第9話 イル
ルーメンを発ってから、二日目の昼を過ぎた頃だった。
朝から空を覆っていた灰色の雲は、街道を進むほどに厚みを増していた。
昨日までの青空はどこにもなく、遠くに連なる山々も薄い霞の向こうへ溶けている。風が吹くたび、街道脇の草原が大きく波打ち、湿り気を含んだ空気が頬を撫でた。
ゆうきは歩きながら空を見上げた。
「これ、降るよな」
「降るね」
隣を歩くアムネも、同じように空を見上げている。
水色の髪が風に揺れ、その先が何度か頬へ触れていた。
「どれくらい?」
「うーん……」
アムネは少しだけ目を細める。
風の匂いを確かめるように顔を上げてから、遠くの空へ視線を向けた。
「結構降るかも」
「やっぱり?」
「雨だけならいいけど、風も強くなりそう。次の街までまだ距離あるよね?」
「ある。朝に見た地図だと、このまま歩いても夕方くらい」
「じゃあ、どこかで雨宿りした方がいいかもね。無理して進む必要もないし」
「そうするか」
学院へ通っていた頃なら、雨くらいならそのまま進もうとしたかもしれない。
濡れても乾かせばいい。
魔法を使えば多少は防げる。
次の街へ早く着けるなら、その方がいい。
そんな考えが先に浮かんでいただろう。
けれど、今は違った。
急ぐ理由がないのなら、わざわざ体力や魔力を使う必要もない。
雨で視界が悪くなれば、魔物への対応も遅れる。足元がぬかるめば戦いにくくもなる。
知っていれば避けられることを、無理に試す必要はない。
「……ちょっとは冒険者らしくなったかも」
「何が?」
「いや、何でもない」
ゆうきは笑って前を向いた。
「それより、雨宿りできそうなところあったっけ」
「朝の地図だと、この辺りに旅人用の休憩所があった気がするけど」
「本当?」
「たぶん」
「たぶんか」
「地図持ってる?」
「あるよ」
ゆうきは立ち止まり、鞄から折り畳んだ地図を取り出した。
二人で覗き込む。
ルーメンから次の街へ続く街道。
現在地は正確には分からないものの、朝から歩いた距離を考えれば、おおよその場所は絞れる。
「あった」
ゆうきが小さな印を指で示す。
「ここ」
「もう少し先だね」
「この距離なら、降る前に――」
頬に冷たいものが当たった。
ゆうきが止まる。
アムネも止まった。
二人同時に空を見る。
ぽつり。
もう一滴。
地図の端へ、小さな染みができた。
「……降ってきたね」
「言った瞬間じゃん」
「急ごっか」
「ああ」
地図を畳み、鞄へ戻す。
二人は歩調を速めた。
最初は小さかった雨粒が、少しずつ数を増していく。
土の匂いが濃くなった。
乾いていた街道に黒い点がいくつも生まれ、それらが重なりながら地面の色を変えていく。
風も強くなってきた。
「アム、本当に結構降る?」
「うん」
「あとどれくらいで?」
「たぶん――」
アムネが答えようとした、その時だった。
空が白く光った。
一瞬遅れて、遠くで低い雷鳴が響く。
二人とも足を止めた。
「……走ろう」
「賛成」
そこからは早かった。
街道を走り始めて間もなく、雨脚が一気に強くなった。
ぽつぽつと落ちていた雨が、突然、空からまとめて落ちてきたように変わる。
「うわっ!」
ゆうきは片腕で顔を庇った。
数十歩も走らないうちに髪が濡れる。
上着にも雨が染み込み始めた。
「ゆうき、こっち!」
アムネが街道の先を指さす。
木々の間に、小さな建物が見えた。
石造りの土台。
その上に組まれた木造の小屋。
旅人が一時的に休むためのものなのだろう。宿と呼べるほど大きくはないが、雨風を凌ぐには十分そうだった。
「あれだ!」
二人は最後の距離を一気に走った。
屋根の下へ滑り込む。
「間に合った……って言っていいのかな」
ゆうきは濡れた前髪をかき上げた。
「結構濡れたね」
「アムもだろ」
「うちは水なら平気」
「そういう問題?」
アムネが笑う。
ゆうきは肩についた水滴を払い、それから小屋の扉へ手をかけた。
「とりあえず中に入ろう」
「うん」
古びた木の扉を押す。
蝶番が小さく軋んだ。
外の雨音が少し遠くなる。
中は思っていたより広かった。
壁際には長椅子が置かれ、中央近くには簡素な炉がある。誰でも使えるよう、隅には薪もいくらか積まれていた。
窓は小さく、室内は薄暗い。
けれど、雨を凌ぐには十分だった。
そして。
先客がいた。
窓際の長椅子に、一人の女性が座っている。
年齢は、ゆうきたちとそれほど離れていないように見えた。
旅装。
傍らには荷物。
どうやら彼女も雨に降られる前に、ここへ逃げ込んでいたらしい。
扉が開いた音に気づき、女性が顔を上げる。
視線が合った。
「…………」
ゆうきは、なぜかすぐに言葉が出なかった。
知っている顔ではない。
少なくとも、記憶にある誰かではなかった。
人族の女性。
それ以上のことは分からない。
それなのに。
ほんの一瞬。
胸の奥を、何かが掠めた。
忘れていたものへ触れたような。
どこかで同じものを見たことがあるような。
そんな、説明のつかない感覚。
女性もこちらを見ていた。
ほんの少しだけ目を見開いている。
隣にいたアムネが、ゆうきより一歩遅れて足を止めた。
「……?」
小さな声。
ゆうきはアムネを見る。
アムネも女性を見ていた。
その表情には、驚きというほど強くはないものの、普段ならあまり見せない戸惑いが浮かんでいる。
外で雷が鳴った。
その音で、止まっていた時間が動き出す。
「あ、すみません」
ゆうきは先に口を開いた。
「使ってました?」
女性が瞬きをする。
それから、穏やかに首を振った。
「いえ。私も雨宿りをしていただけですので。ここは旅人が自由に使う場所ですし、どうぞお気になさらず」
柔らかな声だった。
丁寧ではあるが、必要以上に距離を感じさせる話し方でもない。
「ありがとうございます」
ゆうきは中へ入り、アムネも続いた。
扉を閉める。
途端に雨音が少しだけ小さくなった。
それでも屋根を叩く音は激しい。
すぐに止む雨ではなさそうだった。
「すごい降ってきたね」
アムネが窓の外を見る。
「もう少し遅かったら完全にずぶ濡れだったな」
「もう結構濡れてるよ?」
「これくらいなら乾かせるって」
ゆうきは濡れた上着を脱いだ。
女性から少し離れた場所へ荷物を置く。
初対面の相手がいる。
それなら最低限の距離は取った方がいい。
そう考えての行動だった。
けれど、なぜか妙な感じがした。
警戒されているようには見えない。
こちらも、必要以上に警戒する気にならない。
もちろん、それだけで信用するつもりはない。
旅の途中で出会った、名前も知らない相手だ。
ただ――。
「火、使っても大丈夫ですか?」
ゆうきが尋ねる。
女性は中央の炉へ目を向けた。
「ええ。私も少しお借りしようかと思っていたところです」
「じゃあ、つけますね」
「お願いします」
ゆうきが薪を数本取る。
炉へ並べようとすると、隣からアムネの手が伸びた。
「貸して」
「ん?」
「火くらいつけるよ」
アムネの髪が、水色から赤へ変わっていく。
女性の視線が僅かに動いた。
髪の色だけではない。
アムネが纏う魔力の質そのものが、水から火へ切り替わる。
指先に小さな炎が灯った。
薪へ近づけると、乾いた木がぱちりと音を立てる。
小さな火が生まれた。
「はい」
「便利だな、それ」
「今さら?」
「見慣れてるけど、こういう時は特に思うよ」
「ゆうきだって火属性使えるでしょ」
「使えるけど、アムほど上手くない」
「学院卒業したばっかりなんだから、これからだよ」
そんな会話をしながら、二人で濡れた上着を火の近くへ置く。
ふと視線を感じた。
女性だった。
アムネを見ている。
ただし、珍しい能力への興味だけではないように見えた。
「……どうかしました?」
アムネが尋ねる。
女性は一瞬だけ間を置いた。
「いえ。随分と自然に属性を切り替えられるのだと思いまして」
「ああ」
アムネは自分の赤い髪へ触れる。
「ちょっと特殊なんだ」
「そうなのですね」
女性はそれ以上聞かなかった。
ゆうきは何となく、そのやり取りが気になった。
普通ならもう少し聞いても不思議ではない。
アムネの能力はかなり珍しい。
けれど女性は、アムネが「特殊」と答えたところで話を終わらせた。
踏み込まない。
聞かれたくないことがあるなら、無理には聞かない。
そんな距離の取り方だった。
「そっちも濡れてません?」
ゆうきが女性の外套を見る。
裾の辺りが少し濡れている。
「少しだけ。雨が強くなる前には入れましたので」
「だったら、こっちで乾かしていいですよ」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
女性は外套を脱ぐと、火の近くへ移動した。
距離が少し縮まる。
三人で炉を囲む形になった。
火が薪を噛む音。
屋根を叩く雨音。
時折、遠くで響く雷。
誰も話さない時間が訪れる。
初対面の三人。
本来なら、少しくらい気まずくてもおかしくない。
けれど。
「…………」
ゆうきは炎を見ながら、不思議に思っていた。
気まずくない。
何か話さなければと焦ることもない。
アムネと二人でいる時とまではいかないが、それに近い静けさだった。
知らない相手が一人いる。
頭ではそう分かっているのに、身体がそれほど緊張していない。
「……変なの」
アムネが小さく呟いた。
「何が?」
「ううん」
アムネは首を振る。
「雨、すごいなって」
「それ、変なのって言う?」
「言う時もあるよ」
「本当に?」
「あるって」
少し強引だった。
けれど、ゆうきも追及しなかった。
窓際に座っていた女性が、小さく笑った。
二人がそちらを見る。
「すみません」
女性は口元へ手を添えた。
「仲がよろしいのですね」
「まあ、長いから」
ゆうきが答える。
「親友なんだ」
「そうなのですね」
「腐れ縁みたいなものだけどね」
アムネが付け加える。
「おい」
「間違ってないでしょ?」
「親友って言った直後に腐れ縁にするなよ」
「どっちも本当じゃん」
「それは……まあ、そうだけど」
「でしょう?」
アムネが少し得意そうに笑う。
女性もまた、静かに笑った。
その笑い方を見た瞬間。
ゆうきの胸に、また同じ感覚が走った。
「……?」
何だろう。
笑い方が誰かに似ている?
いや。
思い当たらない。
そもそも、この世界へ来てから出会った人物の中に、似た人はいなかった。
現代で知っていた誰かだろうか。
それも違う気がする。
「どうされました?」
「え?」
「こちらを見ていたので」
「あ、ごめん」
ゆうきは視線を外した。
「誰かに似てる気がして」
言ってから、少し失礼だったかと思う。
けれど女性は不快そうにはしなかった。
「お知り合いに、ですか?」
「それが分からないんですよね。何となく、そう思っただけで」
「……そうですか」
女性の返事が、ほんの少しだけ遅れた。
アムネがゆうきを見る。
「ゆうきも?」
「も?」
「あ……」
アムネが止まる。
女性もアムネを見る。
「アムもそう思った?」
「うーん……似てるっていうのとは違うんだけど」
アムネは女性を見つめた。
その視線は、相手を疑うというより、自分の記憶を探しているようだった。
「どこかで会ったことある?」
「いえ」
女性は静かに首を振る。
「少なくとも、私はお二人とお会いした記憶はありません」
「だよね」
アムネも頷く。
「うちもないんだよね」
千年以上を生きている。
それだけの時間があれば、忘れてしまった顔の一つや二つでは済まないのかもしれない。
けれどアムネは、ただ忘れているだけとは思っていないようだった。
「でも……」
アムネが言葉を止める。
「何でしょう?」
「なんか、懐かしい感じがする」
雨音の中で、その言葉だけが妙にはっきり聞こえた。
ゆうきはアムネを見る。
自分が感じていたものに、一番近い言葉だった。
「俺も、それかも」
「ゆうきも?」
「うん。誰かに似てるっていうより……なんか、初めて会った感じがしない」
女性が二人を見る。
表情は大きく変わらない。
ただ、その指先が膝の上で僅かに動いた。
「……奇遇ですね」
「え?」
女性は一度だけ炎へ視線を落とした。
「私も、少しだけ似たことを考えていました」
三人とも黙る。
火がぱちりと弾けた。
「俺たちみたいな顔の知り合いがいたとか?」
「いいえ」
「じゃあ、アムと同じで会ったことがある?」
「それもないと思います」
「だよねぇ」
アムネが首を傾ける。
「うち、長く生きてるから昔どこかで会った可能性はあるけど、ゆうきまで同じなのは変だし」
「そうだな」
「……お二人は、かなり長いお付き合いなのですか?」
女性の問いに、ゆうきは少し考えた。
「長い……って言っていいのかな」
「どうだろ」
アムネも曖昧に笑う。
再会してからの時間だけを考えれば、そこまで長くはない。
けれど、そう簡単に表せる関係でもない。
「まあ、昔からの友達だよ」
ゆうきはそう答えた。
「離れてた時間も長かったけど」
「そうなのですね」
女性は二人を見た。
どこか眩しいものを見るような目だった。
けれど、それも一瞬だった。
「そういえば」
ゆうきは話題を変える。
「まだ名前、聞いてなかったですね」
女性の動きが止まった。
ほんの僅かな間。
それから、いつもの穏やかな表情へ戻る。
「……イルと申します」
「イルさん」
「はい」
「俺はゆうき」
「うちはアムネ。アムでいいよ」
アムネが軽く手を上げる。
「ゆうきさんと、アムさんですね」
「俺も呼び捨てでいいですよ」
「では……ゆうきさんで」
「そこは変わらないんだ」
「初対面の方をいきなり呼び捨てにするのは、少し落ち着きませんので」
「なるほど」
「アムさんも同じです」
「うん。好きに呼んで」
三人の間に、また小さな笑いが生まれた。
イル。
名前を聞いた。
それだけなのに、ゆうきは胸の奥で何かが引っかかるのを感じた。
もちろん、知らない名前だ。
それでも。
妙に気になる。
「ゆうき」
「ん?」
「名前聞いたなら、次は何聞くつもり?」
アムネが横から言う。
「別に質問攻めにするつもりないよ」
「ゆうき、初対面でも普通に色々聞くから」
「嫌なら答えなくていいって言うだろ」
「それはそうだけど」
イルが小さく笑う。
「私は構いませんよ。答えられることであれば」
「じゃあ、旅の途中?」
「はい」
「一人で?」
「今は一人です」
今は。
その言葉が少しだけ気になった。
けれど、ゆうきはそれ以上踏み込まなかった。
「ゆうきさんたちは?」
「俺たちも旅の途中です。少し前までルーメンにいて」
「ルーメンから?」
「はい。俺は学院に少しだけ通ってたんです」
「アルバフローラ魔法学院ですか?」
「そうです」
「少しだけっていうのは?」
イルが尋ねる。
ゆうきは思わず笑った。
「説明するとちょっと変なんですけど、一時的な入学体験みたいなもので」
「2日前に卒業したんだよ」
アムネが横から付け足す。
イルが目を瞬いた。
「2日前?」
「うん」
「それで、すぐにもう旅を?」
「そうなりますね」
「……随分と慌ただしいですね」
「俺もそう思います」
ゆうきが笑うと、イルも小さく笑った。
「でも、学院はどうでしたか?」
「楽しかったですよ」
その答えは、すぐに出た。
「知らないこともいっぱい知れたし、友達もできたし」
「そうですか」
「ダンジョン実習もあったんですけど、最後まで一緒に行けました」
「学院の管理ダンジョンですね」
「知ってるんですか?」
「存在だけは。ルーメンは魔法都市として有名ですから」
「なるほど」
ゆうきは学院での出来事を少しずつ話した。
最初のゴブリン。
五人で組んだ実習パーティ。
階層を進むごとに強くなる魔物。
途中で一度攻略を止めたこと。
図書館へ行ったこと。
そして、最深部まで辿り着いたこと。
もちろん、仲間の能力や細かな事情までは話さない。
それでも、話しているうちに自然と色々な出来事が口から出てきた。
「それで最後に出てきたのが、青いツインオーガジェネラルで」
「ツインオーガジェネラル?」
イルの声が僅かに変わった。
「はい。しかも亜種だったらしくて」
「……学院の中級ダンジョンで、ですか?」
「そうです」
「それは……」
イルは少し考える。
「よくご無事でしたね」
「五人だったから」
ゆうきは即座に答えた。
「俺一人だったら無理でした」
イルがゆうきを見る。
「迷わずそう仰るのですね」
「本当のことなので」
「……そうですか」
何かを確かめるような視線だった。
けれど、その理由を尋ねる前にアムネが口を開いた。
「イルは冒険者?」
「え?」
「旅してるなら、そうなのかなって」
「ええ。一応」
「やっぱり」
「分かるのですか?」
「装備見れば何となくね。それに、一人でこの辺りを歩いてるなら、ある程度は戦えるんだろうなって」
イルは少しだけ目を細めた。
「アムさんも冒険者なのですか?」
「うん」
「ゆうきさんも?」
「俺もです」
「では、お二人でパーティを?」
「今はそうなるかな」
ゆうきは答える。
「ただ、仲間を探してる途中なんです」
イルの指先が止まった。
ほんの一瞬。
けれど、ゆうきは気づかなかった。
「仲間を?」
「はい」
「どのような方を探しているのですか?」
「それが、特に決めてないんですよね」
イルが少し意外そうにする。
「条件などは?」
「ないです」
「強さも?」
「もちろん強い方が助かることはありますけど、それだけで決めるつもりはないかな」
「……では、何を基準に?」
ゆうきは少し考えた。
学院で出会った四人を思い浮かべる。
なも。
おむたろ。
ももね。
ちゃちゃ。
誰も同じではなかった。
戦い方も。
考え方も。
得意なことも。
苦手なことも。
「一緒にいたいと思えるかどうか、かな」
答えると、イルが僅かに目を見開いた。
「随分と曖昧ですね」
「そうなんですよね」
「そこは認めるんだ」
アムネが笑う。
「でも、強いからって一緒に旅できるとは限らないだろ」
「それはそうだけど」
「戦ってない時間の方が長いし」
「ゆうきはそういうところ結構気にするよね」
「アムだってそうじゃん」
「うちは気に入らない人と千年付き合うとか絶対嫌だよ」
「千年基準にするなよ」
イルが堪えきれないように笑った。
「お二人は、本当に仲がよろしいのですね」
「だから親友だって」
「ゆうきがうちに遠慮ないだけだよ」
「アムもだろ」
「そうかな?」
「そうだよ」
「……ハハ。」
アムネの笑い声。
イルも笑っている。
ゆうきもつられて笑った。
そして、ふと気づく。
三人で話している。
いつからだろう。
最初は雨宿りのために同じ小屋へ入っただけだった。
名前も知らなかった。
警戒こそしていなかったものの、互いに一定の距離は取っていたはずだ。
今は、炉を囲む距離が最初より少し縮まっている。
誰がそうしたわけでもない。
気づけばそうなっていた。
「……不思議だな」
ゆうきが呟く。
「何が?」
アムネが尋ねる。
「いや」
イルを見る。
イルもこちらを見ていた。
「本当に今日初めて会ったんですよね?」
「そのはずです」
「ですよね」
「ゆうき、まだ気になる?」
「ちょっと」
「うちも」
アムネは炉へ薪を一本足した。
「声とかかなって思ったけど、違うんだよね」
「声?」
「うん。誰かに似てるのかなって。でも、そうじゃない」
炎が少し大きくなる。
「話してる時の感じかな」
アムネは自分でも分からないように首を傾けた。
「間とか?」
「間?」
「うん。なんか……」
アムネがイルを見る。
「話しやすい」
イルの目が少しだけ揺れた。
「私も……」
そこまで言い、止まる。
「イルも?」
「いえ」
イルは一度視線を落とした。
けれど、誤魔化すことをやめたように小さく息を吐く。
「……そうですね。私も、お二人とは不思議と話しやすいです」
「やっぱり?」
「はい」
「じゃあ三人とも同じか」
ゆうきが言う。
「余計分からなくなったけど」
「そうだね」
アムネが笑う。
イルも少し遅れて笑った。
理由は分からない。
それでいいような気がした。
◇
雨はなかなか止まなかった。
一度弱くなったと思えば、また屋根を強く叩く。
そのたびに三人は窓の外を見て、まだ無理そうだと諦めた。
昼を過ぎていたこともあり、それぞれ持っていた食料を出すことになった。
「イルさん、それだけですか?」
ゆうきが見る。
イルの手元にあるのは、硬めのパンと干した果物だけだった。
「十分ですよ」
「でも、まだ雨止みそうにないですよ」
「慣れていますので」
「それなら、これ食べません?」
ゆうきは鞄から包みを取り出した。
昨日、ルーメンを出る時にちゃちゃから渡された焼き菓子。
結局、昨日の夜には半分ほどしか食べなかった。
「いただくわけには」
「いっぱいあるんで」
「ゆうき」
アムネが横から口を挟む。
「うちの分は?」
「ちゃんと残すよ」
「本当?」
「昨日から何回確認するんだよ」
「だってちゃちゃ、二人で食べてって言ってたじゃん」
「イルさんに一つ渡したくらいで怒らないって」
「それもそうか」
「お二人の大切なものなら、本当にお気になさらず」
「大切ですけど、食べ物なので」
ゆうきは一つ取り出し、イルへ差し出した。
「こういうのは食べた方がいいです」
イルはしばらく焼き菓子を見ていた。
やがて、少し困ったように笑う。
「では、一つだけ」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
受け取った焼き菓子を一口。
イルの表情が僅かに緩んだ。
「美味しいです」
「ですよね」
「ルーメンで?」
「はい。友達が旅の途中で食べろってくれたんです」
「素敵なお友達ですね」
「食べるの大好きな子ですけどね」
「ゆうき、それちゃちゃに怒られるよ」
「本人も認めるだろ」
「どうかなぁ」
アムネも焼き菓子を一つ取る。
そのまま食べようとして。
「アム」
「なに?」
「それ二個目」
「……見てた?」
「目の前にいるからな」
「まだいっぱいあるじゃん」
「旅の途中で食べる分だぞ」
「今も旅の途中だよ?」
ゆうきが止まる。
「……確かに」
「でしょ?」
「でも一気に食べる意味はないだろ」
「甘いものってある時に食べた方が美味しいよ」
「どういう理屈だよ」
「ふふっ」
小さな声。
二人が見ると、イルが笑っていた。
「すみません。何だか……」
「何です?」
「いえ。本当に、ずっと見ていられそうだと思いまして」
「俺たちの喧嘩を?」
「喧嘩ではないでしょう?」
「まあ、そうですけど」
イルは焼き菓子をもう一口食べる。
その仕草が自然だった。
ゆうきはまた、不思議な感覚を覚える。
三人で何かを食べている。
ただそれだけの光景。
なのに。
胸の奥に、温かいものがある。
学院で五人と食事をしていた時とも違う。
もっと遠いところにある何か。
思い出せない。
けれど、なくなってはいない。
そんな感覚。
「……ゆうき?」
アムネが覗き込む。
「またぼーっとしてる」
「考え事」
「イルのこと?」
「それ本人の前で言う?」
イルが少し笑う。
「私は構いませんよ」
「いや、俺が困ります」
「そうですか?」
「そうです」
ゆうきは焼き菓子を一つ口へ入れた。
甘さが広がる。
ちゃちゃの顔が浮かんだ。
今頃、四人は授業だろうか。
それとも、まだパーティ名で揉めているのだろうか。
「ルーメンへ戻りたいですか?」
イルが尋ねた。
「え?」
「少し寂しそうに見えましたので」
「……分かりました?」
「何となく」
ゆうきは苦笑する。
「戻りたいっていうより、みんな何してるかなって」
「昨日別れたばかりなのに?」
アムネが言う。
「昨日別れたばっかりだからだよ」
「それもそっか」
「でも、戻るつもりはないです」
イルを見る。
「俺たちは俺たちで、先に行きたいから」
「先に……」
「まだ知らない場所もいっぱいあるし、会いたい人もいる。だから、旅を続けます」
イルは何も言わなかった。
ゆうきの言葉を、そのまま受け取るように聞いている。
「イルさんは?」
「私ですか?」
「何か目的があって旅してるんですよね?」
イルの指が止まった。
アムネがゆうきを見る。
「ゆうき」
「あ、ごめん。答えたくなかったら大丈夫です」
「いえ」
イルは少しだけ考える。
「探し物をしています」
「探し物?」
「はい」
それ以上は続かなかった。
ゆうきも待った。
話したくないなら、無理に聞く必要はない。
「見つかるといいですね」
それだけ言う。
イルがゆうきを見る。
「……聞かないのですか?」
「何を探してるか?」
「はい」
「言いたくなったらでいいですよ」
「気にならないのですか?」
「気にはなります」
ゆうきは素直に答えた。
「でも、会ったばっかりの人に全部話せって言われても困るでしょ」
「…………」
「俺も全部話してるわけじゃないし、お互い様です」
イルはしばらくゆうきを見ていた。
やがて、ほんの少しだけ口元を緩める。
「そうですね」
それだけだった。
けれど。
その後のイルの表情は、ほんの少しだけ柔らかくなったように見えた。
◇
午後も半ばを過ぎる頃。
雨音が変わった。
屋根を激しく叩いていた音が、少しずつ間を空け始める。
「弱くなってきた?」
ゆうきが窓を見る。
アムネが立ち上がった。
「うん。雲も切れてきてる」
窓の外はまだ灰色だった。
それでも先ほどまでの暗さはない。
遠くの空には、僅かに明るい場所が見える。
「もう少し待てば止みそうだね」
「じゃあ、それまでに片付けるか」
三人で使った炉。
食事の包み。
濡れた衣服もほとんど乾いている。
ゆうきは上着を手に取り、袖を通した。
「乾いた?」
「大丈夫」
「うちも」
アムネの髪は、いつの間にか赤から普段の水色へ戻っていた。
イルも外套を手に取る。
それを羽織る姿を見て。
ゆうきは、妙な感覚を覚えた。
もう出る。
ただそれだけなのに。
少し惜しい。
雨が止まなければいいとまでは思わない。
けれど、もう少し話していたかった。
「…………」
自分でも理由が分からない。
今日会ったばかりだ。
それも、たまたま雨宿りした小屋にいただけ。
名前以外、ほとんど知らない。
イルが何を探して旅をしているのかさえ知らない。
それなのに。
「止んだね」
アムネの声。
窓を見る。
雨粒がほとんど落ちていない。
雲の切れ間から光が差し込み、濡れた街道を照らしていた。
「本当だ」
ゆうきは扉を開ける。
湿った風が入ってくる。
雨上がりの土と草の匂い。
軒先から落ちる雫が、小さな水溜まりへ波紋を作っていた。
「行けそう」
「うん」
三人で外へ出る。
先ほどまでの大雨が嘘のようだった。
まだ雲は残っているものの、西の空には青が見え始めている。
「イルさんはどっちへ?」
ゆうきが尋ねる。
イルは街道を見てから、ゆうきたちとは別の道を指した。
「私は、こちらへ」
休憩所の少し先で、街道は二つに分かれている。
ゆうきたちが目指す次の街とは別方向だった。
「そっか」
自然と声が小さくなった。
アムネも分岐を見る。
「じゃあ、ここまでだね」
「はい」
イルが頷く。
「短い時間でしたが、ありがとうございました。焼き菓子までいただいてしまって」
「それくらい気にしないでください」
「美味しかったです」
「今度ルーメンに行ったら探してみてください。店の場所、ちゃんと聞いてないですけど」
「そこは聞いておこうよ」
アムネが呆れたように言う。
「ちゃまが買ってきたから知らないんだよ」
「じゃあ次に行った時に聞けばいいね」
「そうだな」
イルがまた笑う。
その笑顔を見て、ゆうきの胸にあった引っかかりが少し強くなる。
「イルさん」
「はい?」
「……また、どこかで会えるといいですね」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
社交辞令として言ったわけではない。
本当にそう思った。
イルの表情が止まる。
ほんの一瞬。
「……そうですね」
柔らかな返事。
「私も、そう思います」
アムネが少しだけイルを見た。
「うちも」
「アムさんも?」
「うん」
アムネは自分でも不思議そうに笑った。
「なんか、また会いそうな気がする」
「それ、アムが言うと予言みたいに聞こえる」
「予言なんてできないよ」
「じゃあ勘?」
「勘」
「Sランクの勘なら当たりそうだな」
「そういうものじゃないって」
「……Sランク?」
イルが反応した。
ゆうきが止まる。
アムネも止まった。
「言ってなかったっけ」
「聞いておりません」
「まあ、聞かれなかったから」
「アムさんが?」
「うん」
イルはアムネを見た。
少しだけ目を細める。
何かを考えている。
けれど、それ以上は何も聞かなかった。
「……そうでしたか」
「驚かないんだ?」
「驚いていますよ」
「そう見えないけど」
「表に出にくいだけです」
「そうなんだ」
アムネは気にした様子もなく笑った。
イルはそんなアムネを見てから、今度はゆうきへ視線を移す。
「ゆうきさんも?」
「いや、俺は違いますよ」
「そうですか」
「普通の冒険者です」
「普通ねぇ」
アムネが横から呟く。
「何だよ」
「別に?」
「何か言いたそうじゃん」
「何も言ってないよ」
「言い方がもう怪しい」
イルが小さく笑った。
まただ。
三人で笑う。
雨宿りしていた時と同じ。
それが、もう終わる。
「じゃあ」
ゆうきは少しだけ名残を振り切るように、街道の先を見る。
「俺たちは行きます」
「はい」
「イルさんも気をつけて」
「お二人も」
「またね、イル」
アムネが手を振る。
イルも小さく手を上げた。
「ええ。また」
それぞれの道へ歩き出す。
ゆうきとアムネは並んで。
イルは一人で。
雨上がりの街道に、二つの方向へ足音が離れていった。
◇
「……変な人だったね」
しばらく歩いてから、アムネが言った。
「変って言うなよ」
「悪い意味じゃないよ」
「分かってるけど」
「ゆうきも気になってるでしょ?」
「まあ」
否定できなかった。
「やっぱり?」
「初めて会った気がしないんだよな」
「うちも」
アムネは少しだけ後ろを振り返った。
分岐はもう木々に隠れ始めている。
イルの姿は見えない。
「昔会ったことがあるのかな」
「アムならありそうだけど、俺はないだろ」
「そうなんだよね」
「顔が似てるとかでもないし」
「声でもない」
「話し方?」
「それもちょっと違う」
二人で考える。
答えは出ない。
「……まあ、いいか」
ゆうきが言った。
「いいの?」
「分からないもの考え続けても仕方ないし」
「学院で調べること覚えたんじゃなかった?」
「何を調べるんだよ。『雨宿りで会った人が懐かしいです』って図書館で聞くの?」
「……ハハ。それは困るね」
「だろ?」
ゆうきも笑った。
それでも。
胸の奥には、まだ何かが残っている。
寂しい。
というほどではない。
ただ。
「また会えるといいな」
無意識に口から出た。
アムネが隣を見る。
「うん」
それだけ答える。
二人は再び前を向いた。
◇
一方。
分かれ道を進んでいたイルは、いつもより遅い歩調で街道を歩いていた。
雨に洗われた木々から、雫が落ちる。
葉から葉へ。
やがて地面へ。
鳥の声も少しずつ戻り始めていた。
静かだった。
先ほどまで聞いていた二人の声がない。
それだけ。
普段と何も変わらない。
一人で旅をするようになってから、こんな時間はいくらでもあった。
むしろ一人の方が都合がいい。
他人へ説明する必要がない。
目的を知られることもない。
自分の正体を隠しやすい。
誰かを信用する必要もなければ、誰かに裏切られる心配もない。
必要な情報だけを集める。
必要な場所へ行く。
必要なら依頼を受ける。
そうやって旅を続けてきた。
だから。
今日も同じはずだった。
大雨。
偶然入った休憩所。
そこへ来た二人の旅人。
少し話した。
一緒に食事をした。
雨が止んだから別れた。
ただ、それだけ。
「…………」
イルの足が少し遅くなる。
おかしい。
最初から、何かがおかしかった。
扉が開いた瞬間。
あの二人を見た時。
胸の奥を掠めた、あの感覚。
知っている。
そう思った。
けれど、知らない。
ゆうきという男性にも。
アムという女性にも。
会った記憶はない。
少なくとも、今の自分が覚えている限りでは。
それなのに。
話していると落ち着いた。
沈黙していても、居心地が悪くなかった。
ゆうきとアムが話しているところへ、気づけば自分から言葉を挟んでいた。
普段ならしない。
初対面の相手へ、自分から会話を続けようとすることなど滅多にない。
探し物について聞かれた時もそうだった。
普通なら、もっと簡単に話を終わらせていた。
必要以上のことは伝えない。
相手が踏み込んでくるなら距離を取る。
けれど。
ゆうきは聞かなかった。
気になると言いながら、それ以上は踏み込んでこなかった。
『言いたくなったらでいいですよ』
あの言葉が、まだ耳に残っている。
「…………」
イルは歩き続ける。
忘れればいい。
偶然会っただけだ。
旅をしていれば、似たような出会いはいくらでもある。
自分には目的がある。
あすかを救う。
そのための方法を探す。
封印を解いた瞬間に、致命傷を負っているあすかを助けられる方法。
そして。
あのユニーク個体を倒せるだけの力を持つ者。
何より。
あすかの命を預けられるほど信頼できる者。
探さなければならない。
立ち止まっている時間はない。
だから。
今日会った二人のことを考えている場合ではない。
アムがSランク冒険者だという事実は気になる。
それは間違いない。
求めている戦力という意味では、無視できるものではない。
だが。
それを知ったのは別れ際だ。
最初に惹かれた理由にはならない。
ゆうきについてもそうだ。
中級ダンジョンを仲間と制覇した。
少なくとも、実戦経験はある。
仲間を軽視する人物でもない。
それでも。
まだ何も知らない。
一度話しただけ。
信用するにはあまりにも短い。
「……そうです」
イルは小さく呟いた。
「何も、知らないのですから」
自分へ言い聞かせる。
そのまま歩く。
十歩。
二十歩。
木々の間を抜ける。
水溜まりを避ける。
濡れた土を踏む。
それなのに。
離れるほど、胸の奥にあった感覚が薄れるどころか、逆に強くなっていった。
「…………」
足が止まった。
イルは前を見る。
誰もいない街道。
目的地は、この先だ。
行かなければならない。
ゆっくり息を吐く。
もう一度歩き出す。
一歩。
二歩。
三歩。
また止まった。
「……何をしているんでしょうね、私は」
自分でも呆れる。
振り返る。
当然、二人の姿は見えない。
分岐の向こう。
別の街道を進んでいる。
もうかなり離れただろう。
今から追いかける理由などない。
また会えるかもしれない。
旅人同士なのだから、どこかで偶然再会することもあるだろう。
それでいい。
そう思う。
なのに。
『また、どこかで会えるといいですね』
ゆうきの声。
『うちも』
アムの声。
あの時。
嬉しかった。
そう認めた瞬間。
胸の奥にあったものが、少しだけ形を持った。
別れたくなかった。
理由は分からない。
もっと話したかった。
もう少しだけ。
あの二人と同じ時間を過ごしてみたかった。
「…………」
イルは眉を寄せた。
そんな理由で引き返すのか。
初対面の相手に。
自分から。
何と言う。
もう少し一緒にいたいのです。
そんなことを言えるはずがない。
そもそも、自分自身がその感情を理解できていない。
けれど。
このまま進んだら。
きっと後悔する。
その感覚だけは、妙にはっきりしていた。
風が吹く。
木の枝から大きな雫が落ち、イルの肩へ当たった。
「……本当に」
小さく息を吐く。
「何なのでしょうね」
それでも。
足はもう、先ほどまでとは反対へ向いていた。
分岐へ戻る。
最初は歩いていた。
けれど、少しずつ歩調が速くなる。
間に合うだろうか。
二人は次の街を目指していると言っていた。
道は分かっている。
それほど急いではいなかった。
なら。
まだ追いつける。
気づけば走っていた。
濡れた街道を踏む。
水が跳ねる。
外套の裾が揺れる。
どうして走っているのか。
自分でも分からない。
アムがSランクだから。
それなら理由にはできる。
ゆうきたちが仲間を探しているから。
それも都合がいい。
自分も信頼できる戦力を探している。
目的は一致する可能性がある。
ならば、一度一緒に依頼を受けてみる。
戦い方を見られる。
人柄も見られる。
信頼できるかどうかを判断する材料になる。
理屈はある。
いくらでも作れる。
けれど。
その理屈を思いつくより先に、自分はもう走っていた。
「…………」
それが一番、イルを戸惑わせた。
分岐を曲がる。
遠く。
街道の先に二人の姿が見えた。
並んで歩いている。
ゆうきとアム。
その背中を見つけた瞬間。
胸の奥にあったものが、僅かに軽くなった。
イルは足を速めた。
「――あの!」
声が出た。
思っていたより大きな声だった。
二人の足が止まる。
同時に振り返った。
「……イルさん?」
ゆうきが目を丸くする。
「イル?」
アムも驚いている。
イルは二人の前まで走ると、少しだけ乱れた息を整えた。
「どうしたんですか?」
ゆうきが尋ねる。
「忘れ物?」
アムも首を傾ける。
「いえ……」
イルは答える。
そこで止まった。
何を言えばいい。
戻ってきた理由。
そんなもの、自分にも分からない。
ただ別れたくなかった。
もう少し一緒にいたかった。
それをそのまま言葉にするには、二人との距離はまだ遠すぎる。
イルは一度視線を落とした。
自分でも珍しいほど、言葉が見つからない。
「イルさん?」
ゆうきの声。
急かさない。
ただ待っている。
その隣で、アムも黙っている。
まただ。
この空気。
何かを言わなければと追い立てられない。
待ってもらえることを、なぜか知っていたような感覚。
イルはゆっくり顔を上げる。
二人を見る。
ゆうきも。
アムも。
どこか少しだけ、安心したような顔をしていた。
自分が戻ってきたことに。
どうして。
問いかけたくなる。
けれど。
今は、答えを持っている者など誰もいない。
なら。
もう少しだけ。
確かめてみてもいいのかもしれない。
この感覚が何なのか。
この二人がどんな人なのか。
そして。
なぜ自分が、たった一度別れただけで引き返してしまったのか。
「……お二人は」
イルは一度言葉を切った。
「仲間を探していると、仰っていましたよね」
「はい」
ゆうきが答える。
「それが?」
アムが尋ねる。
「私も……」
そこまで言って、イルは少しだけ考え直す。
自分の目的をすべて話すつもりはない。
まだ、その時ではない。
けれど、一緒に行動する理由なら作れる。
いや。
理由が欲しかったのかもしれない。
もう一度、この二人と同じ時間を過ごすための。
イルは胸の前で僅かに指を握った。
そして。
今の自分が口にできる、精一杯の言葉を選んだ。
「もし、お二人がよろしければ……」
雨上がりの風が三人の間を抜けていく。
濡れた草の匂い。
雲の切れ間から差し込む、柔らかな光。
ゆうきとアムが、イルの次の言葉を待っている。
イル自身にも、その理由はまだ分からなかった。
ただ。
今度は、自分から離れたくないと思った。
「一度、私と一緒にクエストを受けてみませんか?」




