第2話 百年目のふたり
百年目の朝は、昨日までの朝とそれほど変わらなかった。
世界樹の枝葉を抜けた淡い光が里へ落ち、朝露をまとった草が足元で静かに揺れている。遠くでは鳥が鳴き、風が通るたび、遥か頭上から葉擦れの音が降ってきた。
違うことがあるとすれば、イルがいつもより少し早く目を覚ましたことくらいだった。
今日は成人の儀がある。
百歳を迎えたハイエルフが幼名を捨て、自ら選んだ名前を世界樹へ告げる日。
ただし、百歳になったその日に必ず儀を受けなければならないわけではない。百歳を越えれば、本人が望む時期に成人の儀を受けることができる。
そして成人したからといって、すぐに一人前として扱われるわけでもなかった。
成人とは、自らの名を持ち、ハイエルフとして新たな段階へ進むための節目にすぎない。里の外へ出て自らの意思で生きることを認められるのは、さらに百年ほどの学びを終え、一人前と認められてからだった。
これまで長いあいだ呼ばれてきた「イル」という幼名も、今日までになる。
寝床を出たイルは、朝の空気を吸い込みながら外へ出た。
里はすでに起き始めている。
普段ならそれぞれの時間で動いている大人たちが、今日は世界樹の根元へ向かっていた。成人の儀のために用意された広場には朝から人が集まり、離れた場所からでも話し声が聞こえてくる。
イルもそちらへ向かおうとして、ふと足を止めた。
見慣れた姿が、少し離れた木の下にいる。
アスだ。
幹へ背を預け、腕を組んでいた。
どうやら待っていたらしい。
イルが近づくと、アスは片手を上げる。
「遅い。成人する日に寝坊するかと思った」
「寝坊してないよ。むしろいつもより早く起きたから」
「じゃあ僕が早すぎたのか」
「そういうこと。勝手に待っておいて文句言わないでよ」
「はいはい。じゃあ行こ」
アスは広場へ向かって歩き始め、イルもその隣へ並んだ。
特別な日なのだから、もう少し何かあるのかと思っていた。
緊張しているとか、名前について最後に確認するとか、それくらいは話すのかと思っていたが、アスはいつも通りだった。
「名前、変える気ないよね?」
しばらく歩いてから、イルの方から尋ねる。
アスが横を見る。
「今さら?」
「念のため。アスなら直前で別の名前にするとか言い出しそうだから」
「さすがにしないよ。もう決めたんだから」
「ならいいけど」
「イルこそ大丈夫?」
「僕も変えないよ」
今日から二人は、長いあいだ呼ばれてきた幼名ではなく、自分で選んだ名を持つ。
アスは――アスカ。
イルは――サワラ。
さらにハイエルフであることを示す「ユグ」を名に持ち、その後ろには氏族の名が続く。
今日、世界樹の前でその名を宣誓する。
それなのに二人の間には、改まった空気がほとんどなかった。
イルは少しだけ可笑しくなる。
「何笑ってるの?」
「別に。今日からアスって呼べなくなるんだなと思って」
「呼びたかったら呼べばいいじゃん」
「駄目でしょ。成人したら、自分で選んだ名前を使うんだから」
「二人だけの時なら分かんなくない?」
「そういう問題じゃないよ。僕だって今日からイルじゃなくなるんだから、アスもちゃんとアスカになるの」
「サワラかあ」
「何?」
「いや。まだちょっと慣れないなって」
「自分で選んだ名前なのに?」
「イルの方が呼び慣れてるから」
それはイルも同じだった。
百年という時間は短くない。
二人は物心がついた頃から、ずっとアスとイルだった。明日から急に別の相手になるわけではないのに、呼び名だけが変わる。
「そのうち慣れるでしょ」
「まあね。……サワラ」
突然呼ばれ、イルは振り向いた。
アスが笑っている。
「ほら、変な感じ」
「アスカ」
「そっちも変」
「先にやったのアスカだからね」
「もう使ってるじゃん」
「練習」
「じゃあ僕も練習。サワラ」
「何回も呼ばなくていいよ」
「サワラ、サワラ」
「うるさい」
アスカが笑いながら先へ逃げる。
イル――もうすぐサワラになる者は、追いかける代わりに歩く速度を少し落とした。
どうせ広場で止まる。
案の定、少し先まで行ったアスカが振り返る。
「早く」
「置いていったのアスカでしょ」
「置いてってないよ。先に歩いただけ」
「同じだよ」
言いながら追いつく。
結局、広場へ入る時には二人はまた並んでいた。
◇ ◇ ◇
世界樹の前には、すでに多くのハイエルフが集まっていた。
見上げても頂の見えない幹と、大地を覆う巨大な根。その一部に囲まれるように、成人の儀を行うための場所が設けられている。
派手な装飾はない。
花がいくつか添えられ、世界樹から落ちた葉が地面へ敷かれている程度だった。
けれど、ここに立つ者たちにとって飾り立てる必要などない。
自分たちが生まれた世界樹そのものが、何よりも大きな存在だった。
アスとイルも、この世界樹から産み落とされた。
生まれた時期には五年の差がある。
そのためアスは五年前、すでに成人の儀を受けられる年齢になっていた。
けれど、受けなかった。
成人の儀をいつ受けるかは本人が決められる。数年程度時期をずらす者も珍しくなく、アスはその権利を使って今日まで待った。
本人は、その理由をまともに説明したことがない。
「二人とも来たね」
声をかけてきたのは、幼い頃から二人を知るハイエルフだった。
イルは自然と姿勢を整える。
「おはようございます」
「おはよう。緊張してる?」
「少しだけ」
答えてから隣を見る。
アスは世界樹を見上げていた。
「アスは?」
「僕?」
「緊張してる?」
「してないと思う。名前を言うだけでしょ?」
あっさりした返事に、相手が小さく笑った。
「あなたは昔から変わらないね」
「よく言われる」
「褒めているとは限らないよ」
「じゃあ褒めてる方で受け取っとく」
その返しに周囲からも笑いが漏れた。
アスはやはり普段と変わらない。
誰かに声をかけられれば話し、久しぶりに会った者がいれば手を振る。
少し離れたところには、幼い頃に川で一緒に遊んだ友人たちもいた。
二人に気づいた一人が近づいてくる。
「やっと成人か。アスは五年前から受けられたのに、イルと一緒にするために待ったって聞いた時は笑ったよ」
「別に合わせたわけじゃないよ」
アスがすぐに否定する。
「どうせなら一緒の方が楽かなって思っただけ」
「それを合わせたって言うんじゃない?」
「違う違う。受ける時期を決められるんだから、たまたま今日にしただけ」
「五年待っておいて?」
「細かいなあ」
友人が笑う。
イルは横で聞きながら、口を挟まなかった。
アスが本当に自分に合わせたのかは知らない。
聞いたこともない。
本人が違うと言うなら、それでいい。
ただ、五年前には受けられた儀式を今日まで受けず、今もこうして隣にいる。
それだけは確かだった。
「そういえば、二人ともまだなんだよね?」
友人の視線が二人の身体を順番に見る。
何を言われているのか、すぐに分かった。
性別だ。
周囲の同年代は、ほとんどがすでに男性か女性として定着している。
けれどアスとイルは、百歳を越えた今もまだどちらでもない。
「まだだよ」
イルが答える。
「成人してから決まる人もいるし、急ぐ必要もないから」
「イルは昔からそう言ってるよね」
「昔はちょっと考えてたけどね。今は本当にどっちでもいいかな」
「アスは?」
「僕もまだ。分かったらその時でいいでしょ」
予想通りの答えだった。
友人は笑いながら肩をすくめる。
「やっぱり二人とも変わらないな」
今日で名前は変わる。
成人する。
それでも何もかもが一度に変わるわけではない。
そう思うと、イルの胸にあったわずかな緊張も薄れていった。
やがて広場の空気が静まる。
成人の儀が始まった。
呼ばれた者が一人ずつ世界樹の前へ進み、自ら選んだ名を告げていく。
長く呼ばれてきた幼名を置き、誰かから与えられたものではなく、自分で選んだ名をこれからの人生へ持っていく。
イルは静かに順番を待った。
隣にはアスがいる。
いつもなら何か話しているはずなのに、今だけは二人とも黙っていた。
緊張していないと言っていたアスも、さすがに少し表情が硬い。
「アス」
小声で呼ぶ。
「何?」
「緊張してないんじゃなかったの?」
「してないよ」
「顔、ちょっと固いけど」
「イルこそ」
「僕は最初から少し緊張してるって言った」
「ずるい」
「何が?」
「先に言った方が勝ちみたいじゃん」
「勝ち負けじゃないでしょ」
声を抑えて笑う。
ほんの少しだけ、いつもの空気が戻った。
そして、アスの名が呼ばれる。
イルは口を閉じた。
アスが前へ出る。
先ほどまでの軽い表情が消え、巨大な世界樹を見上げた。
その姿を、イルは少し離れたところから見つめる。
百年。
世界樹の下で遊んだ。
川へ行った。
森を歩いた。
喧嘩もした。
翌日にはまた隣にいた。
そんな日々が積み重なり、気づけば百年が過ぎていた。
アスが世界樹へ向き直る。
静かな声が広場へ響いた。
「今日、この名を自ら選び、これからの生を歩む名として世界樹へ告げます」
一度、息を吸う。
「――アスカ・ユグ・アスハ」
風が吹いた。
頭上の葉が一斉に揺れる。
その音の中で、アスカは顔を上げていた。
イルは胸の中で、その名前を繰り返す。
アスカ。
さっきまで練習のように呼んでいた名前が、世界樹へ告げられたことで初めて本当に彼のものになったような気がした。
やがてアスカが戻ってくる。
すれ違いざま、小さな声が聞こえた。
「次、サワラでしょ」
「分かってる」
イルは一歩前へ出た。
巨大な世界樹が視界を埋める。
幼い頃から何度も見てきた。
その根元で遊び、木陰で眠り、葉の音を聞いて育った。
それなのに今日は、いつもよりずっと大きく見える。
百年前、自分はここから生まれた。
性別も、自分で選んだ名前も持たず、イルという幼名を与えられて百年を過ごした。
そして今、その名を置いていく。
少し寂しい気もした。
イルという名が嫌だったわけではない。
そこには百年分の時間がある。
アスと過ごした日々も、友人たちと遊んだ記憶も、森で一人になった時間も、すべてイルと呼ばれていた自分のものだ。
けれど名前が変わっても、自分が歩いてきた時間まで消えるわけではない。
イルは静かに息を吸った。
「今日、この名を自ら選び、これからの生を歩む名として世界樹へ告げます」
声は思っていたより落ち着いていた。
「――サワラ・ユグ・ザラク」
自分で選んだ名を口にした。
その瞬間。
世界樹が応えた。
◇ ◇ ◇
最初に感じたのは、光だった。
眩しいわけではない。
目を閉じたくなるような強さでもない。
温かなものが、身体の奥へ静かに染み込んでくる。
世界樹から流れ込む魔力。
成人したハイエルフへ与えられる祝福。
サワラはそれを受け入れた。
身体が軽くなり、胸の奥へ何かが触れる。
その直後だった。
知らないはずの景色が見えた。
森ではない。
世界樹もない。
見たことのない建物と、聞いたことのない音。
それなのに――知っている。
サワラの呼吸が止まる。
知らない部屋。
手の中にある薄い板。
そこへ映る文字。
聞き慣れた通知音。
誰かの声。
笑い声。
そして。
――Avvi。
その言葉が浮かんだ瞬間、閉じられていたものが一気に開いた。
画面。
配信。
コメント。
名前。
人。
友人。
サワラは世界樹の前に立ったまま動けなかった。
忘れていたのではない。
そもそも、自分の中に存在することすら知らなかった。
百年間、一度も触れたことのない人生。
それが突然、自分のものとして戻ってくる。
別人の記憶を見せられているわけではなかった。
分かる。
自分だ。
世界樹から産み落とされるより前、自分は別の世界で生きていた。
人間として過ごし、誰かと話し、笑い、日々を送っていた。
次々と蘇るものに、今の百年が押し流されることはなかった。
むしろ逆だった。
長い間閉ざされていた部屋の扉が開き、今まで知らなかった自分の時間が繋がっていく。
百年を生きたサワラ。
その前に存在していた、別の人生。
どちらも自分だった。
そして、その記憶の中に何度も現れる名前があった。
顔がある。
声がある。
サワラはゆっくり振り返った。
少し離れた場所に、アスカが立っている。
その顔から、いつもの笑みが消えていた。
目が合う。
アスカも同じものを見た。
説明されなくても、それだけは分かった。
サワラの唇が動く。
今まで何度も呼んできた名前。
けれど今は、その響きにもう一つの時間が重なっていた。
「……アスカ」
アスカの目が見開かれる。
ほんの少しの沈黙。
それから、確かめるように返ってきた。
「……さわら?」
その呼び方を聞いた瞬間、最後の何かが繋がった。
今日名乗ったばかりの名前を、目の前の相手は別の人生でも知っている。
サワラは何も言えなかった。
アスカも同じだった。
周囲の声が遠く感じる。
世界樹の葉擦れだけが、不思議なくらい鮮明に聞こえていた。
自分には前世がある。
別の世界で生きていた時間がある。
そして目の前にいる相手も、その頃から知っている。
驚くべきことが多すぎた。
それなのに、サワラがアスカを見て最初に感じたのは、相手が知らない誰かへ変わったような違和感ではなかった。
百年間見続けてきた顔に、知らなかった時間がひとつ増えただけだった。
「……アスカだったんだ」
サワラが呟く。
アスカは数秒黙ったあと、堪えきれなくなったように笑った。
「それ、こっちの台詞。驚いてるはずなのに、なんか納得する」
「僕も」
「もっと驚くところじゃない? 前の人生だよ? 別の世界だよ?」
「アスカも笑ってるじゃん」
「だって、さわらだったんだって思ったら……ちょっと安心した」
「安心?」
「知らない誰かの記憶だったらどうしようって、一瞬思ったから」
サワラは少し考え、それから頷いた。
「それは分かるかも」
記憶が戻った。
けれど、目の前にいるアスカとの百年間が消えたわけではない。
言葉を交わせば、いつもの空気が戻ってくる。
そのことが、サワラには何よりも不思議で、同時に自然だった。
◇ ◇ ◇
成人の儀が終わったあと、二人は人の少ない場所へ移動した。
昔からよく使っていた世界樹の根元。
緩やかに窪んだ場所へ並んで座る。
里では成人を迎えた者たちを祝う声が続いているが、今だけは少し離れていたかった。
サワラは膝を立て、その上に腕を置いた。
アスカは隣で空を見上げている。
どちらも、しばらく何も言わなかった。
話したいことがないのではない。
ありすぎるのだ。
百年分の人生。
そのさらに前の記憶。
二つの時間が同じ自分の中にある。
「……本当にアスカなんだ」
「まだ言う?」
「確認したくなるでしょ」
「僕もさわらに同じこと思ってるけどね」
アスカが身体を起こす。
「というか、百年ずっと一緒にいて、今さら前も知り合いでしたって言われても反応に困るよね」
「それはちょっと分かる」
「もっとこう……『お前だったのか!』みたいになると思わない?」
「アスカがやってみれば?」
「え、今から?」
「うん」
アスカは少し考えたあと、急に立ち上がった。
大げさにサワラを指さす。
「お前だったのか!」
サワラは無言で見上げる。
「……何?」
「いや、やれって言ったのさわらじゃん」
「本当にやるとは思わなかった」
「ひどくない?」
「ごめん。でも全然違う」
「何が?」
「僕たち、そういう感じじゃない」
「じゃあどんな感じ?」
サワラは少し考えた。
驚いていないわけではない。
世界が違う。
種族も違う。
自分たちは一度別の人生を終え、ここで生まれ直している。
それでも、目の前にいる相手そのものが変わったようには思えなかった。
「……前から知ってたんだ、って感じかな」
アスカが座り直す。
「分かる」
それが一番近かった。
前世の記憶がなかった百年間、二人はアスとイルとして一緒に過ごしてきた。
性格がまったく同じなわけではない。
喧嘩もする。
別々に過ごす日もある。
それでも気づけばまた隣にいた。
そこへ今、もう一つの事実が加わった。
前の人生でも、互いを知っていた。
だからといって、それがこの百年間を説明する理由になるわけではない。
百年間を一緒に過ごしたのは、アスとイル自身だ。
「ねえ、さわら」
「何?」
「覚えてる?」
「何を?」
「Avvi」
「……うん」
サワラは目を閉じた。
名前を聞くだけで、いくつもの光景が浮かぶ。
かつて自分たちがいた場所。
画面越しに交わした言葉。
そこにいた人たち。
アスカだけではない。
何人もの名前と声が蘇っている。
懐かしい。
そう感じる一方で、妙な距離もあった。
昨日までそこにいたような感覚ではない。
百年間、この世界で生きてきたのだ。
世界樹の葉の音を聞き、森を歩き、里の者たちと過ごした。その時間は、前世の記憶が戻ったからといって消えるものではない。
だから懐かしさにも、百年という距離が挟まっている。
「みんな、どうしてるんだろうね」
アスカが言った。
サワラはすぐには答えなかった。
以前とはまったく違う世界にいる。
同じ時間に生きている保証すらない。
そもそも、他の者たちがこの世界にいるのかも分からない。
「分からない。でも……僕たちがこうしているなら、他にもいる可能性はあるのかもしれない」
「だよね」
アスカの声が少しだけ明るくなる。
「いつか会えたりして」
「そう簡単にはいかないと思うけど」
「さわらはすぐそういうこと言う」
「可能性があるのと、簡単なのは別でしょ」
「でもゼロじゃない」
「それはそう」
アスカは満足そうに頷いた。
サワラはその横顔を見る。
記憶の中にいるアスカと、今ここにいるアスカ。
同じところがある。
違うところもある。
当然だった。
百年も生きているのだから、以前の人生だけで今のアスカを説明できるはずがない。
自分も同じだ。
記憶を取り戻したからといって、百年前の自分へ戻ったわけではない。
今の自分の中へ、失われていた人生が加わった。
その感覚が一番近かった。
「さわら」
「ん?」
「今、僕のこと前と比べてた?」
図星だった。
「ちょっとだけ」
「どう?」
「変わったところもある。でも、アスカだなって思った」
「それ何も言ってなくない?」
「でも本当にそうだから」
アスカは少しだけ黙った。
「僕も、さわら見て同じこと思った」
「僕も変わった?」
「変わったよ。前より落ち着いてるし」
「百年生きてるからね」
「でも、一人で勝手に考え込むところは結局変わってない」
「悪口?」
「半分褒めてる」
「残り半分は?」
「感想」
サワラは肩でアスカを軽く押した。
アスカが笑う。
その笑い方を見て、サワラも少しだけ笑った。
大きなことが起きた。
けれど、目の前の相手を一から知り直す必要はなかった。
その相手が今どんな人間なのかは、すでに百年かけて知ってきたからだ。
◇ ◇ ◇
成人してから数日が経った。
里での生活は驚くほど変わらなかった。
「イル――じゃなくて、サワラ」
そう呼び直されれば少し遅れて振り向き、サワラ自身も時々アスカを「アス」と呼びかけてしまう。
名前だけは、まだ百年分の癖が抜けていない。
「別にアスでいいのに」
ある朝、呼び直されたアスカが言った。
「よくないって。せっかく自分で名前決めたんだから」
「さわらだけならいいじゃん」
「僕が慣れなくなるから嫌」
「真面目だなあ」
「アスカが適当なんだよ」
成人したからといって、すぐに里を離れるわけではない。
二人はこれまでと同じように学び、森へ入り、時には里の仕事を手伝った。
一人前のハイエルフとして外へ出ることを認められるまで、まだ百年ほどある。
変わったことがあるとすれば、二人きりの時にだけ分かるものが増えたことだった。
森の中で奇妙な形の木の実を見つければ、前世で見た食べ物に似ていると笑う。
聞き慣れない音が、昔使っていた道具の音を思い出させることもある。
何気ない瞬間に、別の世界の記憶が今の景色へ重なった。
それは懐かしくもあり、少しだけ寂しい。
戻れない場所なのだと、二人とも少しずつ理解し始めていたからだ。
けれど、その世界を知っている相手が隣にいる。
すべてを最初から説明しなくても通じる。
それは、思っていた以上に大きかった。
◇ ◇ ◇
前世の話をする時間は、意外なほど早く減っていった。
最初の頃こそ、二人で記憶を確かめた。
覚えていること。
知っている人。
Avviで交わした会話。
それぞれがどう生きていたのか。
けれど、毎日その話をすることはなかった。
話さなくても記憶は消えない。
何より、今の二人には今の生活がある。
前世は大切だ。
けれど、百年間積み重ねた今の人生を押しのけるものではなかった。
ある夜。
サワラは一人で世界樹の根元に座っていた。
月明かりが葉の隙間から落ちている。
眠れなかったわけではない。
少しだけ、一人で考えたかった。
あの世界で生きた自分。
この世界で生きる自分。
どちらが本当なのか。
答えはもう分かっている。
どちらも本当だ。
前世よりも長い時間を、すでにこちらで生きている。
世界樹から生まれた。
イルと呼ばれた。
性別を持たないまま育った。
そして今日までの百年を生き、サワラという名を選んだ。
それらは全部、自分が実際に生きてきたものだ。
そこへ、さらに古い記憶が戻った。
増えたのだ。
置き換わったのではない。
サワラは頭上を見る。
星が見えた。
前世でも星は見た。
けれど、同じ星ではないのだろう。
「何してるの?」
声がして、サワラは視線を下ろした。
アスカが立っている。
「アスカこそ。こんな時間に」
「さわらが出てくの見えたから」
「ついてきたの?」
「うん」
あっさり認め、アスカは隣へ座った。
何を考えていたのかとは聞かない。
しばらく二人で空を見る。
「ねえ」
サワラから口を開いた。
「アスカは、記憶が戻ってどう?」
「どうって?」
「自分が二人いるみたいになったりしない?」
アスカは少し考えた。
「しないかな」
「即答じゃないんだ」
「ちゃんと考えたから」
「それで?」
「僕は僕でしょ。前の僕も今の僕も、どっちも僕がやったことだし」
アスカは膝を立て、そこへ腕を乗せる。
「忘れてたことを思い出しただけって言うには大きすぎるけど、別の誰かになった感じはしないよ」
「僕も似たような感じ」
「じゃあいいじゃん」
「またそれ?」
「だって二人とも困ってないんでしょ?」
サワラは少し笑った。
昔、性別について考えた時にも似たようなことを言われた。
その時もアスカは、自分が何者なのかを急いで決めようとしなかった。
今も変わらない。
「アスカって、意外とこういう時強いよね」
「意外とって何?」
「普段適当だから」
「さわら、成人してから僕への扱い雑になってない?」
「前からこんな感じだよ」
「そうだった?」
「そう」
アスカが少し不満そうな顔をする。
サワラはそれを見て笑った。
「アスカ」
「ん?」
「前の世界のこと、忘れたくないね」
アスカはすぐには答えなかった。
夜風が二人の間を通り、世界樹の葉を揺らす。
「うん。でも、ずっと昔のことばっかり見てるのも違う気がする」
サワラは隣を見る。
アスカは空を見たままだった。
「せっかくこっちで百年生きたんだし。これからもまだ長いんでしょ?」
「ハイエルフだからね」
「だったら、そのうちいろんなところ行きたいな」
初めて聞く言葉だった。
「里の外?」
「うん。今すぐじゃないよ。まだ一人前じゃないし」
成人したとはいえ、百歳のハイエルフはまだ里の外で自由に生きられる段階ではない。
それでもアスカの目は、世界樹の枝より先を見ているようだった。
「前の世界とは全然違うんでしょ? だったら見てみたい。ここしか知らないまま何百年も生きるの、もったいなくない?」
「アスカらしいね」
「さわらは興味ない?」
サワラはすぐには答えなかった。
外の世界。
まだ見たことがない。
危険もあるだろう。
里とは違う種族もいる。
知らない国。
知らない街。
知らない景色。
想像すると、胸の奥に小さな好奇心が生まれた。
けれど、それより先に浮かんだものがある。
「アスカが行くなら、たぶん僕も行くよ」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
アスカがこちらを見る。
「なんで?」
「分からない」
本当に分からなかった。
外へ出たいという強い願いがあるわけではない。
それでも、アスカだけが里を出ていく姿を想像すると、自分がここへ残る姿より、その隣を歩いている方が自然だった。
前世を思い出したからではない。
百年間、そうしてきた。
明日も来年も同じだという保証などないのに、今のサワラにはその未来が一番自然に思えた。
「今すぐ決めることじゃないけどね」
「うん。まだ百年くらいあるし」
「百年を『まだ』って言えるようになったの、ちょっと怖いな」
「ハイエルフになっちゃったね」
「今さらでしょ」
二人で小さく笑った。
この夜の会話が、すぐに何かを変えるわけではない。
旅立つのは、まだ先だ。
今の二人には里で学ぶことが残っている。
だから、それ以上未来について話すことはなかった。
アスカも無理に約束を求めなかった。
サワラも「必ず一緒に行く」と言い直さなかった。
ただ、いつか。
それだけだった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
サワラが外へ出ると、アスカが道の先を歩いていた。
昨夜の話など忘れたように、いつも通りの足取りだった。
「アスカ」
呼ぶと振り返る。
「おはよ。遅いよ」
「だからアスカが早いんだって」
「今日は森行くんでしょ?」
「午後からって言ったよね?」
「先に準備しとこうよ」
「何時間前から準備するつもりなの」
「早い方がいいじゃん」
「限度があるでしょ」
サワラは呆れながら歩き出した。
アスカも横へ並ぶ。
百年前から何度も歩いてきた道だった。
名前が変わった。
前の人生を思い出した。
自分の中に、知らなかった時間が増えた。
いつか里の外へ行きたいという、小さな未来の話もした。
それでも朝になれば、アスカが少し先を歩き、サワラが呆れながら追う。
気づけば同じ速さになって、二人で並ぶ。
だから二人は、再会したわけではなかった。
別れていた時間などなかったのだから。
「ねえ、さわら」
「何?」
「昨日の話なんだけどさ」
「外に行きたいって話?」
「それもだけど、その前」
アスカが少しだけ笑う。
「さわらでよかった」
サワラは一瞬だけ足を止めた。
けれどアスカは、そのまま歩いていく。
どういう意味なのか。
聞こうと思えば聞けた。
けれど、聞く必要はない気がした。
「僕もだよ」
それだけ返して、サワラは歩き出す。
アスカが振り返った。
笑っている。
サワラも少しだけ笑った。
世界樹の葉の間から朝の光が差し込み、道の上で揺れている。
昨日までと同じ道だった。
百年前から何度も歩いた道。
アスカが先へ進み、サワラがその少し後ろを歩く。
しばらくするとアスカが立ち止まり、追いついたサワラが隣へ並ぶ。
そして、また歩き始める。
前の人生を思い出しても。
新しい名前を持っても。
二人の間に、新しく決めなければならないことは何もなかった。
ずっと前から、そうだった。
今日もまた、二人分の足音が同じ道の上に重なっていた。




