第3話 世界を見に行こう
世界樹の森には、外から入ってくる風がある。
木々の間を抜け、幾重もの枝葉を揺らしながら里の奥へ届く頃には、ほとんど森の匂いに馴染んでしまう。それでも時折、湿った土とも世界樹の葉とも違う、サワラの知らない匂いが混じっていることがあった。
以前なら気にも留めなかった。
今は、その風がどこを通ってきたのか、少しだけ考えることがある。
「サワラ、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「絶対聞いてなかったでしょ」
向かいから飛んできた声に、サワラは窓から手元へ視線を戻した。
木造の小さな机には、書き込みだらけの紙が何枚も広げられている。中心に基本となる魔法陣があり、そこから伸びた細い線の途中には、里で教わる術式にはない記号がいくつも加えられていた。
成人の儀を終えてから、二人は外界で生きるための学びを続けてきた。
魔法や戦闘だけではない。他種族の文化、国や街、言語、貨幣、魔物への対処まで、森の外で必要になるものは多い。
前世の記憶も、その学び方へ少なからず影響していた。
以前の世界に魔法は存在しなかったが、だからこそ教えられた術式を完成されたものとして受け取らず、構造そのものを分解して考える癖がついた。
どこから魔力を入れ、どこで性質を変え、どのような形で現象として出すのか。
結果が同じなら工程を減らせないか。一つの術式を分割して制御すれば、別の使い方ができないか。
前世の知識そのものが魔法になるわけではない。この世界には、この世界の法則がある。それでも異なる考え方を持ち込んで、試し、失敗し、その理由を探して組み直すことはできた。
サワラは術式の一部を指でなぞった。
「アスカが言ってたの、ここでしょ?」
「そう。そこ。さっきから三回くらい呼んだんだけど」
「考えてたんだよ。ここの魔力、一度分けないで流した方が効率いいかもしれない」
アスカが机へ身を乗り出す。
「でも、それだと最後に流れがぶつからない?」
「途中で方向だけ変える。量を分けるんじゃなくて、一本のまま曲げる感じ」
「できる?」
「たぶん」
「たぶんかあ」
「やってみないと分からないでしょ」
そう答えながら、サワラは新しい紙を引き寄せた。
「最近そういうところ大胆になったよね」
「誰のせいだと思ってるの?」
「僕?」
「失敗するたびに『次やればいい』って言い続けたの、アスカだからね。研究部屋の壁を焦がした時もそうだったし」
「あれはちゃんと直ったじゃん」
「僕が直したんだよ」
アスカが気まずそうに目を逸らす。
サワラは小さく息を吐き、紙へ線を引き始めた。
途中で一度消し、別の経路へ繋ぎ直す。その横でアスカも考え始め、気づけば二人とも会話を忘れて術式へ没頭していた。
こうなると長い。
結局、訓練の時間が迫っていることに気づいたのは、開いた窓から呆れた声をかけられてからだった。
「二人とも、まだそこにいるの?」
同時に顔を上げる。
見知ったハイエルフが窓の外から二人を見ていた。
「今日の訓練、忘れてないよね?」
アスカがサワラを見る。
サワラも見返した。
「……忘れてた?」
「サワラが始めたんじゃん」
「途中からアスカも考えてたでしょ」
「僕は止めようとしたよ」
「最初だけね」
窓の外から深いため息が聞こえた。
「言い訳は歩きながらにして。もうみんな集まってるよ」
「今行く!」
アスカが立ち上がり、サワラも書きかけの場所へ印をつけて紙を重ねる。
外へ出た時には、アスカはもう少し先にいた。
「ほら、早く」
「誰のせいで遅れたと思ってるの」
「半分ずつってことにしよう」
「僕の方が多くない?」
「気のせい」
成人した頃から色々なものが変わったはずなのに、こういうところだけは変わらない。
サワラは呆れながら、その背中を追った。
◇ ◇ ◇
訓練場は里の外縁に近い。
魔法や武器を扱うため世界樹の太い根や住居から距離を取り、多少術が逸れても被害が出ないだけの広さが確保されている。
二人が到着した時には、他の者たちはすでに準備を終えていた。
「遅い」
「ごめん」
アスカが素直に謝り、サワラも続いて頭を下げる。
「研究していたら時間を忘れました。すみません」
「またか。……まあいい。今日は二人でやってもらう」
その言葉を聞いた途端、アスカが楽しそうに笑った。
「サワラと?」
「そうだ。最近は術式ばかり弄って、まともに相手をしていないだろう」
確かに、実戦形式で向かい合うのは久しぶりだった。
「武器は?」
「使っていい。ただし訓練用だ」
サワラは並べられた武器から細身の剣を選び、何度か手首を返して重心を確かめる。普段使うものとはわずかに感覚が違うが、支障が出るほどではない。
向こうではアスカも剣を取っていた。
「準備できた?」
「いつでも」
距離を取った瞬間、それまでの軽い空気が消えた。
互いの癖は知っている。
得意な距離も、仕掛ける時の僅かな身体の動きも、魔法へ移る直前の魔力の流れも、長い訓練の中で嫌というほど見てきた。
だからこそ、単純な攻撃ほど通じない。
開始の合図と同時に、アスカが地面を蹴った。
一気に間合いを潰して振り下ろされた剣を、サワラは半歩退きながら斜めに受ける。正面から力を競うつもりはないらしく、刃が触れた瞬間にはアスカが剣を滑らせ、そのまま軌道を変えて脇へ回り込もうとしていた。
サワラは身体を捻って二撃目を外すと、左手へ集めていた魔力を解放する。
足元から巻き上がった風がアスカの身体を押した。
「それ、前より速くなってない?」
「喋ってる余裕あるの?」
「あるよ」
アスカは抗うのではなく、押してくる風へ身体を預けた。
回転する勢いをそのまま剣へ乗せ、横薙ぎの一撃へ変える。
サワラは即座に身を沈めた。頭上を刃が抜け、その下から懐へ踏み込もうとしたところで、今度はアスカの方が素早く距離を外す。
追えば誘われる。
そう判断したサワラは足を止めた。
アスカもそれ以上は下がらない。
互いの視線が一瞬だけ重なった直後、今度はほぼ同時に魔力が動いた。
サワラの放った風が地面すれすれを走り、アスカは身体をずらしながら別の魔法を重ねて軌道を逸らす。弾けた風が砂を巻き上げて視界を遮ったが、その程度で止まる相手ではない。
砂煙の向こうから足音が右へ抜けた。
サワラは追わなかった。
姿を目で捉えようとせず、周囲の魔力だけを探る。
右側に残った気配が囮だと気づいた時には、背後から空気が動いていた。
「やっぱり」
振り返るより早く剣を背後へ回す。
硬い金属音とともに、回り込んでいたアスカの刃が止まった。
「読まれた」
「何回やったと思ってるの」
「じゃあ、これは?」
アスカの声と同時に、足元で押し隠されていた魔力が膨らんだ。
サワラは剣を押し返す反動を利用して横へ跳ぶ。直後、立っていた場所を魔法が突き抜けた。
だが、着地を狙われる。
地面へ足が触れた瞬間にはアスカが間合いへ入っており、次の斬撃が脇腹へ迫っていた。
避ける余裕はない。
サワラは剣を最短距離で返し、相手の刃を外側へ押しながら自分も一歩踏み込んだ。
互いの動きが、そこで止まる。
サワラの剣先はアスカの肩。
アスカの剣先はサワラの脇腹。
どちらも、あと僅かに踏み込めば届く位置だった。
「そこまで」
声が飛び、二人は同時に力を抜いた。
「引き分け?」
アスカが尋ねる。
「今の一合ならな」
「サワラ、最後のやつ避けるの早すぎない?」
「魔力が見えたから。前より隠すのは上手くなってたよ」
「それ褒めてる?」
「一応」
訓練用の剣を戻していると、指導していたハイエルフが二人を見ながら何気なく言った。
「二人とも、もう外でも十分やっていけるだろうな」
サワラの手が止まる。
外。
その一言だけが、妙に耳へ残った。
隣を見ると、アスカも聞いていた。
けれど、その場では何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
いつからか、二人は里でも十指に入るほどの実力を持つと言われるようになっていた。
最初から特別に強かったわけではない。
ハイエルフという種族そのものが高い魔力と適性を持ち、その中で抜きん出るには相応の積み重ねが必要になる。
前世の記憶を取り戻したことも、突然二人を強くしたわけではなかった。
ただ、考え方が増えた。
失敗した時、別の角度から理由を探せるようになり、それを長い時間繰り返した結果として今がある。
学んだのは戦い方だけでもない。
人間や獣人、ドワーフをはじめとする種族。国や街の仕組み、貨幣、旅の常識、魔物や盗賊への対処。
戦闘についても、勝つ方法だけを教わったわけではなかった。
魔力が使えない状況でどうするのか。複数の敵を相手にするならどう動くのか。守る者がいる時は何を優先するのか。そして、そもそも戦わず逃げるべき状況をどう見極めるのか。
外で生きるとは、強ければ済む話ではない。
そうしたものを身につけ、ようやく二人は一人のハイエルフとして里の外へ出ることを認められた。
もちろん、出なければならないわけではない。
里へ残る者もいる。
サワラも、それで構わないと思っていた。
世界樹の森は好きだった。
静かで穏やかで、研究したい魔法もまだいくらでもある。森の中にさえ、自分の知らない場所は残っている。
わざわざ外へ出なければならない理由など、自分にはない。
そのはずだった。
◇ ◇ ◇
「外の世界、自分の目で見てみたいんだよね」
その言葉を聞いたのは、訓練から数日後だった。
二人は昔から使っている世界樹の根元に座っていた。
サワラが読んでいた本から顔を上げる。
「外って、里の外?」
「うん。旅してみたい」
アスカはあまりにも普通に答えた。
その声で、冗談ではないと分かる。
「いつから考えてたの?」
「結構前から。昔も言ったじゃん、いろんなところを見てみたいって」
成人の儀を終えた頃、二人でここへ座っていた夜のことを思い出す。
確かにアスカは、いつか外へ行きたいと言っていた。
あの時は、まだ遠い未来の話だった。
「まだ覚えてたんだ」
「そりゃ覚えてるよ。外のこといっぱい習ったじゃん。国とか街とか、他の種族とか。知れば知るほど、自分で見たくなった」
「危ない場所もあるよ」
「知ってる」
「魔物もいるし、ハイエルフだって知られたら面倒なことになるかもしれない」
「それも習った」
迷いのない返事だった。
サワラには分かる。
アスカは普段こそ思いついたことへすぐ飛びつくが、大きなことほど意外なほど長く考える。こうして口にした時には、もう自分の中で答えを出しているのだ。
「本気なんだ」
「うん」
「どこに行きたいの?」
「まだ決めてない」
「……本気なんだよね?」
「そこ疑うところ?」
アスカが笑った。
「最初から一か所に決めたら、そこへ行くための旅になっちゃうじゃん。僕は世界を見たいんだよ。街にも行きたいし、海も見たい。山だって行きたいし、人間の国も他の種族が暮らす場所も見てみたい」
話しているうちに、その声が少しずつ弾んでいく。
「知らない料理も食べたいし、知らない魔法があるなら見たい。前の世界じゃ、本当に魔法がある場所を旅するなんて考えもしなかったでしょ? だったら、せっかくここにいるんだから見てみたい」
壮大な使命があるわけではない。
誰かを救いたいわけでも、前世の知り合いを探すためでもない。
ただ、知らないものを自分の目で見たい。
それだけだった。
そして、それが何よりアスカらしかった。
「サワラは?」
「僕?」
「外、見たくない?」
聞かれて、サワラは少し考えた。
興味がないわけではない。
海は見てみたいし、里とは違う魔法にも興味がある。
けれど、それは今の暮らしを捨ててまで欲しいものなのかと問われれば、すぐには答えられなかった。
「僕は今の暮らしも好きだよ。研究したいこともあるし、里に不満があるわけでもない。だから、ずっと外へ出たいと思ってたわけじゃない」
「そっか」
アスカはそれだけ答えた。
一緒に来いとは言わない。
サワラは少しだけ横顔を見る。
「誘わないの?」
「来たいの?」
逆に聞かれ、言葉に詰まった。
アスカが笑う。
「だったら誘わない。サワラが行きたいなら一緒に行けばいいし、ここにいたいならいればいいじゃん」
「一人で行くの?」
「そのつもり」
あまりにも普通に言われたせいで、胸の奥に小さなものが引っかかった。
「いつ?」
「準備できたら。そんなに先にはならないと思う」
「そっか」
会話はそこで終わった。
アスカは立ち上がる。
「じゃあ僕、旅に必要なもの聞いてくる。またあとで」
「うん」
歩いていく背中を、サワラは見送った。
いつもなら、そのうち自分も立ち上がって追いつく。
今日は本を開いた。
途中だったページへ目を落とす。
けれど何度同じ場所を読んでも、内容が頭に入ってこなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、サワラは研究室で昨日の術式と向き合っていた。
魔力の経路を一つ減らすため、中央の構造から書き換える。考えるべきことは分かっているのに、線を引いては止まり、消しては同じ場所へ戻ってしまう。
窓の外から足音が聞こえるたび、無意識に顔を上げた。
「サワラ」
今度こそ聞き慣れた声がして、すぐに振り向く。
窓の外にはアスカがいた。
「これ、借りていい?」
持っているのは外界の地理や主要な街道についてまとめられた本だった。
「僕のじゃないんだから、聞かなくてもいいでしょ」
「一応ね」
アスカは中へ入り、本を抱えたまま机を覗き込む。
「まだ昨日のやつやってるの?」
「うん」
「見ようか?」
「旅の準備は?」
「してるよ。だからこれ借りに来たんじゃん」
以前なら勉強のために読んでいた本が、アスカにとっては実際に使うものへ変わっている。
「……本当に一人で行くつもり?」
「そのつもりって昨日言ったよ」
「危ないよ」
「サワラ」
アスカの声から少しだけ軽さが消えた。
「そのためにずっと勉強してきたんでしょ。戦い方も習ったし、外で生きるために必要なことも覚えた。危険がないとは思ってないけど、危ないってだけで行かない理由にはならないよ」
正論だった。
アスカは無謀なのではない。
危険を知らないわけでも、一人で何もできないわけでもない。
「そうじゃなくて……」
言いかけて、止まる。
では何なのかと考えても、自分で答えが見つからない。
「……何でもない」
「そっか」
アスカは追及しなかった。
そのことが、なぜか少しだけ腹立たしい。
「午後は食料のこと聞いてくるから」
「保存方法も確認した方がいいよ。里のやり方が外でいつでも使えるとは限らないし、水も魔法だけに頼らない方がいい。野営するなら火を使えない場所も――」
そこまで言って、サワラは口を閉じた。
アスカが笑っている。
「何?」
「いや。すごい手伝ってくれるなと思って」
「気づいたこと言っただけ」
「ありがと」
素直に礼を言われると、何も返せなくなる。
アスカが出ていったあと、サワラは机の端へ何気なく文字を書いた。
食料、水、野営道具、薬、外套、地図。
そこまで書いてから手が止まる。
「……何してるんだろ、僕」
紙を裏返した。
けれど、捨てることはできなかった。
◇ ◇ ◇
数日もすると、アスカの周りには旅道具が増え始めた。
経験のある者から話を聞き、必要なものを一つずつ揃えている。
それを見て、サワラはようやく実感した。
本当に行くのだ。
いつかではなく、近いうちに。
その日の午後、サワラは一人で森を歩いた。
目的地を決めたつもりはなかったが、気づけば幼い頃によく通った道を選んでいた。
そこで一本の木の前に立ち止まる。
昔は膝ほどの若木だった。
葉が一枚増えたことを見つけて喜び、アスカに呆れられたこともある。
今では、両腕を回しても届かないほど太い。
サワラは幹へ手を触れた。
「大きくなったなあ」
自分たちも同じなのだろう。
名前を選び、前世を思い出し、魔法を学び、戦う術を身につけた。友人たちもそれぞれの時間を歩いている。
それでもアスカだけは、いつも近くにいた。
ずっと一緒にいると約束したことなどない。
だから、外へ行きたいと言われても引き止める理由はない。
サワラは木の根元へ腰を下ろした。
アスカがいなくなった後の里を想像してみる。
朝起きて、研究して、森を歩く。友人と話し、時には一人で過ごす。
生活には困らない。
一人でできないことなど、ほとんどない。
けれど、その未来はどこか不自然だった。
そこでようやく気づく。
自分は、里に残ることを選んだわけではなかった。
ここにいることが当たり前だったから、そのまま暮らしていただけだ。
アスカが外へ行くと決めたことで、初めて自分にも選択肢があるのだと気づいた。
外への強い憧れは、今もない。
それでも知らない魔法には興味がある。
知らない文化も、里にはない景色も見てみたい。
そして何より――。
アスカが初めて海を見た時、何を言うのか。
知らない街を歩いた時、どこへ目を向けるのか。
初めて見る魔法に出会った時、どんな顔をするのか。
それを隣で見ていたい。
「……そっか」
口にすると、胸の中にあった引っかかりがようやく形になった。
外の世界そのものに、アスカと同じだけ憧れる必要はなかった。
サワラは立ち上がり、服についた土を払う。
里へ戻る足取りは、来た時より少し速くなっていた。
◇ ◇ ◇
アスカは広場で旅道具を仕分けていた。
「これはいる。これは……どうだろ」
「アスカ」
顔を上げる。
「ちょうどよかった。これ、いると思う?」
差し出された小さな調理器具を見て、サワラはその場へしゃがんだ。
「いるんじゃない? 毎回焼くだけでいいなら別だけど」
「じゃあ持ってく」
「出発、いつにしたの?」
「十日後くらい」
思っていたより早い。
それでも、不思議と驚かなかった。
「そっか。じゃあ僕も準備しないと」
アスカの手が止まった。
「……来るの?」
「行くよ」
「本当に?」
「何その反応」
「来ないと思ってた。里の暮らし好きだって言ってたじゃん」
「好きだよ。今も」
サワラは荷物の一つを持ち上げ、重さを確かめる。
「でも、アスカが本気で行くなら僕も行く」
「外、そんなに見たくなった?」
「そこまでじゃない」
「じゃあなんで?」
サワラは少し考えた。
寂しいから。
一緒にいたいから。
外にも興味が出たから。
どれも間違いではない。
けれど、わざわざ全部を説明する必要もない気がした。
「一人で行かせる方が面倒だから」
アスカが目を細める。
「それ絶対、僕を馬鹿にしてるでしょ」
「半分くらいは本気」
「残り半分は?」
「内緒」
「何それ」
不満そうな顔をしたアスカだったが、すぐに笑った。
「じゃあ二人分いるね」
「何が?」
「調理器具」
「一つで足りるでしょ」
「食べる量増えるじゃん」
「鍋を二つにする理由にはならないよ」
さっきまで一人分だった荷物が、会話の中で自然に二人分へ変わっていく。
里を出る。
言葉にすれば大きな決断のはずなのに、アスカと話していると、少し遠くの森へ行く予定を決めている時と大して変わらない。
二人はそのまま夕方まで荷物を整理した。
◇ ◇ ◇
出発までの日々は、驚くほど早く過ぎた。
必要なものを揃え、外界について改めて確認し、世話になった者たちへ挨拶をする。
研究資料をすべて持っていこうとしたサワラと、必要そうなものを片端から詰め込んだアスカは、揃って荷物を減らすよう注意された。
知識として学ぶ旅と、実際に旅へ出ることは違う。
持てるものには限界があり、便利だからという理由ですべてを持っていくことはできない。
何を残し、何を選ぶのか。
それも旅の準備だった。
出発前日の夕方、二人は世界樹の根元へ行った。
幼い頃から何度も座ってきた場所だ。
明日ここを出るのだと思って眺めると、見慣れた景色が少しだけ違って見えた。
世界樹の巨大な幹。
広場と家々。
葉の匂いと、森を通る風の音。
長い時間をかけて、自分たちの日常になったもの。
「寂しい?」
アスカが尋ねる。
「少しね。アスカは?」
「僕も」
「意外」
「僕だって寂しくなるよ。ずっとここにいたんだから」
「そうだね」
「でも、戻ってこられるでしょ」
「うん」
旅立ちは永遠の別れではない。
それでも明日から、朝になれば世界樹が見え、森のどこを歩いても知っている場所へ辿り着ける日常から離れる。
アスカが空を見上げた。
「でも、楽しかったね」
「うん」
それ以上は言わなかった。
思い出を一つずつ並べる必要はない。
二人とも覚えている。
「明日早いよ。寝坊しないでね」
サワラが立ち上がる。
「さわらこそ。夜中に研究始めないでよ」
「今日はしない」
「本当に?」
「アスカが邪魔しなければ」
「じゃあ見張っとこうかな」
「それが一番邪魔」
最後の夜だからといって、特別な言葉は必要なかった。
二人はいつものように言い合いながら、世界樹を離れた。
◇ ◇ ◇
翌朝、森には薄い霧が残っていた。
サワラは荷物を背負い、里の端へ向かう。
腰には旅のために用意した武器。必要最低限まで減らした道具と、最後まで手放せなかった研究資料もある。
前世から持ってきた物は何もない。
あるのは記憶だけだ。
道の先では、準備を終えたアスカが待っていた。
「おはよ」
「おはよう。今日は早いね」
「旅立つ日に寝坊したら一生言われそうだから」
「僕は言うよ」
「だから起きた」
里の者たちも見送りに来ていた。
幼い頃から二人を知る者、一緒に学んだ友人、訓練をつけてくれた者たち。
「本当に二人で行くんだね」
友人の一人が笑う。
「うん」
「アスカが一人で行くって聞いた時よりは安心かな」
「どういう意味?」
「そのままの意味。サワラ、大変だと思うけどよろしくね」
「ちょっと待って!なんで僕がサワラに預けられてるの?」
「ほら、そういうところ」
「えぇ、何が?」
周囲から笑いが起こり、アスカだけが納得していない。
サワラも笑った。
こうしたやり取りもしばらくできなくなるのだと思えば、胸の奥には確かに寂しさがある。
それでも、足を止めたいとは思わなかった。
挨拶を終え、二人は最後に世界樹の前へ立った。
ここから生まれた時、二人には名前も性別も前世の記憶もなかった。
今も性別は定着していない。
けれど、それを不完全だと思うことはもうない。
アスカ・ユグ・アスハ。
サワラ・ユグ・ザラク。
自分で選んだ名前があり、ここで積み重ねてきた人生がある。そして今日、自分たちの意思で次に進む場所を選んだ。
サワラは世界樹の幹へ手を触れた。
ざらりとした樹皮も、その奥から伝わる微かな温度も、幼い頃から知っている。
「行ってきます」
隣からアスカの声がした。
サワラも静かに続ける。
「行ってきます」
返事の代わりに風が吹き、遥か頭上の葉が揺れた。
雨によく似た音が降ってくる。
二人が生まれた時から、何度も聞いてきた音だった。
サワラは幹から手を離す。
「行こっか」
「うん」
二人は里を背にした。
◇ ◇ ◇
最初のうちは、何度も歩いた森だった。
木の位置も道の曲がり方も知っている。
けれど奥へ進むにつれ、少しずつ景色が変わっていった。
世界樹の魔力が濃く満ちていた空気が薄れ、木々の種類や鳥の声にも知らないものが混ざり始める。
アスカは、それが楽しくて仕方がないらしい。
見慣れない植物があれば足を止め、知らない鳥が飛べば空を見上げる。道端に小さな花を見つけただけでも、しゃがみ込んで眺め始めた。
「アスカ、その調子だと今日中に森を出られないよ」
「だって初めて見る」
「外に出たら、初めて見るものばっかりになるでしょ」
「最高じゃん」
その一言に、サワラは思わず笑った。
どうしてアスカが外へ出たかったのか、少し分かった気がする。
知らないものがある。
それだけで楽しいのだ。
「ほら、行くよ」
今度はサワラが先に歩く。
「待って。もうちょっとだけ」
「置いてくよ」
「それはひどくない?」
「一人で行くつもりだったんでしょ?」
「それとこれは別!」
後ろから足音が迫り、すぐにアスカが隣へ並んだ。
さらに歩くと、木々の間隔が次第に広がっていく。
差し込む光が増え、風の感触まで変わった。
前方が明るい。
二人は自然と歩みを緩めた。
森の終わりだった。
最後の木々の間を抜けた瞬間、視界が一気に開ける。
サワラは立ち止まった。
空が、広い。
里からだって空は見えていた。
けれど、世界樹と森に囲まれて見上げる空とはまるで違う。
頭上だけではなく、どこまでも遠くへ続いている。
地平の向こうには名前も知らない山々が重なり、目の前では草原が風を受けて波のように揺れていた。
木々に遮られることのない風が、二人の身体へ直接ぶつかってくる。
知らない草と土の匂い。
その中には、どこか遠くから運ばれてきた微かな煙の匂いまで混じっていた。
里の中で感じていた、外から来る風。
その向こう側へ、今、自分たちは立っている。
「すごいね」
アスカが言った。
声が弾んでいる。
サワラは景色ではなく、その横顔を見た。
目の前に広がる世界を、アスカは真っ直ぐ見つめている。
楽しそうだった。
長いあいだ隣にいたのに、まだ知らない表情がある。
そのことが少しだけ嬉しかった。
サワラも前を見る。
ここから先にあるのは、里で覚えた道ではない。
どこへ繋がっているのか。
何があるのか。
誰と出会うのか。
まだ何も知らない。
「アスカ」
「ん?」
「最初はどっちに行くの?」
アスカが黙った。
「……決めてない」
「やっぱり?」
「街道まで出てから決めようと思ってた」
サワラはため息をつく。
「ついてきて正解だった」
「一人でも何とかなったって」
「最初の行き先すら決めてないのに?」
「それも旅でしょ」
「遭難したら旅じゃないよ」
「サワラがいるから大丈夫」
「僕を理由に適当になるのやめて」
言いながら、サワラは森の外へ一歩踏み出した。
アスカもすぐに追いつく。
少し進んだところで、サワラは一度だけ振り返った。
深い森がある。
そのさらに奥、もうここからは見えない場所に、自分たちが生まれ育った世界樹と里がある。
胸の奥が、少しだけ締めつけられた。
それでも足を止めようとは思わない。
「サワラ」
前から呼ばれる。
振り向けば、アスカが少し先で待っていた。
「何してるの?」
「何でもない。今行く」
歩き出して、追いつく。
また隣に並ぶ。
昨日までと、それは何も変わらなかった。
違うのは、二人の前に続いている道だけだ。
どこへ辿り着くのかは、まだ二人とも知らない。
アスカは楽しそうにその先を見ている。
サワラも隣で、初めて見る空を見上げた。
そして二人の間を、これまで森の中で感じていたものとは違う風が、遠い世界の匂いを乗せて吹き抜けていった。




