第9話 ひとり
宝物庫を出てから、サワラは一度も振り返らなかった。
振り返ったところで、アスカが追いかけてくるわけではない。それは分かっているからこそ足を止めず、薄暗い通路を一人で歩き続けた。
九十五階層まで降りてきたときには気にも留めなかった足音が、今は妙にはっきりと石壁へ反響している。
一人分しかない。
その事実から意識を逸らすように、サワラは右手を前へ向けた。
残っている魔力は少ない。
《永久凍土》に続いて時間封印まで行った身体は、空になった器へ無理やり薄い水を張ったような状態だった。普段なら何の負担にもならない魔法でさえ、今は使うたびに身体の奥が重くなる。
それでも、何もせず歩くわけにはいかない。
サワラは風を細く通路へ流し、曲がり角や分岐の先にある気配だけを拾っていく。広く探れば魔力を消耗するため、必要なのは進路上に何かいるかどうかだけだった。
かなり先で、風の流れが複数の何かに遮られた。
サワラは足を止めて目を閉じ、戻ってくる感触を確かめる。こちらへ向かってくる様子はないが、進行方向の通路を塞ぐように留まっていた。
正面を抜ける必要はない。
この辺りの道は覚えている。
少し戻って脇道へ入り、遠回りになる経路を選んだところで、ふと聞き慣れた声が頭の中へ浮かんだ。
『こっち、遠回りじゃない?』
『戦うより早いよ』
『僕は戦った方が早いと思うけどなあ』
『怪我したらもっと遅くなるでしょ』
何度も似たようなやり取りをした。
思い出そうとしたわけではない。ただ同じように道を選んだだけで、アスカの声が勝手に蘇った。
サワラは何も答えず、そのまま歩き続ける。
やがて細い通路の途中に、小さな横穴が見えた。
壁際には黒く焦げた跡が残っている。
九十五階層へ向かう途中、二人で休んだ場所だった。ダンジョン内で火を使うのは目立つから最低限にしようと言ったのに、アスカは冷たい保存食ばかりでは嫌だと言って、小さな鍋まで取り出した。
結局、自分も食べた。
味は悪くなかった。
横穴の前で歩調が僅かに鈍る。
けれど、休むなら別の場所にする。
今は、あそこへ座りたくなかった。
サワラは風を先へ流し、何もいないことだけを確かめて通り過ぎた。
九十階層より下まで戻るだけなら、来た道を辿ればいい。
問題は、その道の長さだった。
往路ではアスカと交代しながら警戒し、どちらかが疲れれば片方が周囲を見ることもできた。今は探知も判断も休息の管理も、すべて自分一人で行わなければならない。
それ以上に、身体そのものが限界へ近づいていた。
足は重く、右腕にはバフォメットの斧を逸らした時の痺れが残っている。細かな傷は数え切れず、服にこびりついた血も乾き始めていた。
頬に残ったものだけは、自分の血ではない。
サワラはそこへ触れないまま歩いた。
魔物の気配を感じれば道を変え、狭い場所では足音を殺し、どうしても身体が動かなくなれば安全を確認して短い休息を取る。
途中、一度だけ壁際の窪みへ腰を下ろした。
水を口に含んでから収納へ手を入れると、保存食が妙に多く見えた。
二人で食べるつもりだった量だ。
分けて持っていたわけではない。いつも同じ場所から適当に取り出していた。それなのに、今は一人で食べるには多すぎるように感じる。
「……食べないと」
誰に言うでもなく呟き、一口だけ齧った。
味はほとんど分からなかったが、それでも噛んで飲み込む。美味しいかどうかではなく、ここから地上まで身体を動かすために必要だった。
少し休んでから立ち上がる。
まだ歩ける。
それなら十分だった。
帰路の大半で、サワラは徹底して戦闘を避けた。
来た時に危険の少なかった道を思い出し、必要な時だけ風を流す。魔物がいれば遠回りし、近づいてくる気配があれば物陰へ身を隠した。
普段なら倒して進んだ方が早い相手であっても、今は違う。
魔力だけではない。
一度剣を振るうだけでも、失う体力が惜しかった。
そうしてどれほど歩いたのか。
九十階層まで、残り二つの階層を越えればいいところまで戻った頃だった。
狭い通路の先へ風を流したサワラは、すぐに足を止めた。
一体。
正面から近づいてくる。
左右を確認するが、逃げ込める横道はない。後ろへ戻れば大きく迂回できるものの、先ほど通過した分岐まで戻るだけでも相当な距離があった。
それだけなら、戻ることを選んでいた。
しかし、背後からも微かな気配が近づいている。
「……最悪」
小さく吐き出した直後、正面の暗がりから四足の魔物が姿を現した。
岩のような灰色の外皮に覆われた獣型の魔物だった。肩までの高さだけでもサワラの胸元近くまであり、太い前脚の先から湾曲した爪が伸びている。
以前にも戦ったことがある。
今の自分でも、本来なら苦戦する相手ではない。
――今の自分でなければ。
魔物が低く唸り、床を蹴った。
サワラはレイピアを抜きながら横へ踏み込む。
振り下ろされた前脚を避け、すれ違いざまに首元へ刃を走らせた。しかし、普段ならもっと深く入るはずの一撃が硬い外皮の表面を浅く裂いただけで止まる。
「……っ」
腕に力が入らない。
魔物が身体を捻り、そのまま尾を振るった。
サワラはレイピアを立てて受け流そうとしたが、衝撃を殺しきれず、身体ごと壁へ叩きつけられた。
背中から肺の空気が押し出される。
「かはっ……!」
崩れそうになる膝へ力を入れ、どうにか立ったまま踏みとどまった。
ここで倒れるわけにはいかない。
魔物が再びこちらへ向き直る。
サワラは一度だけ深く息を吸い、残っている魔力を探った。
少ない。
分かっていたことなのに、実際に意識を向けると笑いたくなるほど残っていなかった。
《双生境界》を使う余裕もない。
切り替えれば戦いやすくなるかもしれないが、その後に動けなくなる可能性の方が高かった。
なら、このまま倒すしかない。
魔物が突進してくる。
サワラは真正面から待った。
距離が縮まる。
十メートル。
五メートル。
あと少し。
牙が見える距離まで引きつけた瞬間、サワラは残された魔力を右手へ集め、床へ向けて一気に放った。
風が石床を這う。
大きな術ではない。
普段なら意識する必要さえないほど小さな風だった。
それでも狙う場所は一つでいい。
突進する魔物の前脚、その着地点だけを横から払う。
踏み込むはずだった脚が僅かに流れ、巨体の均衡が崩れた。
サワラは横へ逃げなかった。
逆に一歩、前へ出る。
倒れ込んでくる魔物の頭部を紙一重で避け、その首元へ身体ごと潜り込んだ。
先ほど自分でつけた傷が見える。
レイピアを両手で握った。
「これで……!」
腕だけでは足りない。
踏み込んだ脚も、腰も、肩も使う。
残っている力をすべて切っ先へ乗せるように、傷口へレイピアを突き込んだ。
硬い外皮を抜けた瞬間、手応えが変わる。
それでも止めず、さらに深く押し込む。
魔物が絶叫した。
暴れた前脚が肩を掠め、服と皮膚をまとめて裂く。熱い痛みが走ったが、サワラは剣から手を離さなかった。
ここで離せば、もう一度戦う力は残っていない。
「……倒れて!」
最後に残っていた魔力を刃へ流し込む。
圧縮した風が傷の内側で弾けた。
魔物の身体が大きく痙攣し、そのままサワラの横を抜けるように床へ倒れ込む。
石床が震えた。
サワラはレイピアを引き抜きながら数歩よろめき、壁へ手をつく。
「はっ……はぁ……」
息が続かない。
指先も震えている。
倒した。
そう理解しても、達成感などなかった。
ただ道が開いた。
それだけだった。
その時、通路の奥から小さな音が聞こえた。
カツ、と硬い何かが石を叩く。
続いて、もう一つ。
サワラは顔を上げた。
先ほどの絶叫。
倒れた巨体が床を揺らした音。
風を爆ぜさせた音。
静かな階層では、十分すぎるほど響いたはずだ。
背後から感じていた気配とは別に、遠くから複数の足音が近づいてくる。
「……休んでる暇、ないか」
素材を剥ぎ取ることも、倒した魔物を確認することもしなかった。
レイピアについた血だけを一度振って落とし、鞘へ戻す。
すぐにその場を離れた。
走れるほどの力は残っていない。それでも可能な限り歩幅を広げ、最初の分岐を曲がる。
背後で獣の鳴き声が響いた。
何かが死体へ群がったのか、それともこちらの匂いを追っているのかは分からない。
確かめる必要もなかった。
次の角を曲がり、さらに進む。
途中で足がもつれそうになっても止まらず、壁へ手をついて身体を押し出した。
戦った場所から十分に距離を取る。
今はそれだけを考えた。
やがて背後の物音が遠ざかり、完全に聞こえなくなったところで、サワラはようやく歩調を落とした。
胸へ手を当てる。
心臓が痛いほど速く脈打っている。
「……ほんと、空っぽだな」
声に出してみても、苦笑する余裕さえなかった。
それでも進める。
まだ足は動く。
だから、歩いた。
それから先は、階層の数を一つずつ意識することさえやめた。
来た道の記憶を頼りに、危険を感じれば避け、安全を確認できる場所だけを選んで進む。長く感じた帰路も、残された目的を一つに絞ればやることは単純だった。
九十階層まで戻る。
地上へ出る。
アスカを助ける方法を探す。
それだけを繰り返し頭の中で確かめながら歩き続け、やがて見覚えのある広間へ出た。
壁には、細長い傷が二本残っている。
アスカのレイピアでつけた目印だった。
以前ここを通ったとき、道を間違えないようにとアスカが壁へ傷をつけた。サワラは、そんなことをしなくても自分が覚えていると言った。
『サワラは覚えてても、僕が忘れるかもしれないでしょ』
『だったら僕に聞けばいいじゃん』
『じゃあサワラが忘れたら?』
『アスカよりは覚えてるよ』
『そういうとこだぞ』
そのときは、何がおかしいのか分からなかった。
今も完全には分からない。
ただ、その傷のおかげで迷わず進める。
サワラは二本の線を指先でなぞり、そのまま通り過ぎた。
少し先で、空気が変わった。
覚えている。
九十階層へ続く道だ。
ここまで来れば、あと少しだった。
そこで初めて歩調が速くなる。
帰りたいわけではない。
むしろ、地上へ戻ることが怖かった。
ここを出れば、一人で戻ったという事実を認めなければならない。それでも戻らなければ何も始まらず、アスカを救う方法もこの場所にはない。
階段を上り切った先に、淡い光が見えた。
九十階層。
ボス部屋の手前にある、地上へ戻るためのポータルだった。
以前、二人でここを通り過ぎた。
九十一階層へ向かう前、アスカが振り返って笑っていた。
『帰りたくなったらここまで戻ればいいんだから、気楽に行こうよ』
サワラは、その時に自分が何と返したのか覚えていない。
たぶん、いつものように適当な返事をした。
帰りたくなったら。
今は帰りたいわけではない。
戻らなければならないだけだ。
サワラは静かに揺れるポータルの前へ立った。
二人でここまで来た。
長い時間をかけて、このダンジョンを降りてきた。
それなのに、戻るのは一人だった。
一度だけ目を閉じ、深く息を吸う。
そして、サワラは光の中へ足を踏み入れた。
浮遊感は一瞬だった。
次に足の裏へ硬い地面の感触が戻ったとき、頭上には青い空が広がっていた。
雲が流れ、風が頬を撫でて黒い髪を揺らす。土や草、少し離れた場所で焚かれている火の匂いが混ざり、ダンジョンの中にはなかった人の生活を感じさせた。
サワラはしばらく空を見上げた。
あまりにも普通だった。
自分たちがダンジョンへ入った日と何も変わっていないように、風は吹き、鳥が飛んでいる。入口の近くでは兵士が交代の準備をし、少し離れた場所では冒険者たちが装備を確認していた。
誰かの笑い声が聞こえる。
荷物を積んだ馬車が道を通っていく。
世界は、何も止まっていなかった。
「おい、大丈夫か?」
声をかけられ、サワラはゆっくりと視線を戻した。
入口を守っていた兵士だった。
最初にこのダンジョンへ挑み始めた頃から、何度か顔を合わせている。
「随分ひどい格好だな。治療は受けられるか? 必要ならすぐ人を――」
そこまで言った兵士が、ふと口を閉じた。
視線がサワラの後ろへ向く。
ポータルからは、誰も出てこない。
兵士はもう一度サワラを見た。
「……もう一人は?」
答えようとして口を開いた。
けれど、声が出なかった。
何と言えばいいのか分からない。
死んでいない。
けれど、ここにはいない。
生きていると言っていいのかさえ、今のサワラには分からなかった。
助けたわけではない。
置いてきた。
――違う。
置いてくるしかなかった。
言葉を探しているうちに喉が狭くなり、サワラは俯いた。
兵士はそれ以上聞かなかった。
「……分かった。街まで行けるか?」
サワラは小さく頷く。
「無理はするなよ。顔色もよくない。途中で倒れそうなら、ここで休んでいけ」
もう一度だけ頷いた。
礼を言わなければと思ったが、やはり声にはならなかった。
サワラは歩き出した。
街へ続く道を、一人で。
宿へ戻るまでの記憶は、途切れ途切れだった。
門を通り、誰かに声をかけられ、宿の主人から鍵を受け取った。どう返事をしたのかは覚えていない。
階段を上がって扉を開けたところで、ようやく知っている場所へ戻ってきたのだと分かった。
二人で使っていた部屋だった。
二つのベッドと机、椅子。窓際にはアスカが置いたままの小さな荷物があり、壁には予備の弓具、机の端には途中まで読んでいた本が残されている。
何も変わっていない。
ダンジョンへ出かける前のままだった。
サワラは扉を閉めて鍵をかける。
荷物を下ろそうとしたが指に力が入らず、そのまま床へ落ちた。
拾う気にはなれなかった。
ベッドまで、ほんの数歩。
そこへ辿り着いたところで身体は完全に限界を迎え、サワラは倒れ込むように横になった。
靴も脱いでいない。
傷の手当ても、着替えもしていない。
それでも身体はもう何一つ言うことを聞かなかった。
視界が暗くなっていく。
最後に聞こえたのは、窓の外から届く街の喧騒だった。
誰かの笑い声と、遠くで鳴る鐘の音。
それらが少しずつ遠ざかり、眠っている間だけは何も考えなかった。
夢も見なかった。
どれほど眠っていたのか分からない。
目を開けたとき、部屋は暗かった。
窓の外には月が浮かんでいる。
身体も頭も重く、サワラは天井を見つめたまましばらく動けなかった。
ここはどこだろう。
一瞬だけそう思い、すぐに思い出す。
宿だ。
ダンジョンの近くで借りている、自分とアスカの部屋。
「……アスカ」
名前が口から出た。
返事はなかった。
その瞬間、眠っている間だけ遠ざかっていた記憶が一気に戻ってくる。
赤黒い雷を纏ったバフォメット。
自分へ向かって振るわれた斧。
その軌道へ飛び込んできた白灰色の髪と、頬へ散った温かな血。
腕の中へ落ちてきた身体。
そして、すべてを覆った氷と止まった時間。
「……っ」
息が詰まり、サワラは勢いよく上半身を起こした。
隣のベッドには誰もいない。
当たり前だ。
自分で置いてきた。
自分で凍らせ、自分で時間を止めた。
それでも目覚めたらそこにいるような気がしていた。
いつものように先に起きたアスカが何かを食べているかもしれない。窓の外を眺めているかもしれないし、まだ寝ている自分へそろそろ起きろと言ってくるかもしれない。
けれど、何もなかった。
サワラはベッドから降りた。
足がふらつき、咄嗟に机へ手をつく。その拍子に置かれていた本が床へ落ち、乾いた音が部屋へ響いた。
アスカが読んでいた本だった。
拾おうと屈み、表紙へ指を触れたところで動けなくなる。
「……なんで」
声が漏れた。
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からない。
バフォメットなのか。
アスカなのか。
それとも、自分自身なのか。
もっと早く異変に気づけたのではないか。強化される前に倒せなかったのか。拘束の方法を変えていれば、あの瞬間に自分がもう少し早く動けていれば、アスカが割って入る必要などなかった。
考えても答えは出ない。
それでも思考は止まらず、床へ落ちた本を握る指へ力が入った。
「僕が……避けてれば……」
続きを言えなかった。
喉の奥から声にならない音が漏れ、サワラは本を床へ置いて両手で顔を覆う。
胸の奥へ押し込めていたものが、一気に形を失った。
アスカが死ぬことが怖かった。
間に合わないことも、あの部屋へ戻った時にはもう動かなくなっていることも、《永久凍土》や時間封印が保たない可能性も、自分の判断が間違っていたかもしれないことも。
そして何より、このままずっと一人になることが怖かった。
「……嫌だ」
ようやく、それだけが声になった。
次の言葉は出ない。
代わりに呼吸が崩れ、喉の奥から掠れた音が漏れる。
叫んだつもりだった。
けれど実際には、声と呼べるほどのものにはならなかった。
身体を折るように俯き、何度も息を吸おうとする。
胸が痛い。
涙で視界が滲んでも、サワラは拭わなかった。
三百年以上、生まれた頃からずっと一緒だった。
前の人生を思い出すよりも、名前を選ぶよりも前。男でも女でもなかった頃から、気づけばアスカは隣にいた。
その相手がいない部屋は、同じ広さのはずなのにひどく広かった。
どれほどそうしていたのか分からない。
やがて呼吸が少しずつ戻り、サワラは床へ座り込んだまま目を閉じた。
静かな部屋で、自分の呼吸だけが聞こえる。
しばらくして、一つの事実へ意識が戻った。
アスカは死んでいない。
傷は治っておらず、危険な状態のまま。バフォメットも同じ部屋にいる。
それでも、時間は止まっている。
今この瞬間にも命が失われ続けているわけではない。
自分には、時間がある。
サワラはゆっくり顔を上げ、涙で濡れた頬を袖で拭った。
机へ手をついて立ち上がる。
足はまだ重い。
それでも立てた。
机の上へ紙を広げ、ペンを取る。
最初に書いたのはアスカの傷だった。
斧が入った場所、出血の状態、意識の有無、凍結までにかかった時間。覚えている限りを正確に記していく。
次はバフォメット。
闇と雷。
オリハルコンとヒヒイロカネの斧。
強化前の動きと、赤い光に覆われてからの速度と膂力。自分たちが負わせた傷と、封印を解除した瞬間に起こること。
アスカの時間が再び動けば、傷も進む。
同時に、バフォメットも動き出す。
ならば必要なものは明確だった。
時間が動き出した直後、アスカを死なせない方法。
そして、その治療を邪魔させないためにバフォメットを倒せる戦力。
どちらか片方では足りない。
治療法だけ見つけても、戦闘中に施す余裕がなければ意味がない。強い仲間だけ集めても、アスカの傷を救えなければ何も変わらない。
サワラは書き終えた文字を見つめた。
探す。
世界中を。
時間ならある。
アスカにはないはずだった時間を、自分が作った。
なら、それを使う。
「……待ってて」
今度は、言葉が震えなかった。
翌日から、サワラは動き始めた。
最初に調べたのは、通常の治癒魔法では救えない致命傷を、時間が動き始めるその瞬間から治療できる方法だった。
高位の治療術、希少な薬、特殊な魔法、古い文献、神殿、治療師。
噂だけでも拾った。
それまでの旅でも情報を集めることはあったが、アスカがいる頃とは勝手が違う。
知らない相手へ自分から声をかけ、必要なら酒場へ入り、冒険者や商人とも話す。
アスカは、そういうことを自然にやっていた。
いつの間にか相手と話し始め、気づけば必要な情報を持って戻ってくる。
サワラは話せないわけではない。むしろ相手に合わせて穏やかに会話することは得意だったが、自分から人の中へ入る理由が今まで少なかった。
必要ならアスカが行き、自分は別のことを調べる。
それで成り立っていた。
今は、自分がやるしかない。
最初のうちは時間がかかった。
質問の仕方を間違えれば警戒されるし、希少な治療法ばかり尋ねれば誰を治したいのか聞かれる。九十五階層のことまで口にすれば、バフォメットや封印について説明しなければならなくなるかもしれない。
あの場所を知られること自体が危険だった。
だから話す情報を選び、必要なことだけを聞く。自分の事情は必要以上に明かさず、相手が何を知っているのかを先に確かめる。
サワラは少しずつ、自分なりのやり方を作っていった。
同時に、もう一つの問題が出てきた。
「サワラさん、ですよね?」
ある街の冒険者ギルドで、そう声をかけられた。
振り返ると、見覚えのない冒険者が立っている。
「前に別の街で見たことがあります。確か、もう一人ハイエルフの方と一緒に……」
サワラは一瞬だけ言葉を失った。
長い旅の中で同じ土地へ何度も立ち寄り、依頼を受け、ダンジョンも攻略してきた。
自分たちが思っている以上に、名前と姿を覚えている者がいる。
「今日は一人なんですか?」
「……うん。少し別行動してるんだ」
嘘ではない。
けれど、それ以上は話さなかった。
その日、宿へ戻ってから考えた。
このまま「サワラ」の名で動き続ければ、同じことが起こる。
アスカについて聞かれ、場合によっては二人が最後にどこへ向かったのかまで辿られるかもしれない。何より、これから探す情報の中には簡単には教えてもらえないものもある。
名前が知られていることが役立つ場面もあるが、今は余計な関心を持たれない方が動きやすかった。
サワラは宿の鏡の前へ立つ。
映っているのは見慣れた自分だった。
長い旅の間、《双生境界》は何度も使ってきた。男として戦うこともあれば、女として魔法を扱うこともあり、どちらも自分であることに変わりはない。
けれど、対外的には同じ名前を使っていた。
少し考えてから、女性の姿へ切り替える。
輪郭や身体の重心、魔力の流れが変わり、視界に入る黒髪の位置まで慣れた感覚へ移っていく。
次に、手元にあった人族化の指輪を嵌めた。
ハイエルフとして目立つ特徴が隠れ、鏡の中には人族の女性に見える自分が立っていた。
これなら、サワラ・ユグ・ザラクだと気づく者は大きく減る。
実際に何度か試してみると、別の利点もあった。
人族として見られることで長命種への珍しさから余計な質問をされにくくなり、相手によっては女性の姿の方が警戒を解きやすい場合もある。
もちろん、逆に軽く見られることもあった。
それでも相手と場所を選べば使える。
ならば、使えばいい。
問題は名前だった。
偽名なら何でもいい。
最初はそう思った。
けれど、いくつか考えてみても、どれも自分を呼ばれている感じがしない。
やがて、ずっと昔の記憶が浮かんだ。
世界樹の里。
まだ自分で名前を選ぶ前。
アスカがアスだった頃、自分もサワラではなかった。
『イル』
何度も呼ばれた名前。
前の人生を思い出すより前から、あの声で呼ばれていた。
成人の儀で手放してから長い時間が経ち、今では誰もそう呼ばない。
サワラは鏡の中の自分を見つめた。
「……イル」
口にしてみる。
知らない名前ではない。
偽物でもない。
今の自分が使わなくなっただけで、確かに自分だった名前。
これなら、呼ばれた時に振り返れる。
翌日。
サワラは別の街の冒険者ギルドへ入った。
女性の姿で、人族化の指輪を嵌めたまま受付へ向かう。
「こんにちは。本日はどのようなご用件でしょうか?」
受付の女性に尋ねられ、ほんの一瞬だけ間を置く。
それから穏やかに答えた。
「少し探しているものがあって、情報を集めています。名前は――イルです」
自分の口から出た名前は、不思議なくらい自然だった。
こうして、人族の女性冒険者「イル」として動く時間が少しずつ増えていった。
治療法を探し、強い冒険者の噂を集め、希少な魔法具について調べる。高位の治癒術を扱える者がいると聞けばその土地へ向かい、未知の魔法が記された書物があると知れば遠くても足を運んだ。
同時に、強さだけで人を選ぶこともしなかった。
封印を解くとき、アスカは動けない。
自分も治療へ意識を割かなければならない可能性が高い。
その状況で背中を任せるなら、ただ強いだけでは足りなかった。
自分の命を預けられるか。
何より、アスカの命を預けられるか。
それを確かめなければならない。
すぐに見つかるとは思っていなかった。
一年で足りないなら、もっと探す。
五年でも、十年でも。
アスカの時間は、あの部屋で止まっている。
だからこそ、自分は止まれない。
ある朝。
イルは街道を歩いていた。
女性の姿にも、人族として見られることにも、もう戸惑いはない。
旅装を整え、必要なものだけを背負って次の街へ向かう。
空はよく晴れ、道の両側に広がる草原を風が一定の方向へ倒していた。
その風を受けながら、イルは少しだけ足を止める。
以前なら、隣から何か聞こえた。
景色のことかもしれない。
食べ物のことかもしれない。
次の街に何があるのか、あるいはまったく関係のない話だったかもしれない。
今は聞こえない。
それでも、以前のように立ち尽くすことはなかった。
イルは再び歩き出した。
一人になっても、道そのものがなくなったわけではない。
その先で何を見つけるのかは、まだ分からない。
けれど、探すものだけは決まっていた。
止まったままの一人を、もう一度歩かせる方法。
いつかあの部屋へ戻り、時間を動かすために。
風が黒髪を揺らす。
イルは前を向いたまま、その風の中を歩いていった。




