第6話 積み重ねた時間
旅立ちから、およそ百四十年が過ぎていた。
その長さを意識することは、ほとんどない。
朝になれば起き、荷物をまとめ、その日に進む道を決める。街へ着けば宿を探し、必要なら冒険者ギルドへ寄り、面白そうな依頼があれば受ける。何もなければ市場を歩き、知らない料理を見つけたアスカが足を止め、見慣れない魔法道具を見つけたサワラが今度は動かなくなる。
同じようなことを繰り返してきたはずなのに、不思議と同じ一日はなかった。
◇
「これ、本当に食べるの?」
サワラは目の前の皿を見ながら、思わず聞いた。
二人がいるのは港町の食堂だった。開け放たれた窓から潮の匂いが入り込み、外では荷車の車輪が石畳を鳴らしている。昼時を少し過ぎた店内には漁を終えたらしい男たちが残っており、奥の厨房からは油の弾ける音が絶えず聞こえていた。
問題は、アスカが注文した料理だった。
大きな皿の中央に、赤黒い殻を持つ海の生き物が丸ごと載っている。何本もの細い脚が腹側から伸び、すでに熱を通されているはずなのに、今にも動き出しそうな見た目をしていた。
「食べるために頼んだんだけど。ほら、周りの人も普通に食べてるよ」
「それは分かるけど、見た目がすごいね」
「こういうのは知らないから面白いんでしょ。里にいたら一生食べなかったかもしれないんだから、サワラも一口くらい食べてみようよ」
アスカは店主から教えられた通りに殻を外し、中の白い身を器用に取り出した。香草の混じった黄色いソースへ絡め、そのまま迷いなく口へ運ぶ。
数回噛んだところで、目がわずかに見開かれた。
「美味しい?」
「思ってたのと全然違う。もっと硬いかと思ったけど柔らかいし、ちょっと甘い。サワラ、これ好きだと思うよ」
「僕の好みまで勝手に決めないでよ」
そう言いながらも、差し出された皿から一切れ取る。
口へ入れてみれば、確かに悪くない。むしろ美味しいと思いながら黙って咀嚼していると、向かい側からアスカが期待するように覗き込んできた。
「どう?」
「……美味しいね」
「ほら」
「その顔やめて。アスカが作ったわけじゃないでしょ」
「僕が頼まなかったらサワラは食べてないんだから、半分くらい僕の手柄でいいと思う」
「それを言うなら、前の街で食べた焼き菓子は僕が見つけたんだけど」
「じゃあ半分ずつ手柄ってことで」
「何の勝負なの、それ」
そんなことを言い合っている間にも、二人の間に置かれた皿から中身がなくなっていく。
旅を始めたばかりの頃は、知らない料理一つでも慎重だった。材料を確認し、食べ方を聞き、周囲の人間が口へ運ぶ様子まで見てから自分たちも手を伸ばしていた。
今ではアスカが先に食べ、問題がなさそうならサワラも続く。反対に、見慣れない薬草や魔力を含む食材が使われていれば、サワラが先に調べる。
どちらが決めたわけでもない。
長い旅を続けるうちに、いつの間にかそうなっていた。
◇
別の国では、山岳地帯を抜ける商隊の護衛依頼を受けた。
街道とは名ばかりの細い道が岩肌に沿って続き、片側には深い谷が口を開けている。馬車が一台通るだけでも慎重さを求められる場所であり、魔物に襲われれば逃げ場はほとんどない。その危険性に見合うだけ、報酬も高く設定されていた。
襲撃があったのは、峠を越える少し前だった。
岩陰から飛び出した魔物が、先頭の馬車へ向かって駆ける。
御者が手綱を引くより早く、サワラは地面を蹴った。
「右、三体!」
アスカの声が飛ぶ。
サワラは数を確認するより先にレイピアを抜き、細い刀身へ魔力を通しながら最も近い一体の進路へ踏み込んだ。突き出した切っ先が急所を正確に貫き、その身体が崩れるより先に、背後から別の魔物が迫る。
振り返る必要はなかった。
風を裂く音が頭上を抜けた直後、迫っていた魔物の身体が横へ大きく弾かれる。
「前は任せたよ!」
「分かった。アスカも馬車から離れすぎないで」
「サワラこそ!」
交わした言葉はそれだけだった。
細かな指示などなくても、サワラが前へ出ればアスカはその死角を見る。アスカが敵を追って大きく位置を変えれば、サワラは空いた場所へ入り、馬車までの進路を塞ぐ。
最初から出来たわけではない。
互いの判断が重なり、かえって動きを邪魔したこともある。反対に、相手へ任せるつもりで生まれた隙を敵に突かれたこともあった。
そのたびに二人で話し、次の戦いでは動きを変えた。それでも噛み合わなければ、また考える。
積み重ねた結果だけが、今の動きに残っていた。
最後の一体が倒れる頃には、馬車には傷一つついていない。
サワラがレイピアについた汚れを払って鞘へ戻すと、少し離れたところからアスカも戻ってきた。周囲へ視線を巡らせ、ほかに敵がいないことを確かめてから肩の力を抜く。
「終わりかな」
「たぶん。もう近くに気配はないよ」
「じゃあ行こう。ここ、景色は綺麗だけど戦うには狭すぎる」
「その感想は僕も同じ」
依頼人たちが礼を言っている間にも、二人の視線は自然と周囲へ向いていた。安全を確認してから馬車の状態を確かめ、それが済めば何事もなかったように先へ進む。
特別な勝利ではない。
長い旅の中には、そんな一日も数え切れないほどあった。
◇
もちろん、いつも上手くいくわけでもなかった。
「だから、僕はあの依頼を受ける必要はないって言ったんだよ」
「受ける必要があるかどうかじゃなくて、困ってる人がいたんだから仕方ないでしょ」
「それで予定が崩れて、補給するはずだった街にも寄れなかった。結果として食料が足りなくなってるんだけど」
「次の村まで一日でしょ。そこまで困ること?」
「一日だからじゃなくて、同じことを何度もするから言ってるの」
雨上がりの街道を歩きながら、二人の声だけが妙にはっきりと響いていた。
きっかけは、小さな依頼だった。
街を出ようとしたところで、近くの村から来た人間が魔物の被害に困っていると知り、アスカが放っておけず引き受けたのだ。
依頼そのものは無事に終わったものの、予想より時間がかかり、予定していた道程は大きくずれてしまった。
「サワラだって、困ってる人を無視したかったわけじゃないでしょ」
「そういう話じゃないよ。受けるなら受けるで、その後の予定を考えてからにしてって言ってるの」
「でも、あの場でそんなことしてたら遅くなってたかもしれないじゃん」
「だったら、せめて僕に相談して。アスカ一人の予定じゃないんだから」
そこでアスカの足が止まった。
サワラも数歩進んだところで立ち止まり、振り返る。
「……分かった。じゃあ次からそうする」
声が明らかに不機嫌だった。
サワラにもまだ苛立ちが残っていたため、それ以上言葉を重ねることはしなかった。
「そうして」
そこから二人の会話は目に見えて減った。
最初の一日は、休憩や出発の時間、魔物の気配、野営場所といった旅に必要なことだけを話した。翌日になっても空気はあまり変わらず、どちらから謝ることもない。
サワラは自分が間違っているとは思っていなかったし、おそらくアスカも同じだったのだろう。
それでも旅は続く。
道が二つに分かれればサワラが地図を開き、アスカは何も言わず隣から覗き込む。魔物が出れば会話が少なくても互いの動きを補い、日が落ちればどちらからともなく野営できる場所を探した。
三日目の夕方、小さな宿場町へ着いた。
サワラが宿の扉を開けると、受付にいた女性が二人を見て尋ねる。
「お二人ですか?」
「はい」
「部屋はどうします?」
サワラは隣を見た。
アスカもこちらを見る。
まだ仲直りはしていない。それでも、答えに迷うほどのことではなかった。
「いつも通りでいいよね」
「うん」
それだけで部屋は決まった。
翌日の昼頃、街道沿いの小さな露店を見つけたアスカが足を止めた。サワラは少し離れた場所で待っていたが、戻ってきたアスカの手には串焼きが二本ある。
「これ」
差し出された一本を見て、サワラは少しだけ眉を上げた。
「……僕の分?」
「二本買ったんだから、そうでしょ」
受け取って一口食べると、思っていたより香辛料が強く、舌に刺激が残った。
「辛いね」
「やっぱり? 僕も思った」
「なんで二本買ったの」
「美味しそうだったから」
思わず、二人とも少しだけ笑った。
それだけで喧嘩が終わったことにはせず、その夜には改めて話をした。サワラは依頼を受けること自体に反対していたわけではないと伝え、アスカも急いでいたとはいえ相談せず決めたことは悪かったと認めた。
最後まで、どちらが正しかったのかは決めなかった。
次からどうするかさえ決めれば、二人の旅にはそれで十分だった。
翌朝、宿を出たアスカはいつものように少し前を歩き、やがて振り返った。
「次の街、何か面白いものあるかな」
「着いてから探せばいいんじゃない?」
「じゃあ市場からね」
「先に宿を取るよ」
「はいはい」
気づけば、いつもの二人に戻っていた。
仲が良いから喧嘩をしないわけではなく、長く一緒にいるから何でも分かり合えるわけでもない。むしろ時間が増えるほど、相手と合わない部分までよく分かるようになる。
それでも、それは別々の道を選ぶ理由にはならなかった。
◇
二人の旅に別の目的が加わったのは、ある街の冒険者ギルドで依頼の報告を終えた時だった。
受付から報酬を受け取り、空いていた席で次の目的地を相談していると、隣の卓から聞き慣れない言葉が聞こえた。
「――あいつ、転生者だって言ってるらしいぞ」
地図の上に置いていたサワラの指が止まる。
向かいに座っていたアスカも顔を上げ、二人の視線が重なった。
隣の冒険者たちは、異なる世界で生きていた記憶を持つ人間について話していた。この世界には存在しない知識を口にするらしく、神の悪戯だと言う者もいれば、嘘つきや珍しい能力持ちだと考える者もいるらしい。
噂の本人がこの街にいるわけではなく、話の出所も曖昧だった。
それでも、二人には聞き流せない。
ギルドを出たあともしばらく無言で大通りを歩き、夕方の人波を避けて静かな路地へ入ったところで、アスカが足を止めた。
「サワラ」
「うん。聞こえてた」
「だよね」
サワラは手にしていた報酬袋を鞄へしまう。
「本当かどうかは分からないよ。あの人たちも直接会ったわけじゃなさそうだったし」
「でも、僕たちがいる」
その一言で、サワラは黙った。
自分たちだけが例外だと思う理由はない。同じ世界から来た人間が二人いるのなら、三人目が存在していてもおかしくはなかった。
「……いるのかな」
アスカが呟く。
誰のことを考えているのか、名前を出されなくても分かった。サワラも同じことを考えていたからだ。
前の世界で使っていたAvvi。
そこには二人以外にも、一緒に笑い、話し、同じ時間を過ごした友人たちがいた。
これまで考えなかったわけではない。ただ、確かめる手段も、この世界へ来ていると考える根拠もなかったため、過去の思い出として二人の間に置いてきた。
しかし、自分たち以外の転生者が本当に存在するのなら、少しだけ話は変わる。
「探してみる?」
アスカが聞いた。
サワラはすぐには答えず、人の流れる大通りへ視線を戻す。
「探すって言っても、名前が同じとは限らないよ。僕たちだって前とまったく同じ生き方をしてるわけじゃないし、この世界は広すぎる」
「それはそうだけど、転生者の噂を集めるくらいならできるでしょ。前の世界にしかない言葉を知ってる人がいたら、それだけでも手掛かりになるし」
「それなら出来るかもね」
「じゃあ決まり」
「旅の目的を全部変えるのは嫌だよ」
先回りして言うと、アスカが目を丸くした。
「僕、そこまで言ってないけど」
「アスカなら言いそうだから」
「僕の扱い、雑になってない?」
「長い付き合いだからね」
「便利な言葉だなあ、それ」
アスカが笑い、サワラも小さく笑い返した。
結局、それで旅の仕方が大きく変わることはなかった。
気になる街があれば行き、珍しい祭りがあると聞けば寄り道する。面白そうな依頼を見つければ受け、そのついでに酒場やギルドで、異世界や転生者、聞き慣れない知識について少しだけ耳を澄ますようになった。
噂を追って別の街まで足を運ぶこともあったが、大半は空振りだった。単なる変わり者だったり、珍しい知識を持つ旅人だったり、伝わる間に話が大きくなっただけということも珍しくない。
それでも落胆して旅をやめることはなかった。
元々、それだけのために歩いているわけではない。
手掛かりがなければ、また次の街へ行けばいい。途中で面白そうな場所を見つければ、そちらへ寄っても構わない。
仲間を探すことは、いつしか二人の旅に加わった、もう一つの理由になっていた。
◇
「ねえ、サワラ。白銀の真祖って知ってる?」
夕食の席で突然そう聞かれ、サワラは持っていた匙を止めた。
「名前だけなら。最近、何度か聞いたね」
二人が滞在していたのは、大きな街道が交わる交易都市だった。
宿の食堂には各地から来た旅人や商人が集まり、頼まなくても様々な噂が耳へ入ってくる。その中で、ここ数日何度か聞いた名前があった。
《白銀の真祖》。
「今日ギルドで聞いた話、また増えてたよ」
「今度は何?」
「人の血を飲まない吸血鬼なんだって。しかも困ってる人がいると、助けることまであるらしいよ」
「吸血鬼の噂としては、かなり変わってるね」
「でしょ?」
アスカは楽しそうに身を乗り出した。
旅を続けていれば、奇妙な噂はいくらでも耳にする。空を泳ぐ魚や一晩で消える街、死者と酒を飲んだ冒険者など、話半分どころか最初から作り話だったものも少なくない。
白銀の真祖についても、最初はその類いだと思っていた。
ただ、この噂だけは妙に広い範囲へ伝わっている。街が変わっても名前を聞き、細かな内容には違いがあっても、白銀の髪を持つ真祖が長い年月を旅しているという部分は共通していた。
「それだけじゃないよ」
アスカが声を少し落とす。
「白耀龍神と戦ったことがあるらしい」
「……龍神と?」
「三日間。ずっと戦って、結局決着がつかなかったんだって」
今度はサワラも匙を置いた。
「それ、本当に?」
「そこは僕に聞かれても分からないよ。でも、同じ話を別の冒険者も知ってた。細かいところは違ったけど、龍神と三日間ってところは一緒」
龍神が単なる強力な魔物とは異なる存在だということくらい、二人も知っている。
そんな存在を相手に三日間戦い続け、それでも決着がつかなかったというのなら、噂をそのまま信じることはできなくても興味は湧いた。
「話が大きくなってる可能性はあるね。でも……少し気になるかな」
「でしょ?」
アスカの表情を見て、サワラは苦笑する。
「会いに行くって言い出さないでよ。居場所も分からないんでしょ」
「まだ言ってないじゃん」
「まだ、なんだ」
「でも、会えるなら会ってみたくない?」
サワラは少し考えた。
吸血鬼、それも真祖と聞けば、普通なら積極的に近づこうとは思わない。
けれど噂が本当なら、その真祖は自分たちより遥かに長い時間を生きている。
旅をしていると、自分たちと人間の時間の違いを感じることがある。以前立ち寄った店へ久しぶりに行けば店主が代替わりしており、昔知り合った人間の冒険者と再会した時には、記憶にある姿よりずっと年を重ねていた。
二人にとっては旅の途中でも、誰かにとっては人生の大部分が過ぎている。
ならば、自分たち以上に長く世界を歩いている者には、この景色がどのように見えているのだろう。
「……話はしてみたいかな」
「やっぱり」
「でも、探し回るほどじゃないよ。どこにいるのかも分からないんだから」
「うん。どこかで会えたら、くらいでいいと思う」
「その時はアスカから話しかけてよ」
「なんで?」
「真祖に最初に声をかける役は譲る」
「そこだけ慎重になるの?」
「慎重で悪いことはないでしょ」
アスカが笑い、二人は止まっていた食事を再開した。
その場で目的地を変えることも、白銀の真祖を探す予定を立てることもなかった。
ただ、この広い世界のどこかに、自分たちよりもずっと長く歩いている者がいる。
いつか会えたら面白そうだ。
その程度の興味だけが、二人の記憶に残った。
◇
それからも季節は巡り、土地も人も変わっていった。
暑い砂漠では昼間の移動を諦め、日が落ちてから歩いた。雪深い土地では、アスカが宿から出た途端に積もった雪へ飛び込み、翌朝には「もう雪はいい」と言い出した。
海辺の国で船に乗った時には、魔力で動く大型船の構造が気になったサワラが甲板から動かなくなり、船員に許可を取って内部まで見せてもらった。ようやく戻ってくると、その間にアスカが港で見つけた料理を一人で食べていたため、文句を言った結果、翌日もう一度同じ店へ行くことになった。
遺跡の調査依頼では、今度はサワラが壁面に残された術式へ夢中になりすぎて、アスカに肩を掴まれて引き剥がされた。
「あと少しだけ見せて」
「その台詞、さっきも聞いたよ。もう日が落ちるから帰る」
「ここの構造だけ確認したら終わるから」
「昨日も同じこと言ってたよね?」
「昨日とは別の場所だから」
「そういう問題じゃないって」
結局、翌日もう一度訪れた。
別の街では、逆にアスカが祭りの屋台を端から回ろうとしてサワラに止められる。
「全部食べる必要ある?」
「ここでしか食べられないかもしれないよ」
「胃袋の大きさは変わらないでしょ」
「二人で分ければ倍いける」
「僕まで数に入れないで」
そう言いながら、結局かなりの数を二人で食べた。
もちろん、楽しいことばかりだったわけではない。
依頼で怪我をしたこともあれば、天候を読み違えて何日も動けなくなったこともある。宿が見つからず雨の中で野営した夜や、転生者の情報を信じて遠くまで足を運び、結局何も得られず帰った日もあった。
アスカが無茶をすればサワラが怒り、サワラが考え込みすぎて動かなくなれば、今度はアスカが急かす。
それでも、旅を続けるかどうかを相談したことは一度もない。
次にどこへ行くのか、どの依頼を受けるのかは話すし、どちらの道を選ぶかで揉めることもある。
けれど、その先にも相手がいることだけは、いつからか確認する必要すらなくなっていた。
◇
高難易度ダンジョンの話を聞いたのは、そんな旅の途中だった。
その街の冒険者ギルドには、入口近くの壁一面に大きな地図が掲げられており、周辺に存在するダンジョンの位置と、おおよその危険度が記されていた。
依頼を探していたアスカが、その前で足を止める。
「サワラ、これ見て」
少し離れた掲示板を確認していたサワラが近づくと、アスカは街からかなり離れた場所に描かれた一つの印を指した。
「ダンジョン?」
「うん。百階層あるんだって」
「百?」
さすがに興味を引かれ、サワラも説明へ目を通した。
そこに記されていたのは、長年にわたって多くの冒険者が攻略へ挑んでいる大規模な高難易度ダンジョンだった。
現在確認されている最高到達地点は八十階層。
それより先については、ほとんど情報がない。
「八十までしか行けてないんだ」
アスカの声が少し弾んでいる。
嫌な予感がして、サワラは隣を見る。
「その顔やめて」
「まだ何も言ってないよ」
「分かるよ。行きたいんでしょ」
「サワラも気になるでしょ?」
「気になるのと、実際に入るのは別の話だよ」
「でも百階層だよ。最後まで行った人がいないんだよ?」
「だから危険なんでしょ」
もっともなことを言ったつもりだったが、アスカは諦める様子もなく説明書きへ視線を戻した。
「八十階層までは情報があるんだよね。最初から何も分からないわけじゃないし、無理なら戻ればいい。最初から絶対に百階層まで行くって決めなくてもいいでしょ」
「そう言って、面白くなったら進むのがアスカなんだけど」
「その時はサワラが止めればいいよ」
「僕を安全装置みたいに使わないで」
そう返しながら、サワラも掲示された情報を読み進める。
危険度は高く、攻略には長い時間を要する可能性がある。それでも、これまで二人が潜ってきたダンジョンとは規模が違った。
未踏の階層に、知られていない魔物。そして、その先に何があるのか誰も知らない。
アスカが惹かれる理由は分かる。
そして、自分も興味がないと言えば嘘になる。
「準備はちゃんとするよ」
アスカが、今度は少し真面目な声で言った。
「食料も装備も確認するし、八十階層までの情報も集める。途中で無理だと思ったら戻る。それならどう?」
「……情報を集めてから決める」
「それ、だいたい行く時の返事だよね」
「まだ決めてない」
「はいはい」
アスカは笑いながら掲示板を離れたが、サワラはもう一度だけ地図に記された印を見た。
百階層あるにもかかわらず、最高到達地点は八十。
そこから先に何が待っているのか。
確かに、気になった。
◇
その日の夜には、宿の部屋いっぱいに資料が広がっていた。
「七十階層を越えたあたりから、記録が急に減るね」
「そこまで行ける人自体が少ないんじゃない? 八十階層へ到達した記録もかなり古いよ」
「補給地点は?」
「途中に安全地帯があるみたい。ただ、深い階層ほど間隔が長くなるって」
「帰還手段も確認しないとね。入ってから戻れませんでした、は笑えないから」
資料へ目を落としていたアスカが、そこで顔を上げた。
「サワラ、ちゃんと行く気になってるじゃん」
「調べてるだけ。行くなら、何を基準に撤退するかまで先に決めておかないと危ないから」
「そういうことにしておくよ」
楽しそうに笑うアスカを横目に、サワラは別の資料へ手を伸ばした。
結局、いつもこうなる。
アスカが知らないものを見つけて興味を持ち、サワラが危険性を考えて情報を調べる。十分に準備できると判断すれば、二人でそこへ向かう。
けれど、アスカについていっているだけではない。
サワラ自身も見たいと思っている。
アスカが見つけたものも、その先に待っている景色も。
そしてアスカも、それを知っていた。
「ねえ、サワラ」
資料を読みながら、アスカが呼ぶ。
「なに?」
「行こうよ。ちゃんと準備して、それでも危ないと思ったら戻る。それでいいでしょ」
今度は、サワラもすぐに答えた。
「うん。準備が終わったらね。ただし八十階層より先は何があるか分からないんだから、普段より慎重に行くよ」
「分かってるって。僕だって死にに行きたいわけじゃないから」
そこで話が終わるかと思ったが、アスカは手にしていた資料を机へ置かなかった。
何かを考えるように少しだけ視線を落とし、それから不意に笑う。
「じゃあさ、このダンジョンを攻略できたら、その次は前に話してた真祖に会いに行こうよ」
突然戻ってきた名前に、サワラは資料から顔を上げた。
「白銀の真祖?」
「そう。龍神と三日間戦ったっていう人」
「どうして急にその話になるの」
「だって、百階層もあるダンジョンを最後まで攻略できるくらい僕たちが強くなったなら、会いに行ってもいい頃だと思わない?」
サワラは一瞬答えに詰まった。
「……真祖に会うのに、強さって必要?」
「絶対に必要とは言わないけど、相手は龍神と三日間戦ったって噂の人だよ。せっかく会うなら、僕たちもそれなりに色んな場所を見て、ちゃんと自分たちの力で歩けるようになってからの方が面白いじゃん」
「面白いかどうかで決めるんだ」
「大事でしょ」
悪びれる様子もなく言われ、サワラは小さく息を吐いた。
以前、白銀の真祖の噂を聞いた時には、どこかで会えたら話してみたいという程度だった。わざわざ探すつもりはなく、旅の目的を変えてまで追いかける理由もない。
けれど、百階層のダンジョンを攻略した先に置く目的として考えると、少しだけ印象が変わる。
「そもそも、どこにいるか分からないよ」
「それは攻略してから探せばいいよ。僕たち、急ぐ旅してないでしょ」
「そうだけど……」
「それに、転生者の噂を探してる途中で情報が見つかるかもしれないし」
アスカはそこで一度言葉を切り、机いっぱいに広げた資料を見る。
「このダンジョンを最後まで行けるくらい実力がついたら、次はもっと広いところを見に行こうよ。その途中で白銀の真祖を探す。会えたら、何を見てきたのか聞いてみたい」
その言葉には、先ほどまでの軽い好奇心だけではないものがあった。
百四十年を旅しても、知らない場所はいくらでも残っている。
自分たちより長く旅をしてきた者なら、二人がまだ知らない世界を知っているかもしれない。
サワラは少し考えてから、机の上に広げた資料へ視線を戻した。
「まずは、このダンジョンから帰ってくることを考えようよ。真祖を探すのは、そのあと」
「それ、行くのは反対してないよね?」
「攻略できたら、でしょ」
「うん」
「だったら、その時に考える」
「じゃあ決まりだね」
「まだ決めてないって」
言いながらも、サワラは否定しきれなかった。
アスカもそれが分かっているのか、満足そうに笑って再び資料へ目を落とす。
二人はそれからも、既知の階層に現れる魔物や安全地帯の位置、必要な食料と装備、持ち込む魔法道具、撤退を判断する条件について一つずつ確認していった。
知らない場所へ向かう前には、いつもこうして準備してきた。
翌日から情報を集め、必要なものを買い揃え、それが終われば街を出る。
きっと今回も同じように、二人で潜り、二人で戻ってくる。
そしてもし、誰も踏破したことのない百階層の先まで辿り着けたなら、その次は白銀の真祖を探して、さらに遠くへ行けばいい。
少なくとも、その夜の二人は疑っていなかった。
百階層のダンジョンも、その先に続いているはずの旅も。
まだ二人で見に行ける、知らない場所の一つなのだと。




