エピローグ 光
イルが次の目的地に魔法都市ルーメンを選んだのは、そこに確かな答えがあると知っていたからではなかった。
魔法の研究と教育が盛んで、各地から人と知識が集まる都市。その名は以前から何度も耳にしており、旅の途中で出会った魔術師から話を聞いたこともある。
古い術式や希少な魔法具、治癒に関する研究。それらのどれか一つでも、これまで知らなかった手掛かりへ繋がればいい。
今では、その程度の期待で次の目的地を決めることにも慣れていた。
街道を歩くイルの姿は、一人旅を始めた頃とは随分変わっている。
女性の身体に黒い髪。人族化の指輪によってハイエルフとしての特徴を隠した、人族の女性冒険者――イル。
初めの頃は誰かに呼ばれるたび、ほんの一瞬だけ反応が遅れたものだが、今では人混みの向こうからその名を呼ばれても自然に振り返る。
サワラという名を捨てたわけでも、別の誰かになろうとしているわけでもない。
必要だから使っている。
ただ、それだけだった。
イルは街道を進みながら空を見上げた。
朝から雲は多かったものの、出発した頃には雨になるほどではないと思っていた。しかし昼を過ぎた頃から風の匂いが変わり、湿り気を含んだ空気が頬を撫で始める。
木々の葉が裏返り、遠くに見える草原が風に押されて大きく波打った。
周囲を漂う精霊たちも落ち着きをなくしている。風の精霊は街道の先と後ろを忙しなく行き来し、水の精霊は普段より濃く空気へ集まっていた。
「……そんなに降るの?」
小さく尋ねる。
言葉が返ってくるわけではない。それでも伝わってくる気配は明確で、かなり強い雨が、そう遠くないうちに来るらしい。
街道沿いに大きな街はなく、ルーメンまでもまだ距離がある。雨に濡れるだけなら構わないが、この風の強さでは視界まで悪くなるだろう。
無理をして進む理由はなかった。
精霊の気配を追いながら少し進むと、街道から外れた場所に小さな建物が見えた。
古い木造の小屋だった。
旅人が一時的に休むために使うものらしく、周囲に柵も畑もない。煙突から煙は上がっておらず、人が暮らしている様子もなかった。
「ちょうどいいかな」
イルは街道を外れる。
最初の雨粒が頬へ落ちたのは、小屋まであと半分ほどのところだった。
冷たい一滴はすぐに二滴、三滴と増え、辿り着く頃には乾いていた土の色が急速に濃くなっている。
扉を開けると、中に人はいなかった。
簡素な机と椅子が置かれ、壁際には旅人が横になれる程度の空間がある。中央には小さな炉もあり、壁や床に古い傷こそ残っているものの、雨宿りをするには十分だった。
イルが中へ入り、扉を閉めた直後。
ざあっ、と屋根を叩く雨音が一気に強くなった。
「……危なかった」
外套を脱ぐ。
完全に濡れる前に入れたものの、肩や裾には雨が染み込んでいた。
炉のそばには、以前ここを使った誰かが残した薪が少しだけ積まれている。使った分は補充しておこうと決めてから火を起こすと、ぱち、と乾いた音を立てて小さな炎が薪へ移った。
冷えていた小屋へ、少しずつ熱が広がっていく。
イルは椅子を炉の近くへ運び、濡れた外套を乾かせる位置へ掛けてから腰を下ろした。
屋根を叩く雨はさらに強くなり、風が吹くたびに壁が低く軋む。
「ありがとう」
精霊たちへ呟くと、近くにいた風の精霊の気配がわずかに揺れた。
イルは火へ薪を一本足し、荷物から地図を取り出す。
現在地からルーメンまでの距離を確認するが、この天候では今日はもう大して進めない。雨が夕方まで続くなら、この小屋で一晩過ごすことも考えた方がいいだろう。
予定が一日ずれる。
以前なら、その程度のことをアスカはまったく気にしなかった。むしろ雨宿りを理由に、何か面白いものでも探し始めていたかもしれない。
そんな姿が自然に浮かび、イルは地図へ落としていた視線を止めた。
一人になったばかりの頃は、街や料理、知らない魔法や冒険者の笑い声まで、目に入るもののほとんどがアスカへ繋がった。そのたびに胸の奥を掴まれるようだったが、今では痛みを抱えたまま歩くことにも慣れている。
忘れたわけではない。
今もアスカは、あの部屋にいる。
だから自分は歩いている。
イルは地図を畳み、荷物へ戻した。
こうして足を止めると、これまで追いかけてきた情報がいくつか頭に浮かぶ。
致命傷さえ治せる薬師がいると聞いた時には、何日もかけて山間の村まで向かった。
人里から離れた場所に暮らし、金ではなく、自分が認めた相手にだけ薬を作る人物だという。会えるなら話をして、必要なものがあるなら探せばいい。久しぶりに具体的な可能性が見えた気がしていた。
だが、辿り着いた村で教えられたのは、小さな墓の場所だった。
薬師はすでに亡くなり、弟子も残された薬も、製法を書いたものさえなかった。
あと数年早ければと思った。
けれど、その頃の自分は薬師の存在すら知らない。
どうしようもないことを受け入れ、次を探した。
強い者についても同じだった。
ある地方で魔物の群れを少人数で退けた傭兵がいると聞き、何日も追いかけてようやく本人を見つけたことがある。実力も経験も申し分なかったが、話してみれば、女性と見るや距離を詰め、断っても態度を改めず、戦闘について尋ねても自分がどれほど強いかという話ばかりが返ってきた。
強いこと自体は疑っていない。
それでも、アスカの時間を動かす瞬間に背中を預けたいとは思えず、詳しい理由も説明しないまま候補から外した。
別の国では、どんな怪我や病でも治す宝物が王家に伝わっているという話を知った。
調べるうちに実在する可能性が高いと分かったものの、国宝として厳重に管理されており、国外の一冒険者が個人的な事情で使わせてほしいと願ったところで、まともな交渉の席にすら着けない。
盗むという選択肢は、最初からなかった。
そうして何度も、可能性を見つけては追いかけ、届かなければ次を探してきた。
初めの頃は、そのたびに大きく落ち込んだ。次こそはと思った分だけ、駄目だった時の反動も大きかった。
最近は少し違う。
期待しなくなったわけでも、諦めたわけでもない。ただ、何かを見つけるたびに「これでアスカを助けられるかもしれない」と考えることへ、少し疲れていた。
だからルーメンにも、過度な期待はしていない。
何かあればいい。
なくても、次を探せばいい。
「……まだ時間はあるから」
炉の炎へ手をかざしながら、小さく呟く。
アスカの時間は止まっている。
急がなくていい。
でも、止まってはいけない。
その間を歩き続けることが、今のイルの旅だった。
外で雷が鳴り、少し遅れて小屋の窓が震えた。
「これは、しばらく無理そうだね」
窓の外は白く霞み、街道もほとんど見えない。
イルは椅子へ深く座り直した。
せっかくなら休んでおこう。
ルーメンへ着けば、魔法に関する施設や図書館、冒険者ギルドを回り、治癒に詳しい者がいれば話を聞く。時間に関する魔法も調べ、封印を解除する前にできるだけ多くの手段を用意しておきたい。
そして、もう一つ必要なのが戦力だった。
こちらは治療法以上に難航している。
強い者なら何人も見てきた。それでも、アスカの命を預けられるかとなれば話は別だ。
強化後のバフォメットを相手にしながらアスカを守り、治療の時間まで確保しなければならない以上、単純な強さだけでは足りない。
状況を判断できること。
勝手な行動をしないこと。
必要なら自分の役割を変えられること。
そして、こちらがすべてを説明できなくても、必要以上に踏み込まないこと。
条件が多い自覚はある。
それでも妥協するつもりはなかった。
失敗は一度で終わる。
次はない。
薪が崩れ、赤い火の粉が一瞬だけ舞った。
火掻き棒で位置を整えながら、イルはふと口元を緩める。
アスカがいたら、条件が多すぎると言われただろう。
『そんな完璧な人、そう簡単に見つからないでしょ』
たぶん、そんなことを言う。
自分なら、アスカの命を預けるのだから当然だと返す。
そうすれば今度は。
『僕のこと信用しすぎじゃない?』
違う。
そこじゃない。
そこまで想像して、イルは小さく息を漏らした。
「……何言ってるんだろ」
以前なら、思い出した直後に苦しくなっていた。
今は、こうして笑えることもある。
忘れず、戻ることさえ諦めなければ、思い出すたびに傷つき続ける必要まではない。
イルは椅子から立ち上がり、乾き具合を確かめるため外套へ触れた。まだ裾が湿っているため、もう少しかかりそうだった。
荷物から水筒を取り出そうとした、その時。
周囲にいた精霊の気配が動いた。
イルは顔を上げる。
雨とは違う。
小屋の外で、風の精霊が何かへ反応している。
魔物ではない。
少なくとも、警戒を促すような動きではなかった。
耳を澄ませると、激しい雨と風、屋根から落ちる水音の中に、別の音が混じっていた。
足音だ。
一人ではない。
この雨なら、自分と同じように小屋を見つけた旅人だろう。
イルは腰の武器へ手を伸ばさず、椅子へ掛けていた荷物だけを少し自分の近くへ寄せた。
知らない相手なら最低限の警戒はする。
それだけだった。
泥を踏みながら走る足音が近づき、やがて小屋のすぐ外で止まる。
イルは扉へ視線を向けた。
取っ手が動く。
扉が開いた瞬間、外の雨音が一気に膨らみ、冷たい風と湿った土の匂いが小屋へ流れ込んだ。
その向こうに、二人の人影があった。
一人は青年。
もう一人は少女。
激しい雨の中を走ってきたのだろう。二人とも濡れていた。
青年が先に小屋の中を見渡し、その視線が炉の前にいるイルへ向く。
続いて、少女もこちらを見た。
イルは何も言わず、ただ二人を見返した。
知らない。
少なくとも、今のイルにはそう見える。
それなのに、胸の奥で何かが微かに揺れた。
理由を探すより先に、二人の視線もイルのところで止まっている。
屋根を激しく叩く雨の中、炉の薪が小さく爆ぜた。
誰も、まだ何も言わない。
開いた扉の向こうでは、白く煙るほどの雨が降り続いていた。




