最終話 「約束」 後編
最初の一歩で、石床が砕けた。
カイの姿が銀色の残光を引き、暗闇の中を一直線に駆け抜ける。
先ほどまでとは、何もかもが違った。
傷ついた脚とは思えない速さ。
大剣を振り上げる腕には、主の攻撃を受け続けた疲労が残っているはずなのに、その刃は空気を裂き、重い風切り音を残した。
金色の主が反応する。
四枚の翼を広げ、身体の周囲に浮かぶ杯を一斉に傾けた。
無数の光がカイへ集まる。
「そのまま行って!」
スイの声が届く。
カイは避けなかった。
真っ直ぐ走る。
金色の熱線が胸へ触れる。
その瞬間、光が消えた。
音も衝撃も残さず、最初から何もなかったように。
絶対防壁。
二回目。
主の動きが一瞬だけ止まる。
カイはその隙を逃さない。
両足で踏み切り、巨体の胸元まで跳び上がった。
大剣を両手で握る。
全身の筋肉が軋む。
右肩の傷が開き、血が飛ぶ。
それでも、刃は止まらない。
「おおおおっ!」
大剣が金色の胸部へ叩きつけられた。
今まで弾かれていた皮膚へ、刃が深く食い込む。
主の身体を覆う魔力が、攻撃を押し返そうと集まる。
だが、その流れは遅い。
《私の世界》によって魔力効率を奪われ、再生も防御も鈍っている。
カイは刃を押し込んだまま、身体をひねった。
傷口が大きく裂ける。
金色の液体が吹き出し、暗闇へ散った。
主が咆哮する。
前脚がカイへ振り下ろされた。
速い。
それでも、今のカイには見えていた。
刃を引き抜き、主の胸を蹴る。
飛び退いた直後、前脚が空を切った。
地面へ着地するより先に、カイは再び踏み込む。
身体が追いつかないほどの力。
一歩ごとに脚の筋肉へ痛みが走る。
それでも、スイの魔力が傷を癒やし、失った力を補っていく。
「速すぎる……!」
スイは《ハク》を構えながら、カイの動きを追う。
以前なら、自分の射線から外れないよう速度を抑えていた。
今は違う。
認識できるすべてが《私の世界》の内側にある。
距離は関係ない。
カイがどれほど速く動いても、位置も呼吸も傷の状態も、すべてが手に取るように分かる。
その先にいる主の魔力も。
守られているものも。
腹部の奥。
第二段階へ移行した際、透明な杯は砕けた。
しかし、その中に満ちていた金色の力は消えていない。
主の身体全体へ広がり、新たな肉体を作っている。
中心はない。
どこを壊しても、残る部分が力を集めれば再生する。
けれど、完全に均等ではなかった。
「カイ、右の翼!」
スイが叫ぶ。
カイは主の前脚を大剣で受け流し、その反動を利用して右側へ回る。
「付け根から!」
「了解!」
右の二枚の翼。
その根元へ、全身から流れる金色の魔力が一度だけ集まっている。
杯へ注がれた力を循環させるための通り道。
大剣が横薙ぎに振るわれた。
一枚目の翼が大きく裂ける。
主が身体を捻り、残る翼でカイを薙ぎ払おうとする。
「伏せて!」
カイが身を低くする。
その頭上を、《コク》の魔力弾が通り抜けた。
黒い弾丸は翼の付け根へ命中し、カイが作った傷を深く抉る。
二枚目の翼が落ちた。
金色の身体が大きく傾く。
周囲に浮かんでいた杯の半分が、光を失って落下した。
「効いてる!」
「次はどこだ!」
スイは主の魔力を追う。
右側を失ったことで、流れは左の翼へ集中している。
だが、主も弱点を理解したらしい。
二枚の翼を身体へ畳み、守るように密着させた。
代わりに、頭上の角へ魔力が集まる。
暗闇に細かな光が生まれた。
無数の星。
一つひとつが金色に輝き、二人へ狙いを定めている。
「広範囲攻撃!」
スイが認識した瞬間、星が落ちた。
数えられない。
避ける場所もない。
カイはスイの前へ戻ろうとする。
「来なくていい!」
「守るって言っただろ!」
「私が守れる!」
金色の星が暗闇を埋める。
落下。
爆発。
地面も空気も、視界のすべてが光に包まれた。
絶対防壁が発動する。
三回目。
攻撃は二人の身体へ届かない。
けれど、周囲への破壊までは消えなかった。
石床が砕ける。
足場が大きく揺れ、端から暗闇へ崩れ落ちていく。
「あと二回!」
スイの頭へ、残る防壁の数がはっきり流れ込む。
主は防がれたことを恐れなかった。
むしろ、その仕組みを確かめるように白く濁った瞳を細める。
次の杯が持ち上がる。
攻撃を重ね、防壁を削るつもりだ。
「気づかれた」
「五回って分かるのか?」
「数までは分からなくても、限界があるとは思ってる!」
主の頭上に浮かぶ杯から、金色の鎖が伸びた。
カイの両腕。
脚。
大剣。
目に見えない速度で絡みつく。
カイは振りほどこうとするが、鎖は身体へ食い込み、動きを封じた。
「ぐっ……!」
「カイ!」
スイは《ハク》を撃つ。
一発目が鎖へ当たる。
弾かれた。
二発目。
三発目。
同じ場所へ続けて撃ち込み、ようやく一本が切れる。
その間に主の口が開いた。
狙いはカイ。
金色の光が限界まで圧縮される。
「防いで!」
カイが叫ぶ。
だが、スイは防壁を使わなかった。
残りは二回。
ここで使えば、主は同じ攻撃を繰り返す。
防壁が消えた後に、本命を撃たれる。
スイは《コク》を構えた。
主の口ではない。
鎖を生み出している杯。
その中心を狙う。
「自分で避けて!」
「無茶言うな!」
「今のカイならできる!」
黒い魔力弾が杯を撃ち抜く。
鎖が一瞬緩んだ。
カイは両腕へ力を込める。
《愛は自由だ!!!》が、仲間を守りたいという意志へ応える。
銀色の魔力が爆発する。
鎖が内側から引き千切られた。
同時に、主の口から金色の奔流が放たれる。
カイは地面を蹴った。
間に合わない。
そう見えた。
だが、身体が光を置き去りにする。
金色の奔流が髪の先を掠め、背後の石床を消し飛ばした。
カイは主の顎の下へ潜り込む。
「もらった!」
大剣を斜めに振り上げる。
刃が顎を裂き、口の中へ集まっていた魔力を破裂させた。
爆発。
カイの身体も弾き飛ばされる。
空中で姿勢を整え、地面へ足から着く。
膝が沈み、筋肉が激しく震えた。
「あと何分だ?」
スイは能力が伝える残り時間を確かめる。
「六分ちょっと!」
「十分あるって言っただろ。減るの早くねえか?」
「時間は普通に進んでるよ!」
「もっと長く感じる!」
「カイが速くなってるだけ!」
主が倒れかけた身体を起こす。
顎から金色の液体が流れている。
右の翼は失われたまま。
左の翼にも負担が集中し、膜へ無数のひびが走っていた。
弱っている。
確実に。
しかし、倒すには足りない。
スイは主の内側へ意識を深く伸ばした。
認識している世界すべてが能力範囲となる。
なら、見えるものだけを追う必要はない。
主の魔力。
流れ。
失われた翼を補うための動き。
攻撃に使われる力。
再生しようとする力。
それらを一つずつ辿っていく。
すべては全身を巡っている。
それでも、始まりはある。
第二段階へ移行した際、透明な杯から溢れた力。
その最初の一滴が触れた場所。
胸の中央。
心臓ではない。
核でもない。
契約のような、細い紋様。
鱗の内側へ刻まれた、杯の印。
「見つけた」
スイが呟く。
「何が?」
「力を繋いでる場所。胸の奥に小さな紋様がある」
「そこを斬れば終わるか?」
「魔力の循環は止まる。でも、外からじゃ届かない」
「開ければいいんだろ」
カイは大剣を構えた。
簡単に言う。
だが、その声に無謀さはなかった。
自分が何をするべきか理解した上で、必要なことを口にしている。
「私が左の翼を落とす」
「その後は?」
「主の魔力が胸へ戻る。その瞬間だけ、防御が薄くなる」
「俺が斬る」
「一撃で」
「任せろ」
主が動いた。
左の翼を大きく振るい、残る杯をすべて身体の周囲へ集める。
守りを固めるつもりではない。
杯同士が重なり、一つの巨大な器へ形を変えていく。
暗闇の上部から、金色の液体が流れ込む。
「また大きいのが来る!」
「撃てるか?」
「撃つ!」
スイは《ハク》と《コク》を構える。
残る魔力は、覚醒による回復で補われ続けている。
それでも無限ではない。
二丁へ込めれば、自分を守る力が薄くなる。
構わなかった。
ここで倒せなければ、十分後には何も残らない。
主の巨大な杯が傾く。
金色の海が、二人へ落ちてきた。
逃げ場はない。
スイは一歩も動かない。
「カイ、翼まで走って!」
「スイはどうする!」
「防ぐ!」
「残り二回だろ!」
「一回で十分!」
海が迫る。
カイは一瞬だけ迷う。
スイを見る。
その目に恐れはあった。
それでも、揺らいではいない。
信じろ。
言葉にされなくても伝わる。
カイは背を向け、主へ走った。
「絶対無事でいろよ!」
金色の海がスイを飲み込む。
絶対防壁。
四回目。
世界が光に埋め尽くされる中、スイの周囲だけが静かだった。
一滴も触れない。
一切の衝撃もない。
その代わり、残る防壁は一回。
スイは二丁を上へ向けた。
主の左翼。
海を放つため、身体から離れて広がっている。
守りは薄い。
《ハク》を撃つ。
速射された白い弾丸が翼の膜へ無数の穴を開ける。
続けて《コク》。
黒い弾丸が翼の付け根を貫いた。
ひびが走る。
まだ落ちない。
スイは残る魔力を二丁へ流し込む。
腕が震える。
銃身が悲鳴のような音を上げた。
「落ちて!」
白と黒の魔力が、同時に翼へ突き刺さる。
付け根が砕けた。
左の翼が、巨大な板のように暗闇へ落ちていく。
主の身体からすべての翼が失われる。
周囲の杯が形を保てなくなり、次々と割れた。
金色の海が消える。
主の全身を巡っていた魔力が、行き場を失った。
予想通り。
胸へ戻る。
「カイ!」
スイの声が暗闇へ響く。
カイはすでに走っていた。
主の前脚が道を塞ぐ。
大剣を横へ振るう。
刃が脚へ食い込む。
そのまま切り抜ける。
金色の皮膚が裂ける。
主がもう片方の前脚を振り下ろす。
カイは止まらない。
《愛は自由だ!!!》がさらに強く応える。
スイが後ろにいる。
最後の防壁を残して。
すべてを託している。
その信頼が、身体能力を限界へ近づける。
前脚が背中へ触れる直前、カイの姿が消えた。
衝撃が地面を砕く。
カイは主の胸元へ跳び上がっていた。
大剣を振りかぶる。
胸の表面には、金色の魔力が集まり始めている。
主も弱点を守ろうとしていた。
「間に合え!」
カイが大剣を振り下ろす。
刃が金色の防御へぶつかる。
止まった。
胸まで、あと僅か。
主の魔力が押し返す。
カイの両腕が震える。
筋肉が裂けるように痛む。
大剣の刃へ、新たな亀裂が走った。
「ぐっ……あああっ!」
押し切れない。
主の魔力は弱っていても、なお強大だった。
スイは《私の世界》を通して、そのすべてを感じていた。
カイの筋肉。
骨。
傷。
大剣。
主の防御。
自分の残る魔力。
あと一回の防壁。
残り時間。
三分。
このままでは届かない。
スイは《ハク》を構えた。
狙うのは主ではない。
カイの大剣。
「カイ、押して!」
「押してる!」
「もっと!」
「無茶言うな!」
「今さらでしょ!」
《ハク》を撃つ。
白い魔力弾が大剣の背へ当たった。
味方への攻撃ではない。
《私の世界》の加護を乗せた、純粋な魔力の押し出し。
一発。
二発。
三発。
弾丸が当たるたび、大剣が少しずつ前へ進む。
カイは歯を食いしばる。
銀色の魔力がさらに濃くなる。
「俺たちは――!」
刃が防御を割る。
「二人で――!」
金色の壁へ亀裂が走る。
「帰るんだよおおおっ!」
大剣が主の胸へ届いた。
皮膚を裂き、奥へ刻まれていた杯の紋様を斬り抜く。
音が止まった。
主の巨体が動きを止める。
白く濁っていた瞳が大きく開く。
胸の奥。
杯の紋様に、細い亀裂が走った。
そこから金色の光が漏れ出す。
一本。
二本。
主の全身へ、同じ亀裂が広がっていく。
「離れて!」
スイが叫ぶ。
カイは大剣を引き抜こうとする。
だが、刃が傷口へ深く食い込み、すぐには抜けない。
主の身体が膨れ始める。
内部の魔力が暴走している。
「カイ!」
スイは最後の防壁を意識する。
守ろうとした対象への攻撃を、完全に無効化する。
カイを包む。
その瞬間、主の身体が金色の光となって弾けた。
絶対防壁。
五回目。
大爆発。
暗闇が金色に染まる。
衝撃はスイの身体を遠くへ押し流した。
防壁が守ったのはカイへの攻撃。
周囲の崩壊までは止められない。
石床が割れる。
暗闇の空間そのものが揺らぐ。
スイは地面へ転がり、何度も身体を打ちつけた。
「カイ!」
返事はない。
金色の光が薄れていく。
主の巨体は消えていた。
その場には、崩れた大剣と、片膝をつくカイの姿だけが残っている。
「カイ!」
スイは立ち上がろうとする。
脚に力が入らない。
《私の世界》はまだ続いている。
カイの気配も感じる。
生きている。
傷も、致命的ではない。
それでも、声を聞くまで安心できなかった。
「返事して!」
「……聞こえてる」
掠れた声。
カイは大剣を支えに、ゆっくりと顔を上げた。
全身が震えている。
覚醒の反動が、すでに始まっていた。
「倒したか?」
スイは周囲を見る。
主の魔力はない。
金色の杯も。
第二段階を形作っていた力も。
すべて消えている。
「うん。倒した」
「そうか」
カイは笑おうとした。
けれど、顔の筋肉まで痛むのか、わずかに口元が引きつっただけだった。
「筋肉痛で済みそうだな」
「それ、筋肉痛って言わないと思う」
「動けてるから平気だ」
「大剣にしがみついてるだけでしょ」
スイはどうにか立ち上がり、カイのところまで歩く。
一歩ごとに身体が重くなる。
《私の世界》の残り時間は一分を切っていた。
二人が並んだところで、暗闇が崩れ始める。
黒い景色へ細かな亀裂が走り、その向こうから元の広場が見えた。
金色の川。
石橋。
最奥の建物。
暗闇は主が作り出した隔離空間だったらしい。
主が消えたことで、維持できなくなった。
景色が戻る。
同時に、《私の世界》の効果も終わった。
認識していたすべてとの繋がりが、一斉に切れる。
スイの身体から力が抜けた。
「わっ」
カイの肩へ寄りかかる。
「重い」
「支えてよ」
「俺も限界なんだけど」
「それでも支えて」
「仕方ねえな」
カイは大剣から片手を離し、スイの背へ回した。
腕は震えている。
それでも、離さない。
スイもカイの腰へ腕を回し、互いに寄りかかる。
《私の箱庭》は使えない。
感覚で分かる。
一週間。
《私の世界》も、《私の箱庭》も発動しない。
カイの覚醒も解除されていた。
限界まで維持しなかったため、動けなくなるほどではない。
だが、全身へ強い筋肉痛が広がり、少し動かすだけでも顔をしかめている。
二人はその場へ座り込んだ。
しばらく、何も話さなかった。
荒い呼吸。
遠くを流れる金色の水。
崩れた石が落ちる音。
それだけが広場に残る。
やがて、最奥の建物の扉から低い音が響いた。
二人が顔を上げる。
主が倒れたことで、閉ざされていた扉がゆっくりと開いていく。
隙間から、柔らかな金色の光が流れ出した。
甘い香り。
これまでより濃く、それでいて鼻につかない。
神の酒。
二人が探し続けてきたものは、あの先にある。
カイの耳がゆっくり立つ。
「行くか」
「今?」
「ここまで来たんだぞ」
「休んでから」
「見るだけ」
「絶対飲もうとするでしょ」
「一口だけ」
「駄目」
「まだ飲めるとも決まってねえだろ」
「決まってないから駄目なの」
言い合える程度には、二人とも生きている。
そのことが可笑しくて、スイは小さく笑った。
カイもつられる。
笑うと筋肉が痛むらしく、すぐに腹を押さえた。
「痛え……」
「無理に笑うから」
「スイが笑うからだろ」
「人のせいにしないで」
しばらく休んだ後、二人は立ち上がった。
歩く速度は遅い。
カイは大剣を杖代わりにし、スイはその腕を支える。
どちらが支えているのか分からない。
それでも、二人で進んだ。
最奥の建物へ入る。
中は酒蔵に似ていた。
壁際には大小さまざまな樽が並び、天井から下がる水晶灯が琥珀色の光を落としている。
奥には、白い石の台座。
その上に一本の瓶が置かれていた。
透明な瓶。
中には淡い金色の液体。
香りの中心は、間違いなくそこだった。
カイが息を呑む。
「本当にあった」
「うん」
その声は、先ほどまでの戦いが嘘だったように静かだった。
スイは瓶へ近づく前に、周囲を調べる。
《私の箱庭》は使えない。
目と手と、これまでの経験だけが頼りだった。
床。
台座。
瓶の周囲。
罠らしいものはない。
台座には古い文字が刻まれている。
「読めるか?」
「少しだけ」
スイは指で文字を追う。
「《主を越え、共に辿り着いた者へ。最後の一滴を分かち合う資格を与える》」
「最後の一滴?」
「全部は持って帰れないのかも」
瓶の中には二杯分ほどの酒が入っている。
その横には、二つの小さな杯が置かれていた。
二人で飲むため。
初めから、そう作られていたように見える。
カイは杯を手に取ろうとして、スイに手を叩かれた。
「先に調べる」
「杯まで?」
「当たり前でしょ」
「ここまで来て毒はねえだろ」
「神様の酒が普通の身体に合うとは限らない」
「一口なら平気だ」
「その自信はどこから出てくるの?」
結局、瓶も杯も時間をかけて調べた。
危険な術式は見つからない。
瓶の封を開けると、季節の記憶を混ぜたような香りが広がった。
春の花。
夏の雨。
秋の果実。
冬の冷たい空気。
スイは二つの杯へ同じ量を注いだ。
カイが片方を受け取る。
「乾杯するか」
「何に?」
「ボスを倒したこと」
「それだけ?」
「ここまで生きてきたこと。二人で帰れること。それと、いつかみんなを見つけること」
スイは少しだけ目を伏せた。
探し始めて五年。
まだ一人も見つかっていない。
それでも、諦めてはいない。
「全部にしよう」
「ああ」
二つの杯を軽く触れ合わせる。
澄んだ音が、酒蔵へ響いた。
神の酒を口に含む。
強い味ではなかった。
最初は澄んだ水のように柔らかく、次に果実の甘さが広がる。
最後に、身体の奥へ温かな熱が残った。
疲労や傷が消えるわけではない。
けれど、長い旅の途中で忘れていたものが、少しだけ戻ってきたような気がした。
スイの脳裏へ、一瞬だけ白い景色が浮かぶ。
白い天井。
小さな光。
誰かの手。
すぐに消えた。
隣を見ると、カイも杯を見つめている。
「何か見えた?」
「分からねえ。昔の夢みたいな」
「私も」
それ以上は話さなかった。
言葉にしてしまえば、形が変わる気がした。
杯を空にすると、瓶の底には僅かな酒が残った。
スイはすぐに封を戻す。
「これはみんなの分」
「一口ずつもねえだろ」
「見つけるまでに増える方法を探す」
「酒って増やせるのか?」
「知らない。でも、カイに持たせるよりは残る」
「失礼だな」
「事実でしょ」
瓶を丁寧に包み、スイの荷物へしまう。
その直後。
台座の後ろで石が動く音がした。
壁が左右へ開く。
隠し部屋。
中には古い魔道具や巻物、用途の分からない金属片が並んでいる。
そして中央。
黒い木で作られた宝箱が一つ置かれていた。
銀色の縁取り。
蓋に刻まれた、時計の針と星を組み合わせた紋様。
カイの目が輝く。
「宝箱!」
先ほどまで筋肉痛で動けないと言っていた男が、急に足を速めた。
「待って!」
「見るだけ!」
「絶対開けようとしてる!」
「開ける前に見る!」
「それ同じだから!」
スイも追う。
カイは宝箱の前へしゃがみ込み、蓋へ手を伸ばす。
「カイ!」
「罠がないか触って確かめるだけだって」
「触る前に調べるの!」
「もうボス倒した後だぞ。報酬の箱に決まってる」
「ダンジョンは最後まで何があるか分からないでしょ!」
カイの指が蓋の縁へ触れる。
その瞬間。
腰の道具袋が淡く光った。
「ん?」
カイが手を止める。
袋の中から、金属の震える音がした。
取り出したのは、小さな青黒い円盤。
中央には透明な石。
外周には、宝箱と同じ星と針の紋様が刻まれている。
スイの表情が固まった。
「何それ」
「前に遺跡で拾ったやつ」
「いつ?」
「二年くらい前」
「なんで今まで言わなかったの?」
「用途分からなかったし、売れなかったから」
「そんなもの持ち歩かないでよ!」
円盤の石が青白く点滅する。
宝箱の紋様も、同じ間隔で光り始めた。
一度。
二度。
三度。
カイの笑みが消える。
「これ、やばいやつか?」
「すぐ離れて!」
スイがカイの腕を掴む。
だが、円盤は手から離れなかった。
透明な石から伸びた細い光が、指へ絡みついている。
「取れねえ!」
「魔力を止めて!」
「流してない!」
宝箱の内部で、何かが回転する音が響く。
時計の針の紋様が動き出した。
円盤も同じ速度で回る。
二つの術式が互いを呼び合い、青白い光を強めていく。
宝箱の蓋が僅かに浮いた。
「開けてないよね!?」
「触っただけだ!」
「触るなって言ったでしょ!」
蓋の隙間から、暗闇が漏れる。
ただ暗いのではない。
何も存在しない空間。
光も空気も、すべてが吸い込まれていく。
床に落ちていた埃が浮かび上がった。
巻物が揺れる。
金属片が宝箱へ向かって滑り始める。
「転移トラップ!」
スイはカイを引き離そうとする。
吸引が一気に強まった。
二人の身体が床を滑る。
カイは咄嗟に大剣を床へ突き立てた。
片手で柄を掴み、もう片方でスイの腕を掴む。
「箱を閉めろ!」
「近づけないよ!」
宝箱の蓋はさらに開いていく。
中には何もない。
その向こうへ、無数の景色が流れている。
森。
雪原。
海。
都市。
見たことのない空。
場所だけではない。
季節も、時間も違う。
「ただの転移じゃない」
スイの声が震える。
「時間まで繋がってる!」
円盤の透明な石へ亀裂が走る。
宝箱の周囲で、空間が歪む。
細い黒い線。
音もなく左右へ伸びていく。
裂け目。
世界そのものが、内側から引き裂かれていた。
「円盤を捨てて!」
「手から離れねえ!」
「じゃあ箱に投げ込んで!」
「俺まで引っ張られる!」
大剣が少しずつ床から抜けていく。
筋肉痛で力が入らない。
覚醒は終わっている。
《私の箱庭》も使えない。
先ほどまであった力は、もうどこにも残っていなかった。
スイはカイの腕へしがみつく。
「戻るって約束したでしょ!」
「戻るつもりだ!」
「だったら宝箱に触らないでよ!」
「だから、開けるつもりはなかったって!」
宝箱の吸引がさらに強まる。
壁際の魔道具が次々と飛び、暗闇へ消える。
古い巻物。
魔石。
金属片。
すべて音も残さない。
大剣が床から抜けた。
「うわっ!」
二人の身体が宙へ浮く。
カイは大剣を横へ投げ、宝物庫の入口へ引っかけた。
柄を両手で掴む。
スイはカイの腰へ腕を回す。
二人の身体が空中で止まった。
だが、大剣の刃は少しずつ石を削っている。
長くは持たない。
円盤の中央にある石が完全に砕けた。
青白い光が爆発する。
空間の裂け目が一気に広がった。
宝箱だけではない。
壁も。
天井も。
二人の背後まで、黒い亀裂が走る。
「カイ、何かして!」
「何かってなんだよ!」
「その道具の持ち主でしょ!」
「拾っただけだ!」
「なんで拾ったの!?」
「宝っぽかったから!」
「そういうところだよ!」
大剣がさらに滑る。
入口まで、あと僅か。
手を離せば飲み込まれる。
けれど、握っている腕も限界だった。
カイの道具袋が開いた。
中から、小さな木製の駒が飛び出す。
仲間のために用意していた駒。
一つ。
二つ。
空中を舞い、宝箱へ吸い込まれていく。
カイの目が見開かれた。
「待て!」
片手を伸ばす。
「カイ!」
大剣を掴む手が離れた。
スイは咄嗟にカイの腕を掴む。
二人の身体が一気に宝箱へ引かれる。
「何してるの!」
「駒が!」
「命より大事なの!?」
「大事だけど、今は命の方が大事だ!」
「じゃあ手を伸ばさないでよ!」
宝箱の暗闇が目前へ迫る。
空間の裂け目が二人を囲む。
逃げ道はない。
スイはカイの服を強く掴んだ。
《私の箱庭》は使えない。
それでも、離れないように。
どこへ飛ばされても。
何が待っていても。
少なくとも一人にはならないように。
カイもスイの腰へ腕を回す。
「悪い!」
「何回目!?」
「帰ったら謝る!」
「帰れたらじゃなくて、絶対帰るの!」
「分かってる!」
二人の足が暗闇へ触れる。
感覚が消える。
身体の輪郭が細く伸び、音が遠ざかっていく。
酒蔵。
宝物庫。
大剣。
神の酒。
すべてが光の線へ変わる。
カイはそれでも、どこか興奮したように裂け目の奥を見た。
「これ、どこに繋がってんだろうな!」
「今それ言う!?」
「だって気になるだろ!」
「気にならないよ!」
空間が完全に裂けた。
二人の身体が暗闇へ飲み込まれる。
最後までスイはカイの服を離さなかった。
そして、崩れていく世界の中。
スイの声だけが、長く長く響き渡った。
「だから、ダメって言ったじゃーーーん!!!!!」




