↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの時間をもう一度  作者: ゆうき
閑章 君が隣にいた時間

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
95/104

第1話 まだどちらでもない


世界樹の葉が揺れる音は、雨によく似ていた。


風が吹くたび、遥か頭上で重なり合った葉が擦れ、さあっと柔らかな音を降らせる。けれど雲ひとつない空から水滴が落ちてくることはなく、木漏れ日だけが巨大な根の上へまだらに散らばっていた。


その根元で、イルはしゃがみ込んでいた。


目の前にあるのは、膝ほどの高さしかない若木だった。


細い枝の先から出たばかりの葉へ指を伸ばし、触れる直前で止める。表面を撫でなくても、近づけた指先には微かな魔力の流れが感じられた。


「イルー! まだそこにいるの?」


遠くから声が飛んでくる。


返事をするより先に草を踏む足音が近づき、イルが振り返ると、アスが世界樹の根を軽々と乗り越えてきた。


「いるよ。聞こえてるから、そんな大きな声出さなくてもいいって」


「聞こえてるなら返事してよ。探したじゃん。みんなもう向こうに集まってるよ?」


イルより五年早く世界樹から生まれたアスは、年齢だけなら兄や姉にあたる存在なのかもしれない。


けれど、少なくとも二人の間でそういう扱いをしたことは一度もなかった。


長い時間を生きるハイエルフにとって、五年程度の差はあまりに小さい。成長にも大きな違いはなく、こうして並んでしまえば、どちらが先に生まれたのか知らない者には判別できないだろう。


アスがイルの隣へしゃがみ込む。


「またこれ見てたの?」


「うん。昨日より葉が一枚増えてる」


「よく分かるね。僕には昨日と同じに見えるけど」


「昨日は四枚だったから」


「数えてたんだ……」


呆れたように言いながら、アスも若木へ顔を寄せる。


興味がないなら先へ行けばいいのに、こういう時のアスは結局付き合う。それをイルは知っていた。


「それで、みんな集まって何するの?」


「川に行くんだって。魚がいっぱい来てるらしいよ。捕まえて勝負するって」


「アスもやるの?」


「誘われたからね。イルも来るでしょ?」


尋ねる形ではあったが、置いていくつもりがないことは声で分かった。


イルは若木をもう一度だけ見てから立ち上がる。


「分かった。行く」


「じゃあ早く。もう始めてるかも」


「アスが勝手にここまで来たんでしょ。僕は急ぐ理由ないよ」


「僕が呼びに来なかったら、イルは夕方までここにいたじゃん」


「そんなにいないって」


「昨日も似たようなこと言ってたよ?」


言い返そうとして、イルは口を閉じた。


昨日は陽が傾くまで森にいた。


アスが笑う。


「ほら」


「……うるさい」


「はいはい。行こ」


二人は並んで歩き始めた。


どちらかが先に走れば、もう片方もついていく。立ち止まれば、気づいた方が待つ。


いつからそうなったのか、二人とも覚えていない。


物心がついた頃には、もうそうだった。


世界樹から生まれるエルフは少ない。


長命である代わりなのか、新たな子が生まれること自体が滅多になく、百年もの間、新しい命がひとつも生まれないことさえある。それでも時折、長い沈黙を埋め合わせるように、数年の間に二人、三人と続けて生まれることがあった。


アスとイルは、そんな時期に生まれた。


だから、同じくらいの身体で、同じように里を駆け回れる相手がいることは、二人にとって最初から当たり前だった。


その当たり前がどれほど珍しいものなのか、幼い二人はまだ知らなかった。


    ◇ ◇ ◇


川辺には、すでに何人かの子供たちが集まっていた。


世界樹の根元から流れ出した澄んだ水は森を抜け、里の端を緩やかに流れている。底の白い小石まで見えるほど透明で、陽を受けるたび水面が細かな光を返していた。


「遅い!」


二人を見つけた子が、水の中から手を振った。


膝まで川へ入っているその子は、以前と比べて少し髪が伸びている。けれど、変わったのは髪だけではなかった。


ほんの少しだけ身体つきが柔らかくなり、声にも以前とは違う響きが混じっている。


イルはその変化に気づいたが、本人が先に口を開いた。


「ねえ、二人とも聞いて。私、たぶん女なんだと思う」


アスが瞬きをする。


「そうなんだ。分かったの?」


「うん。少し前からそんな感じがしてたんだけど、昨日くらいから急にしっくりきたの。だから、たぶん私は女」


「へえ。じゃあ、そのうちもっと変わってくの?」


「たぶんね」


その子は自分の身体を見下ろし、少し照れくさそうに笑った。


ハイエルフを含むエルフたちは、生まれた時には性別を持たない。


男でもなく、女でもない。


成長する中で自分自身の性を認識した時、その心に沿うように肉体も少しずつ変わっていく。


誰かに決められるものではない。


急かされるものでもない。


多くのエルフは百歳を迎える頃までにその答えを見つけるが、早い者もいれば遅い者もいる。


だから里では、誰かが自分自身の性を知ったとしても、それを特別なこととして騒ぐ者はいなかった。


「じゃあ今日から手加減した方がいい?」


アスが言った。


「なんで?」


「ほら、女になったんだったら――」


そこまで言った瞬間、水が跳ねた。


少女が両手ですくった川の水を、容赦なくアスへ浴びせたのだ。


「関係ないでしょ!」


「冷たっ! まだ最後まで言ってないって!」


「絶対ろくなこと言わない顔してた!」


「偏見じゃん!」


笑い声が川辺に広がる。


アスもすぐに水をすくってやり返し、別の子まで巻き込まれた。魚を捕まえるはずだった遊びは、いつの間にか水の掛け合いへ変わっている。


イルは岸からそれを眺めていた。


「イルも来なよ!」


「服、濡れるからいい」


「どうせ乾かせるじゃん!」


「そういう問題じゃないんだけど」


返した直後、顔の横を水の塊が通り過ぎた。


ぎりぎりで避けたイルが、ゆっくりアスを見る。


アスは両手を水面につけた姿勢のまま固まっていた。


「……今の、わざと?」


「違う。ほんとに違う。後ろ狙ったらイルが動いたから」


「僕、動いてないよ」


「じゃあ水が曲がった」


「へえ」


イルは靴を脱いだ。


その様子を見たアスが一歩後ろへ下がる。


「待って。話し合おう」


「いいよ。水が勝手に曲がるなら、僕が何しても僕のせいじゃないし」


「それはおかしいって!」


川へ踏み込んだイルが水を跳ね上げる。


逃げたアスの背中へ綺麗に直撃した。


「イル!」


「水が曲がったんじゃない?」


「覚えてろよ!」


そこから先は、誰が魚を捕まえるのかなど誰も気にしていなかった。


    ◇ ◇ ◇


水遊びを終えた頃、一人の子がアスへ声をかけた。


「アス、今度さ、森の奥に行ってみない?」


「森の奥?」


「うん。大人たちが使う道じゃなくて、北側から回るの。面白そうじゃない?」


「怒られそうだね」


「だから面白いんじゃん。明日行こうよ。アスと二人なら結構遠くまで行けそうだし」


ほんの一瞬だけ、アスの動きが止まった。


手にしていた小石を弄ぶ指先が静まり、すぐにいつもの笑顔へ戻る。


「明日は分かんないなあ。イルがまた変なところで何か見つけて、付き合わされるかもしれないし」


「えー、またイル?」


「またって何」


少し離れた場所にいたイルが口を挟むと、その子は慌てて手を振った。


「悪い意味じゃないよ。でもアス、いつもイルと一緒じゃん」


「そう?」


アスはイルを見る。


イルもアスを見る。


二人とも少し考えた。


「そうかも」


アスが先に答えた。


それ以上、森の奥へ行く話は進まなかった。


アスはその子を嫌っているわけではない。翌日になれば普通に話すだろうし、別の遊びなら一緒に行くかもしれない。


イルも理由を尋ねなかった。


アスがそうしたいなら、そうしたいのだろう。


それだけだった。


    ◇ ◇ ◇


季節が巡った。


世界樹の葉が深い緑から淡い金へ変わり、また新しい葉が芽吹く。


長命種にとって一年は短い。それでも幼い者たちにとって、その時間の中には小さな変化がいくつもあった。


川辺で自分を女だと言った少女は、少しずつ女性らしい身体へ変わっていった。


別の友人も時間をかけて少年らしい姿へ近づいていく。


声が変わる。


身体つきが変わる。


選ぶ服や呼ばれ方を変える者もいた。


けれど、それで一緒に遊べなくなるわけではなかった。


「イルはまだ?」


ある日の午後、森で木の実を集めていた時に尋ねられた。


イルは籠へ赤い実を入れながら顔を上げる。


「何が?」


「男か女か。まだ分かんないの?」


尋ねたのは、すでに男性として定着し始めている友人だった。からかうような声音ではなく、単純な疑問なのだろう。


「まだかな」


「どっちになりたい?」


その問いには、すぐに答えられなかった。


男になった自分を想像してみる。


背が伸びて、肩幅が少し広くなり、声も今より低くなるのかもしれない。


嫌ではない。


けれど、これだという感覚もなかった。


なら、女はどうだろう。


身体の線が変わり、声も柔らかくなる。その中に自分を置いてみても、やはり嫌ではなかった。


どちらの自分も想像できる。


なのに、どちらか一方を指して「これが自分だ」と言おうとすると、言葉が止まった。


「イル?」


「あ、ごめん。……まだ、どっちでもないみたい」


「ふうん。そっか。見つけたら教えてよ」


「うん。その時はね」


友人はそれだけ言って、別の木へ向かった。


イルも再び木の実を摘み始めた。


大きな不安があるわけではない。


それでも周囲が少しずつ答えを見つけていく中、自分だけが同じ場所に残っているような感覚が、ほんの少し胸に引っかかった。


「何ぼーっとしてるの?」


横から声がした。


いつの間にか、アスが隣を歩いている。


「アス、どこにいたの?」


「向こう。木登ってた」


「また?」


「今日は落ちてないよ」


「今日は、って言ってる時点で駄目だと思う」


「前のは枝が悪かったんだって。僕は悪くない」


「折れそうな枝に乗ったアスが悪いでしょ」


いつもの会話だった。


それだけで、さっきまで頭の中にあったものが少し遠ざかる。


イルは隣を歩くアスを見る。


アスの身体も、まだどちらにも定着していない。


「アスはさ」


「ん?」


「男と女、どっち?」


アスが足を止め、自分の身体を上から下まで眺めた。


「どっちでもないんじゃない?」


「それは今の話でしょ。これからどっちになると思う?」


「分かんない」


即答だった。


「気にならないの?」


「なんで?」


逆に聞かれ、イルは言葉に詰まる。


アスが首を傾げた。


「そのうち分かるなら、その時でよくない? 男だって思ったら男になるだろうし、女だって思ったら女になるんでしょ?」


「そんなすぐには変わらないよ」


「じゃあもっと気にしなくていいじゃん。時間がかかるなら、その間に考えればいいし」


あまりにもアスらしい答えだった。


イルは思わず笑った。


「何?」


「いや、アスらしいなって」


「どういう意味?」


「そのままの意味」


「なんか馬鹿にされてる気がする」


「してないって」


アスは納得していないようだったが、やがて興味を失ったらしく歩き始める。


その背中を追いながら、イルはさっきの言葉を考えた。


その時でいい。


答えが見つかった時に決めればいい。


里の大人たちからも何度か聞いたことがある言葉だった。


知識としては分かっていた。


けれど、アスが何でもないことのように言うと、本当に大した問題ではないように思えた。


まだ答えはない。


それでも、急いで探す必要はないのかもしれない。


    ◇ ◇ ◇


二人が喧嘩をすることもあった。


長い時間を一緒に過ごしているからといって、何もかも気が合うわけではない。むしろ遠慮がない分、些細なことでぶつかることも多かった。


その日の原因は、アスがイルの取っておいた果実を勝手に食べたことだった。


「だから名前書いてなかったじゃん!」


「僕が朝から冷やしてたの知ってたでしょ!」


「知ってたけど、イルが食べるって知らなかった!」


「食べるから冷やしてたんだよ!」


「飾るのかもしれないじゃん!」


「果物を!?」


「綺麗だったし!」


「そんなわけないでしょ!」


周囲にいた者たちは、最初こそ止めようとしたものの、途中から誰も口を挟まなくなった。


二人の喧嘩は、放っておけば終わる。


それをみんな知っていたからだ。


「もういい。アスなんか知らない」


「こっちだって知らないよ!」


イルは踵を返し、アスも反対方向へ歩いていった。


その日は夕方まで顔を合わせなかった。


イルは一人で森へ入り、幼い頃から見ている木のところへ向かった。


かつて膝ほどしかなかった若木は、今ではイルの腰を越えている。


その幹へ触れながら、イルは小さく息を吐いた。


食べたかったのだ。


朝に見つけた果実を冷たい水へ浸し、午後になったら食べようと思っていた。


それをアスは何の確認もせず食べた。


怒って当然だ。


そう思いながら過ごしているうちに、陽が傾き始めた。


里へ戻る途中、イルは足を止めた。


道の端にアスが座っていた。


膝を抱えて空を眺めていたアスは、イルに気づくと顔を向ける。


「……おかえり」


「ただいま」


反射的に返してから、イルは少し後悔した。


まだ怒っているのだ。


アスが立ち上がり、小さな包みを差し出した。


「これ」


「何?」


「さっきのと同じ果物。探してきた」


よく見ると、アスの服には葉や小枝がいくつも付いていた。髪にも一枚、緑の葉が絡んでいる。


どこまで探しに行ったのかは聞かなくても分かった。


「……別に、そこまでしなくてもよかったのに」


「でもイル、楽しみにしてたんでしょ」


「だったら食べなければよかったじゃん」


「それはそう」


アスは素直に認めた。


イルはしばらく黙ってから包みを受け取る。


「次から勝手に食べないで」


「うん」


「ちゃんと聞いて」


「分かった。……だから明日、川行かない?」


イルは顔を上げた。


「なんで今その話になるの?」


「仲直りしたから」


「まだしてないけど」


「果物受け取ったじゃん」


「それとこれとは別」


「じゃあ返して」


アスが手を伸ばす。


イルは包みを背中へ隠した。


「これは僕の」


「仲直りしてないのに?」


「アスが僕のを食べた代わりだから」


「じゃあ仲直りは?」


「……明日まで考える」


「えー」


イルはそのまま歩き出した。


数歩進むと、後ろから足音がついてくる。


「なんでついてくるの」


「帰る場所同じだから」


以前、川辺で聞いた言葉だった。


イルは少しだけ口元を緩める。


「勝手にすれば」


「うん」


それ以上の言葉は必要なかった。


翌朝、イルが外へ出るとアスが待っていた。


「川行こ」


昨日の喧嘩については何も言わない。


イルも言わなかった。


「魚捕まえるなら、今日はちゃんと魚捕まえてよ。水掛けるのなしだから」


「それイルもやってたじゃん」


「アスが先にやったんでしょ」


「まだ覚えてるの?」


「忘れないよ」


そんな話をしながら、二人は並んで歩き出した。


昨日あれだけ怒っていたことが嘘だったわけではない。


アスが果物を探してきたから、全部なかったことになったわけでもない。


ただ、それと今日隣を歩くことは別だった。


離れるという選択肢を、二人とも最初から考えていなかった。


    ◇ ◇ ◇


時間はさらに流れた。


周囲には、すっかり男性や女性として定着した者が増えていく。


それでもイルは変わらず友人たちと話し、誘われれば一緒に遊び、困っている者がいれば手を貸した。


人付き合いが嫌いなわけではない。


ただ、自分から誰かを強く求めることは少なかった。


森へ行きたいなら一人でも行ける。本を読みたいなら一人で読む。悩みがあれば、まず自分の中で考える。


そして、自分がここまでと決めたところより先へ誰かが踏み込もうとすれば、怒るのではなく、穏やかに話をずらした。


拒絶されたことに気づかない者さえいた。


アスは似ているようで、少し違った。


誰とでも笑い、誰とでも遊ぶ。知らない相手が輪の外にいれば、自分から声をかけることさえある。


それなのに、誰か一人が深く近づこうとすると、気づけばするりとその場所から逃げている。


イルは境界を決めて、その内側へ人を入れない。


アスは境界などないように見せながら、誰も奥まで入れない。


けれど、互いに対してだけは、そんなものを作った覚えがなかった。


「イル、これ取って」


ある日、木の上からアスが言った。


「自分で持って降りれば?」


「両手塞がってる」


「だからそんなに取るなって言ったのに」


「いいから。落とすよ」


「待って、今行くから」


イルが木の下まで行く。


アスが集めた果実をひとつずつ落とし、イルが受け取った。


他の相手なら、アスももう少し遠慮しただろう。


イルも他の相手なら、呆れながら全部拾ってやることはない。


「最後。あ、あと僕も」


「自分で降りて」


「受け止めてよ」


「絶対嫌だ」


「いくよー」


「待って、本当にやめて!」


アスが枝から飛び降りた。


イルは咄嗟に籠を地面へ置いて横へ避ける。


アスは普通に着地した。


「避けることないじゃん」


「最初から自分で降りられるなら言わないでよ!」


「受け止めてくれるかなと思って」


「なんで僕がアスを受け止めないといけないの」


「友達だから?」


「友達を潰そうとしないで」


アスは笑いながら籠の半分を持つ。


二人はそのまま並んで歩き出した。


途中で友人たちとすれ違う。


「明日、南の泉まで行くんだけど、アスも来る?」


「いいよ。何時?」


「朝。イルも来る?」


イルは少し考えた。


明日は読みたい本がある。


「僕はいいかな。行ってきて」


「そっか。じゃあまたね」


友人たちが去っていく。


アスは特にイルを誘い直さなかった。


「じゃあ明日、僕いないから」


「うん」


「寂しい?」


「別に」


「即答することないじゃん」


「自分で聞いたんでしょ」


二人とも笑った。


いつも一緒だからといって、何もかも一緒にするわけではない。


アスにはアスの時間がある。


イルにはイルの時間がある。


離れていても、それで関係が薄くなるとは思わなかった。


翌日、アスは朝から出かけた。


イルは一人で本を読み、昼を過ぎてから森へ散歩に出た。


夕方。


世界樹の根元へ戻る途中、向こうから見慣れた姿が歩いてきた。


「ただいま」


「おかえり。泉どうだった?」


「綺麗だったよ。あと途中で変な鳥見つけた。羽が三色あってさ――」


アスが隣へ並ぶ。


イルは歩く速度を少しだけ落とした。


アスの話は、帰り道が終わるまで続いた。


それでよかった。


離れることと、離れていくことは違う。


二人はまだ、それを言葉にしたことはなかった。


ただ知っていた。


明日、別々の場所へ行っても、戻ればまた隣にいる。


喧嘩をしても、いつかまた話している。


誰かと遊んでも、誰かと仲良くなっても、それで相手の場所がなくなるわけではない。


そして二人はまだ知らない。


自分たちが、ここではない別の場所で生きていたことを。


失われた記憶の中にも、互いの姿があることを。


今の二人には、それより前の人生など何ひとつ残っていなかった。


アスはアスとして生まれた。


イルはイルとして生まれた。


だから今、一緒にいることに過去の理由など必要なかった。


気づいた時には隣にいて、それが当たり前になっていた。


ただ、それだけだった。


    ◇ ◇ ◇


世界樹の根元には、二人がよく座る場所があった。


幾重にも重なる太い根の一つが緩やかに窪み、背を預けるのにちょうどいい形になっている。


夕暮れ時。


空が淡い橙色へ染まり始める頃、アスとイルはそこに並んで座っていた。


少し離れた広場には友人たちがいる。


男性として定着した者。


女性として定着した者。


まだ二人と同じように答えを見つけていない者も、少ないながら残っていた。


昔はほとんど違いのなかった子供たちが、それぞれ違う姿になり始めている。


「みんな変わったね」


「そう?」


アスが隣で木の葉を弄んでいる。


「変わったでしょ。前はもっと同じ感じだったじゃん」


「今も同じじゃない?」


「どこが?」


「話すと普通だよ」


イルは広場を見る。


確かにそうだった。


姿が変わっても、友人は友人だ。


性別を知ったことで、急に別人になったわけではない。


「そういう意味じゃなくてさ。自分がどういう人なのか、みんな少しずつ分かってきてる感じ」


「イルも分かってるじゃん」


「何が?」


「イルがイルだってこと」


イルは隣を見る。


アスは葉を指先で回しながら、何でもないことのように言った。


「男とか女とかはまだ分かんないけど、イルが急に別の誰かになるわけじゃないでしょ?」


「……それは、そうだけど」


「じゃあいいじゃん」


アスは本当に気にしていないのだろう。


自分がまだ定着していないことも。


イルが定着していないことも。


友人たちが先に答えを見つけていくことも。


どれも、アスにとって相手との関係を変える理由にはならない。


イルは空を見上げた。


世界樹の枝の向こうに、夕暮れの光が見える。


「僕さ、一回ちゃんと考えたんだ」


「性別?」


「うん」


アスが葉を弄る手を止める。


「男になった自分も考えたし、女になった自分も考えた。でも、どっちも嫌じゃなかった。嫌じゃないんだけど、どっちが自分なのかって聞かれると分からなかった」


アスは口を挟まない。


こういう時だけは、意外と最後まで聞く。


「最初は、みんなが決まっていくから、僕も決めないといけないのかなって少し思った。でも別に、今困ってるわけじゃないんだよね」


「うん」


「だから今は、これでいいかなって」


イルは自分の手を見る。


男でも女でもない身体。


まだどちらへも定着していない自分。


以前はそれを、何も決まっていない状態だと思っていた。


けれど、今は少し違う。


決まっていないのではなく、これが今の自分なのだ。


「今の自分が自分なら、それでいい」


口にした瞬間、その言葉は不思議なくらい自然に胸の中へ落ちた。


誰かに聞かせるためではない。


自分自身へ向けた答えだった。


アスが隣で笑った。


「じゃあ決まったね」


「何が?」


「今は決めないってこと」


「それ、決まったって言うの?」


「言うんじゃない?」


「適当だなあ」


「イルが納得してるならいいじゃん」


アスは再び葉を指先で回し始める。


イルは少し笑った。


「アスは本当に気にならないんだね」


「うん」


「自分が男になるか女になるかだよ?」


「どっちでも僕でしょ」


迷いのない返事だった。


「それよりさ、明日あの木のところ行こうよ。前にイルが見てたやつ。最近行ってないでしょ?」


「若木?」


「もう若木って大きさじゃないんじゃない?」


「たぶんね」


「じゃあ見に行こう」


「いいよ」


それで話は終わった。


大切なことを話していたはずなのに、アスにとっては明日の予定と同じ場所に置けるものらしい。


イルには、それが心地よかった。


何者になるのか。


いつ答えが出るのか。


そんなことを急かされない。


分からないと言っても、アスは不思議そうにしない。


隣にいるのがイルなら、それでいい。


おそらくアスは、本当にそのくらいにしか考えていない。


そしてイルも、アスについては似たようなものだった。


男になっても。


女になっても。


今のままでも。


アスがアスであるなら、それ以上に考える必要を感じない。


広場から笑い声が聞こえた。


少し前まで一緒に泥だらけになって遊んでいた者たちが、それぞれの形へ成長していく。


きっとこれからも変わる。


身体だけではない。


好きなものも、得意なことも、行きたい場所も。


長い時間を生きるのだから、今からは想像もできないほど変わるのかもしれない。


イルが隣を見ると、アスは世界樹の葉を一枚、夕日に透かしていた。


「綺麗」


「何が?」


「これ。ほら」


渡された葉を受け取る。


緑の葉脈を夕日の赤が透かし、細かな筋が浮かび上がっていた。


「ほんとだ」


「持って帰る?」


「なんで?」


「イル、こういうの好きじゃん」


「別に何でも集めてるわけじゃないよ」


そう言いつつ、イルは葉を返さなかった。


アスが笑う。


「やっぱり持って帰るんじゃん」


「うるさいな」


「じゃあ返して」


「もう僕のだから」


「そういうところあるよね、イル」


二人で笑った。


夕日は少しずつ沈んでいく。


世界樹の影が長く伸び、広場にいた者たちも一人、また一人と帰っていった。


アスとイルは急がなかった。


何十年と見てきた景色だった。


そしてこれからも、まだ長い間見るはずの景色だった。


二人は、自分たちがどこから来たのか知らない。


これから何者になるのかも知らない。


大人になった時につける、本当の名前もまだ持っていない。


アスはアス。


イルはイル。


それだけだった。


男でもない。


女でもない。


過去も知らない。


未来も決まっていない。


それでも、隣にいる相手だけは昔から変わらなかった。


「そろそろ帰る?」


イルが聞く。


アスは空を見てから立ち上がった。


「帰ろ。お腹空いた」


「またそれ?」


「今日はそんなに食べてないよ」


「昼にも同じこと言ってたじゃん」


「成長期なんじゃない?」


「僕たちの成長期って何十年続くと思ってるの」


「じゃあ何十年でもいっぱい食べられるね」


「そういう意味じゃないって」


アスが先に歩き出す。


イルも世界樹の根から降りた。


数歩先へ行ったアスが振り返る。


「イル、早く」


「置いていけばいいじゃん」


「なんで?」


本当に分からないという顔をされた。


イルは少しだけ笑った。


「何でもない。今行く」


追いつくと、アスはまた前を向いた。


肩が触れるほど近くはない。


手を繋ぐわけでもない。


けれど、離れて歩く理由もなかった。


二人分の足音が、世界樹の葉擦れに混じる。


まだ、どちらでもない。


まだ、自分たちの本当の名前すら知らない。


それでも二人は、同じ道を歩いていた。


世界樹の枝葉の隙間から最後の夕日が差し込み、並んだ二つの影を長く伸ばす。


少し形の違う影は、やがて重なりながら里の中へ消えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。