第8話 それぞれの道
魔法都市ルーメンの朝は、いつもと変わらない音から始まった。
宿の窓を開けば、石畳を走る荷車の車輪が小さく跳ね、通りの向こうでは店を開ける商人たちの声が重なっている。焼きたてのパンと香草の匂いを含んだ冷たい風が部屋へ入り込み、ゆうきは窓辺に立ったまま、遠くに見える尖塔へ目を向けた。
アルバフローラ魔法学院。
朝日を受けた白い校舎は、今日も昨日までと何も変わらない。
変わるのは、自分の方だった。
「……よし」
ゆうきは窓を閉め、ベッドの上に広げていた荷物へ戻った。
着替え。
旅道具。
学院で使っていた教本の中から、これからも役立ちそうなものを数冊。
そして、その横には中級ダンジョンの最深部で手に入れた魔導グローブが置かれている。
右手へ通し、指をゆっくりと曲げる。
まだ新しい革の硬さは残っているものの、昨日使った時より手に馴染んでいるように感じた。
掌を上へ向ける。
無属性の魔力を流すと、指先へ向かって淡い光が走った。
魔力そのものが増えるわけではない。
術者から放たれる魔力の流れを整え、制御を補助する魔導具。
杖を持たずに魔法を扱えるというだけでも、剣を使うゆうきには大きい。
これまでも魔法剣士として、剣と魔法の両方を使ってきた。
けれど学院で学び、ダンジョンで何度も戦ったことで、その二つを別々に扱うだけでは足りないことに気づいた。
剣を振りながら魔法を使う。
魔法で生まれた隙へ剣を差し込む。
身体強化を維持したまま別の術式を組み上げる。
相手や仲間の動きに合わせて、自分の役割を変えていく。
どれもまだ、頭の中で考えたほど上手くはできない。
それでも、次に何を練習すればいいのかは分かる。
学院へ来る前には見えていなかったものだった。
「朝からやってるね」
背後から声がして、ゆうきは魔力を消した。
振り返る。
アムネがベッドの上で身体を起こしていた。
普段の、水属性へ同調した姿。
水色の髪が寝起きのまま肩へ流れ、その何本かが頬にかかっている。アムネはそれを指で軽く払いながら、小さく欠伸をした。
「起こした?」
「ううん。そろそろ起きようと思ってたところ」
アムネはベッドから降りると、ゆうきの手元へ目を向けた。
「昨日のグローブ?」
「ああ。少し試してた」
「どう?」
「かなりいいよ。魔力を流す時の引っかかりが少ない。これなら剣を持ったままでも、今までより魔法を使いやすそうだ」
「ゆうきには合ってると思う。魔力を無理やり増やす道具じゃないし、制御を助けるだけなら自分の練習にもなるからね」
アムネはゆうきの隣まで来ると、少し身を屈めてグローブを眺めた。
「でも、道具に合わせるんじゃなくて、ゆうきが使いやすいように慣らした方がいいよ。魔力の流し方にも人それぞれ癖があるから」
「癖?」
「うん。学院で習わなかった?」
「基本的な話は聞いたけど、自分の癖までは分からないな」
「じゃあ旅の途中で見てあげる」
さらりと言われ、ゆうきはアムネを見る。
「いいの?」
「いいよ、それくらい。うちもずっと歩いてるだけだと暇だし」
「助かる。ただ、アムの基準で教えるのはやめてくれよ」
「どういう意味?」
「Sランク冒険者の『これくらい簡単』は信用しないことにしてる」
「失礼だなぁ。ちゃんとゆうきに合わせるって」
「本当に?」
「……たぶん」
「今ので信用なくなったよ」
アムネが少しだけ視線を逸らす。
それから耐えきれなかったように笑った。
「……ハハ。大丈夫だって。いきなり難しいことはやらせないから」
「いきなりは、って言ったよな?」
「細かいなぁ」
「親友の練習で事故りたくないんだよ」
「うちだって親友を壊したくないよ」
「壊れる前提みたいに言うなって」
二人の声が朝の部屋に重なる。
千年以上を生きてきた悪魔で、世界に七人しかいないSランク冒険者。
そんな肩書きを並べれば遠い存在に思えるのに、ゆうきの前にいるアムネは昔からの親友と話している時のように自然だった。
長命者らしい落ち着きを見せることもある。
けれど、無感情でも、達観して何もかもを遠くから眺めているわけでもない。
笑うし、ふざけるし、面倒なことは面倒だと言う。
ゆうきにとっては、それがアムネだった。
「それよりアム」
「ん?」
「荷物」
ゆうきは隣のベッドを指さした。
昨夜、ダンジョンから戻ったあとに置いた旅道具が、そのまま残っている。
アムネがそちらを見る。
少しの沈黙。
「……今からやるよ」
「昨日の夜にやるって言ってなかった?」
「昨日は疲れてたんだって。二十階層まで行ったんだよ?」
「俺も行ったよ」
「ゆうきは真面目だから」
「褒めても手伝わないぞ」
「まだ頼んでないけど?」
「その顔で分かる」
「どんな顔?」
「手伝ってほしそうな顔」
アムネは自分の頬を触った。
「そんな顔してる?」
「してる」
「じゃあ半分だけ」
「自分でやれよ」
「親友でしょ?」
「こういう時だけ使うな、その言葉」
そう言いながらも、ゆうきは床に置かれていた鞄を拾った。
アムネが嬉しそうに笑う。
「ありがと」
「次からは自分でやれよ」
「分かってるって」
「前にも聞いた気がする」
「気のせいじゃない?」
「絶対違う」
結局、二人で荷物をまとめた。
何を持っていくか。
何を置いていくか。
旅を続ける二人にとっては、それも何度か繰り返してきた作業だった。
けれど今回は、学院で手に入れた物が増えている。
教本。
地図。
魔導具。
それだけではない。
形にならないものも、きっと増えていた。
「できた」
最後に鞄の口を閉じ、ゆうきは立ち上がった。
「荷物は宿に預けて、学院に行こう」
「うん」
アムネも窓の向こうへ目を向ける。
遠くに見える学院の尖塔。
「今日で終わりかぁ」
ぽつりと零れた言葉に、ゆうきは少しだけアムネを見た。
「寂しい?」
「うちが?」
「うん」
「少しはね。でも、ゆうきの学院生活だったし」
「アムも結構楽しんでただろ」
「まあね」
アムネは柔らかく笑った。
「みんな面白かったし」
「それは分かる」
二人は荷物を宿へ預け、学院へ向かった。
◇
アルバフローラ魔法学院の正門をくぐる。
朝の学院は、昨日までと何も変わらなかった。
教本を抱えた学生たちが友人と話しながら校舎へ向かい、実戦場からは木剣同士がぶつかる乾いた音が聞こえてくる。
魔法実習棟の窓が一瞬だけ赤く光った。
少し遅れて、小さな破裂音。
ゆうきは反射的にそちらを見る。
「また失敗したのかな」
「たぶん火属性だね。魔力を込めすぎた感じ」
「音だけで分かるの?」
「だいたいは」
「その辺も今度教えてよ」
「いいよ。属性によって魔力が暴れた時の感じも違うから、覚えておくと便利だよ」
以前なら、アムネの知識にただ感心して終わっていただろう。
今は違う。
気になったなら聞く。
知らないなら教わる。
学院で身につけたのは、魔法や魔物の知識だけではなかった。
「ゆうきくーん!」
中庭へ入ったところで、聞き慣れた声が飛んできた。
おむたろが片手を大きく振りながら近づいてくる。
その後ろには、なも、ももね、ちゃちゃもいた。
「おはよう、ゆうきくん。アムネちゃんも」
なもが穏やかに笑う。
「おはよう」
「おはよぉ。二人とも、昨日の疲れは大丈夫そうだねぇ」
「おはよ! ねえねえ、ゆうきくん。昨日あれだけ戦ったのに朝から元気そうじゃん。ちゃまは起きた時、ちょっとだけ身体重かったよ」
「ちゃま、さっきまで眠そうだったよね?」
おむたろが笑う。
「おむたろに言われたくないよ! 朝ご飯の時、パン持ったままぼーっとしてたじゃん」
「見られてた!?」
「隣にいたもん」
「おむちゃん、疲れてるなら今日は無理しない方がいいよ」
なもが心配そうに言うと、おむたろは慌てて両手を振った。
「大丈夫大丈夫! ちょっと眠かっただけだから。身体は全然平気!」
「ならいいけどぉ、今日はダンジョン行かないんだから、ゆっくりしててもいいと思うよぉ」
ももねの言葉に、おむたろが「それもそうか」と笑った。
昨日までなら、このあと授業へ行くか、実習の準備をしていた。
今日も四人にとっては同じ学院生活が続く。
ただ一人、ゆうきだけが違う。
「そういえば、ゆうきくんは学院長に呼ばれてるんだよね?」
「ああ。これから行ってくる」
「昨日のダンジョンの話かな? だったら私たちも呼んでくれればいいのに」
「私たちは先生に報告することになってるから、それじゃないかな」
なもが言う。
「終わったら戻ってくるよ」
「じゃあさ、お昼はみんなで食べようよ!」
おむたろがすぐに続ける。
「昨日も打ち上げしたけど、今日は中級ダンジョン制覇のお祝い第二回!」
「二回もやるの?」
「いいじゃん! お祝いなんて何回やっても楽しいし!」
「ちゃまは賛成!」
ちゃちゃがぱっと顔を明るくした。
「ねえねえ、昨日とは違うところ行こうよ。今日はいっぱい食べられるところがいいな。ダンジョン終わったし、魔力の残りとか気にしなくていいでしょ?」
「ちゃまちゃん、ご飯のことになると元気だね」
なもが小さく笑う。
「だって、みんなで食べるの楽しいじゃん。それにちゃま、昨日頑張ったもん。お肉食べたい!」
「昨日も食べてたよぉ」
「昨日のお肉と今日のお肉は別だよ!」
「何その理屈」
ゆうきが笑う。
ちゃちゃは少し頬を膨らませた。
「ゆうきくんまで笑わないでよ。ちゃんとみんなで食べたいっていうのも本当なんだからね?」
「分かってるよ」
「じゃあ決まり!」
「まだ店も決まってないだろ」
「それはあとで考えればいいよ!」
相変わらずだった。
そのことが、今は妙に心地よかった。
「分かった。学院長室が終わったら戻ってくる」
「約束ね!」
おむたろが言う。
「ああ」
四人は先に校舎の奥へ向かった。
途中でちゃちゃが振り返る。
「ゆうきくん、早く戻ってきてね! お腹空いちゃうから!」
「結局そこかよ」
「えへへ」
笑いながら手を振り、今度こそ四人は廊下の角へ消えた。
ゆうきは、その場所を少しだけ見ていた。
「仲良くなったね」
隣のアムネが言った。
「うん」
ゆうきは歩き始める。
「最初は学院が決めた実習パーティだったんだけどな」
「今は?」
「友達だよ」
迷わず答えられた。
アムネが少しだけ目を細める。
「そっか」
「何?」
「ううん。いいんじゃない?」
それ以上は何も言わなかった。
ゆうきも続きを聞かず、学院長室へ向かった。
◇
扉を叩く。
「入るがよい」
「失礼します」
中へ入ると、学院長室の大きな机の向こうにリリィが座っていた。
今は学生たちの前へ出る時に使う、威厳のある大人の女性の姿ではない。
本来の姿だった。
身長は百五十センチほど。
長命種らしい整った顔立ちをしているものの、見た目には可愛らしい少女の印象が強い。
普段、生徒の前で幻覚魔法を使って大人の姿を取るのは、本人曰く「学園長らしく見られたい」からだ。
初めて聞いた時、ゆうきは何と返せばいいのか迷った。
「よく来たのう。二人とも、いつまでも立っておらんで座るがよい」
「はい」
「おはよ、リリィ」
「うむ。アムも昨日は遅くまでご苦労じゃったな」
「うちは見守ってただけだけどね」
「それでもじゃ。あの異常個体が出た時には、いつでも動けるようにしておったじゃろ」
「まあ、それくらいはね」
アムネはゆうきの隣へ腰掛ける。
リリィとは数百年にわたる付き合いだ。
グレイを通じて知り合い、今では酒を飲み交わすこともある。
途方もない年月のはずなのに、二人の間にあるのは堅苦しさではなく、長く付き合ってきた友人同士の気安さだった。
「さて」
リリィは机の上の書類へ手を伸ばした。
「まずは改めて言っておこう。中級ダンジョン制覇、おめでとう。最後に想定外の異常個体まで出たというのに、五人とも無事に帰ってきた。それが何よりじゃ」
「ありがとうございます」
「愛鮫なも、おむたろ、籠守ももね、飯星ちゃちゃ。あの四人についても、今回の実習は最高評価で修了とする。教師たちからも異論は出ておらん」
「良かった」
自然に声が出た。
リリィが小さく笑う。
「自分のことより嬉しそうじゃな」
「一緒に戦った仲間なので」
「うむ。よいことじゃ」
リリィは書類を一枚横へ置いた。
そして、別の紙を取り上げる。
「では、ゆうき。次はおぬしの話じゃ」
「俺?」
「そうじゃ」
机の上へ置かれた紙には、学院の紋章が入っていた。
「元より、おぬしの入学は正式な長期在籍を前提としたものではない。アムがおぬしを連れてきた時から、一時的に学院へ入り、この世界について学ぶための特例として扱っておった」
「はい」
「魔法理論、魔物学、世界史、実戦講義。短い期間ではあるが、必要な講義は一通り受けた。教師たちの評価にも目を通しておる」
「何て書いてありました?」
「気になるかの?」
「少し」
リリィは書類へ目を落とした。
「理解は早い。応用力も高い。不得手な分野でも一定水準までは短期間で身につける。ただし、何でも自分で試してから考えようとする傾向がある……とな」
「ああ……」
思い当たる。
隣から小さな笑い声が聞こえた。
「アム」
「ごめん。でも、そのままだなって」
「おぬしも笑えんぞ」
リリィがアムネを見る。
「え、うち?」
「自分で何とかできるからと、一人で抱え込む癖は昔から変わっておらんじゃろ」
「今はゆうきの話でしょ?」
「都合が悪くなると話を戻すところも変わっておらんのう」
「……リリィ、今日ちょっと意地悪じゃない?」
「事実を言っただけじゃ」
アムネが不満そうに頬を膨らませる。
その姿に、リリィは楽しそうに笑った。
「まあ、それはよい」
「よくないんだけど」
「ゆうきの話じゃったな」
「戻すんだ……」
アムネの小さな呟きを流し、リリィはゆうきへ向き直った。
「講義だけなら、まだ終わりとはせんかった。じゃが、おぬしは学院管理中級ダンジョンを二十階層まで攻略し、最深部の守護者を倒した」
ゆうきは机の上の紙を見る。
自分の名前。
アルバフローラ魔法学院。
そして、修了を認める旨の文章。
「ゆうき」
リリィの声が少しだけ改まる。
「本日付で、おぬしにアルバフローラ魔法学院の卒業資格を与える」
意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「……卒業?」
「そうじゃ」
「俺、まだ入ってからそんなに経ってないですよ?」
「知っておる」
「普通の生徒より授業も全然受けてないし」
「それも承知しておる」
「だったら――」
「最初から普通の生徒ではないじゃろう」
リリィが柔らかく笑った。
「一時的な入学体験じゃ。必要な知識を学び、それを実際に扱えるだけの力を示した。それに学院管理の中級ダンジョンまで制覇した者へ、在籍日数が足りぬからと基礎実習を繰り返させる意味もなかろう」
「それは……まあ」
「もう一度、一階層からゴブリン相手に実習したいかの?」
「それはいいです」
「じゃろ?」
思わず笑ってしまう。
リリィは証書を両手で持ち直し、ゆうきへ差し出した。
「受け取るがよい」
「はい」
ゆうきも両手で受け取った。
紙一枚。
それだけなのに、妙な重みを感じる。
この世界へ来た時、自分が魔法学院へ通うとは思っていなかった。
まして卒業資格まで得るなど、想像すらしていない。
「ありがとうございます」
「うむ」
リリィは穏やかに頷いた。
「短い学院生活じゃったが、何か得るものはあったかの?」
ゆうきはすぐには答えなかった。
窓の外から、学生たちの声が聞こえてくる。
最初の魔法理論の授業。
魔物学。
世界史。
実戦講義。
ダンジョン。
第一階層へ入った時には、ゴブリン一体を相手にするだけでも、五人で互いの動きを確かめていた。
五階層。
十階層。
そして、一度攻略を止めた。
「ありました」
ゆうきは証書へ目を落としたまま答えた。
「ここに来る前は、知らないことがあっても実際にやれば何とかなると思ってたんです。魔法も、魔物との戦いも」
「うむ」
「でも、十階層まで行った時に、それだけじゃ駄目だって分かりました」
勝てなくなったわけではない。
それでも、先へ進むほど余裕がなくなっていた。
知らないから判断が遅れる。
分からないから、とりあえず試す。
それでは、いつか取り返しのつかない失敗をする。
「図書館で魔物について調べて、ダンジョンについて調べて、魔法のことも勉強して……十一階層へ戻った時、前より見えるものが増えてたんです」
「知識が役に立ったかの?」
「はい。でも、本に書いてあることだけでも足りなかった」
リリィは何も言わず、続きを待つ。
「オークもオーガも、教本通りに動くわけじゃない。最後なんて、想定してない相手が出てきた。だから……知って、それを実際に確かめる。たぶん両方必要なんだと思います」
しばらくして、リリィが静かに頷いた。
「ならば、ここへ来た意味は十分にあったのう」
「はい」
ゆうきは顔を上げる。
「来て良かったです」
「そうか」
リリィの表情が柔らかくなる。
学園長としてではなく、この学院を長く見守ってきた一人の教師として、生徒の言葉を受け取っているように見えた。
「ならば、最後に一つだけ覚えておくがよい」
「はい」
「学院を卒業したからといって、世界を知ったつもりにはならぬことじゃ」
窓の向こうへリリィが視線を向ける。
「ここにある教本も、図書館に収められた記録も、誰かが自分の目で見て持ち帰ったもの。正しいものもあれば、時代とともに古くなったものもある。未だ誰にも知られておらぬことなど、世界にはいくらでもある」
その声には、長命種らしい静かな時間が滲んでいた。
「知らぬことを恥じる必要はないのじゃ。知らぬなら調べればよい。それでも分からぬなら、自分の目で確かめればよい」
「……はい」
「世界は広いぞ、ゆうき」
リリィが笑う。
「おぬしが今知っておるものより、ずっとな」
ルーメンに来てから、何度も感じたことだった。
知らない魔法。
知らない魔物。
知らない歴史。
知らない場所。
それは怖さでもある。
けれど今は、それ以上に先を見たいと思う。
「それに、おぬしには便利な友人がおるじゃろ」
リリィの視線が横へ動く。
アムネが自分を指さした。
「うち?」
「他に誰がおる」
「便利って言い方ひどくない?」
「千年以上世界を歩いておる者が隣におるのじゃ。分からぬことがあれば聞けばよかろう」
「まあ、答えられることなら答えるけどさ」
アムネは少しだけ肩をすくめる。
「でも、うちが知ってることだって全部正しいとは限らないよ。昔と今じゃ変わってることもあるし、うちが知らないこともいっぱいあるから」
「それでよいのじゃ」
リリィが満足そうに頷いた。
「二人で見てくればよい」
ゆうきは隣を見る。
アムネと目が合った。
「だってさ」
「うん」
「これからもよろしく」
「……ハハ。まだ学院も出てないのに早いよ」
「いいだろ、別に」
「まあね」
アムネが笑う。
「こちらこそ」
リリィは二人を見て、静かに目を細めた。
「今日、ルーメンを発つのじゃな?」
「はい」
「行き先は?」
ゆうきとアムネが一瞬、互いを見る。
「……まだです」
「決めてないね」
二人の返事を聞いたリリィが、呆れたように息を吐いた。
「おぬしら、旅を再開すると言いながら行き先すら決めておらんのか」
「仲間を探すのが目的なので、街道を進みながら決めようかなって」
「うちもそれでいいと思ってるよ」
「二人揃って気ままじゃのう」
「アムがいるので、そこまで心配はしてないです」
「ゆうき、それはうちに任せすぎじゃない?」
「でも道に迷ってもアムなら何とかできるだろ」
「できるけど、最初から迷う前提で進まないでよ」
「ほれ。早速役に立っておる」
「リリィまで乗らないで」
アムネが困ったように笑う。
そのやり取りが落ち着くのを待って、ゆうきは証書を大切にしまった。
「リリィさん」
「なんじゃ?」
「ありがとうございました」
立ち上がり、頭を下げる。
「学院に入れてもらえて、本当に良かったです」
「礼ならアムにも言っておくことじゃな。連れてきたのはこやつじゃ」
「それはもう何回も言ってます」
「言われたね」
アムネも立ち上がる。
「じゃあね、リリィ」
「うむ」
「今度来る時は、また何かお酒持ってくるよ」
その瞬間、リリィの耳がわずかに動いた。
「……ほう?」
「食いついた」
ゆうきが呟く。
「珍しい酒かの?」
「まだ決めてないよ」
「ならば旅先で見つけたら忘れず買ってくるのじゃぞ」
「学院長が卒業生に言う最後の言葉がそれでいいの?」
「仕事と酒は別じゃ」
「変わらないなぁ」
アムネが笑う。
「姫様にも、次に会ったらよろしく伝えておいてくれ」
グレイを口にする時だけ、リリィの声が少し柔らかくなる。
数百年が過ぎても変わらない「姫様」という呼び方。
そこにあるものを、ゆうきはまだすべて知らない。
けれど、無理に聞こうとは思わなかった。
いつか知る時が来るのなら、その時でいい。
「分かった。レイに会ったら伝えとく」
アムネが答える。
「うむ」
リリィは二人を見上げた。
「達者での」
「はい」
ゆうきは扉へ向かう。
手をかけたところで、背後からもう一度声が届いた。
「ゆうき」
振り返る。
「卒業したからといって、学院へ来てはならぬわけではないぞ」
リリィは穏やかに笑っていた。
「また分からぬことができたなら来ればよい。学ぶ場所というものは、卒業した程度で消えたりせんからの」
ゆうきも笑った。
「はい」
今度こそ扉を開く。
「また来ます」
◇
「卒業!?」
おむたろの声が中庭いっぱいに響いた。
近くにいた学生たちが何人か振り返る。
「おむちゃん、声大きいよ」
なもが少し困ったように言う。
「だって卒業だよ!? ゆうきくん、入ってきたばっかりじゃん!」
「俺もそう思ったよ」
「早すぎない!?」
「一時的な入学だったからな。中級ダンジョンを制覇したことで、必要な実習も終わったって」
「いいなぁ!」
「ちゃんと卒業まで勉強しろよ」
「分かってるけど、こっちはまだ授業いっぱいあるんだよ?」
「それは普通だと思うよ」
なもが笑う。
「でも、おめでとう。ゆうきくん」
「ありがとう」
「私たちの実習も最高評価だって聞いたよ。五人で最後まで行けたからだね」
「うん」
ゆうきは四人を見る。
「俺一人じゃ無理だったよ」
「それは私たちも同じだよ」
なもは静かに首を振った。
「私たちも、ゆうきくんがいたから最後まで行けたと思う。最初の頃は、自分のことで精一杯だったから」
「なもちゃんは最初から頼りになってたじゃん!」
おむたろがすぐに言う。
「前でずっと止めてくれてたし。なもちゃんがいなかったら、私もっと吹っ飛ばされてたと思うよ」
「それはおむちゃんが前に出すぎるからだよ」
「うっ」
「なもちゃん、そこはもっと言っていいと思うよぉ」
ももねがのんびり続ける。
「おむ、最後の方も結構前に行ってたからねぇ」
「ももねまで!」
「もう、おむたろはほんとにすぐ前に出るんだから。ちゃまが治せるからって、怪我していいわけじゃないんだよ?」
ちゃちゃが腰に手を当てる。
「次からちゃんと気をつけてよね。回復する方だって心配するんだから」
「ごめんって! でも、ちゃまが後ろにいると安心するんだよ」
「それは嬉しいけど……」
ちゃちゃの頬が少し緩む。
「だからって無茶していいとは言ってないからね?」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい!」
おむたろが姿勢を正す。
ちゃちゃが満足そうに頷き、全員から笑いが漏れた。
いつものやり取り。
今日も同じように笑える。
そのことに、ゆうきは少しだけ安心していた。
「それで」
ちゃちゃが笑い終えたあと、ふと首を傾ける。
「卒業したってことは、ゆうきくんは明日から授業来ないの?」
ゆうきは答える前に、一度四人を見た。
「明日から、じゃないんだ」
「え?」
「今日、ルーメンを出る」
笑い声が止まった。
おむたろの表情から、少しだけ勢いが消える。
なもはゆうきを見たまま、静かに瞬きをした。
ももねも何も言わず、ちゃちゃは目を丸くしている。
「……今日?」
おむたろが聞く。
「うん」
「お昼食べたあと?」
「宿に荷物を取りに戻って、そのまま出るつもり」
「そっか……」
短い返事。
普段なら次々と言葉が出てくるおむたろが、その先をすぐには続けなかった。
誰も知らなかったわけではない。
ゆうきとアムネは旅の途中だった。
学院へ来たのも、ここへ留まるためではない。
仲間を探し、世界を知るために旅をしている。
いつかは出ていく。
それが今日になっただけだ。
「寂しくなるね」
なもが静かに言った。
「うん」
ゆうきも誤魔化さなかった。
「俺も寂しいよ」
ちゃちゃが少しだけ俯く。
その足元へ、風に飛ばされた小さな葉が転がってきた。
「もうちょっといると思ってた」
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
ちゃちゃはすぐに顔を上げた。
「旅の途中だもんね。アムネさんと仲間を探してるって聞いてたし」
「うん」
「だったら行かなきゃだよね」
口ではそう言いながらも、少しだけ唇を尖らせている。
それを見たおむたろが、ちゃちゃの肩を軽く叩いた。
「また会えるって!」
「分かってるよ」
「私たちだってずっと学院にいるわけじゃないし!」
その言葉で、おむたろ自身が何かに気づいたように止まった。
「……そうだ」
「どうしたの?」
なもが聞く。
「私たち、これからどうする?」
「これから?」
「実習パーティ」
おむたろは四人を順番に見た。
「中級ダンジョン終わったでしょ。ゆうきくんも卒業。ってことは、学院が組んだこのパーティも今日で終わりなんだよね?」
誰もすぐには答えなかった。
学院の実習のために結成された五人。
最初は、それだけだった。
実習が終われば解散する。
本来なら当たり前のことだ。
「私は学院に残るよ」
最初に答えたのは、なもだった。
「まだ盾の扱いも勉強したいし、もっと上手く守れるようになりたいから。今回のダンジョンでも、自分に足りないところがいっぱい分かったし」
「私も残るよぉ」
ももねが続く。
「大斧もまだまだ練習したいしねぇ。力だけじゃなくて、どこで振るかも大事だって分かったからぁ、もう少し学院で勉強したいかなぁ」
「ちゃまも残る!」
ちゃちゃも顔を上げた。
「回復魔法、もっと上手くなりたいもん。怪我してから治すだけじゃなくて、補助魔法もちゃんと覚えたいし、魔力の使い方もまだ全然だし」
自分の手を見ながら、少しだけ声が落ち着く。
「最後の方、魔力が足りなくなるの怖かったんだ。みんなが怪我してるのに、ちゃまが治せなくなったらどうしようって」
なもがちゃちゃを見る。
「ちゃまちゃん、最後までちゃんと残してくれてたよ」
「でも、もっとできるようになりたい」
ちゃちゃは顔を上げた。
「次は、みんながもっと安心して戦えるようにしたいんだ」
「なら決まりだね!」
おむたろが笑った。
「私も残る。槍ももっと上手くなりたいし、昨日手に入れた火属性の槍だって使いこなしたい!」
「おむはまず、前に出すぎない練習かなぁ」
「ももね、それ槍の練習じゃなくない?」
「大事だよぉ」
「大事だよ」
なもまで頷く。
「なもちゃんまで!?」
ちゃちゃが吹き出した。
重くなりかけた空気が、少しだけほどける。
おむたろは三人を見回した。
「だったらさ」
今度の声は、さっきまでより少しだけ静かだった。
「実習が終わっても、この四人で組まない?」
なもが目を瞬く。
「四人で?」
「うん」
おむたろは槍へ軽く手を添えた。
「学院にいる間も、できるだけ一緒に実習してさ。卒業したら、そのまま四人で冒険者やろうよ」
いつものように勢いだけで言ったわけではない。
言葉を選ぶように少し間を置きながら、おむたろは続ける。
「私、このパーティ好きなんだよね。最初は学院に決められただけだったけど、今はみんなと一緒に戦うのが楽しい」
なもを見る。
「なもちゃんが前にいてくれると安心するし」
ももねを見る。
「ももねが後ろで大斧構えてると、絶対どこかでやってくれるって思える」
ちゃちゃを見る。
「ちゃまがいると、怪我した時だけじゃなくて、ずっと後ろを任せられる」
「おむたろ……」
「だから、実習だからじゃなくてさ」
おむたろは少し照れたように笑った。
「これからも一緒にやりたいなって」
しばらく誰も話さなかった。
最初に微笑んだのは、なもだった。
「私はいいよ」
「ほんと?」
「うん」
なもは三人を見た。
「私も、この四人でやってみたい。今なら、自分が前に立つことだけが守ることじゃないって少し分かるから」
「なもちゃん……!」
「それに、おむちゃんを一人にしたら心配だし」
「そっち!?」
おむたろの声が響く。
ももねが小さく笑った。
「私もいいよぉ。みんなと一緒なら、卒業したあとも楽しそうだしねぇ」
「ももね!」
「でも、おむはちゃんと私たちの話も聞いてねぇ」
「聞いてるって!」
「ほんとかなぁ」
「ほんとだって!」
三人の視線が、最後にちゃちゃへ向いた。
「何でちゃまを見るの?」
「ちゃまは?」
おむたろが聞く。
ちゃちゃは一度目を瞬いた。
それから、すぐに笑った。
「やるよ!」
「早っ!」
「だって、ちゃまだけやらない理由ないじゃん」
少し胸を張る。
「みんなと一緒にもっと強くなりたいし、学院を卒業したら冒険者になって、いろんなところ行ってみたい。それに……」
ちゃちゃは四人を見回した。
「このパーティ、ちゃまも好きだもん」
おむたろの顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ決まり!」
「まだ学院生だよ、おむちゃん」
「いいじゃん、なもちゃん。今から正式パーティってことで!」
「学院の規則は確認した方がいいかな」
「そこはちゃんとする!」
「名前も決めないとねぇ」
ももねの一言で、おむたろが止まった。
「名前?」
「パーティ名だよぉ」
「……考えてなかった」
「そこまで考えてから言おうよ」
ちゃちゃが笑う。
「じゃあ今決める?」
「今!?」
「だって正式パーティなんでしょ?」
「ちょっと待って。大事なところだから!」
「おむが変な名前つけそうだねぇ」
「変なのつけないよ!」
「格好いいのにしようとして、逆に恥ずかしいやつになりそう」
「ちゃままで!?」
四人の会話を聞きながら、ゆうきは静かに笑った。
胸の奥にあった寂しさが、少しだけ形を変えていく。
自分が抜ける。
だから終わる。
そうではない。
五人で歩いた時間を持ったまま、四人は次へ進もうとしている。
「いいパーティになると思う」
ゆうきが言うと、四人がこちらを向いた。
「ほんと?」
おむたろが聞く。
「ああ」
「ゆうきくんがいなくても?」
「俺がいないから駄目になるようなパーティじゃないだろ」
はっきり答える。
「俺ができなかったことを四人で考えればいいし、足りないなら誰かに教わればいい。ダンジョンでもそうしてきたじゃん」
四人とも黙って聞いている。
「だから大丈夫だよ」
少し間を置く。
「ただし、おむたろは一人で突っ込みすぎるな」
「やっぱりそこ!?」
「大事だからな」
「分かったって!」
「ほんとに?」
「ゆうきくんまで疑うの!?」
「普段の行動を見てるからだよ」
また笑い声が広がった。
◇
昼食は六人で、学院近くの食堂へ行った。
特別に高級な店ではない。
学院生活の間に何度か利用した、学生向けの店。
大きな窓から昼の日差しが入り、木の卓上を明るく照らしている。厨房からは肉を焼く匂いと煮込み料理の湯気が漂い、周囲には学生たちの賑やかな声が満ちていた。
「ねえねえ、これも頼んでいい?」
ちゃちゃが献立を指さす。
「もう結構頼んでない?」
ゆうきが卓上を見る。
「今日はお祝いなんだからいいの!」
「何のお祝い?」
「ゆうきくんの卒業と、ちゃまたちのパーティ結成!」
「パーティ名まだないけどねぇ」
「それは帰ってから考えるよ」
ちゃちゃは気にせず店員を呼んだ。
「あとこれ一つ!」
「ちゃま、食べきれる?」
なもが心配そうに聞く。
「大丈夫だよ! 昨日いっぱい魔力使ったから、今日はいっぱい食べないと」
「昨日も同じこと言ってなかった?」
「昨日使った魔力は昨日のご飯で、今日の分は今日食べるの!」
「またその理屈?」
ゆうきが笑う。
「もう、いいじゃん。最後なんだから一緒にいっぱい食べようよ!」
最後。
その言葉が出た瞬間だけ、卓上の空気が少し静かになった。
ちゃちゃ自身も気づいたらしく、少しだけ目を伏せる。
ゆうきは何も言わず、目の前の料理を一つ取った。
「じゃあ食べるか」
「……うん!」
それで十分だった。
別れが近いからといって、ずっと寂しがる必要はない。
なもはいつも通りゆっくり食べ、おむたろは次の実習で何をするか話し、ももねは時折のんびりと口を挟む。
ちゃちゃは宣言通り、追加した料理まできれいに食べた。
アムネも四人の話を楽しそうに聞いている。
「そういえばアムネちゃん」
なもが尋ねた。
「これからも、ゆうきくんと二人で旅をするんだよね?」
「うん。仲間を探す旅はまだ終わってないからね」
「行くところは決まってるの?」
「それがまだなんだよね」
アムネがゆうきを見る。
「ゆうきが決めてないから」
「アムも決めてないだろ」
「うちはゆうきに合わせようかなって」
「朝は一緒に決めるって言ってたじゃん」
「そうだっけ?」
「言ったよ」
「……ハハ。じゃあ一緒に決めよっか」
「相変わらずだねぇ」
ももねが小さく笑う。
「二人ならどこでも行けそう」
なもが言った。
ゆうきはアムネを見る。
アムネもこちらを見ている。
「まあ、何とかなると思う」
「うちも」
「そこは二人とも同じなんだ」
おむたろが笑った。
食事が終わっても、誰もすぐには立ち上がらなかった。
他愛のない話を続ける。
最初の実習で、おむたろが勢いよく前へ出すぎたこと。
ももねの大斧に驚いたこと。
なもの盾の後ろが思っていた以上に安心できたこと。
ちゃちゃが戦闘後になると急にお腹を空かせること。
「だって魔法使うとお腹空くんだもん!」
「ちゃまは使わなくても空いてるでしょ」
「おむたろだって食べるじゃん!」
「私は動くから!」
「ちゃまも動いてるよ!」
「後ろで!」
「後ろでも動くの!」
そんなやり取りに、何度も笑った。
思い出を語ろうとしなくても、自然とそこに学院で過ごした時間が混じっていた。
◇
宿へ戻り、預けていた荷物を受け取った。
学院へ向かう時とは違い、今度は旅装だ。
腰に剣。
背には鞄。
魔導グローブもすぐ取り出せる場所へ入れてある。
アムネも旅道具を身につけ、いつものように隣へ立った。
「忘れ物ない?」
「俺はない」
「うちもたぶん大丈夫」
「たぶんって」
「大事なものは持ったから」
「ならいいけど」
宿を出る。
外では、なもたち四人が待っていた。
「本当に見送りに来るの?」
ゆうきが聞く。
「当たり前じゃん!」
おむたろが答える。
「街の外まで行くよ。ここで『じゃあね』はさすがに寂しいって!」
「私も門まで行きたいな」
なもが穏やかに続く。
「私もぉ」
「ちゃまも行く!」
断る理由はなかった。
「じゃあ行こうか」
六人で歩き始める。
大通りを進む。
何度も歩いたルーメンの街。
魔石市場。
学院生向けの道具屋。
武器職人の工房。
国立魔導図書館へ続く道。
以前なら次にどこへ行くかを考えながら歩いていた。
今は、一つ一つの景色を自然と目で追ってしまう。
「ゆうきくん」
途中、ちゃちゃが少し駆けて隣へ来た。
「ん?」
「これ」
小さな紙袋を差し出される。
中から甘い匂いがした。
「何?」
「焼き菓子。さっき買ったの」
「いつの間に?」
「宿に行く前。旅の途中で食べて」
ゆうきが袋を受け取る。
まだ少し温かい。
「ありがとう」
「アムネさんの分も入ってるよ」
「うちも?」
「うん。二人で食べて」
アムネも紙袋を覗き込む。
「ありがと、ちゃちゃ」
「えへへ」
ちゃちゃが笑う。
けれど、すぐに少しだけ表情を落ち着かせた。
「ちゃんと食べてね?」
「食べるよ」
「あと、ちゃんと帰ってきてね」
ゆうきはちゃちゃを見る。
「ルーメンに?」
「うん」
ちゃちゃは前を向いたまま続ける。
「旅って危ないでしょ。学院で習ったもん。管理されてないダンジョンもあるし、強い魔物だっているし……二人とも強いのは分かってるけど、それでも絶対じゃないから」
紙袋を持つ指へ、少しだけ力が入る。
「だから、無茶しすぎないでね。怪我しても今度はちゃまが近くにいないんだから」
「分かった」
「ほんと?」
「うん」
ゆうきははっきり頷いた。
「俺もアムも、ちゃんと旅を続ける。それで、またルーメンに来るよ」
「約束だからね?」
「ああ」
アムネがちゃちゃの反対側から顔を覗かせる。
「うちも見てるから大丈夫だよ」
「アムが一番無茶する可能性もあるけどな」
「ゆうき?」
「違うの?」
「……否定しづらいけど」
「ほら」
「もう、二人とも無茶しないでよ!」
ちゃちゃの声に、前を歩いていた三人が振り返る。
また笑い声が起きた。
◇
ルーメンの外門が近づくにつれて、歩く速度は自然と遅くなった。
誰かがそうしようと言ったわけではない。
ただ、六人とも急ぐ理由がなかった。
午後の光が長い影を石畳へ落としている。
門の向こうには街道。
草原。
遠くの森。
その先へ道は続いている。
門を抜けたところで、ゆうきとアムネは足を止めた。
なもたちも止まる。
ここまでだった。
四人は学院へ戻る。
ゆうきとアムネは旅へ戻る。
向かい合うと、さっきまであれだけ話していたのに、誰もすぐには言葉を出さなかった。
風が草を揺らす音だけが聞こえる。
「ゆうきくん」
最初に口を開いたのは、なもだった。
「一緒に戦えて良かったよ」
「俺も」
「最初はね、私が前に立って、全部止めないとって思ってたの」
なもは自分の盾へ目を向けた。
「盾役だから、後ろへ通したら駄目だって。そればっかり考えてた。でも、みんなと一緒に戦って、少し変わったよ」
ゆうきは黙って聞く。
「私が守るだけじゃなくて、私も守ってもらってたんだね」
「うん」
「それが分かったから……次はもっと上手くできると思う」
なもが顔を上げる。
穏やかな笑み。
「次に会った時は、もっと頼れる盾役になってるね」
「今でも十分頼りになってたよ」
「ありがとう」
少し照れたように視線が揺れる。
「でも、もっと上手くなりたいから」
「楽しみにしてる」
「うん」
次にももねが一歩前へ出た。
「ゆうきぃ」
「ん?」
「楽しかったねぇ」
それだけだった。
けれど、ゆうきには十分だった。
「うん。楽しかった」
「最初はぁ、二十階層なんてずっと先だと思ってたんだけどねぇ。気づいたら、みんなで一番下まで行ってた」
「途中で一回止まったけどな」
「うん。でも、止まってよかったと思うよぉ」
ももねは少しだけ首を傾ける。
「あのまま行ってたら、たぶん今よりずっと大変だったからぁ。分からないなら調べるって、ちゃんと大事なんだねぇ」
「俺もそう思う」
「次に会った時はぁ、もっと大きいの倒せるようになってるかもねぇ」
「ほどほどにしてくれよ」
「大丈夫だよぉ。おむが先に突っ込まなければ」
「ももね!?」
後ろからおむたろの声が飛ぶ。
ももねは気にせず、小さく笑った。
「またねぇ、ゆうき」
「ああ。またな」
ちゃちゃが前へ出る。
さっきまで話していたのに、今度はなかなか口を開かなかった。
「ちゃま?」
「……うん」
少しだけ俯いてから、顔を上げる。
「ゆうきくん、ちゃんとグローブ使いこなしてね」
「そこ?」
「だって、せっかくみんなで取ったんだもん」
ちゃちゃは少し笑う。
「次に会った時、全然使ってなかったら怒るからね?」
「分かったよ」
「それと、怪我した時はちゃんと治してもらって。アムネさんも回復できるんでしょ?」
「できるよ」
アムネが答える。
「じゃあお願いね。ゆうきくん、困ってる人見つけたら絶対無茶するから」
「何でちゃままで分かってるんだよ」
「一緒にいたら分かるよ」
「そうだね」
なもまで頷く。
「分かるねぇ」
「分かる!」
「全員かよ」
ゆうきは苦笑するしかなかった。
ちゃちゃも笑う。
そのあと、少しだけ声を落とした。
「また一緒にご飯食べようね」
「うん」
「次はちゃまたちが冒険者になってから」
「ああ」
「約束だよ?」
「約束する」
「えへへ。じゃあ、それまでに美味しいお店いっぱい探しとく!」
「結局食べ物なんだな」
「いいじゃん!」
最後に、おむたろが前へ出る。
「ゆうきくん」
「うん」
「手」
右手を差し出された。
ゆうきは一瞬だけ、その手を見る。
握手。
《魂の共鳴》を持つゆうきにとっては、特別な意味を持つ行為でもある。
けれど今は、能力のためではない。
ゆうきも右手を差し出した。
強く握る。
「次に会った時、絶対びっくりするくらい強くなってるから!」
「楽しみにしてる」
「火の槍も使いこなしてるし、もっと速く動けるようになってるし、今度は私がゆうきくんを助けるくらいになってるからね!」
「だったら俺も頑張らないとな」
「うん! 剣も魔法もちゃんと練習してよ。卒業したからって勉強やめちゃ駄目だからね?」
「おむたろに言われるとは思わなかった」
「何それ!」
「でも、分かったよ」
ゆうきは笑う。
「俺も強くなる」
「約束!」
「ああ」
手を離す前に、ゆうきは一つだけ付け加えた。
「だから、おむたろも無茶して一人で突っ込むなよ」
「最後までそれ言う!?」
「大事だからな」
「分かったって! ちゃんとみんなを見る!」
「ならいい」
手を離す。
なも。
ももね。
ちゃま。
一人ずつ、握手を交わした。
能力を借りるためではない。
ただ、また会うための約束として。
最後にゆうきは四人を見た。
「そういえば、パーティ名は?」
四人が同時に止まった。
「……まだ」
おむたろが言う。
「帰ってから考えるんだよ!」
ちゃちゃが続ける。
「ちゃんと四人で決めるからね」
なもが笑う。
「おむちゃん一人には任せないよ」
「なもちゃん!?」
「それがいいと思うよぉ」
「ももねまで!」
最後まで変わらない。
そのことが嬉しかった。
「じゃあ次に会った時、教えてよ」
「任せて!」
おむたろが胸を張る。
「絶対格好いい名前にする!」
「だから一人で決めないでよ!」
ちゃちゃの声が重なり、また笑いが起きる。
アムネが空を見上げた。
「ゆうき。そろそろ行かないと、次の宿場に着く頃には暗くなるよ」
「ああ」
分かっている。
もう行く時間だった。
ゆうきは四人を見る。
言いたいことは、もう十分に言った。
ありがとう。
楽しかった。
また会いたい。
全部、言葉にしなくても伝わっている気がした。
「じゃあ」
ゆうきは笑う。
「またな」
おむたろが真っ先に手を上げた。
「うん! またね、ゆうきくん!」
「またね、ゆうきくん」
なもが穏やかに笑う。
「またねぇ」
ももねもゆっくり手を振った。
「絶対また来てね! アムネさんも!」
「うん。またね」
アムネも手を振る。
ゆうきとアムネは街道へ歩き出した。
一歩。
二歩。
少しずつ、四人との距離が開いていく。
「ゆうきくーん!」
背後からおむたろの声。
振り返る。
四人はまだ門の前にいた。
「次は負けないからねー!」
「何にだよ!」
「全部ー!」
「意味分かんないって!」
声を張って返すと、四人が笑った。
ちゃちゃが両手を大きく振っている。
「焼き菓子、忘れないで食べてねー!」
「分かった!」
「ちゃんと二人で分けてねー!」
「それはアムに言って!」
「ちょっと、ゆうき!」
隣から抗議の声が飛ぶ。
最後まで笑いながら、二人はまた歩き始めた。
◇
しばらく歩くと、ルーメンの街並みは少しずつ遠くなった。
高い城壁。
学院の尖塔。
魔導具店や研究施設の塔。
振り返ればまだ見える。
けれど、門の前にいた四人の姿はもう分からない。
街道に響く足音も、二人分だけになっていた。
「静かになったね」
アムネが言う。
「そうだな」
「寂しい?」
ゆうきは少し考えた。
「寂しいよ」
素直に答える。
「でも、悪い感じじゃない」
「うん」
「四人とも、自分たちでこれからどうするか決めたから」
学院へ残る。
学ぶ。
そして卒業したあと、四人で冒険者になる。
実習のために偶然組まされた仲間ではなく、自分たちで選んだパーティとして。
「良かったね」
アムネが言う。
「ああ」
「ゆうきも?」
「俺?」
「これからやりたいこと、増えたでしょ」
アムネの視線が、ゆうきの右手へ向く。
鞄の中には魔導グローブが入っている。
「まあな」
「剣と魔法?」
「どっちも」
「大変だよ?」
「分かってる」
「一つに絞った方が、たぶん早く強くなれるよ」
アムネの声は、否定するものではなかった。
ただ事実を伝えている。
ゆうきもそれは分かっている。
「それでもいいよ」
「そっか」
「俺、多分一つのことだけを極めるタイプじゃないんだと思う」
剣だけなら、自分より優れた者はいくらでもいる。
魔法も同じだ。
器用に色々できる。
けれど、一つの分野で誰よりも上へ行けるわけではない。
以前なら、それを中途半端だと思っていたかもしれない。
ダンジョンを五人で攻略した今は、少し違う。
「なもちゃんみたいに守ることはできないし、おむたろみたいに槍で一気に入ることもできない。ももちゃんみたいな一撃もないし、ちゃまみたいに回復を任せてもらえるわけでもない」
「うん」
「でも、だからこそ色々できるようになりたい」
前を見る。
街道は遠くまで続いている。
「誰かと一緒に戦った時、その人に足りないところへ入れるくらいには」
《魂の共鳴》。
相手を理解し、繋がり、その技術や魔法を借りる力。
最初は、自分にないものを得るための能力だと思っていた。
今は少し違う。
借りるためには、相手を知らなければならない。
何が得意で。
何が苦手で。
何をしたいのか。
その人を理解しなければ、本当の意味では活かせない。
「俺が全部できる必要はないんだよな」
ゆうきは小さく笑った。
「できる人がやればいい。俺は、その間を繋げればいい」
アムネはしばらく何も言わなかった。
ただ、ゆうきの隣を同じ速度で歩いている。
「ゆうきらしいね」
やがて、そう言った。
「そう?」
「うん」
水色の髪が風に揺れる。
「一人で一番強くなりたいんじゃなくて、一緒にいる人と強くなりたいんでしょ?」
ゆうきは少し考え、それから頷いた。
「多分、それが一番近い」
「じゃあ、うちも手伝うよ」
「魔法?」
「それも」
アムネが笑う。
「うちの知ってることなら教えるし、分からないことなら一緒に調べればいい。せっかく学院で、知らないなら調べろって覚えたんでしょ?」
「そうだな」
「それに、うちだって知らないことはあるからね」
「千年以上生きてても?」
「千年生きたら世界の全部を知れるなら、リリィだって学院なんか作ってないよ」
「確かに」
「世界って、勝手に変わるから」
その言葉だけ、少し静かだった。
長く生きてきたアムネだからこそ知っている変化が、きっといくつもある。
国が生まれる。
滅びる。
人が出会う。
別れる。
知識も常識も、長い時間の中で少しずつ変わっていく。
けれどアムネは、そこから何かを語ろうとはしなかった。
ゆうきも聞かなかった。
必要な時に話してくれればいい。
「じゃあ、まずは魔法の練習から頼む」
「いいよ」
「本当に手加減してくれよ」
「まだ言う?」
「大事だから」
「大丈夫だって。最初は水の基礎からやろうか」
「俺、無属性が得意なんだけど」
「だからこそ。他属性の魔力がどう動くか知っておくと、無属性の制御にも使えるよ」
「なるほど」
「それに《魂の共鳴》で誰かの魔法を借りた時も、属性ごとの違いが分かってた方が扱いやすいでしょ?」
ゆうきは足を止めそうになった。
「……それ、かなり大事じゃない?」
「大事だよ?」
「何で今まで教えてくれなかったの?」
「聞かれなかったから」
「アム」
「なに?」
「そういう大事なことは先に言って」
「……ハハ。ごめんごめん」
まったく悪びれていない。
「じゃあ次の宿場からな」
「うん」
「絶対だぞ」
「分かってるって」
二人は歩き続ける。
やがて太陽が西へ傾き始め、草原の色が少しずつ柔らかくなっていった。
「そういえば」
アムネが言う。
「次、どこ行く?」
「……それなんだけど」
「決めてない?」
「決めてない」
「やっぱり」
「アムは?」
「うちも決めてないよ」
「人のこと言えないじゃん」
「じゃあ一緒に決めようよ」
「どこで?」
「次の宿場」
「結局そこまでは何も決めずに行くのか」
「街道は一本だから大丈夫」
「そういう問題?」
アムネが笑う。
「まず今日泊まるところを決めて、そこで地図を広げようよ。仲間の手掛かりも探したいし、冒険者ギルドがあれば情報も聞けるでしょ」
「それがいいな」
「じゃあ決まり」
世界を救うための目的地でもない。
大きな事件が待っているわけでもない。
まずは、日が沈む前に次の宿場へ行く。
そこで食事をして。
地図を広げて。
明日からどこへ行くかを決める。
旅とは、きっとそういう小さな目的をいくつも繋いでいくものなのだろう。
ゆうきは一度だけ足を止めた。
「ん?」
アムネが数歩先で振り返る。
「どうしたの?」
「ちょっとだけ」
振り返る。
遠くに、魔法都市ルーメンが見えた。
夕日に照らされた城壁。
いくつもの塔。
そして、その中でも高く伸びるアルバフローラ魔法学院の尖塔。
今頃、四人は学院へ戻っているだろう。
もしかしたら、もうパーティ名を考えているかもしれない。
おむたろが格好いい名前を提案して。
ちゃちゃが「それちょっと恥ずかしくない?」と笑って。
なもが困ったように二人を宥めて。
ももねが少し考えてから、全然違う案を出す。
そんな光景が簡単に想像できた。
ゆうきの口元に、小さな笑みが浮かぶ。
「ゆうき?」
「今行く」
ルーメンへ背を向ける。
置いてきたわけではない。
ここで学んだことも。
四人と過ごした時間も。
全部、自分の中に残っている。
魔法について知った。
魔物について知った。
この世界の歴史を少し知った。
知識だけでは足りないことも知った。
仲間と戦うことで、自分一人では見えなかったものを知った。
そして何より。
世界には、自分がまだ知らないことがいくらでもある。
それを知ることができた。
「アム」
「なに?」
「行こう」
「うん」
アムネが隣へ並ぶ。
ゆうきは街道の先へ目を向けた。
遠くで道が緩やかに曲がり、その先は見えなくなっている。
何があるのか。
誰と出会うのか。
まだ分からない。
分からないからこそ、自分の目で見に行けばいい。
ゆうきは歩き出した。
隣にはアムネがいる。
学院へ来る前と同じ、二人の旅。
けれど、あの時とまったく同じ二人ではない。
「ねえ、ゆうき」
「ん?」
「ちゃちゃにもらった焼き菓子、ちょっと食べない?」
「まだ街出たばっかりだぞ」
「歩いたからお腹空いた」
「さっきあれだけ食べただろ」
「甘いものは別じゃない?」
「ちゃまと同じこと言ってる」
「いいじゃん。一個だけ」
「宿場まで取っとこうよ」
「半分なら?」
「何が変わるんだよ」
「じゃあ一口」
「駄目」
「ゆうき、意外と頑固だね」
「アムが我慢できなさすぎるんだよ」
「……ハハ。」
アムネの笑い声が、夕暮れの街道へ流れていく。
その少し後ろで、魔法都市ルーメンに一つ、また一つと夜の灯りがともり始めていた。
ゆうきはもう振り返らなかった。
別れたからではない。
また会えると思っているからだ。
四人には四人の道がある。
自分たちには、自分たちの道がある。
その道がいつか、どこかで交わればいい。
それまでは、それぞれが自分の知らない世界を歩いていく。
夕暮れの風が、二人の背中を静かに押した。
ゆうきとアムネは並んだまま、まだ見えない道の先へ歩いていった。




