第7話 その先へ
高難易度ダンジョンへの挑戦を始めてから、数年が過ぎていた。
百階層まで続く巨大なダンジョンは、単純に地下へ伸びているだけの場所ではない。十階層を境に環境が大きく切り替わり、同じ場所を下へ進んでいるはずなのに、まるで別の土地へ足を踏み入れたように景色が変わっていく。
最初に二人を迎えたのは、天井があることさえ忘れそうなほど広い草原だった。次の区画へ進めば背の高い木々が光を遮る森となり、その先には切り立った岩壁が続く乾いた大地が待っている。
雪原を歩いたこともあれば、肌を焼く熱気に包まれた火山地帯を進んだこともある。足元を覆う泥に苦労する湿地では、魔物との戦闘以上に移動そのものへ時間を取られた。
環境が変われば、当然ながら現れる魔物も変わる。
草原では群れで獲物を追う獣型が多く、森へ入ればゴブリンやコボルトの上位種に加えて、樹上や茂みを利用して襲撃してくる個体が増えた。岩場ではオークやオーガのように正面から力で押してくる相手が目立ち、寒冷地では雪へ身体を隠す獣や氷への耐性を持つ魔物が行く手を塞ぐ。
さらに深く潜れば、単純に種類が変わるだけでは済まない。同じ系統の魔物でも上位種が増え、群れの中には前衛を務める者、魔法を扱う者、遠距離から狙う者といった明確な役割を持つ個体が混ざり始めるため、それまでなら数だけを警戒すればよかった相手にも、一体ずつ役割を見極めて対処する必要があった。
そして、十階層ごとに待つボスも、深くなるほど強くなる。
攻略者にとって救いだったのは、ボス部屋へ続く区画の手前に地上と接続するポータルが設置されていることだった。一度そこへ到達すれば、ボスへ挑む前に街へ戻って傷を治し、装備や物資を整えることができる。攻略済みの階層なら同じポータルから戻ってこられるため、長大なダンジョンを毎回入口から歩き直す必要もない。
ダンジョンの入口を中心に形成された街には、そうした冒険者を相手にする宿や鍛冶屋、道具屋、治療院が集まっていた。
長期間の攻略を前提として作られた街で過ごすうちに、二人もいつしかその景色の一部になっていた。
◇
「次、右から来るよ」
森の中を走りながら、アスカが前方を見たまま告げる。
サワラは返事をする代わりに身体の向きを変え、正面から迫っていたコボルトナイトの剣をレイピアで受け流した。敵の体勢が横へ崩れたところで深追いせず、その脇をすり抜ける。
直後、背後で短い衝撃音が響いた。
振り返らなくても、アスカが仕留めたことは分かる。
サワラはそのまま右側の茂みへ意識を向けた。葉がわずかに揺れた瞬間に半歩だけ身体をずらすと、飛び出してきたコボルトの刃が鼻先を通り過ぎる。その懐へ滑り込ませたレイピアが急所を貫いたところで、さらに奥から魔力の膨らむ気配が伝わってきた。
「後ろは任せる」
「もう見てるよ」
サワラが前へ踏み込むのと、アスカが射線を変えたのはほぼ同時だった。
木々の間に潜んでいたコボルトメイジが魔法を完成させるより先にアスカの攻撃が届き、集まりかけていた魔力が光の粒となって霧散する。
最後に残った一体が背を向けた。
サワラは追わず、相手の進路から身体を外す。
その動きに合わせるようにアスカの攻撃が横を抜け、逃げようとしていた個体を背後から捉えた。
魔物が地面へ倒れると、それまで枝葉を揺らしていた音も消え、森には少しずつ静けさが戻ってきた。
「終わりかな」
周囲を確認しながらアスカが近づいてくる。
サワラはレイピアについた汚れを払ってから鞘へ戻した。
「近くにはもういないと思う。でも少し休もう。さっきから群れが続いてるから、この先でもすぐ戦闘になるかもしれない」
「賛成。ちょうどお腹も空いてきたし」
「休憩の理由、そっちでしょ」
「半分くらいはね」
木の根元へ腰を下ろしたアスカが荷物を開き、サワラも少し離れた場所へ座る。戦闘が終わった直後だというのに、二人の動きに慌ただしさはなかった。
旅を始めた頃なら、戦いが終わるたびに互いの動きを確認していた。
どこで前へ出るべきだったのか、別の魔法を選ぶべきではなかったのか、次はどちらを任せるのか。そうしたことを一つずつ言葉にし、失敗するたびに修正してきた。
今では、そこまで細かく話すことはない。
相手がどこを見ているのか、何を狙っているのか、どの瞬間に踏み込もうとしているのか。視線や足の向き、呼吸の変化だけで大まかな判断が分かる。
サワラが作った隙へアスカが攻撃を通し、アスカが敵を動かせばサワラがそこへ入る。
相談して決めた型ではなく、長い時間を一緒に歩き、戦い、失敗するたびに互いへ合わせ続けた結果だった。
「サワラ、食べる?」
差し出された干し肉を受け取る。
「食べる。あと水も飲んでおいて。さっきからあんまり飲んでないでしょ」
「見てたの?」
「見なくても分かるよ。水筒がほとんど減ってないから」
「そういうところだけ妙に細かいよね」
「アスカが気にしなさすぎるんだよ」
文句を言いながらも、アスカは素直に水筒へ口をつけた。
休憩が終われば、また歩く。
そんな日々を繰り返しながら、二人は少しずつダンジョンの奥へ進んでいった。
◇
低階層の攻略は、想像していたより順調だった。
事前に集めた情報が多かったことも大きい。地形や出現する魔物、安全に休める場所、十階層ごとに待つボスの特徴まで、過去の攻略者たちが残した記録を実際の状況と照らし合わせながら進めば、大きく予定を崩されることは少なかった。
十階層を攻略すれば街へ戻り、宿で温かい食事を取りながら身体を休め、必要なら装備を修理する。数日かけて次の区画について調べたあと、再びポータルを使って攻略へ戻る。
そうして二十、三十、四十階層と進むにつれて、一度の探索に必要な時間は少しずつ長くなっていった。
中層へ入る頃には、事前情報をそのまま信じることもなくなっていた。記録では安全だった場所に魔物が巣を作っていることもあれば、地形そのものが変化していることもある。
雪原では視界を奪う吹雪の中、雪の下から現れる魔物に何度も進路を変えさせられた。火山地帯では魔物と戦う以前に熱への対策が必要となり、冷却用の魔道具を交代で確認しながら進む。湿地では足場の悪さを利用する魔物が増えたため、サワラが水と風の魔法で進路を作り、その間をアスカが警戒することもあった。
深くなるほど、二人は無理に先へ進まなくなった。
進めるかどうかではなく、何か起きても帰還できるだけの余力が残っているか。それが判断の基準になっていく。
「今日はここまでにしよう。まだ進めるけど、次に何がいるか分からない状態で余力を使う必要はないよ」
サワラがそう言えば、以前ならもう少し先を見たがったアスカも周囲を確認して頷いた。
「分かった。じゃあ休める場所を探そう。明日の朝、まだ余裕があったら続きを見ればいいよ」
反対に、地図を前に考え込みすぎたサワラへ、アスカが荷物を押しつけるように渡してくることもある。
「一回戻ろう。ここで考えてても新しい情報は増えないし、疲れた状態で判断する方が危ないよ」
「でも、もう少し調べれば次の区画まで――」
「その台詞、疲れてる時のサワラがよく言うやつだから。続きは街で考えよう」
そんな時には、サワラも以前ほど反論しなくなった。
どちらかが止めるべきだと判断したなら止まる。
それもまた、二人が長い旅の中で作った決まりだった。
◇
六十五階層で見つけたのは、小さな宝箱だった。
深層へ向かう途中、魔物の群れを避けて迂回した先に、崩れかけた石造りの部屋があった。罠がないことを確認して蓋を開くと、中に入っていたのは武器でも宝石でもなく、掌へ収まるほどの透明な結晶だった。
中心には、白い光が閉じ込められている。
「魔道具?」
覗き込んだアスカへ、サワラはすぐに触れないよう手で制した。
「待って。魔力の密度がおかしいから、先に調べるよ」
慎重に魔力を探ってみると、結晶そのものが力を蓄えているわけではないらしい。内部にはすでに完成した魔法が封じられており、一度発動すれば器ごと失われる構造になっている。
使い捨ての魔法道具だった。
残されていた記録まで読み解き、その効果を知ったところでアスカが目を丸くした。
「《永久凍土》……?」
「うん。範囲内を一気に凍結するみたい。普通の氷魔法とは規模が違うし、僕でも同じことをやれと言われたら難しいと思う」
サワラは結晶を光へ透かした。
内部に閉じ込められた白い輝きは、ほとんど揺らがない。
「使えるの、一回だけなんだよね?」
「たぶんね。発動したら結晶自体が壊れる。こういうものは使う状況が来ないのが一番だけど、持っておいた方がいいと思う」
「じゃあサワラが持ってて。僕よりこういう道具の扱いには慣れてるでしょ」
「分かった。間違えて使わない場所に入れておくよ」
それだけのやり取りで、《永久凍土》はサワラの荷物へ収められた。
強力な道具であることは間違いない。それでも、この時点の二人にとっては数ある探索の成果の一つでしかなく、実際に使わなければならない状況など想像もしていなかった。
◇
八十階層へ辿り着いたのは、攻略を始めてから三年ほど経った頃だった。
七十九階層を抜けると、これまでと同じようにボス部屋へ続く区画へポータルが置かれていた。ここまで到達したことで街との往復手段は確保できたが、その先だけは、それまでの階層とは事情が違っていた。
巨大な扉の向こうから、何かが壁へ叩きつけられるような轟音が響いている。
扉が開いた直後、中から飛び出してきたのは魔物ではなかった。
「下がれ! まだ首が来るぞ!」
怒鳴り声とともに、傷を負った冒険者たちが次々と撤退してくる。仲間に肩を貸されている者もいれば、盾の表面に深い傷が走り、鎧の一部が溶けている者までいた。
サワラは反射的にレイピアへ手を伸ばしたが、前方から来た冒険者がその動きを見て首を振る。
「行くな! 二人で相手に出来るような奴じゃない!」
アスカと視線を交わす。
ここで無理に進む理由はなかった。
二人は負傷者の撤退を手伝い、すぐ近くにあるポータルから一緒に街へ戻った。
そこで初めて、八十階層の主について詳しい情報を得ることになる。
八本の首を持つ巨大なヒュドラ。
過去にも討伐を試みた者はいたが、再生能力と複数の首による同時攻撃を突破できず、誰もその先へ進めていない。
八十階層という数字が長く最高到達地点として残り続けていた理由が、ようやく二人にも分かった。
◇
「二人とも、少しいいか?」
声をかけられたのは、その数日後だった。
冒険者ギルドの奥にある会議室へ案内されると、大きな机を囲んでいたのは、これまで何度もヒュドラへ挑戦してきた冒険者たちだった。
前衛、盾役、治療役、魔法使い。
装備も戦い方も異なる者たちが集まる中、机の中央には八十階層の簡易地図が広げられていた。
「次の討伐に参加してほしい」
「僕たちを?」
アスカが聞き返すと、声をかけてきた男が頷いた。
「ああ。お前たちが七十階層以降でどう戦ってるかは聞いてる。二人だけでここまで来られるなら実力は十分だ。それに、今の編成には最後に押し切るだけの決定力が足りない」
男の指が、地図の中央に描かれたヒュドラを叩く。
「首を落とすだけなら出来る。問題は、その後だ。再生が早すぎる。一つへ火力を集中している間に別の首が動いて前衛を崩し、立て直している間に落とした首まで戻ってくる」
別の冒険者がその説明を引き継いだ。
「だから今回は全部を同時に相手にしない。盾役が正面を引きつけ、左右から別の部隊が残りを散らす。その間に攻撃役が一つずつ確実に潰すつもりだ」
サワラは地図へ目を落とした。
「僕たちに求めているのは?」
「遊撃だ。崩れそうな場所へ入って火力を補ってほしい。下手に場所を固定すると、お前たち二人の連携を殺すことになるからな」
思っていた以上に、こちらの戦い方を調べているらしい。
サワラが隣を見ると、アスカも同じようにこちらを見た。
「どうする?」
「作戦自体は悪くないと思う。ただ、撤退の基準は先に決めておきたい。前衛が完全に崩れた状態で続けるなら、たぶん被害の方が大きくなるよ」
その言葉に、机を囲む何人かが頷いた。
話し合いはそれからもしばらく続いた。誰がどの首を引きつけ、負傷者をどこへ退かせるのか。治療役を守る位置や、再生速度が想定を上回った場合の対応まで、一つずつ確認していく。
完璧な作戦など作れない。
それでも、出来る準備を残すつもりはなかった。
◇
戦いは、最初から作戦通りには進まなかった。
八本の首が一斉に動くだけで、広いはずの岩窟が狭く感じられる。牙が地面を抉って岩を砕き、巨体が方向を変えるたびに振り回される尾が前衛を薙ぎ払う。
盾役が一本を引きつけても、隣の首が別方向から割り込んでくるため、完全に分断することができない。
「右が崩れる!」
誰かの声が響くより早く、サワラは右側へ走っていた。
前衛へ食らいつこうとしていた首の進路へ踏み込み、風を纏わせたレイピアで牙の軌道を逸らす。そのまま身体の横を抜けながら切っ先を眼へ突き込み、ヒュドラが痛みに仰け反った瞬間には横へ跳んだ。
空いた場所へアスカの攻撃が叩き込まれる。
首が横へ弾かれ、崩れかけていた前衛が体勢を整えるだけの時間が生まれた。
「助かった!」
声は聞こえたが、返事をする余裕はない。
左では別の首が魔法使いたちへ向かい、そのさらに奥では盾役が二本を同時に押さえている。
二人の役目は、決まった場所を守ることではなかった。
崩れそうな場所へ入り、足りない攻撃を補い、誰かが作った隙を広げる。二人だけで戦ってきた時とは人数も状況も違うが、長い旅で積み重ねた動きは大人数の戦場でも変わらなかった。
それでも、ヒュドラの再生は想定以上だった。
首を落としても、切断面を焼き切るまでの僅かな遅れで肉が盛り上がる。一本へ攻撃を集中させれば別の首が暴れ、前衛の一人が吹き飛ばされて盾を砕かれた。
魔法使いにも負傷者が出た。
治療役の負担が増え、前衛の人数も少しずつ減っていく。
それでも冒険者たちは無意味に前へ出ようとはしなかった。傷を負った者を残った者が守り、空いた場所には別の者が入り、どうにか戦線を維持する。
だが、時間をかければ不利になるのはこちらだった。
「サワラ!」
離れた場所からアスカの声が飛んできた。
サワラも同じことを考えていた。
このまま一本ずつ処理していても、こちらが先に消耗する。
ならば、ヒュドラそのものを動けなくする時間を作るしかない。
サワラは大きく後方へ跳び、レイピアを地面へ突き立てた。
呼吸を整える。
次の瞬間、その身体を覆っていた魔力の性質が変わった。
輪郭が揺らぐ。
身体つきが細く変化し、伸びた黒髪が肩から背へ流れ落ちる。男性として戦っていた肉体から、精霊との親和性を最も高く引き出せる女性の身体へ。
《双生境界》。
視界が切り替わった瞬間、先ほどまでより遥かに鮮明な魔力の流れが世界へ浮かび上がった。
アスカは振り返らない。
サワラが何をしようとしているのかを察したのか、迫ってきた首へ聖炎を撃ち込みながら声を張った。
「時間いる?」
「少しだけ! 動きを止めたら、一気にお願い!」
「分かった!」
それだけで十分だった。
サワラは両手を広げ、岩窟全体へ意識を伸ばす。
空気の流れ。
地面の奥に残る水分。
岩の隙間を抜ける微かな風。
人の目には映らない精霊たちの気配が、女性体となったサワラの感覚へ次々と触れてくる。
普段の戦闘で扱う規模では足りない。
必要なのは、八本の首だけではなく巨大な胴体までまとめて拘束できる術式だった。
「――力を貸して」
呼びかけに応じ、周囲の魔力が一斉に動いた。
サワラを中心に幾重もの術式が空中へ展開し、淡い光の輪が岩窟の床から天井まで広がっていく。
「なんだ、あれ……!」
近くにいた魔法使いが思わず声を漏らした。
精霊魔法の大術式。
床の亀裂から太い蔦が噴き出し、ヒュドラの四肢へ絡みつく。それだけではない。風が八本の首へまとわりついて動きを押し戻し、水が巨大な帯となって胴を締め上げ、さらに地面そのものが盛り上がって巨体の足を呑み込んでいく。
ヒュドラが吠えた。
八本の首が別々の方向へ暴れ、蔦を引き千切ろうとする。
「っ……!」
サワラの腕が震えた。
一つの術式で抑えられる相手ではない。
だから、いくつもの精霊魔法を重ねて止める。
蔦が千切れれば次を伸ばし、風を破られれば流れを組み直す。水の拘束を首へ移し、地面から伸びた岩を巨体へ食い込ませる。
完全に封じる必要はない。
ほんの僅かでいい。
アスカが撃てる時間さえ作れればいい。
「アスカ、今!」
「待ってた!」
声が返った瞬間、岩窟の空気が変わった。
熱い。
そう認識した時には、アスカの周囲へ白金に近い炎が生まれていた。
普通の炎とは明らかに違う。
揺らめきながら広がるのではなく、アスカの意思へ従うように一点へ集まり、周囲の魔力まで巻き込みながら急速に密度を増していく。
聖炎。
その光に気づいたヒュドラが八本の首を一斉にアスカへ向けようとした。
だが、動かない。
「行かせない……!」
サワラが術式へさらに魔力を流し込む。
地面が軋み、絡みついた蔦が次々と裂けていく。それでも精霊たちは拘束を解かず、巨体をその場へ縫い止め続けた。
アスカの頭上で膨れ上がった聖炎が、一つの巨大な光となる。
「全員、離れて!」
前衛たちが一斉に退いた。
直後、アスカが腕を振り下ろす。
白金の炎が走った。
最初に呑み込まれた首が見えなくなり、続いて二本、三本と巨大な炎の中へ消えていく。轟音とともに熱風が岩窟を駆け抜け、退避した冒険者たちが顔を腕で庇った。
ヒュドラの咆哮さえ、炎の音に掻き消される。
サワラは術式を維持したまま歯を食いしばった。
逃がさない。
再生させない。
ここで終わらせる。
聖炎は八本の首をまとめて焼き払い、そのまま巨大な胴体まで呑み込んだ。
数秒だったのか、それ以上だったのか分からない。
やがて炎が薄れ始めた時、サワラはようやく術式を解除した。
光の輪が崩れ、精霊たちの気配が離れていく。
黒く焼けた巨体が大きく傾いた。
誰も動かなかった。
地面へ落ちた瞬間、岩窟全体が震える。
それでも全員が武器を構えたまま待った。
再生は始まらない。
首も動かない。
しばらくして、最前列にいた冒険者が慎重に近づき、焼けた身体を確認した。
「……死んでる」
小さな声だった。
次の瞬間、張り詰めていた空気が一気に崩れた。
「やった……!」
「倒したぞ!」
「八十階層を抜いた!」
あちこちから声が上がる。
サワラは大きく息を吐き、女性体のままその場へ膝をついた。
すぐにアスカが近づいてくる。
「サワラ、大丈夫?」
「魔力を使いすぎただけ。少し休めば平気だよ。アスカは?」
「僕も結構使ったけど大丈夫。それより、怪我してる人たちを手伝おう」
「うん。でも少しだけ肩貸して」
「はいはい。そう言うと思った」
差し出された手を取り、サワラは立ち上がった。
戦場には負傷者がいる。
喜ぶのは、そのあとでよかった。
◇
八十階層の攻略は、街そのものを沸かせた。
長く止まっていた最高到達地点が、ついに更新されたのだ。
討伐に参加した者たちの中には長期間の治療が必要な負傷者もいたが、幸い命を落とした者はいなかった。数日が経ち、歩ける者が増えてくると、酒場には自然と討伐隊の面々が集まるようになった。
二人も、その夜は半ば強引に連れてこられていた。
「いや、だからあれは本当におかしかったって!」
酒の入った木杯を片手に、前衛を務めていた男が何度目か分からない話を繰り返している。
「ヒュドラが動かなくなったんだぞ? 八本全部だ! こっちは一本止めるだけでも盾を三枚割られたってのに!」
「僕一人で止めたわけじゃないよ。精霊にかなり無理をお願いしたから」
すでに男性体へ戻っていたサワラが訂正しても、男の興奮は収まらない。
「それを出来るのがすげえって言ってんだよ!」
「俺はその後の方が驚いたぞ!」
別の卓から魔法使いが割り込んできた。
指を向けられたアスカが、食べていた料理から顔を上げる。
「僕?」
「お前以外に誰がいるんだよ! あの聖炎、何なんだ!? ヒュドラをまとめて焼き切る火力なんて聞いてねえぞ!」
「聞かれてないから言ってないだけだけど」
「そういう問題じゃねえ!」
周囲から笑い声が上がった。
盾役の男まで木杯を置き、呆れたように首を振る。
「最後、目の前が真っ白になったからな。死んだかと思ったぞ」
「離れてって言ったでしょ」
「離れたよ! 離れてあれだったんだよ!」
「ちゃんと当てないようにしたんだけどなあ」
「当たったら困るんだよ!」
今度はさらに大きな笑いが起こった。
サワラはその様子を眺めながら、目の前の飲み物へ口をつける。
討伐直後には誰も喜ぶ余裕などなかった。
負傷者を運び、治療を手伝い、装備や人数を確認して街へ戻った。こうして笑いながら振り返れるのは、全員が生きて帰ってきたからだ。
「でも、本当に助かった」
向かいに座っていた盾役が、今度は少し落ち着いた声で言った。
「あのまま続いてたら、たぶん撤退してた。お前たちがいなかったら八十階層は越えられなかったと思う」
サワラは少し考えてから首を振った。
「僕たちだけでも無理だったよ。止めている間にほかの首が動いていたら術式を維持できなかったし、アスカもあれだけの魔法を準備する時間は作れなかった。全員で戦ったから出来たんだと思う」
「そういうことにしといてやるよ」
「そういうことなんだけど」
隣ではアスカが楽しそうに笑っている。
「でも、サワラ。あれだけ大きい術式を実戦で使ったの、久しぶりじゃない?」
「だから疲れたんだよ。アスカも聖炎をあそこまで一気に使ったの久しぶりでしょ」
「まあね。でも気持ちよかったよ。一回くらい、あれだけ大きい相手に思い切り撃ってみたかったし」
「そういうこと言うから止める役が必要になるんだよ」
「ちゃんと止めてくれたじゃん」
「ヒュドラをね。アスカを止めたわけじゃないよ」
また周囲から笑いが起こる。
その夜は、随分遅くまで騒ぎが続いた。
そしてヒュドラ討伐の報酬として、二人の手元へ渡ったものの一つが、《カシオペア》と呼ばれる魔道具だった。
特殊な魔道具であることは分かるものの、その能力のすべてをすぐ理解できたわけではない。
宿へ戻ったあと、机に置かれたそれを見ながらアスカが笑った。
「また調べるもの増えたね」
「嬉しそうに言わないでよ。アスカはどうせ僕に任せるでしょ」
「だってサワラ、こういうの好きじゃん」
「好きだけど、それと押しつけられるのは別だからね」
「じゃあ僕も一緒に調べるよ。途中で寝ても怒らないでね」
「最初から寝るつもりなら手伝わなくていいよ」
そんな会話をしながら、サワラは《カシオペア》を布で包んだ。
八十階層を越えたことで、次に目指すのは九十階層となる。
そこから先には、攻略記録がほとんど存在しない。
二人はこれまで以上に時間をかけ、未知の領域へ入る準備を始めた。
◇
八十階層を越えてから、二人の進み方は明らかに変わった。
詳細な地図もなければ、出現する魔物についての情報もほとんどない。どこに安全地帯があり、どの道が次の階層へ繋がっているのかさえ、自分たちで確かめる必要があった。
以前なら遠くに見慣れない魔物を見つけた時、戦って特徴を確かめることもあったが、今は避けられるなら避ける。戦闘になった場合も、最初から力で押し切るのではなく、動きや属性、仲間を呼ぶ性質があるか、傷を負った時にどのような行動を取るかまで観察するようになった。
「左の個体、さっきからこっちを見てない」
岩陰へ身を伏せながら、アスカが囁く。
前方には大型の魔物が三体いる。
サワラも視線だけを動かした。
「たぶん探知役だね。先に倒すなら、あれからにした方がいい」
「僕がやる?」
「いや、最初は僕が近づく。反応したらアスカが止めて」
「分かった」
それ以上は話さず、サワラが動くのに合わせてアスカも位置を変える。
予想が外れることもあった。
そんな時でも互いの失敗を責めるより先に状況を立て直し、生きて情報を持ち帰ることを優先した。
安全を確保できる場所を見つければ、そこで休む。
携帯用の灯りを絞り、サワラがレイピアの手入れをしている横で、アスカが食事を作る。
「今日の三体目、ちょっと焦ったね。倒したと思ったら普通に立ち上がってきたし」
「あれは僕も驚いたよ。次から同じ種類を見つけたら、倒したあとに核が残ってないか確認した方がいいね」
「了解。あと明日はもう少し早めに休もうよ。今日、結構歩いたでしょ」
「そうだね。次に安全な場所を見つけたら、そこで一回長めに休もう」
食事を終えれば、交代で周囲を警戒しながら眠る。
朝になれば、また進む。
九十階層のボスを越えた頃には、二人とも疲労を隠さなくなっていた。
街へ戻る回数も増え、一度帰還すればすぐに再出発することはない。宿で数日眠って身体を休め、装備を修理し、サワラが集めた記録を整理している間にアスカが不足した物資を買い足す。
宿の部屋で地図を広げながら、次の探索について相談する時間も長くなった。
「ここ、まだ見てないよね」
「東側は行ってない。あの時は魔物が多すぎて避けたから」
「次はそっちから回る?」
「うん。ただ、九十三階層で見つけた痕跡が気になる。あれと同じものがあったら近づかないで、一度止まろう」
「分かった。サワラも一人で確認しに行かないでよ」
「行かないよ」
「前にやったじゃん」
「あれは近かったから」
「距離の問題じゃないんだよなあ」
サワラは反論しかけたものの、思い直して口を閉じた。
「……次から声かけるよ」
「よろしく」
そこで話は終わる。
身体が回復し、準備が整えば、二人は再び同じポータルを潜って未知の階層へ戻っていった。
◇
攻略開始から五年ほどが過ぎた頃。
二人は九十五階層付近まで到達していた。
九十階層より先は、それまで以上に静かな場所だった。
魔物が少ないわけではない。むしろ一体ごとの危険度は明らかに上がっているが、群れを作るものが減り、広い空間の中に強力な個体がそれぞれ縄張りを持つようになっていた。
そのため、何も起こらない時間が長く続いたかと思えば、次の瞬間にはそれまでの階層とは比べものにならない戦闘が始まる。
自然と、歩く速度も遅くなっていた。
「止まって」
先を歩いていたサワラが片手を上げると、アスカはすぐに足を止めた。
「何かいる?」
「分からない。魔物の気配じゃないんだけど……あそこを見て」
サワラが示した通路の壁には、黒ずんだ傷が残っていた。
アスカが一歩近づこうとしたため、腕を伸ばして止める。
「触らないで」
「触らないよ。見るだけ」
二人は距離を保ったまま傷を確認した。
刃物によって付いたものではない。壁の一部が内側から抉られたように欠け、その周囲だけ魔力の残滓が不自然に乱れている。
「これ、魔法?」
「分からない。少なくとも僕が知ってる痕跡とは違うね」
サワラはしゃがみ込み、今度は床へ視線を移した。
細かな石の破片が散っているが、風化したものだけではなく比較的新しいものも混じっている。
「先に何かいると思う?」
「いる可能性は考えておいた方がいい」
「戻る?」
すぐには答えず、自分たちの状態を確認する。
疲労はあるが、撤退を選ぶほどではない。装備にも問題はなく、物資にも余裕が残っている。
「もう少しだけ進もう。ただし、同じ痕跡が増えるようならそこで戻る。何が付けた傷なのか分からない以上、無理に正体を見る必要はないよ」
「了解」
二人は再び歩き始めた。
しかし、進むほど壁に残された傷は増えていく。
大きさも深さも一定ではなく、何か巨大なものが暴れながら通った跡にも見えた。
やがて通路の先に、これまでとは異なる巨大な両開きの扉が現れる。
表面には複雑な模様が刻まれていたが、その一部が外側へ向かって不自然に歪んでいた。
「宝物殿かな」
アスカが声を抑える。
「たぶん。でも、これまで見てきたものとは少し違う」
サワラは扉の前で立ち止まった。
階層の途中で宝物殿を見つけたことは、これまでにもある。罠が仕掛けられていたものもあれば、守護者が配置されていたものもあった。
だが、目の前の扉から感じる違和感はそれとは異なる。
本来は閉じていたものを、内側から何かが無理やり押し開いたように見える。
「アスカ」
「うん。僕も変だと思う」
アスカはすでに武器へ手を伸ばしていた。
サワラもレイピアを抜く。
「中を見るなら、すぐ戻れるようにしておこう。何かいたとしても、最初から戦おうとしないで一度距離を取るよ」
「分かった。僕が後ろを見る」
二人はゆっくりと扉の隙間へ近づいた。
中は暗い。
サワラが小さな光を浮かべると、淡い明かりが床を照らしながら少しずつ奥へ伸びていく。
散乱した宝箱と砕けた石材。
そして壁には、通路で見たものと同じ傷が無数に刻まれていた。
サワラの足が止まる。
「……おかしい」
「何が?」
「この傷、新しいよ。魔力の残滓がまだ消えてない」
長く放置されていた部屋ではない。
何かがここにいるか、少なくとも、つい最近までここにいた。
サワラは呼吸を浅くし、周囲へ感覚を広げた。
その瞬間、部屋の空気が震えた。
音ではない。
巨大な魔力そのものが、暗闇の奥で動いた。
「アスカ、下がって」
言葉が終わるより早く、アスカも後ろへ退いていた。
二人の視線が暗闇へ向く。
最初に光の中へ現れたのは、太く湾曲した二本の角だった。
続いて床へ巨大な影が落ち、何かがゆっくりと立ち上がる。
人に似た輪郭を持ちながら、その大きさは人間とは比較にならない。頭部は牛に似ており、身体は異様なほど発達した筋肉に覆われ、立ち上がっただけで天井へ届きそうな巨体だった。
ミノタウロス。
名前だけなら、二人も知っている。
これまでにも戦ったことがある魔物だった。
それでも、目の前にいるものまで同じ名前で呼んでいいのか、サワラには一瞬判断できなかった。
身体の大きさだけではない。
内包している魔力量も、周囲へ与える圧力も、これまで遭遇した個体とは明らかに異なっている。
巨体が一歩踏み出すと、床が低く鳴った。
暗闇の中で、その眼が二人を捉える。
サワラはレイピアを構えたまま、隣を見ることはしなかった。それでも、アスカも同じ異質さを感じ取っていることだけは分かる。
これは、この階層に普通に存在している魔物ではない。
巨大なミノタウロスがゆっくりと二人へ身体を向けた瞬間、それまで部屋の奥に沈んでいた魔力が一気に膨れ上がった。
突然変異した、ユニーク個体。
これまで二人が積み重ねてきた経験だけでは測れない存在が、目の前で初めて動き出した。




