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あの時間をもう一度  作者: ゆうき
第三章 これからのこと

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第9話 イル


 ルーメンを発ってから、二日目の昼を過ぎた頃だった。


 朝から空を覆っていた灰色の雲は、街道を進むほどに厚みを増していた。


 昨日までの青空はどこにもなく、遠くに連なる山々も薄い霞の向こうへ溶けている。風が吹くたび、街道脇の草原が大きく波打ち、湿り気を含んだ空気が頬を撫でた。


 ゆうきは歩きながら空を見上げた。


「これ、降るよな」


「降るね」


 隣を歩くアムネも、同じように空を見上げている。


 水色の髪が風に揺れ、その先が何度か頬へ触れていた。


「どれくらい?」


「うーん……」


 アムネは少しだけ目を細める。


 風の匂いを確かめるように顔を上げてから、遠くの空へ視線を向けた。


「結構降るかも」


「やっぱり?」


「雨だけならいいけど、風も強くなりそう。次の街までまだ距離あるよね?」


「ある。朝に見た地図だと、このまま歩いても夕方くらい」


「じゃあ、どこかで雨宿りした方がいいかもね。無理して進む必要もないし」


「そうするか」


 学院へ通っていた頃なら、雨くらいならそのまま進もうとしたかもしれない。


 濡れても乾かせばいい。


 魔法を使えば多少は防げる。


 次の街へ早く着けるなら、その方がいい。


 そんな考えが先に浮かんでいただろう。


 けれど、今は違った。


 急ぐ理由がないのなら、わざわざ体力や魔力を使う必要もない。


 雨で視界が悪くなれば、魔物への対応も遅れる。足元がぬかるめば戦いにくくもなる。


 知っていれば避けられることを、無理に試す必要はない。


「……ちょっとは冒険者らしくなったかも」


「何が?」


「いや、何でもない」


 ゆうきは笑って前を向いた。


「それより、雨宿りできそうなところあったっけ」


「朝の地図だと、この辺りに旅人用の休憩所があった気がするけど」


「本当?」


「たぶん」


「たぶんか」


「地図持ってる?」


「あるよ」


 ゆうきは立ち止まり、鞄から折り畳んだ地図を取り出した。


 二人で覗き込む。


 ルーメンから次の街へ続く街道。


 現在地は正確には分からないものの、朝から歩いた距離を考えれば、おおよその場所は絞れる。


「あった」


 ゆうきが小さな印を指で示す。


「ここ」


「もう少し先だね」


「この距離なら、降る前に――」


 頬に冷たいものが当たった。


 ゆうきが止まる。


 アムネも止まった。


 二人同時に空を見る。


 ぽつり。


 もう一滴。


 地図の端へ、小さな染みができた。


「……降ってきたね」


「言った瞬間じゃん」


「急ごっか」


「ああ」


 地図を畳み、鞄へ戻す。


 二人は歩調を速めた。


 最初は小さかった雨粒が、少しずつ数を増していく。


 土の匂いが濃くなった。


 乾いていた街道に黒い点がいくつも生まれ、それらが重なりながら地面の色を変えていく。


 風も強くなってきた。


「アム、本当に結構降る?」


「うん」


「あとどれくらいで?」


「たぶん――」


 アムネが答えようとした、その時だった。


 空が白く光った。


 一瞬遅れて、遠くで低い雷鳴が響く。


 二人とも足を止めた。


「……走ろう」


「賛成」


 そこからは早かった。


 街道を走り始めて間もなく、雨脚が一気に強くなった。


 ぽつぽつと落ちていた雨が、突然、空からまとめて落ちてきたように変わる。


「うわっ!」


 ゆうきは片腕で顔を庇った。


 数十歩も走らないうちに髪が濡れる。


 上着にも雨が染み込み始めた。


「ゆうき、こっち!」


 アムネが街道の先を指さす。


 木々の間に、小さな建物が見えた。


 石造りの土台。


 その上に組まれた木造の小屋。


 旅人が一時的に休むためのものなのだろう。宿と呼べるほど大きくはないが、雨風を凌ぐには十分そうだった。


「あれだ!」


 二人は最後の距離を一気に走った。


 屋根の下へ滑り込む。


「間に合った……って言っていいのかな」


 ゆうきは濡れた前髪をかき上げた。


「結構濡れたね」


「アムもだろ」


「うちは水なら平気」


「そういう問題?」


 アムネが笑う。


 ゆうきは肩についた水滴を払い、それから小屋の扉へ手をかけた。


「とりあえず中に入ろう」


「うん」


 古びた木の扉を押す。


 蝶番が小さく軋んだ。


 外の雨音が少し遠くなる。


 中は思っていたより広かった。


 壁際には長椅子が置かれ、中央近くには簡素な炉がある。誰でも使えるよう、隅には薪もいくらか積まれていた。


 窓は小さく、室内は薄暗い。


 けれど、雨を凌ぐには十分だった。


 そして。


 先客がいた。


 窓際の長椅子に、一人の女性が座っている。


 年齢は、ゆうきたちとそれほど離れていないように見えた。


 旅装。


 傍らには荷物。


 どうやら彼女も雨に降られる前に、ここへ逃げ込んでいたらしい。


 扉が開いた音に気づき、女性が顔を上げる。


 視線が合った。


「…………」


 ゆうきは、なぜかすぐに言葉が出なかった。


 知っている顔ではない。


 少なくとも、記憶にある誰かではなかった。


 人族の女性。


 それ以上のことは分からない。


 それなのに。


 ほんの一瞬。


 胸の奥を、何かが掠めた。


 忘れていたものへ触れたような。


 どこかで同じものを見たことがあるような。


 そんな、説明のつかない感覚。


 女性もこちらを見ていた。


 ほんの少しだけ目を見開いている。


 隣にいたアムネが、ゆうきより一歩遅れて足を止めた。


「……?」


 小さな声。


 ゆうきはアムネを見る。


 アムネも女性を見ていた。


 その表情には、驚きというほど強くはないものの、普段ならあまり見せない戸惑いが浮かんでいる。


 外で雷が鳴った。


 その音で、止まっていた時間が動き出す。


「あ、すみません」


 ゆうきは先に口を開いた。


「使ってました?」


 女性が瞬きをする。


 それから、穏やかに首を振った。


「いえ。私も雨宿りをしていただけですので。ここは旅人が自由に使う場所ですし、どうぞお気になさらず」


 柔らかな声だった。


 丁寧ではあるが、必要以上に距離を感じさせる話し方でもない。


「ありがとうございます」


 ゆうきは中へ入り、アムネも続いた。


 扉を閉める。


 途端に雨音が少しだけ小さくなった。


 それでも屋根を叩く音は激しい。


 すぐに止む雨ではなさそうだった。


「すごい降ってきたね」


 アムネが窓の外を見る。


「もう少し遅かったら完全にずぶ濡れだったな」


「もう結構濡れてるよ?」


「これくらいなら乾かせるって」


 ゆうきは濡れた上着を脱いだ。


 女性から少し離れた場所へ荷物を置く。


 初対面の相手がいる。


 それなら最低限の距離は取った方がいい。


 そう考えての行動だった。


 けれど、なぜか妙な感じがした。


 警戒されているようには見えない。


 こちらも、必要以上に警戒する気にならない。


 もちろん、それだけで信用するつもりはない。


 旅の途中で出会った、名前も知らない相手だ。


 ただ――。


「火、使っても大丈夫ですか?」


 ゆうきが尋ねる。


 女性は中央の炉へ目を向けた。


「ええ。私も少しお借りしようかと思っていたところです」


「じゃあ、つけますね」


「お願いします」


 ゆうきが薪を数本取る。


 炉へ並べようとすると、隣からアムネの手が伸びた。


「貸して」


「ん?」


「火くらいつけるよ」


 アムネの髪が、水色から赤へ変わっていく。


 女性の視線が僅かに動いた。


 髪の色だけではない。


 アムネが纏う魔力の質そのものが、水から火へ切り替わる。


 指先に小さな炎が灯った。


 薪へ近づけると、乾いた木がぱちりと音を立てる。


 小さな火が生まれた。


「はい」


「便利だな、それ」


「今さら?」


「見慣れてるけど、こういう時は特に思うよ」


「ゆうきだって火属性使えるでしょ」


「使えるけど、アムほど上手くない」


「学院卒業したばっかりなんだから、これからだよ」


 そんな会話をしながら、二人で濡れた上着を火の近くへ置く。


 ふと視線を感じた。


 女性だった。


 アムネを見ている。


 ただし、珍しい能力への興味だけではないように見えた。


「……どうかしました?」


 アムネが尋ねる。


 女性は一瞬だけ間を置いた。


「いえ。随分と自然に属性を切り替えられるのだと思いまして」


「ああ」


 アムネは自分の赤い髪へ触れる。


「ちょっと特殊なんだ」


「そうなのですね」


 女性はそれ以上聞かなかった。


 ゆうきは何となく、そのやり取りが気になった。


 普通ならもう少し聞いても不思議ではない。


 アムネの能力はかなり珍しい。


 けれど女性は、アムネが「特殊」と答えたところで話を終わらせた。


 踏み込まない。


 聞かれたくないことがあるなら、無理には聞かない。


 そんな距離の取り方だった。


「そっちも濡れてません?」


 ゆうきが女性の外套を見る。


 裾の辺りが少し濡れている。


「少しだけ。雨が強くなる前には入れましたので」


「だったら、こっちで乾かしていいですよ」


「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」


 女性は外套を脱ぐと、火の近くへ移動した。


 距離が少し縮まる。


 三人で炉を囲む形になった。


 火が薪を噛む音。


 屋根を叩く雨音。


 時折、遠くで響く雷。


 誰も話さない時間が訪れる。


 初対面の三人。


 本来なら、少しくらい気まずくてもおかしくない。


 けれど。


「…………」


 ゆうきは炎を見ながら、不思議に思っていた。


 気まずくない。


 何か話さなければと焦ることもない。


 アムネと二人でいる時とまではいかないが、それに近い静けさだった。


 知らない相手が一人いる。


 頭ではそう分かっているのに、身体がそれほど緊張していない。


「……変なの」


 アムネが小さく呟いた。


「何が?」


「ううん」


 アムネは首を振る。


「雨、すごいなって」


「それ、変なのって言う?」


「言う時もあるよ」


「本当に?」


「あるって」


 少し強引だった。


 けれど、ゆうきも追及しなかった。


 窓際に座っていた女性が、小さく笑った。


 二人がそちらを見る。


「すみません」


 女性は口元へ手を添えた。


「仲がよろしいのですね」


「まあ、長いから」


 ゆうきが答える。


「親友なんだ」


「そうなのですね」


「腐れ縁みたいなものだけどね」


 アムネが付け加える。


「おい」


「間違ってないでしょ?」


「親友って言った直後に腐れ縁にするなよ」


「どっちも本当じゃん」


「それは……まあ、そうだけど」


「でしょう?」


 アムネが少し得意そうに笑う。


 女性もまた、静かに笑った。


 その笑い方を見た瞬間。


 ゆうきの胸に、また同じ感覚が走った。


「……?」


 何だろう。


 笑い方が誰かに似ている?


 いや。


 思い当たらない。


 そもそも、この世界へ来てから出会った人物の中に、似た人はいなかった。


 現代で知っていた誰かだろうか。


 それも違う気がする。


「どうされました?」


「え?」


「こちらを見ていたので」


「あ、ごめん」


 ゆうきは視線を外した。


「誰かに似てる気がして」


 言ってから、少し失礼だったかと思う。


 けれど女性は不快そうにはしなかった。


「お知り合いに、ですか?」


「それが分からないんですよね。何となく、そう思っただけで」


「……そうですか」


 女性の返事が、ほんの少しだけ遅れた。


 アムネがゆうきを見る。


「ゆうきも?」


「も?」


「あ……」


 アムネが止まる。


 女性もアムネを見る。


「アムもそう思った?」


「うーん……似てるっていうのとは違うんだけど」


 アムネは女性を見つめた。


 その視線は、相手を疑うというより、自分の記憶を探しているようだった。


「どこかで会ったことある?」


「いえ」


 女性は静かに首を振る。


「少なくとも、私はお二人とお会いした記憶はありません」


「だよね」


 アムネも頷く。


「うちもないんだよね」


 千年以上を生きている。


 それだけの時間があれば、忘れてしまった顔の一つや二つでは済まないのかもしれない。


 けれどアムネは、ただ忘れているだけとは思っていないようだった。


「でも……」


 アムネが言葉を止める。


「何でしょう?」


「なんか、懐かしい感じがする」


 雨音の中で、その言葉だけが妙にはっきり聞こえた。


 ゆうきはアムネを見る。


 自分が感じていたものに、一番近い言葉だった。


「俺も、それかも」


「ゆうきも?」


「うん。誰かに似てるっていうより……なんか、初めて会った感じがしない」


 女性が二人を見る。


 表情は大きく変わらない。


 ただ、その指先が膝の上で僅かに動いた。


「……奇遇ですね」


「え?」


 女性は一度だけ炎へ視線を落とした。


「私も、少しだけ似たことを考えていました」


 三人とも黙る。


 火がぱちりと弾けた。


「俺たちみたいな顔の知り合いがいたとか?」


「いいえ」


「じゃあ、アムと同じで会ったことがある?」


「それもないと思います」


「だよねぇ」


 アムネが首を傾ける。


「うち、長く生きてるから昔どこかで会った可能性はあるけど、ゆうきまで同じなのは変だし」


「そうだな」


「……お二人は、かなり長いお付き合いなのですか?」


 女性の問いに、ゆうきは少し考えた。


「長い……って言っていいのかな」


「どうだろ」


 アムネも曖昧に笑う。


 再会してからの時間だけを考えれば、そこまで長くはない。


 けれど、そう簡単に表せる関係でもない。


「まあ、昔からの友達だよ」


 ゆうきはそう答えた。


「離れてた時間も長かったけど」


「そうなのですね」


 女性は二人を見た。


 どこか眩しいものを見るような目だった。


 けれど、それも一瞬だった。


「そういえば」


 ゆうきは話題を変える。


「まだ名前、聞いてなかったですね」


 女性の動きが止まった。


 ほんの僅かな間。


 それから、いつもの穏やかな表情へ戻る。


「……イルと申します」


「イルさん」


「はい」


「俺はゆうき」


「うちはアムネ。アムでいいよ」


 アムネが軽く手を上げる。


「ゆうきさんと、アムさんですね」


「俺も呼び捨てでいいですよ」


「では……ゆうきさんで」


「そこは変わらないんだ」


「初対面の方をいきなり呼び捨てにするのは、少し落ち着きませんので」


「なるほど」


「アムさんも同じです」


「うん。好きに呼んで」


 三人の間に、また小さな笑いが生まれた。


 イル。


 名前を聞いた。


 それだけなのに、ゆうきは胸の奥で何かが引っかかるのを感じた。


 もちろん、知らない名前だ。


 それでも。


 妙に気になる。


「ゆうき」


「ん?」


「名前聞いたなら、次は何聞くつもり?」


 アムネが横から言う。


「別に質問攻めにするつもりないよ」


「ゆうき、初対面でも普通に色々聞くから」


「嫌なら答えなくていいって言うだろ」


「それはそうだけど」


 イルが小さく笑う。


「私は構いませんよ。答えられることであれば」


「じゃあ、旅の途中?」


「はい」


「一人で?」


「今は一人です」


 今は。


 その言葉が少しだけ気になった。


 けれど、ゆうきはそれ以上踏み込まなかった。


「ゆうきさんたちは?」


「俺たちも旅の途中です。少し前までルーメンにいて」


「ルーメンから?」


「はい。俺は学院に少しだけ通ってたんです」


「アルバフローラ魔法学院ですか?」


「そうです」


「少しだけっていうのは?」


 イルが尋ねる。


 ゆうきは思わず笑った。


「説明するとちょっと変なんですけど、一時的な入学体験みたいなもので」


「2日前に卒業したんだよ」


 アムネが横から付け足す。


 イルが目を瞬いた。


「2日前?」


「うん」


「それで、すぐにもう旅を?」


「そうなりますね」


「……随分と慌ただしいですね」


「俺もそう思います」


 ゆうきが笑うと、イルも小さく笑った。


「でも、学院はどうでしたか?」


「楽しかったですよ」


 その答えは、すぐに出た。


「知らないこともいっぱい知れたし、友達もできたし」


「そうですか」


「ダンジョン実習もあったんですけど、最後まで一緒に行けました」


「学院の管理ダンジョンですね」


「知ってるんですか?」


「存在だけは。ルーメンは魔法都市として有名ですから」


「なるほど」


 ゆうきは学院での出来事を少しずつ話した。


 最初のゴブリン。


 五人で組んだ実習パーティ。


 階層を進むごとに強くなる魔物。


 途中で一度攻略を止めたこと。


 図書館へ行ったこと。


 そして、最深部まで辿り着いたこと。


 もちろん、仲間の能力や細かな事情までは話さない。


 それでも、話しているうちに自然と色々な出来事が口から出てきた。


「それで最後に出てきたのが、青いツインオーガジェネラルで」


「ツインオーガジェネラル?」


 イルの声が僅かに変わった。


「はい。しかも亜種だったらしくて」


「……学院の中級ダンジョンで、ですか?」


「そうです」


「それは……」


 イルは少し考える。


「よくご無事でしたね」


「五人だったから」


 ゆうきは即座に答えた。


「俺一人だったら無理でした」


 イルがゆうきを見る。


「迷わずそう仰るのですね」


「本当のことなので」


「……そうですか」


 何かを確かめるような視線だった。


 けれど、その理由を尋ねる前にアムネが口を開いた。


「イルは冒険者?」


「え?」


「旅してるなら、そうなのかなって」


「ええ。一応」


「やっぱり」


「分かるのですか?」


「装備見れば何となくね。それに、一人でこの辺りを歩いてるなら、ある程度は戦えるんだろうなって」


 イルは少しだけ目を細めた。


「アムさんも冒険者なのですか?」


「うん」


「ゆうきさんも?」


「俺もです」


「では、お二人でパーティを?」


「今はそうなるかな」


 ゆうきは答える。


「ただ、仲間を探してる途中なんです」


 イルの指先が止まった。


 ほんの一瞬。


 けれど、ゆうきは気づかなかった。


「仲間を?」


「はい」


「どのような方を探しているのですか?」


「それが、特に決めてないんですよね」


 イルが少し意外そうにする。


「条件などは?」


「ないです」


「強さも?」


「もちろん強い方が助かることはありますけど、それだけで決めるつもりはないかな」


「……では、何を基準に?」


 ゆうきは少し考えた。


 学院で出会った四人を思い浮かべる。


 なも。


 おむたろ。


 ももね。


 ちゃちゃ。


 誰も同じではなかった。


 戦い方も。


 考え方も。


 得意なことも。


 苦手なことも。


「一緒にいたいと思えるかどうか、かな」


 答えると、イルが僅かに目を見開いた。


「随分と曖昧ですね」


「そうなんですよね」


「そこは認めるんだ」


 アムネが笑う。


「でも、強いからって一緒に旅できるとは限らないだろ」


「それはそうだけど」


「戦ってない時間の方が長いし」


「ゆうきはそういうところ結構気にするよね」


「アムだってそうじゃん」


「うちは気に入らない人と千年付き合うとか絶対嫌だよ」


「千年基準にするなよ」


 イルが堪えきれないように笑った。


「お二人は、本当に仲がよろしいのですね」


「だから親友だって」


「ゆうきがうちに遠慮ないだけだよ」


「アムもだろ」


「そうかな?」


「そうだよ」


「……ハハ。」


 アムネの笑い声。


 イルも笑っている。


 ゆうきもつられて笑った。


 そして、ふと気づく。


 三人で話している。


 いつからだろう。


 最初は雨宿りのために同じ小屋へ入っただけだった。


 名前も知らなかった。


 警戒こそしていなかったものの、互いに一定の距離は取っていたはずだ。


 今は、炉を囲む距離が最初より少し縮まっている。


 誰がそうしたわけでもない。


 気づけばそうなっていた。


「……不思議だな」


 ゆうきが呟く。


「何が?」


 アムネが尋ねる。


「いや」


 イルを見る。


 イルもこちらを見ていた。


「本当に今日初めて会ったんですよね?」


「そのはずです」


「ですよね」


「ゆうき、まだ気になる?」


「ちょっと」


「うちも」


 アムネは炉へ薪を一本足した。


「声とかかなって思ったけど、違うんだよね」


「声?」


「うん。誰かに似てるのかなって。でも、そうじゃない」


 炎が少し大きくなる。


「話してる時の感じかな」


 アムネは自分でも分からないように首を傾けた。


「間とか?」


「間?」


「うん。なんか……」


 アムネがイルを見る。


「話しやすい」


 イルの目が少しだけ揺れた。


「私も……」


 そこまで言い、止まる。


「イルも?」


「いえ」


 イルは一度視線を落とした。


 けれど、誤魔化すことをやめたように小さく息を吐く。


「……そうですね。私も、お二人とは不思議と話しやすいです」


「やっぱり?」


「はい」


「じゃあ三人とも同じか」


 ゆうきが言う。


「余計分からなくなったけど」


「そうだね」


 アムネが笑う。


 イルも少し遅れて笑った。


 理由は分からない。


 それでいいような気がした。


     ◇


 雨はなかなか止まなかった。


 一度弱くなったと思えば、また屋根を強く叩く。


 そのたびに三人は窓の外を見て、まだ無理そうだと諦めた。


 昼を過ぎていたこともあり、それぞれ持っていた食料を出すことになった。


「イルさん、それだけですか?」


 ゆうきが見る。


 イルの手元にあるのは、硬めのパンと干した果物だけだった。


「十分ですよ」


「でも、まだ雨止みそうにないですよ」


「慣れていますので」


「それなら、これ食べません?」


 ゆうきは鞄から包みを取り出した。


 昨日、ルーメンを出る時にちゃちゃから渡された焼き菓子。


 結局、昨日の夜には半分ほどしか食べなかった。


「いただくわけには」


「いっぱいあるんで」


「ゆうき」


 アムネが横から口を挟む。


「うちの分は?」


「ちゃんと残すよ」


「本当?」


「昨日から何回確認するんだよ」


「だってちゃちゃ、二人で食べてって言ってたじゃん」


「イルさんに一つ渡したくらいで怒らないって」


「それもそうか」


「お二人の大切なものなら、本当にお気になさらず」


「大切ですけど、食べ物なので」


 ゆうきは一つ取り出し、イルへ差し出した。


「こういうのは食べた方がいいです」


 イルはしばらく焼き菓子を見ていた。


 やがて、少し困ったように笑う。


「では、一つだけ」


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 受け取った焼き菓子を一口。


 イルの表情が僅かに緩んだ。


「美味しいです」


「ですよね」


「ルーメンで?」


「はい。友達が旅の途中で食べろってくれたんです」


「素敵なお友達ですね」


「食べるの大好きな子ですけどね」


「ゆうき、それちゃちゃに怒られるよ」


「本人も認めるだろ」


「どうかなぁ」


 アムネも焼き菓子を一つ取る。


 そのまま食べようとして。


「アム」


「なに?」


「それ二個目」


「……見てた?」


「目の前にいるからな」


「まだいっぱいあるじゃん」


「旅の途中で食べる分だぞ」


「今も旅の途中だよ?」


 ゆうきが止まる。


「……確かに」


「でしょ?」


「でも一気に食べる意味はないだろ」


「甘いものってある時に食べた方が美味しいよ」


「どういう理屈だよ」


「ふふっ」


 小さな声。


 二人が見ると、イルが笑っていた。


「すみません。何だか……」


「何です?」


「いえ。本当に、ずっと見ていられそうだと思いまして」


「俺たちの喧嘩を?」


「喧嘩ではないでしょう?」


「まあ、そうですけど」


 イルは焼き菓子をもう一口食べる。


 その仕草が自然だった。


 ゆうきはまた、不思議な感覚を覚える。


 三人で何かを食べている。


 ただそれだけの光景。


 なのに。


 胸の奥に、温かいものがある。


 学院で五人と食事をしていた時とも違う。


 もっと遠いところにある何か。


 思い出せない。


 けれど、なくなってはいない。


 そんな感覚。


「……ゆうき?」


 アムネが覗き込む。


「またぼーっとしてる」


「考え事」


「イルのこと?」


「それ本人の前で言う?」


 イルが少し笑う。


「私は構いませんよ」


「いや、俺が困ります」


「そうですか?」


「そうです」


 ゆうきは焼き菓子を一つ口へ入れた。


 甘さが広がる。


 ちゃちゃの顔が浮かんだ。


 今頃、四人は授業だろうか。


 それとも、まだパーティ名で揉めているのだろうか。


「ルーメンへ戻りたいですか?」


 イルが尋ねた。


「え?」


「少し寂しそうに見えましたので」


「……分かりました?」


「何となく」


 ゆうきは苦笑する。


「戻りたいっていうより、みんな何してるかなって」


「昨日別れたばかりなのに?」


 アムネが言う。


「昨日別れたばっかりだからだよ」


「それもそっか」


「でも、戻るつもりはないです」


 イルを見る。


「俺たちは俺たちで、先に行きたいから」


「先に……」


「まだ知らない場所もいっぱいあるし、会いたい人もいる。だから、旅を続けます」


 イルは何も言わなかった。


 ゆうきの言葉を、そのまま受け取るように聞いている。


「イルさんは?」


「私ですか?」


「何か目的があって旅してるんですよね?」


 イルの指が止まった。


 アムネがゆうきを見る。


「ゆうき」


「あ、ごめん。答えたくなかったら大丈夫です」


「いえ」


 イルは少しだけ考える。


「探し物をしています」


「探し物?」


「はい」


 それ以上は続かなかった。


 ゆうきも待った。


 話したくないなら、無理に聞く必要はない。


「見つかるといいですね」


 それだけ言う。


 イルがゆうきを見る。


「……聞かないのですか?」


「何を探してるか?」


「はい」


「言いたくなったらでいいですよ」


「気にならないのですか?」


「気にはなります」


 ゆうきは素直に答えた。


「でも、会ったばっかりの人に全部話せって言われても困るでしょ」


「…………」


「俺も全部話してるわけじゃないし、お互い様です」


 イルはしばらくゆうきを見ていた。


 やがて、ほんの少しだけ口元を緩める。


「そうですね」


 それだけだった。


 けれど。


 その後のイルの表情は、ほんの少しだけ柔らかくなったように見えた。


     ◇


 午後も半ばを過ぎる頃。


 雨音が変わった。


 屋根を激しく叩いていた音が、少しずつ間を空け始める。


「弱くなってきた?」


 ゆうきが窓を見る。


 アムネが立ち上がった。


「うん。雲も切れてきてる」


 窓の外はまだ灰色だった。


 それでも先ほどまでの暗さはない。


 遠くの空には、僅かに明るい場所が見える。


「もう少し待てば止みそうだね」


「じゃあ、それまでに片付けるか」


 三人で使った炉。


 食事の包み。


 濡れた衣服もほとんど乾いている。


 ゆうきは上着を手に取り、袖を通した。


「乾いた?」


「大丈夫」


「うちも」


 アムネの髪は、いつの間にか赤から普段の水色へ戻っていた。


 イルも外套を手に取る。


 それを羽織る姿を見て。


 ゆうきは、妙な感覚を覚えた。


 もう出る。


 ただそれだけなのに。


 少し惜しい。


 雨が止まなければいいとまでは思わない。


 けれど、もう少し話していたかった。


「…………」


 自分でも理由が分からない。


 今日会ったばかりだ。


 それも、たまたま雨宿りした小屋にいただけ。


 名前以外、ほとんど知らない。


 イルが何を探して旅をしているのかさえ知らない。


 それなのに。


「止んだね」


 アムネの声。


 窓を見る。


 雨粒がほとんど落ちていない。


 雲の切れ間から光が差し込み、濡れた街道を照らしていた。


「本当だ」


 ゆうきは扉を開ける。


 湿った風が入ってくる。


 雨上がりの土と草の匂い。


 軒先から落ちる雫が、小さな水溜まりへ波紋を作っていた。


「行けそう」


「うん」


 三人で外へ出る。


 先ほどまでの大雨が嘘のようだった。


 まだ雲は残っているものの、西の空には青が見え始めている。


「イルさんはどっちへ?」


 ゆうきが尋ねる。


 イルは街道を見てから、ゆうきたちとは別の道を指した。


「私は、こちらへ」


 休憩所の少し先で、街道は二つに分かれている。


 ゆうきたちが目指す次の街とは別方向だった。


「そっか」


 自然と声が小さくなった。


 アムネも分岐を見る。


「じゃあ、ここまでだね」


「はい」


 イルが頷く。


「短い時間でしたが、ありがとうございました。焼き菓子までいただいてしまって」


「それくらい気にしないでください」


「美味しかったです」


「今度ルーメンに行ったら探してみてください。店の場所、ちゃんと聞いてないですけど」


「そこは聞いておこうよ」


 アムネが呆れたように言う。


「ちゃまが買ってきたから知らないんだよ」


「じゃあ次に行った時に聞けばいいね」


「そうだな」


 イルがまた笑う。


 その笑顔を見て、ゆうきの胸にあった引っかかりが少し強くなる。


「イルさん」


「はい?」


「……また、どこかで会えるといいですね」


 口にしてから、自分でも少し驚いた。


 社交辞令として言ったわけではない。


 本当にそう思った。


 イルの表情が止まる。


 ほんの一瞬。


「……そうですね」


 柔らかな返事。


「私も、そう思います」


 アムネが少しだけイルを見た。


「うちも」


「アムさんも?」


「うん」


 アムネは自分でも不思議そうに笑った。


「なんか、また会いそうな気がする」


「それ、アムが言うと予言みたいに聞こえる」


「予言なんてできないよ」


「じゃあ勘?」


「勘」


「Sランクの勘なら当たりそうだな」


「そういうものじゃないって」


「……Sランク?」


 イルが反応した。


 ゆうきが止まる。


 アムネも止まった。


「言ってなかったっけ」


「聞いておりません」


「まあ、聞かれなかったから」


「アムさんが?」


「うん」


 イルはアムネを見た。


 少しだけ目を細める。


 何かを考えている。


 けれど、それ以上は何も聞かなかった。


「……そうでしたか」


「驚かないんだ?」


「驚いていますよ」


「そう見えないけど」


「表に出にくいだけです」


「そうなんだ」


 アムネは気にした様子もなく笑った。


 イルはそんなアムネを見てから、今度はゆうきへ視線を移す。


「ゆうきさんも?」


「いや、俺は違いますよ」


「そうですか」


「普通の冒険者です」


「普通ねぇ」


 アムネが横から呟く。


「何だよ」


「別に?」


「何か言いたそうじゃん」


「何も言ってないよ」


「言い方がもう怪しい」


 イルが小さく笑った。


 まただ。


 三人で笑う。


 雨宿りしていた時と同じ。


 それが、もう終わる。


「じゃあ」


 ゆうきは少しだけ名残を振り切るように、街道の先を見る。


「俺たちは行きます」


「はい」


「イルさんも気をつけて」


「お二人も」


「またね、イル」


 アムネが手を振る。


 イルも小さく手を上げた。


「ええ。また」


 それぞれの道へ歩き出す。


 ゆうきとアムネは並んで。


 イルは一人で。


 雨上がりの街道に、二つの方向へ足音が離れていった。


     ◇


「……変な人だったね」


 しばらく歩いてから、アムネが言った。


「変って言うなよ」


「悪い意味じゃないよ」


「分かってるけど」


「ゆうきも気になってるでしょ?」


「まあ」


 否定できなかった。


「やっぱり?」


「初めて会った気がしないんだよな」


「うちも」


 アムネは少しだけ後ろを振り返った。


 分岐はもう木々に隠れ始めている。


 イルの姿は見えない。


「昔会ったことがあるのかな」


「アムならありそうだけど、俺はないだろ」


「そうなんだよね」


「顔が似てるとかでもないし」


「声でもない」


「話し方?」


「それもちょっと違う」


 二人で考える。


 答えは出ない。


「……まあ、いいか」


 ゆうきが言った。


「いいの?」


「分からないもの考え続けても仕方ないし」


「学院で調べること覚えたんじゃなかった?」


「何を調べるんだよ。『雨宿りで会った人が懐かしいです』って図書館で聞くの?」


「……ハハ。それは困るね」


「だろ?」


 ゆうきも笑った。


 それでも。


 胸の奥には、まだ何かが残っている。


 寂しい。


 というほどではない。


 ただ。


「また会えるといいな」


 無意識に口から出た。


 アムネが隣を見る。


「うん」


 それだけ答える。


 二人は再び前を向いた。


     ◇


 一方。


 分かれ道を進んでいたイルは、いつもより遅い歩調で街道を歩いていた。


 雨に洗われた木々から、雫が落ちる。


 葉から葉へ。


 やがて地面へ。


 鳥の声も少しずつ戻り始めていた。


 静かだった。


 先ほどまで聞いていた二人の声がない。


 それだけ。


 普段と何も変わらない。


 一人で旅をするようになってから、こんな時間はいくらでもあった。


 むしろ一人の方が都合がいい。


 他人へ説明する必要がない。


 目的を知られることもない。


 自分の正体を隠しやすい。


 誰かを信用する必要もなければ、誰かに裏切られる心配もない。


 必要な情報だけを集める。


 必要な場所へ行く。


 必要なら依頼を受ける。


 そうやって旅を続けてきた。


 だから。


 今日も同じはずだった。


 大雨。


 偶然入った休憩所。


 そこへ来た二人の旅人。


 少し話した。


 一緒に食事をした。


 雨が止んだから別れた。


 ただ、それだけ。


「…………」


 イルの足が少し遅くなる。


 おかしい。


 最初から、何かがおかしかった。


 扉が開いた瞬間。


 あの二人を見た時。


 胸の奥を掠めた、あの感覚。


 知っている。


 そう思った。


 けれど、知らない。


 ゆうきという男性にも。


 アムという女性にも。


 会った記憶はない。


 少なくとも、今の自分が覚えている限りでは。


 それなのに。


 話していると落ち着いた。


 沈黙していても、居心地が悪くなかった。


 ゆうきとアムが話しているところへ、気づけば自分から言葉を挟んでいた。


 普段ならしない。


 初対面の相手へ、自分から会話を続けようとすることなど滅多にない。


 探し物について聞かれた時もそうだった。


 普通なら、もっと簡単に話を終わらせていた。


 必要以上のことは伝えない。


 相手が踏み込んでくるなら距離を取る。


 けれど。


 ゆうきは聞かなかった。


 気になると言いながら、それ以上は踏み込んでこなかった。


『言いたくなったらでいいですよ』


 あの言葉が、まだ耳に残っている。


「…………」


 イルは歩き続ける。


 忘れればいい。


 偶然会っただけだ。


 旅をしていれば、似たような出会いはいくらでもある。


 自分には目的がある。


 あすかを救う。


 そのための方法を探す。


 封印を解いた瞬間に、致命傷を負っているあすかを助けられる方法。


 そして。


 あのユニーク個体を倒せるだけの力を持つ者。


 何より。


 あすかの命を預けられるほど信頼できる者。


 探さなければならない。


 立ち止まっている時間はない。


 だから。


 今日会った二人のことを考えている場合ではない。


 アムがSランク冒険者だという事実は気になる。


 それは間違いない。


 求めている戦力という意味では、無視できるものではない。


 だが。


 それを知ったのは別れ際だ。


 最初に惹かれた理由にはならない。


 ゆうきについてもそうだ。


 中級ダンジョンを仲間と制覇した。


 少なくとも、実戦経験はある。


 仲間を軽視する人物でもない。


 それでも。


 まだ何も知らない。


 一度話しただけ。


 信用するにはあまりにも短い。


「……そうです」


 イルは小さく呟いた。


「何も、知らないのですから」


 自分へ言い聞かせる。


 そのまま歩く。


 十歩。


 二十歩。


 木々の間を抜ける。


 水溜まりを避ける。


 濡れた土を踏む。


 それなのに。


 離れるほど、胸の奥にあった感覚が薄れるどころか、逆に強くなっていった。


「…………」


 足が止まった。


 イルは前を見る。


 誰もいない街道。


 目的地は、この先だ。


 行かなければならない。


 ゆっくり息を吐く。


 もう一度歩き出す。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 また止まった。


「……何をしているんでしょうね、私は」


 自分でも呆れる。


 振り返る。


 当然、二人の姿は見えない。


 分岐の向こう。


 別の街道を進んでいる。


 もうかなり離れただろう。


 今から追いかける理由などない。


 また会えるかもしれない。


 旅人同士なのだから、どこかで偶然再会することもあるだろう。


 それでいい。


 そう思う。


 なのに。


『また、どこかで会えるといいですね』


 ゆうきの声。


『うちも』


 アムの声。


 あの時。


 嬉しかった。


 そう認めた瞬間。


 胸の奥にあったものが、少しだけ形を持った。


 別れたくなかった。


 理由は分からない。


 もっと話したかった。


 もう少しだけ。


 あの二人と同じ時間を過ごしてみたかった。


「…………」


 イルは眉を寄せた。


 そんな理由で引き返すのか。


 初対面の相手に。


 自分から。


 何と言う。


 もう少し一緒にいたいのです。


 そんなことを言えるはずがない。


 そもそも、自分自身がその感情を理解できていない。


 けれど。


 このまま進んだら。


 きっと後悔する。


 その感覚だけは、妙にはっきりしていた。


 風が吹く。


 木の枝から大きな雫が落ち、イルの肩へ当たった。


「……本当に」


 小さく息を吐く。


「何なのでしょうね」


 それでも。


 足はもう、先ほどまでとは反対へ向いていた。


 分岐へ戻る。


 最初は歩いていた。


 けれど、少しずつ歩調が速くなる。


 間に合うだろうか。


 二人は次の街を目指していると言っていた。


 道は分かっている。


 それほど急いではいなかった。


 なら。


 まだ追いつける。


 気づけば走っていた。


 濡れた街道を踏む。


 水が跳ねる。


 外套の裾が揺れる。


 どうして走っているのか。


 自分でも分からない。


 アムがSランクだから。


 それなら理由にはできる。


 ゆうきたちが仲間を探しているから。


 それも都合がいい。


 自分も信頼できる戦力を探している。


 目的は一致する可能性がある。


 ならば、一度一緒に依頼を受けてみる。


 戦い方を見られる。


 人柄も見られる。


 信頼できるかどうかを判断する材料になる。


 理屈はある。


 いくらでも作れる。


 けれど。


 その理屈を思いつくより先に、自分はもう走っていた。


「…………」


 それが一番、イルを戸惑わせた。


 分岐を曲がる。


 遠く。


 街道の先に二人の姿が見えた。


 並んで歩いている。


 ゆうきとアム。


 その背中を見つけた瞬間。


 胸の奥にあったものが、僅かに軽くなった。


 イルは足を速めた。


「――あの!」


 声が出た。


 思っていたより大きな声だった。


 二人の足が止まる。


 同時に振り返った。


「……イルさん?」


 ゆうきが目を丸くする。


「イル?」


 アムも驚いている。


 イルは二人の前まで走ると、少しだけ乱れた息を整えた。


「どうしたんですか?」


 ゆうきが尋ねる。


「忘れ物?」


 アムも首を傾ける。


「いえ……」


 イルは答える。


 そこで止まった。


 何を言えばいい。


 戻ってきた理由。


 そんなもの、自分にも分からない。


 ただ別れたくなかった。


 もう少し一緒にいたかった。


 それをそのまま言葉にするには、二人との距離はまだ遠すぎる。


 イルは一度視線を落とした。


 自分でも珍しいほど、言葉が見つからない。


「イルさん?」


 ゆうきの声。


 急かさない。


 ただ待っている。


 その隣で、アムも黙っている。


 まただ。


 この空気。


 何かを言わなければと追い立てられない。


 待ってもらえることを、なぜか知っていたような感覚。


 イルはゆっくり顔を上げる。


 二人を見る。


 ゆうきも。


 アムも。


 どこか少しだけ、安心したような顔をしていた。


 自分が戻ってきたことに。


 どうして。


 問いかけたくなる。


 けれど。


 今は、答えを持っている者など誰もいない。


 なら。


 もう少しだけ。


 確かめてみてもいいのかもしれない。


 この感覚が何なのか。


 この二人がどんな人なのか。


 そして。


 なぜ自分が、たった一度別れただけで引き返してしまったのか。


「……お二人は」


 イルは一度言葉を切った。


「仲間を探していると、仰っていましたよね」


「はい」


 ゆうきが答える。


「それが?」


 アムが尋ねる。


「私も……」


 そこまで言って、イルは少しだけ考え直す。


 自分の目的をすべて話すつもりはない。


 まだ、その時ではない。


 けれど、一緒に行動する理由なら作れる。


 いや。


 理由が欲しかったのかもしれない。


 もう一度、この二人と同じ時間を過ごすための。


 イルは胸の前で僅かに指を握った。


 そして。


 今の自分が口にできる、精一杯の言葉を選んだ。


「もし、お二人がよろしければ……」


 雨上がりの風が三人の間を抜けていく。


 濡れた草の匂い。


 雲の切れ間から差し込む、柔らかな光。


 ゆうきとアムが、イルの次の言葉を待っている。


 イル自身にも、その理由はまだ分からなかった。


 ただ。


 今度は、自分から離れたくないと思った。


「一度、私と一緒にクエストを受けてみませんか?」


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