いで決めようとはしなかった。
知らないなら、自分たちの目で見ればいい。
アスカが先に歩き、サワラが隣へ追いつく。
そうして二人は、灯りの続く通りを宿へ向かって歩いていった。
長い旅は、まだ始まったばかりだった。




