第5話 国立魔導図書館
コボルトジェネラルとの戦いを終えた翌朝。
魔法都市ルーメンは、昨日までと変わらない賑わいの中で一日を始めていた。
石畳の大通りでは荷馬車の車輪が乾いた音を立て、軒先では店主たちが木戸を開けている。焼き窯から漂ってくる香ばしいパンの匂いに、香草を刻む青臭さが混じり、通りを抜ける朝の風がそれらを宿屋の前まで運んできた。
夜の間、街路を照らしていた魔法灯はすでに光を弱めている。
代わりに、街のそこかしこへ伸びた塔の先端では魔石が朝日を受け、淡い色を帯び始めていた。
宿から出てきたゆうきは、入口脇で一度立ち止まると、両腕を頭上へ伸ばした。
「っ……」
背中から肩へ筋肉が引かれる。
痛いほどではない。
ただ、昨日使い続けた右腕と、何度も踏ん張った脚の奥にはまだ鈍い疲れが残っていた。
コボルトジェネラルの大盾に剣を止められた感触も、前衛を押し込まれた時に床を蹴った重さも、身体のどこかに残っている。
軽く肩を回してから、ゆうきは宿の壁際へ視線を向けた。
「アム、待った?」
「んーん。うちも今来たとこ」
壁へ背中を預けていたアムが身体を起こす。
水色の髪が朝風に揺れ、頬へ掛かった一房を指先で払った。
学院へ通い始めてから、こうして二人で朝から出かけることは減っていた。
ゆうきが学院にいる間、アムは街へ出る。
情報を集めたり、ギルドへ顔を出したり、必要な物を買ったり。
宿へ戻る時間が合えば夕食を一緒に取るが、それも毎日というわけではない。
旅をしていた頃は、朝起きれば隣にいて、歩き始めればそのまま一日を一緒に過ごしていた。
離れている時間が増えたといっても、まだほんの数日だ。
それなのに、隣にアムがいる朝が妙に久しぶりに感じられた。
アムはそんなゆうきの顔を少し見上げると、目元を僅かに細めた。
「……疲れてる?」
「分かる?」
「ちょっとね。いつもより歩き出す時、肩が硬い」
「そんなところまで見てるんだ」
「誰と旅してきたと思ってんの」
呆れたように言ったあと、アムの口元に小さな笑みが浮かぶ。
ゆうきもつられて笑った。
「昨日、結構大変だったんだよ」
「コボルトジェネラル?」
「うん」
二人は並んで歩き始めた。
朝の学院へ向かう学生たちとは逆の流れへ入り、大通りを北へ進んでいく。
「勝ったんでしょ?」
「勝ったよ」
「じゃあ、よかったじゃん」
「まあ……そうなんだけどさ」
そこで言葉が続かなかった。
昨日の第十階層。
広間の中央に立っていたコボルトジェネラル。
大盾と戦斧。
周囲を動き続ける取り巻き。
前衛へ圧力を掛けながら、隙ができれば後衛まで狙ってくる。
ももちゃんが敵の動きを見続け、ようやく崩せる瞬間を見つけるまで、決定的な形を作れなかった。
さめちゃんが前を支え。
おむたろが流れを崩し。
ちゃまが後方から五人全員を見ていた。
誰か一人欠けていたら。
そう考えると、勝ったという事実だけでは片付けにくい何かが残った。
「なんかさ」
ゆうきは行き交う人を避けながら、前を向いたまま口を開いた。
「勝ったのに、あんまりすっきりしなかったんだよね」
「へぇ」
「もっとちゃんと知ってたら、あそこまで苦労しなくて済んだのかなって」
アムはすぐには答えなかった。
横道から荷馬車が一台出てくる。
二人で足を止め、それが通り過ぎるのを待つ。
蹄の音が遠ざかってから、再び並んで歩き始めた。
「いいんじゃない?」
「何が?」
「そう思えたなら」
アムはゆうきを見ず、通りの先へ目を向けていた。
「分からないまま勝って、自分たちは強いから次も大丈夫って思うより、ずっといいでしょ」
「……アムでも、そういうこと思うんだな」
「どういう意味?」
「いや。アムって、大体なんでも知ってるから」
「そんなわけないでしょ」
間髪入れずに返ってきた。
アムの眉が寄り、少しだけ頬が膨らむ。
その表情がおかしくて、ゆうきは思わず笑った。
「笑うな」
「ごめんごめん」
「うちだって知らないことくらいいっぱいあるよ。魔界にいた頃と今じゃ、世界だって随分変わってるし」
そこで、アムの声がほんの少しだけ静かになった。
歩く速度は変わらない。
けれど、遠くを見るように細められた目だけが、今歩いているルーメンの街ではない場所を見ているように感じられた。
ゆうきは一度だけ横顔を見る。
何かを聞こうとして。
やめた。
アムが話そうとした時に聞けばいい。
その代わり、建物の隙間から見え始めた白い塔へ視線を向けた。
「あれ?」
「うん」
アムも顔を上げる。
「国立魔導図書館」
街路を一つ曲がったところで、その全貌が視界へ飛び込んできた。
ゆうきは自然と足を緩めた。
「……でか」
真っ先に出たのは、それだった。
学院の書庫より少し大きな施設。
何となく、そんなものを想像していた。
実際はまるで違う。
白い石造りの本館を中心に、左右へ翼を広げるように建物が伸びている。中央部からは細長い塔が空へ向かい、その外周には複数の金属環が宙へ浮いたまま、ゆっくりと回転していた。
環と環の間では淡い魔力光が流れ、時折、細い線となって塔の頂上へ吸い込まれていく。
正面階段も広い。
朝だというのに、そこを上り下りする人は多かった。
学院生らしい制服姿。
長いローブを纏った魔導士。
武器を背負った冒険者。
両腕に紙束を抱え、足早に階段を上っていく研究者。
人間だけではない。
獣人やエルフ、ドワーフの姿も混ざり、それぞれが当たり前のように同じ入口へ吸い込まれていく。
「これ、全部本なの?」
「全部じゃないよ」
「え?」
「地下もあるし」
アムが何でもないことのように言った。
ゆうきは一度、塔の先まで見上げてから、今度は足元を見る。
「これで地下まであるのか……」
「古い資料とか、扱いが難しい魔導書は下。普通に読めるものは上の方が多いかな」
「扱いが難しいって?」
「そのまま読ませたら危ないやつ」
「危ない魔導書を図書館に置いてるの?」
「普通には見られないから大丈夫」
「そういう問題なのかな……」
アムは答えず、小さく笑いながら階段を上っていった。
入口では、青いローブを着た職員が利用者の証明書を一人ずつ確認している。
ゆうきは学院で発行された学生証を取り出した。
アムは冒険者証を差し出す。
職員はそれを受け取り、記載された内容へ視線を落とした。
次の瞬間。
ほんの僅かだが、背筋が伸びた。
「確認いたしました。第五閲覧区画まで自由にご利用いただけます」
「ありがと」
アムは特に気にした様子もなく証を受け取る。
隣で見ていたゆうきは、館内へ入るまで待ってから小声で尋ねた。
「第五って何?」
「閲覧区画。資料ごとに見られる人が決まってるの」
「アムは五まで?」
「うん」
「俺は?」
「学生証なら二くらいじゃない?」
「差がすごいな」
「そりゃそうでしょ。誰でも危ない魔導書とか古い契約術の資料を見られたら困るじゃん」
そう言いながら、アムはゆうきを上から下まで一度眺めた。
「まあ、今のゆうきなら三くらいまでなら読んでも大丈夫そうだけど」
「それ、褒められてる?」
「一応ね」
「一応かぁ」
苦笑しながら受付を抜ける。
その先へ一歩踏み出したところで、ゆうきはまた足を止めた。
外から見た時より、さらに広く感じる。
巨大な中央ホールは吹き抜けになっていて、それを囲むように何層もの書架が円形へ連なっていた。
上を見れば、高い位置の棚までびっしりと本が並んでいる。
人の手では届かない場所にある本は、利用者が何かを操作すると淡い光を纏い、ふわりと棚から抜け出して宙を滑っていく。
階段のほかに、床へ刻まれた昇降用の魔法陣もあった。
数人がその上へ乗ると、身体ごと柔らかな光に包まれ、そのまま上階へ浮かんでいく。
紙。
古い革。
磨かれた木。
乾いたインク。
いくつもの匂いが混ざっている。
外ではあれほど人が行き交っていたのに、館内へ入った途端、声はほとんど聞こえなくなった。
聞こえるのは、ページをめくる音や、靴底が床へ触れる音ばかり。
「……すごいな」
「最初はそうなるよね」
アムは見慣れているらしく、そのまま中央ホールへ歩いていく。
「何から見る?」
「魔物」
「広い」
「だよね」
「もう少し絞って」
「じゃあ……コボルトと、その次に出る魔物」
「次は?」
「オーク」
「ならオークからでもいいんじゃない?」
「でも昨日のことも調べたい」
「じゃあ両方見ればいいじゃん」
「簡単に言うなあ」
「本探しに来たんでしょ」
「そうだけどさ」
アムは案内板の前で立ち止まった。
大きな板には、各区画の分類が細かな文字で記されている。
魔物分類。
魔法理論。
地域史。
ダンジョン研究。
錬金術。
魔道具。
契約術。
召喚術。
そのほか、ゆうきには内容を想像できない項目まで並んでいる。
昨日まで、自分はこの世界をどれほど知っていたのだろう。
そう考えると、答えはあまり多くなかった。
街の名前。
魔物の名前。
冒険者として最低限必要なこと。
目の前に現れたものへ対処する知識。
けれど、その後ろには数えきれないほどのものが続いている。
「こっち」
アムが魔物分類の表示を指差した。
二人で昇降魔法陣へ乗る。
淡い光が足元から広がった。
次の瞬間、床から身体が離れる。
「うわ」
「落ちないから」
「分かってるけど、これ慣れないな」
「転移は平気なくせに」
「転移は一瞬じゃん。これは途中がある」
「面倒くさい感覚してるね」
「自分でもちょっと思う」
言い返しているうちに、二階へ着いた。
魔物分類の区画は、中央ホールから見た以上に奥行きがある。
入口近くには一般向けの魔物図鑑が並び、奥へ進むにつれて背表紙の題名が細かくなっていく。
生態。
地域差。
魔石。
亜種。
集団行動。
ゆうきは目についた一冊を棚から引き抜いた。
思っていた以上に重い。
両手で支えて表紙を見る。
『大陸中央部における亜人型魔物の生態』
「題名からもう難しそうなんだけど」
「題名だけで負けないの」
「はい」
近くの閲覧席へ移動する。
アムも向かいへ座り、自分で選んだ本を開いた。
ゆうきは目次からコボルトの項目を探す。
ページをめくり、挿絵が現れた瞬間。
昨日まで何度も戦った姿が自然と頭へ浮かんだ。
短い体毛。
発達した鼻。
尖った耳。
群れで生活し、互いに合図を送りながら獲物を囲い込む。
夜目が利き、嗅覚にも優れる。
そこまでは授業でも学んでいる。
ゆうきは指で行を追いながら、さらに読み進めた。
群れの中には、戦闘を担当する個体だけでなく、見張りや追跡を行う個体がいる。
狩りでは、獲物を追い立てる者と待ち伏せする者が役割を分担することもある。
「……これ」
「ん?」
向かいで本を読んでいたアムが顔を上げる。
「コボルトって、思ってたより群れの中で役割分かれてるんだな。見張りとか追跡だけじゃなくて、獲物の逃げる方向を誘導する個体までいるって」
「そうだね」
「知ってた?」
「知ってた」
「先に教えてよ」
「何のために自分で調べに来たの?」
「……それ言われると何も言えない」
アムは満足そうに視線を本へ戻した。
ゆうきも苦笑し、続きを追う。
やがて一つの記述で指が止まった。
群れを率いる上位個体が存在する場合、個々の戦闘力だけではなく、群れ全体の行動効率が大きく上昇する。
合図。
配置。
攻撃の順番。
獲物の逃げ道の制限。
ゆうきの頭に、第十階層の光景が蘇った。
コボルトジェネラルが低く唸る。
それだけで、取り巻きの位置が変わった。
前へ出る個体。
少し退き、横へ回る個体。
空いた場所へ入り込む個体。
昨日はただ、その変化へ対応するだけで精一杯だった。
けれど今なら、その中心がどこにあったのか分かる。
「……もし先に知ってたら」
無意識に声が漏れた。
「昨日、ジェネラルを崩すことをもっと優先してたかもしれない」
「かもね」
アムは本から目を上げずに答える。
「取り巻きを何とかすることばっかり考えてた」
「でも、それで勝ったんでしょ?」
「うん」
「じゃあ次は、知った上で戦えばいいじゃん」
あまりにも簡単に言われた。
けれど、その言葉はページの文字よりも素直に頭へ入ってきた。
知らなかった。
だから、次は知る。
それでいい。
昨日までは、どこかで強さばかりを考えていた。
もっと剣を扱えれば。
もっと魔法が強ければ。
《魂の共鳴》をもっと上手く使えれば。
それも間違いではない。
けれど、昨日自分たちを苦しめたものの中には、力ではなく、知らなかったことも含まれていた。
ゆうきは何度かページを戻し、必要な箇所をもう一度読み直した。
「次、オーク見よう」
本を閉じる。
アムが少しだけ眉を上げた。
「早いね」
「今のうちに知っときたい」
「だったら、図鑑だけじゃなくてこっちも読んだ方がいいよ」
アムは席を立ち、棚の間へ消えた。
すぐに二冊の本を抱えて戻ってくる。
一冊は一般的な魔物図鑑。
もう一冊は擦れた革表紙の戦闘記録だった。
「どっちから?」
「両方」
「やっぱり?」
「図鑑は整理されてて分かりやすいけど、それだけだと綺麗すぎるから」
ゆうきが首を傾げる。
アムは戦闘記録を軽く指先で叩いた。
「実際に戦った人が、何を嫌がって、何を怖がったのかも読んだ方がいいよ」
「アムって、そういう読み方するんだな」
「何その言い方」
「いや。アムなら知識そのものを全部覚えてるのかと思ってた」
「うちは本じゃないんだけど」
「でも、かなり近い」
「殴るよ」
穏やかな声だった。
ゆうきは笑いを堪えながら、差し出された本を開く。
オーク。
コボルトよりも大柄で、筋力が高い。
武器を扱う個体も多い。
その程度なら授業ですでに知っている。
だが、戦闘記録まで目を通していくと、同じ説明でも印象が変わった。
太い骨格。
分厚い筋肉。
多少の傷を負っても止まりにくい。
武器を失った個体が、そのまま身体ごと距離を詰めて組み付いてきたという記録もある。
突進に盾を合わせた冒険者が、後ろにいた仲間ごと押し込まれた例も記されていた。
「……さめちゃん、大変そうだな」
小さく漏らした声に、アムが顔を上げる。
「盾の子?」
「うん。今までみたいに前で全部受けようとすると、かなりきつそう」
「じゃあ、全部受けさせなきゃいいじゃん」
「簡単に言うなぁ」
「でもそうでしょ?」
アムは頬杖をつき、ゆうきの開いている本へ目を落とした。
「盾を持ってるからって、攻撃を全部受けるのが役目じゃないでしょ」
その言葉で、ゆうきの視線が止まる。
さめちゃんの役目。
攻撃を受けることではない。
仲間を守ること。
結果として受ける場面が多いだけで、それ自体が目的ではない。
危険な攻撃なら、最初から受けさせない方法を作ればいい。
おむたろが敵の動きを崩す。
ももちゃんが次の行動を読む。
自分が横から注意を引く。
ちゃまが後ろから全体を見る。
昨日までは戦いながら作っていた形を、今度は戦う前に想像できる。
ゆうきは鞄へ手を入れ、小さな紙束を取り出した。
「何してんの?」
「メモ」
「真面目だね」
「学院生だから」
「急に学生っぽくなった」
「今まで何だと思ってたんだよ」
「冒険者が制服着てるだけ」
「ひどくない?」
アムが肩を揺らした。
声を上げて笑えない場所だからこそ、普段よりその笑い方が柔らかく見える。
ゆうきは紙を机へ置き、短く書き込んでいった。
オーク。
力比べをしない。
突進。
間合い。
足。
武器を失っても接近に注意。
言葉にして並べてみると、頭の中にあったものが少しずつ形になっていく。
それからしばらく、二人とも黙って本を読んだ。
ページをめくる乾いた音。
遠くで椅子を引く小さな音。
書架の上を本が飛ぶたび、魔法の光が淡く天井を照らす。
静かな時間が流れていく。
ゆうきは何度かページから顔を上げ、その度に向かいのアムへ目をやった。
いつの間にか、彼女が読んでいる本は魔物関連のものではなくなっている。
色褪せた紙。
角の擦れた革表紙。
かなり古い本らしい。
「それ何?」
「ん?」
アムが表紙を見る。
「召喚術の変遷」
「魔物調べてたんじゃなかった?」
「ゆうきが調べてるから」
「自由だなぁ」
「最初から自由行動って言ってるでしょ」
アムはそう言うと、また本へ視線を落とした。
ゆうきも自分の本へ戻る。
数行読んだところで。
ふと気づいた。
先ほどまで一定の間隔で聞こえていた、アムがページをめくる音が止まっている。
顔を上げる。
アムは同じ頁を見つめていた。
視線は動いていない。
柔らかかった表情も、少しだけ静かになっている。
「アム?」
「……ん?」
僅かに遅れて返事が来た。
「どうした?」
「別に」
「そう?」
「うん」
短く答えると、アムはページをめくった。
ゆうきはそれ以上聞かなかった。
ただ、再び本へ目を落としたあとも、視界の端には残っていた。
アムの指先が、紙からすぐには離れなかったこと。
次の頁へ進んだあと、一度だけ前の頁へ戻ったこと。
◇
昼を少し過ぎた頃、二人はいったん本を閉じた。
「お腹空いた」
アムが机へ頬をつける。
「急に子どもみたいになるな」
「お腹空くものは空くの」
「館内で食べられるところある?」
「一階に休憩室」
「じゃあ行こう」
借りた本を元の棚へ戻し、二人で一階へ下りる。
図書館の西側にある休憩室は、大きな窓から中庭を眺められるようになっていた。
中央には小さな噴水があり、絶えず細い水音が聞こえてくる。
軽食を売る一角もある。
ゆうきはパンと温かいスープ。
アムは焼き菓子を二つと紅茶を選んだ。
「それ、昼飯?」
「うん」
「絶対あとで腹減るだろ」
「その時また食べればいいじゃん」
「自由だなぁ」
「二回目」
窓際の席に座る。
中庭へ差し込んだ光が噴水の水面で揺れ、白い天井へ淡い波紋を映していた。
ゆうきはパンを小さくちぎり、スープへ浸す。
「アム、最近何してたの?」
「最近?」
「俺が学院行ってる間」
焼き菓子を齧ったアムは、もぐもぐと口を動かしながら少し考えた。
「市場見たり、ギルド寄ったり。あと、ここにも何回来たかな」
「図書館、もう来てたんだ」
「うん」
「何調べてた?」
焼き菓子を持つアムの指が止まった。
一瞬だけ。
すぐに紅茶のカップを持ち上げる。
「いろいろ」
「いろいろ?」
「いろいろはいろいろ」
「怪しい」
「怪しくない」
「じゃあ教えてよ」
「やだ」
「なんで?」
「うちの自由だから」
少し子どもっぽい言い方だった。
ゆうきはパンを持ったまま、向かいのアムを見る。
本当にどうでもいいことなら、アムはきっと話す。
笑って誤魔化すことはあっても、ここまではっきり拒むことは少ない。
なら、今は聞かない方がいい。
「そっか」
それだけ答え、スープを口へ運ぶ。
温かさが喉を通り、疲れの残った身体へゆっくり広がった。
しばらくして、アムがこちらを見た。
「……聞かないの?」
「言いたくなったら言うでしょ」
「まあ……ね」
アムは紅茶の向こうで一度だけ目を伏せる。
次に焼き菓子へ手を伸ばした時には、さっきより少しだけ肩の力が抜けていた。
◇
昼食のあと、二人はダンジョン関連の資料区画へ向かった。
魔物分類の区画と比べると利用者は少なく、並んでいる本も一冊一冊が分厚い。
背表紙へ記された題名だけで、すでに専門書らしいものが多かった。
ゆうきは近くの棚から一冊抜き取る。
「『魔力循環から見る迷宮形成論』……」
「それは今日はやめた方がいいよ」
「読める?」
「読めるけど、ゆうきが今読みたいものじゃない」
アムは隣の棚から別の一冊を抜き取った。
「こっち」
渡された本を見る。
『探索者のための階層型迷宮入門』
「急に優しくなったな」
「初心者だからね」
「言い方」
二人で再び閲覧席へ移動する。
本を開けば、これまで当たり前のように受け入れていたものが、一つずつ言葉になっていた。
ダンジョンごとに異なる魔力の流れ。
階層による地形の変化。
生息する魔物。
一定の場所に生まれやすい魔石。
宝箱。
階層主。
ゆうきは読み進めながら、時折これまで潜ってきた学院管理中級ダンジョンの風景を思い出した。
第一階層から第五階層まではゴブリン。
第六階層から第十階層まではコボルト。
次はオーク。
五階層ごとに魔物の傾向が変わり、ジェネラル級が待っている。
今までは学院が実習用にそう配置しているのだと思っていた。
階層変化に関する項目を読み、ゆうきの指が止まる。
「これって、学院側が全部調整してるわけじゃないのかな」
ページをアムへ向ける。
「全部じゃないと思うよ」
「違うの?」
「ダンジョンそのものにも性質があるから。元々あるダンジョンを管理してるなら、人が何でも好きに変えられるわけじゃない」
「じゃあ、学院が危険すぎないように手を入れてる?」
「たぶん、その方が近いかな」
「へぇ……」
学院管理中級ダンジョン。
名前の印象から、学院が用意した大きな訓練場のようなものだと思っていた。
けれど実際には、元々そこにある危険な場所を、学院が実習に使える形へ整えているだけなのかもしれない。
「じゃあ、外にあるダンジョンはもっと分からないことが多い?」
「うん」
「階層の途中で急に魔物が変わったり?」
「ある」
「地形も?」
「あるよ」
「ボスも?」
「いる時もあれば、いない時もある。決まった場所にいるとは限らないし」
ゆうきは開いた本へ目を戻した。
さっきまで文字だったものが、少しずつ現実味を帯びてくる。
「怖くなった?」
アムが横から覗き込んできた。
「少し」
「それでいいんじゃない?」
「またそれ?」
「怖いって分かってる方が、変な無茶しないでしょ」
「アムが言うと、説得力あるのかないのか分からないな」
「失礼」
少し頬を膨らませたあと、アムも笑った。
ゆうきはまた本へ目を落とす。
旅を再開すれば。
学院のように、誰かが危険を管理してくれている場所だけを歩くわけではない。
知らない土地へ行く。
知らない魔物と出会う。
知らないダンジョンへ入ることもある。
今までも同じだった。
その度に、隣にはアムがいた。
アムの知っていることへ頼って。
誰かの経験を借りて。
目の前のものを越えてきた。
それが悪いわけではない。
けれど。
自分も知りたいと思った。
守られるためではない。
いつか、アムが知らない何かへ出会った時。
自分も隣で同じものを見て、考えられるように。
ゆうきは目に留まった一文を、メモへ書き写した。
窓から差し込んでいた光は、いつの間にか朝より低くなっていた。
「そろそろ帰る?」
本から目を離し、横へ尋ねる。
返事がない。
「アム?」
隣を見る。
椅子が空いていた。
「あれ」
周囲を見回す。
数列向こうの書棚の間に、水色の髪が見えた。
アムは一人で、本棚へ顔を向けて立っている。
ゆうきは本を閉じ、音を立てないようそちらへ向かった。
数歩近づいたところで、足が止まる。
棚へ並んでいる本の題名が目に入った。
召喚。
契約。
異界干渉。
古い時代に使われていた魔法に関する資料ばかりだった。
アムは一冊の背表紙へ指先を置いたまま動かない。
その横顔は、さっきまで本を選んでいた時とは違っていた。
目の前の文字ではなく、もっと遠い何かを見ているように見える。
「……懐かしい?」
ゆうきは声を落として尋ねた。
アムの指が止まる。
数秒の間があった。
それから、ゆっくり振り返る。
「何が?」
「その本」
アムは自分の手元を見る。
指が触れていた背表紙には、
『古代召喚術と契約者の記録』
と記されていた。
「ああ……」
短く息を吐く。
「ちょっとね」
それだけ言って、本を棚から引き抜いた。
近くの窓際へ移動し、二人並んで椅子へ座る。
アムが本を開く。
褪せた挿絵。
古い魔法陣。
ゆうきには読めない文字も混ざっている。
アムは一枚ずつ、ゆっくりとページをめくった。
「アムって、前に召喚されたことあるんだよね」
「あるよ」
「少しだけ聞いた」
「うん」
会話が途切れる。
ページをめくる音だけが近くに残った。
ゆうきはしばらく窓の外を見ていた。
まだ夕方というほどではない。
ただ、朝より柔らかくなった光が中庭へ斜めに差し込んでいる。
「どんな人だった?」
何気なく尋ねたつもりだった。
アムの指が止まった。
ゆうきは続けなかった。
答えたくなければ、そのままでいい。
しばらく待つ。
「一人じゃないよ」
やがてアムが小さく言った。
「え?」
「うちを召喚した人」
本から目を上げないまま、もう一度ページの端へ指を掛ける。
「一人だけじゃなかったから」
「何回も?」
「うん」
ゆうきは何も言わず、続きを待った。
「最初の頃なんて、ほんと酷かったよ」
アムが小さく笑う。
いつもの明るい笑い方とは少し違う。
「悪魔を呼べば願いが叶うって、本気で思ってる人が多くてさ。金が欲しいとか、偉くなりたいとか、嫌いな相手を消してほしいとか」
指先が紙の端をゆっくりなぞる。
「命を差し出すって言う人もいた」
ゆうきは、以前聞いた話を思い出した。
アムは命を対価にする契約を受けない。
それが昔から変わっていないことだけは知っている。
「でも、受け取らなかったんだよな」
「うん」
「断るの、怖くなかった?」
「何が?」
「相手が怒ったりとか」
アムは少しだけ首を傾げた。
本当にその可能性を考えていなかったような顔だった。
「別に」
「そっか」
「まあ……怒る人はいたけどね」
ページを一枚めくる。
「でも、何回も呼ばれてるとさ。変な人ばっかりじゃないって分かるんだよ」
窓の向こうから、小さな鳥の鳴き声が届いた。
「願いなんて、どうでもいいって人もいた」
「悪魔を召喚したのに?」
「うん」
アムの口元へ、今度は少しだけ柔らかな笑みが浮かんだ。
「呼んじゃっただけの人」
「何それ」
「魔法の実験に失敗したの」
「それでアムが出てきた?」
「そう」
想像すると、少しおかしかった。
ゆうきは思わず笑う。
「災難だな」
「うちが?」
「どっちも」
「……確かに」
アムも小さく笑った。
先ほどまで薄く張っていた何かが、少しだけほどける。
「その人はね」
アムが開いていた本を静かに閉じる。
「うちを見た瞬間、謝った」
「謝った?」
「『ごめんなさい。帰し方が分かりません』って」
ゆうきは耐えきれず、声を抑えながら笑った。
「それは困るな」
「でしょ?」
「アム、どうしたの?」
「しばらくそこにいた」
「帰れなかったから?」
「それもあるけど」
そこで言葉が止まった。
アムは窓の外へ顔を向けた。
水色の髪が頬へ掛かる。
細い指でそれを耳へかけてから、ほんの少し目を細める。
「……悪くなかったから」
声は静かだった。
それまでより小さいのに、不思議とよく聞こえた。
ゆうきは何も言わなかった。
誰だったのか。
どんな場所だったのか。
どれくらい一緒にいたのか。
どうして別れたのか。
聞きたいことは幾つも浮かんでくる。
けれど、今のアムの横顔を見ていると、そのどれも口へ出す気にはならなかった。
アムは閉じていた本をもう一度開く。
「昔の話」
「うん」
「もう、ずっと昔」
それきり、しばらく会話はなくなった。
古い本のページが一枚ずつめくられていく。
窓から差し込む光は少しずつ橙色へ近づき、木製の机の上へ細長い影を伸ばしていた。
紙と古い革の匂い。
遠くで鳴った、小さな鐘。
ゆうきは自分の横へ置いていたメモへ目を落とす。
コボルト。
オーク。
ダンジョン。
朝には何も書かれていなかった紙に、細かな文字が増えている。
けれど、まだ半分ほど余白が残っていた。
知らないことは多い。
魔物のこと。
魔法のこと。
この世界のこと。
そして。
隣にいるアムのことも。
今すぐ全部を知る必要はないのだろう。
知らなかったことは、知ればいい。
今日の朝、アムが言った通り。
きっとそれでいい。
ゆうきは余白を指先で軽く撫でてから、メモを二つ折りにした。
その音に気づいたのか、アムが横目でこちらを見る。
「帰る?」
「うん」
「お腹空いた」
「やっぱり」
「何食べる?」
「昼に焼き菓子だけだった人が決めていいよ」
「じゃあ肉」
「急に重いな」
「お腹空いたから」
二人で席を立つ。
アムは読んでいた古い本を元の棚へ戻した。
そのまま離れるかと思ったが、背表紙へ指先を添える。
ほんの短い間だけ。
何かを確かめるように。
やがて手を離すと、何事もなかったようにゆうきへ振り返った。
「行こ」
「うん」
二人は並んで歩き出した。
高い窓から差し込む夕方の光が、長く伸びた二人の影を静かな図書館の床へ重ねていた。




