第8話 後悔
轟音とともに黒い雷が床を走った。
サワラは反射的に身体を横へ投げる。直後、つい先ほどまで立っていた場所へ黒雷が落ち、石床が内側から弾け飛んだ。砕けた石片が頬を掠め、遅れて焦げた臭いが鼻を刺す。
体勢を立て直しながら視線を巡らせると、部屋の入口が黒く明滅していた。
開いた扉そのものは見えている。しかし、そこへ至る数メートルを無数の雷が這い回り、壁から壁へ不規則な放電を繰り返している。宝物庫へ入った時にはなかったものだ。
「……戻れそう?」
少し離れた場所から、弓を構えたアスカの声が飛んでくる。
サワラは床を走る雷の軌道を追ったものの、規則性らしいものを見つけられず、すぐに首を横へ振った。
「無理。あれを抜けようとしたら背中を向ける時間が長すぎるし、たぶん入口へ着く前に追いつかれる」
「だよね。じゃあ、やるしかないか」
アスカは困ったように笑った。
口調だけならいつもと変わらないが、その指はすでに次の矢を番えている。
その向こうで、宝物庫の奥にいた巨大な影がゆっくりと身体を起こした。
初めて部屋へ足を踏み入れた時から、そこにいた存在。
十メートル近い巨体は、立ち上がるだけで空間そのものを狭く感じさせる。牛頭を思わせる頭部から伸びた二本の角は不自然なほど大きく捻れ、盛り上がった肩から腕へ続く筋肉は岩の塊にも見えた。黒い体表には血管のような雷光が走り、呼吸に合わせて明滅を繰り返している。
右手には鈍い白金色の巨大斧、左手には赤みを帯びた金属光を放つもう一本の斧。
どちらも、サワラの身体など刃の幅だけで覆い隠せそうな大きさだった。
扉の奥に見つけた時から、普通のミノタウロスではないことだけは分かっていた。
だが、実際にこうして相対してみれば、その異質さは見た目だけではない。
九十階層を越えてから遭遇したどの魔物とも違う。これほど特徴的な個体について、ここへ来るまで一度も情報を耳にしていないことも不自然だった。
サワラは相手から視線を外さないまま、腰の収納袋へ片手を伸ばした。
「アスカ。少しだけお願い」
「了解」
それだけで十分だった。
アスカが最初の矢を放つ。狙いは眼球。巨体が斧を上げた瞬間には二本目が喉元へ向かっていたが、魔力をまとって風を裂いた二本の矢を、魔物は右手の斧を僅かに傾けるだけでまとめて弾き落とした。
その動きに合わせ、アスカはすでに横へ走っている。
攻撃を通すことが目的ではない。サワラから注意を外すための射撃だ。
その時間を使い、サワラは収納袋から薄い板状の道具を取り出した。中央に埋め込まれた透明な石へ魔力を流すと、内部に淡い文字が浮かび上がる。
残りの使用回数は少ない。
それでも、出し惜しみをしていい相手ではなかった。
走りながら表示を読み取る。
最初に現れたのは種族名ではなく、個体そのものを示す固有名だった。
――《バフォメット》。
属性は闇、雷。
続いて表示された情報へ目を通したところで、サワラは眉を寄せた。
「アスカ、右がオリハルコン。左はヒヒイロカネ」
「……そっちまで特別製なんだ。随分と豪華だね」
「拾って帰りたいなら、先に持ち主をどうにかして」
「そうする」
軽口を交わしている間にも、バフォメットは止まらない。
巨体が踏み込んだ瞬間、床が沈んだのではないかと錯覚するほどの衝撃が足元から突き上げ、右手の斧がアスカ目掛けて振り下ろされる。
アスカは後方ではなく、あえて前へ出た。
巨大な武器ほど、刃先から内側へ潜り込めば軌道を限定できる。しかし、それが通用するのは、相手の身体が武器の動きについてこなければの話だった。
斧を振り下ろした勢いを殺さないまま、バフォメットの肩が回る。
「アスカ!」
「わかってる!」
続けざまに左の斧が横薙ぎに振るわれた。
アスカが身体を低くすると、頭上すれすれを巨大な刃が通過し、その風圧だけで白灰色の髪が激しく乱れる。
サワラは、その瞬間に距離を詰めた。
レイピアの切っ先へ風を収束させ、バフォメットの左膝へ突き込む。
硬質な衝撃が刃から腕へ跳ね返り、握った手首が痺れた。それでも体表は僅かに裂けている。
通らないわけではない。
そう判断したサワラは深追いせず、すぐにレイピアを引き抜いた。
入れ替わるようにアスカが脇を抜ける。弓はすでに背へ戻され、抜いたレイピアの切っ先がサワラの作った小さな傷へ正確に重なった。
一度目で傷を広げ、二度目はさらに深く。
三度目まで続けようとしたところで、バフォメットの膝が勢いよく跳ね上がった。
二人は左右へ分かれ、その間を巨大な脚が通り抜ける。
「硬いなあ」
「でも、通らないわけじゃない」
「なら、いつも通り?」
「うん。無理に決めようとしないで、少しずつ削ろう」
それは、これまで何度も繰り返してきたやり方だった。
一撃で倒せないなら崩し、硬いなら同じ場所を狙う。相手が大きいなら、その巨体ゆえに生まれる死角や動きの遅れを利用すればいい。
長い時を外で過ごし、数え切れないほどの魔物と戦ってきた。初めて見る相手への警戒はあっても、未知であるという理由だけで足が止まることはない。
アスカが距離を取り、弓へ持ち替えて三本の矢を同時に番える。それを見たサワラは反対側へ回り込んだ。
狙う場所を告げる必要はない。
三本の矢が僅かに軌道を変えながら、顔、肩、右手首へ向かう。
バフォメットが顔を庇った瞬間、サワラは傷をつけた左膝へ再び踏み込み、レイピアを突き出すと同時に水を細く圧縮した。
針のような水流が傷口へ潜り込み、内部で弾ける。
巨体が初めて明確に傾いた。
「グォォォォォッ!」
咆哮が空気を震わせ、耳の奥へ痛みが突き刺さる。
サワラはそれを無視して後方へ跳んだ。
直後、左右の斧が同時に床へ叩きつけられ、衝撃点から黒雷が放射状に広がる。
「上!」
アスカの声に反応し、サワラは床を蹴る。
風を足場のように重ねて身体を浮かせると、黒雷が真下を駆け抜けていった。同じように跳躍していたアスカは空中で弓を引き、雷をまとった黒い体表へ火を宿した矢を撃ち込む。
爆ぜた炎が一瞬だけ視界を赤く染める。
二人はほぼ同時に着地すると、間を置かず別方向へ走った。
サワラは呼吸を整えながら相手を観察する。
これまでのミノタウロスとは比べものにならない速度と膂力を持ち、何より頑丈だったが、それでも攻撃が届かないわけではない。左膝の傷は確実に深くなり、右肩には矢が何本か刺さっている。そのうち一本はかなり深い。
黒雷ですべてを防げているわけでもなかった。
問題があるとすれば、こちらが一度でもまともな攻撃を受ければ、それだけで戦況が決まりかねないことだった。
バフォメットがアスカへ身体を向け、右斧を持ち上げる。
それでも弓を構えたまま動かない。
その意図を察したサワラはすぐに駆けた。
斧が振り下ろされる直前、後ろから矢が放たれた。光をまとった一射が一直線に飛び、バフォメットの右目へ深く突き刺さった。
巨体が仰け反り、振り下ろされるはずだった斧の軌道が僅かに外れる。
その隙にサワラは懐へ潜り込み、レイピアを握ったまま意識を自分自身へ向けた。
境界を越える。
慣れた感覚とともに身体の重心が変化し、肩幅が狭まり、視線の高さが僅かに落ちる。筋肉へ力を込めた時の感触も、魔力が身体を巡る経路も切り替わっていった。
長い旅の中で何度も使ってきた変化だ。
アスカは振り返りもしない。
サワラはレイピアを床へ突き立て、空いた両手を前へ伸ばした。
部屋に残る僅かな自然の気配へ意識を広げる。石の隙間に潜む水気を拾い、流れ込む空気を捉え、目には映らない精霊たちへ自身の魔力を重ねていく。
呼びかけに応えるように、周囲の魔力が動いた。
床から噴き上がった水が幾重にも絡み合い、バフォメットの傷ついた左脚へ巻きつく。さらに風が水の束へ加わることで流れが激しく捻れ、巨体を締め上げながら一瞬だけ動きを封じた。
「アスカ!」
「任せて!」
返事とほぼ同時に熱が膨れ上がった。
アスカの周囲へ集まったのは、ただの炎ではない。
白を含んだ眩い火が構えた弓と一本の矢を包み込み、急速に密度を増していく。
狙いは、すでに傷ついている右目でも、サワラが拘束している左脚でもない。
胸部。
アスカが弦を放す。
白い炎をまとった矢が一直線に宝物庫を貫き、胸部へ着弾した瞬間、《聖炎》が轟音とともに爆ぜた。
熱風がサワラの頬を打ち、拘束していた水の半分が一瞬で蒸発する。
白い蒸気の向こうで、バフォメットが一歩、さらにもう一歩と後退した。
巨体の胸部は黒く焼け焦げ、その中央には明確な傷が残っている。
「効いてる!」
「見れば分かるよ」
「そこは素直に喜ぼうよ」
「倒してからね」
「はいはい」
アスカの声を聞きながら、サワラは再び身体を切り替えた。
男性体へ戻ると同時に、筋肉へ力を込めた時の感覚も戻ってくる。女性体で大きく広げた魔力の余韻はまだ身体に残っているものの、現時点では動きへ影響するほどではない。
床からレイピアを引き抜き、再び駆ける。
胸を焼かれたことで、バフォメットの動きが変わった。
先ほどまでの攻撃には、侵入者を排除しようとする単純さがあった。しかし今は、残された左目が明確に二人の動きを追っている。右目を潰されても首の向きを細かく変え、互いの位置を捉えようとしていた。
サワラが左膝を狙って踏み込む。
だが、バフォメットは斧を振らず、傷ついた左脚を後方へ引いた。
「――っ」
狙っていた場所が遠ざかる。
直後、右斧が床を擦るように振るわれた。
サワラはレイピアを斜めに当てる。ただし受け止めるつもりはない。刃へ風をまとわせ、巨大な斧の軌道をほんの僅かに逸らす。
それでも伝わった衝撃は凄まじかった。
腕が痺れ、身体が浮き上がる。
着地を選ぶ余裕などなく、空中で身を捻って肩から床へ落ち、そのまま数度転がった。
「サワラ!」
「平気!」
すぐに身体を起こして返したものの、レイピアを握る右手は震えていた。
直接受け止めたわけではない。それでも腕へこれだけの衝撃が残っている以上、まともに食らえば、防御魔法を挟んだところで無事では済まない。
追撃しようとしたバフォメットの横顔へ、アスカの矢が連続して突き刺さる。
三本までは届いたが、四本目だけは黒雷に弾かれた。
その僅かな間にサワラは距離を取り、呼吸を整えながら痺れる右手を何度か開閉する。
「まだいける?」
アスカが隣へ滑り込んできた。
「いける。右は少し痺れてるけど動くよ」
「じゃあ次、僕が前に出る。少し休ませて」
「分かった。でも前に出すぎないでよ」
「それ、僕に言う?」
「アスカ以外に誰がいるの」
一瞬だけ視線が重なった。
それで十分だった。
アスカが弓を背へ戻してレイピアを抜き、今度は前衛へ出る。サワラは少し距離を取り、役割を入れ替えた。
アスカの剣が閃き、バフォメットの斧がそれを追う。
真正面から見れば無謀にしか見えない距離で、アスカは巨体の周囲を走り続けた。斧が振り下ろされるたびに紙一重で避け、時にはレイピアで刃の側面を叩いて僅かに軌道を変える。
その隙をサワラが遠距離から狙った。
風の刃が右肩を裂き、水弾が左膝の傷をさらに穿つ。
バフォメットがサワラへ意識を向ければアスカが切り込み、アスカを追えばサワラが魔法で削る。
急いで仕留めようとはしない。
一度の攻撃で欲張らず、小さな傷を確実に積み重ねる。
どれほど戦い続けていたのか、やがてサワラにも分からなくなった。
数分なのか、それ以上なのか。
腕は重くなり、呼吸も浅くなっている。アスカの額にも汗が浮かび始めていたが、それ以上にバフォメットへ刻まれた傷の方が増えていた。
左膝の動きは明らかに鈍くなり、右目は完全に潰れている。胸の火傷も浅くはなく、右肩からは黒い血が流れ続けていた。
――いける。
そう判断したのは楽観ではなかった。
このまま同じ戦いを続けられるなら、勝てる。
少なくともサワラには、そう見えていた。
バフォメットの右斧が振り下ろされ、アスカが横へ避ける。
床へ深く刺さった斧を引き抜くまでの僅かな時間に、サワラは左膝へ水弾を撃ち込んだ。傷口へ直撃したことで巨体が傾き、そこへアスカが踏み込む。
レイピアが胸部の傷へ深く突き刺さった。
「グォォォォォッ!」
咆哮が響く。
アスカは追撃せず、すぐに距離を取った。
その判断も正しかった。
だからこそ、直後に起きた変化へ二人とも反応が僅かに遅れた。
バフォメットの身体から、黒い血とは異なる赤い光が滲み出した。
炎ではない。
かといって、これまで纏っていた魔力とも違う。
濁った赤い輝きが巨体の輪郭を包み込み、黒い体表を這うように広がっていく。
「サワラ」
「見えてる。近づかないで」
二人はほぼ同時に距離を取った。
赤い光は止まらない。
やがて全身を走っていた黒雷にまで赤が混ざり始め――。
バチンッ!!!
空気を引き裂くような激しい破裂音が宝物庫全体へ轟いた。
赤黒い雷がバフォメットの全身から一斉に噴き上がり、天井と壁へ無数の稲妻となって叩きつけられる。閃光の直後には石材が弾け飛び、床へ落ちた一条の雷だけで大きな亀裂が走った。
それまで身体の表面を這っていた黒雷とは、明らかに規模が違う。
サワラは腕で顔を庇いながら、一歩だけ後方へ退いた。
飛び散った石片の向こうで、バフォメットがゆっくりと顔を上げる。
残された左目が、赤く光っていた。
「……嫌な感じだね」
「うん。傷がどうなってるか確認するまでは動かないで」
サワラはレイピアを構え直し、相手の状態を見極める。
傷が治ったわけではない。
左膝も胸部も損傷したままで、右目も潰れている。それにもかかわらず、全身から放たれる圧力だけが先ほどまでとは比較にならないほど膨れ上がっていた。
次の瞬間。
バフォメットの姿が視界から消えた。
「――え?」
違う。
消えたのではない。
速すぎた。
そう理解した時には、十メートル近い巨体がすでにアスカの目前まで迫っている。
右斧が横薙ぎに振るわれた。
アスカはレイピアを捨てるように手放し、全力で後方へ跳ぶ。
巨大な刃が胸元を掠め、服が裂けて血が散った。
傷自体は浅い。
だが、回避したはずのアスカの身体は斧が生んだ衝撃だけで数メートルも吹き飛ばされた。
「アスカ!」
サワラは咄嗟に風を放つ。
狙ったのはバフォメットではない。飛ばされたアスカの背後へ風を回し、壁へ激突する直前に勢いを弱める。
その一瞬で、バフォメットの左目がサワラへ向いた。
先ほどまでとは別物だった。
傷ついた左脚さえ意に介さず、床を蹴る。
サワラは即座に《双生境界》を使い、女性体へ切り替えた。
広がった魔力感覚で精霊へ働きかけようとした瞬間、赤黒い雷が正面から迫る。
水の壁を作り、その表面へ風を重ねた。
だが、雷は防御を正面から貫いた。
視界が白く染まり、腕へ焼けるような痛みが走る。
サワラは歯を食いしばりながら横へ逃れた。
直後、先ほどまで頭があった場所へ巨大な斧が落ち、石床が爆発したように砕け散る。飛び散る破片を完全には避けきれず、頬と肩へ細かな傷が増えた。
後方から炎が飛ぶ。
バフォメットの背中で爆発した。
振り向かなくても誰が撃ったのかは分かる。
アスカは立っていた。
胸元から血は流れているが、まだ動ける。
「サワラ、合わせて!」
「分かった!」
考えるより早く身体が動いた。
サワラは女性体のまま魔力を広げる。
先ほどよりも深く、宝物庫全体へ届かせるように。
石の隙間から水気が集まり、風が渦を巻く。それらを幾重にも重ねてバフォメットの脚へ絡ませるが、先ほどのようには止まらない。
赤黒い雷が水を弾き、拘束を強引に引き千切っていく。
それでも、ほんの一瞬だけ右腕の動きが止まった。
その一瞬をアスカは逃さない。
白い《聖炎》が胸部へ直撃し、傷ついた場所を再び焼く。
バフォメットの巨体が後退した。
しかし、倒れない。
「駄目か……!」
息を吐くアスカへ、サワラは相手から目を離さないまま答える。
「傷は増えてる。効いてはいるよ」
「でも、先にこっちが保たなくなりそうだ」
その言葉を、サワラも否定できなかった。
強化前なら時間をかければ勝てた。
今は違う。
単純に速度だけが上がったのではない。傷を無視して動き続ける膂力も、赤黒く変質した雷の威力も、二本の斧を振る速度も、それまでとは数段階違っている。
しかも入口はいまだ雷で塞がれたままだ。
アスカを連れて突破できるような隙はない。
逃げられないのなら、倒すしかない。
その結論だけは変わらなかった。
「アスカ。もう一度胸を狙う。僕が止めるから、できるだけ大きいのをお願い」
「できるだけって、雑だなあ」
「細かく言ってる余裕ないでしょ」
「それもそうだね」
アスカが笑った。
息は乱れている。それでも、その笑い方はいつもと変わらない。
サワラは前を向き直り、《双生境界》を維持したままさらに魔力を広げた。
長く止める必要はない。
アスカが撃つまで。
その時間だけ作ればいい。
周囲の水気が一気に集まり、そこへ風が絡みつく。
幾重にも束ねた流れがバフォメットの四肢へ巻きついた。
直後、赤黒い雷が激しく弾ける。
一本目の拘束が切れ、続いて二本目も引き千切られる。三本目が耐えている間にサワラはさらに術式を重ね、切れた場所へ新しい拘束を差し込んだ。
頭の奥に鋭い痛みが走り、視界の端が僅かに揺れる。
それでも止めない。
アスカの周囲には、すでに白い炎が集まり始めている。
先ほどより大きい。
距離のあるサワラの肌へ届くほど、熱が急激に膨れ上がっていく。
あと少し。
そう思った瞬間、バフォメットが左腕を強引に引いた。
拘束全体が軋み、サワラは即座に追加の魔力を流し込む。
「まだ……!」
次の瞬間、赤黒い雷が全身から爆発するように噴き上がった。
水と風を重ねた拘束が一気に消し飛ぶ。
自由になった巨体が動いた。
その時だけ、サワラの目には相手の動きが妙にゆっくりと見えた。
バフォメットはアスカへ向かわない。
大きく踏み込みながら右腕を引いている。
斧が通る軌道も、その先に誰がいるのかも分かった。
自分だ。
避けなければならない。
頭では理解し、身体にも命令した。
だが、広げすぎた魔力と拘束が強制的に破壊された反動で、踏み出そうとした足がほんの一瞬だけ遅れる。
斧が来る。
このままでは間に合わない。
そう理解したサワラの視界へ、白灰色の髪が入り込んだ。
「――アスカ?」
鈍い衝撃音が響いた。
一瞬だけ、何が起きたのか理解できなかった。
目の前にはアスカの身体がある。
サワラとの間へ割り込んだその身体を、バフォメットの巨大な斧が深く捉えていた。
アスカの周囲へ集まっていた白い炎が弾ける。
まだ放たれていなかった《聖炎》は形を失い、無数の光となって空気へ消えていった。
遅れて血が飛ぶ。
頬へ触れた温かさに、サワラの思考がようやく現実へ追いついた。
アスカの身体が宙へ投げ出される。
「アスカ!」
サワラは床を蹴った。
落下する身体へ腕を伸ばし、どうにか受け止める。
だが勢いまでは殺しきれない。
二人はそのまま床を転がった。
腕の中で、アスカが小さく息を吐く。
あまりにも弱い。
「アスカ。ねえ、アスカ」
「……聞こえてる」
返事があった。
その声を聞いた瞬間だけ胸の奥が緩んだが、傷を見た途端、その感覚は消え去った。
深い。
致命傷だ。
治療魔法を使えるかどうかという話ではない。
今すぐ治療だけに専念したとしても、間に合う保証がない。
まして、ここにはバフォメットがいる。
視線を上げる。
巨体がゆっくりとこちらを向き、赤黒い雷が身体を這っていた。
立ち上がらなければならない。
戦わなければ、次の攻撃が来る。
だが、バフォメットと戦っている間にもアスカの血は流れ続ける。
戦えば、アスカが死ぬ。
サワラは一度だけ呼吸を止め、入口へ目を向けた。
今も雷が道を塞いでいる。
自分一人なら可能性はあるかもしれない。しかし、致命傷を負ったアスカを抱えた状態であの放電を突破することはできない。
なら、ここで治療するのか。
バフォメットを目の前にして?
それも無理だ。
先に倒すとして、あとどれほどかかる。
何分なのか。
あるいは何十秒なのか。
それすら分からない。
そして、その時間をアスカの身体が待ってくれる保証はどこにもなかった。
「……サワラ」
腕の中から声が聞こえた。
顔を下げると、アスカが薄く目を開いている。何かを言おうと唇が動いた。
「喋らないで」
「いや……でも」
「いいから。今、考えてる」
声が震えそうになる。
それを押し込めた。
考えなければならない。
何かあるはずだ。
これまで手に入れてきたもの。旅の途中で買ったもの。ダンジョンで拾い、使い道が難しいまま収納していたもの。
一つずつ頭の中で辿っていく。
やがて、サワラの意識が一つの道具へ行き着いた。
使える。
そう考えた直後、自分で否定する。
違う。
治せるわけではない。
それでも――。
あれなら、止められる。
バフォメットが近づいてくる。
一歩ごとに床が揺れ、考えるための時間を削っていく。
もう迷っている余裕はない。
サワラはアスカの身体をできるだけ揺らさないよう、ゆっくりと床へ寝かせた。
「少しだけ待ってて」
「……何する気?」
「死なせない」
それ以上は言わなかった。
収納へ手を伸ばし、取り出したのは六十五階層で手に入れた小さな魔法具だった。
一度しか使えない神話級の道具。
手に入れてから一度も使わず、使わなければならない場面など来ない方がいいと思っていたもの。
サワラはその中心へ指を置き、魔力を流した。
刻まれていた術式が白く輝き始める。
正面ではバフォメットが踏み込み、右斧を持ち上げていた。
それでもサワラは動かなかった。
視線だけを前へ向ける。
「――《永久凍土》」
世界から音が消えた。
最初に白く染まったのは、サワラの足元だった。
薄い霜が石床を覆ったかと思えば、次の瞬間には凄まじい勢いで四方へ広がっていく。砕けた石も、戦闘中に散った血も、床へ転がっていた矢も、区別なく白の中へ沈んだ。
冷気は風よりも速く宝物庫を駆け抜ける。
振り上げられた斧を下ろそうとしていたバフォメットの足元へ到達すると、まず足首を覆い、膝から腰、胸へと一気に這い上がった。
二本の巨大斧まで分厚い氷へ呑み込まれる。
赤黒い雷が激しく弾けた。
バフォメットは拘束を砕こうと全身から雷を噴き上げるが、《永久凍土》は止まらない。
雷ごと凍りつかせるように白が巨体を覆い、肩を越え、首へ達する。
最後まで残っていた左目だけがサワラを睨んでいた。
それさえ、透明な氷の奥へ閉じ込められた。
宝物庫へ静寂が戻る。
サワラはすぐに振り返った。
《永久凍土》は敵だけを選んではくれない。
アスカの身体にも白い霜が広がっていた。
指先から腕へ、腕から肩へと氷が伸び、白灰色の髪までゆっくりと覆っていく。傷口から流れ続けていた血さえ、床へ落ちる途中で動きを失っていた。
「……サワラ」
かすかな声が届く。
サワラはすぐにそばへ膝をついた。
「大丈夫。ここで終わりにはしないから」
自分でも驚くほど、普通の声が出た。
アスカの目が僅かに細くなる。
笑ったのかもしれない。
それを確かめるより早く、氷が頬から唇へ広がり、鼻を越え、最後に目元まで覆った。
アスカはもう何も言わなかった。
透明な氷の奥で、その姿が完全に止まる。
サワラは手を伸ばしかけた。
けれど、途中で止める。
まだ終わっていない。
《永久凍土》だけでは足りない。
この凍結がどれほど保つのか分からず、バフォメットが内側から破壊する可能性もある。何より、アスカの傷そのものが消えたわけではない。
凍らせただけだ。
だから、もう一つ必要になる。
サワラは収納から別の魔法具を取り出した。
星を繋いだような形をした、カシオペアを模した古い魔法具。
これも普段なら使おうとは思わない。
必要とする魔力量があまりにも大きいからだ。
けれど今は、そんなことを考えている場合ではなかった。
サワラは立ち上がり、宝物庫の中央へ向かう。
一歩進むたびに身体が重い。
すでに戦闘で大量の魔力を消費し、《双生境界》を繰り返した負担も身体に残っている。
それでも魔法具を強く握った。
凍りついたバフォメット。
氷の奥にいるアスカ。
入口を塞いでいた赤黒い雷も、今は白い氷の中で止まっている。
ここだ。
この部屋そのものを止める。
サワラは残された魔力を《カシオペア》へ流し込んだ。
魔法具が淡く輝く。
しかし、まだ足りない。
さらに注ぎ込むと、身体の内側から何かが抜け落ちていくような感覚が広がった。指先が冷え、膝が震え始めても、サワラは魔力を送り続ける。
やがて魔法具の光が一つずつ灯り、星と星を繋ぐように細い線が伸びていった。
すべてが繋がり、完全な星座の形を描いた瞬間、宝物庫の空気が変わった。
凍結とは違う。
寒さでもない。
もっと静かな何かが、空間そのものへ染み込んでいく。
サワラの髪を揺らしていた微かな風が止まり、宙を漂っていた細かな氷片もその場で動きを失った。床を転がりかけていた小石さえ完全に静止し、光まで閉じ込められたように、部屋の中からあらゆる変化が消えていく。
時間が止まる。
サワラは意識を集中させ、術式の境界を確認した。
宝物庫全体が入っている。
アスカも。
バフォメットも。
これでいい。
これならアスカの傷はこれ以上進まない。血も流れず、心臓も終わりへ向かうことはない。
治ったわけではない。
助けられたわけでもない。
それでも、死なせずに済む。
少なくとも、自分がもう一度ここへ戻ってくるための時間は作れる。
《カシオペア》から光が消えた。
術式は完成している。
サワラは大きく息を吐いた途端、足から力が抜け、その場へ膝をついた。片手を床についてどうにか身体を支える。
冷たい。
呼吸は荒く、魔力を使いすぎたせいで吐き気まで込み上げてくる。
それでも顔を上げた。
氷の中に、アスカがいる。
ほんの少し前まで話していた。
いつも通り弓を引き、笑いながらくだらないことを言って、自分の隣で動いていた。
サワラはゆっくりと立ち上がった。
足元がおぼつかない。それでも一歩ずつ進み、アスカのそばまで歩いていく。
透明な氷へ手を伸ばす。
今度は止めなかった。
冷たい表面へ掌を置く。
「……待ってて」
返事はない。
分かっている。
時間が止まっているのだから、返ってくるはずがない。
「方法を探してくる。傷をどうにかして、それからこいつも倒せるようにするから、それまでここで待ってて」
聞こえるのは自分の声だけだった。
いつもなら何か返ってくる。
真面目な話をしていても、アスカは少しだけ余計なことを言う。心配すれば笑い、サワラが考え込めば横から覗き込んでくる。
放っておいてほしい時ほど近くにいるくせに、何も言わなくていい時には本当に何も言わず隣を歩いていた。
けれど今は、何も返ってこない。
サワラは氷へ置いていた手をゆっくり離した。
ここで座り込んでいても、アスカの傷は治らない。
必要なのは、あの致命傷を治療する方法。
そして封印を解いた瞬間、同じように動き始めるバフォメットを確実に倒すための力だ。
自分一人では足りない。
それだけは、もう分かっていた。
サワラは宝物庫の外へ続く道へ身体を向けた。
九十階層まで戻れば、地上へ帰還するためのポータルがある。
まず、そこまで戻る。
地上へ出て、方法を探す。
どれほど時間がかかったとしても、必要なものを揃え、必ずもう一度ここへ戻ってくる。
数歩進んだところで、サワラの足が止まった。
振り返る。
氷の向こうにアスカがいる。
三百年以上、振り返ればそこにいることが当たり前だった。
里にいた頃も、名前を得た日も、外の世界へ出た日も変わらない。知らない街で迷った時も、何日も続く長い道を歩いた時も、気づけばいつも隣にいた。
いつからそうなったのかなど、考えたことすらない。
だから、ここから一人で歩き出すということが、まだ現実のものとして上手く理解できなかった。
サワラは僅かに口を開いた。
「……行ってくる」
何も返ってこない。
その静けさを背中に残し、サワラは一人で宝物庫を出た。




