エピローグ 五百年後の世界
落下しているのか。
浮かんでいるのか。
それすら分からなかった。
光の筋が無数に流れ、引き延ばされた景色が二人の周囲を通り過ぎていく。森の緑が見えたと思えば、次には雪に覆われた山が現れ、知らない街の灯りが瞬きをする間もなく後方へ消えていった。
カイの腕は、スイの腰に回されたままだった。
スイもまた、両手でカイの服を掴んでいる。
姿が見えなくなりそうになるたび、指へ力を込めた。触れている感覚だけが、二人が離れていないことを教えてくれる。
「カイ! いる!?」
「いる! 離すなよ!」
「カイが離さないでよ!」
「離してねえだろ!」
二人の声は、どこまでも伸びていく光の中でひどく遠く聞こえた。
上下もない空間が大きく揺れる。
次の瞬間、二人の身体が何かに引かれた。
進む方向が突然変わる。
目の前へ、緑色の光が迫った。
「ぶつかる!」
「何に!?」
「知らないよ!」
白い光が視界を覆う。
身体が投げ出された。
枝の折れる音。
葉が舞い上がり、硬い地面が背中へぶつかる。
「ぐえっ……!」
カイの口から、普段なら絶対に出さないような声が漏れた。
その上へ、少し遅れてスイが落ちる。
「わっ!」
「重っ!」
「失礼だよ!」
「落ちてきた勢いの話だ!」
スイは慌ててカイの上から退こうとした。
しかし、全身に力が入らない。
《私の世界》を使った反動に加え、転移の衝撃まで受けた身体は、少し動かすだけでも悲鳴を上げた。
結局、横へ転がるだけで精一杯だった。
二人は並んで草の上へ仰向けになる。
頭上には、木々の間から青い空が見えた。
細い雲がゆっくり流れている。
鳥の声。
風に揺れる葉。
湿った土と苔の匂い。
先ほどまでいたダンジョンの、重く閉ざされた空気はどこにもない。
「森……?」
スイは息を整えながら呟いた。
「みたいだな」
カイは右手を持ち上げようとし、すぐに諦めた。
覚醒の限界までは使わなかった。
そのため二十四時間行動不能という最悪の反動は免れている。
それでも、全身の筋肉には強い痛みが残っていた。
腕を上げるだけでも、肩から背中まで引き攣る。
「生きてるな」
「うん」
「二人ともいる」
「うん」
「酒は?」
スイはゆっくりと身体を起こした。
荷物を確認する。
上着。
水筒。
薬。
保存用の布。
そして、その奥に丁寧に包んだ小瓶があった。
淡い金色の液体が、木漏れ日を受けて静かに揺れている。
「あるよ」
「よし」
カイは安堵したように息を吐いた。
「最初に確認するの、それなんだ」
「スイがいるのは見れば分かるだろ」
「言い方」
「心配してないわけじゃねえって」
スイは瓶を包み直し、荷物の奥へしまった。
幸い、二丁の魔法拳銃《双雷鳥》も腰に残っている。
《ハク》も《コク》も傷はあるが、使えないほどではない。
カイの方へ目を向ける。
背中にあるはずの大剣がなかった。
「カイ、剣は?」
「……ない」
カイはゆっくりと周囲を見回した。
地面には折れた枝と散った葉。
二人が落ちてきた場所だけ、草が大きく押し潰されている。
転移へ飲み込まれる直前、大剣は宝物庫の入口へ引っかけたままだった。
最後に二人の身体が吸い込まれた時も、カイの手にはなかったはずだ。
「置いてきたか」
カイは寂しそうに呟く。
里を出た頃から使い続けてきたものではない。
それでも、旅の途中で手に入れ、何度も研ぎ直しながら共に戦ってきた剣だった。
《黒杯の番獣》との戦い。
最奥の主との戦い。
最後まで二人を守ってくれた。
「戻る方法が見つかったら、取りに行けるかもしれないよ」
「ダンジョンがまだ残ってればな」
「カイの変な道具がもう一つあれば」
「そんな簡単に拾えるもんじゃねえよ」
「そもそも拾わないで」
「役に立っただろ」
「どこが!?」
「俺たちをここへ運んだ」
「行き先分からないのに!?」
スイの声に驚いた鳥が、近くの枝から飛び去った。
羽音が森の奥へ消えていく。
二人は顔を見合わせる。
言い合っている場合ではなかった。
ここがどこなのか。
ダンジョンからどれほど離れたのか。
そもそも同じ国なのかすら、何一つ分からない。
「とりあえず、動けるようになるまで休もう」
「賛成」
カイは再び草の上へ横になった。
スイも近くの木へ背を預ける。
《私の箱庭》は使えない。
能力を発動しようとしても、何も応えなかった。
覚醒の際に流れ込んできた情報どおり、これから一週間は《私の箱庭》も《私の世界》も使用できない。
回復能力に頼れない以上、傷と疲労は薬と休息で治すしかなかった。
二人は残った薬を使い、傷の手当てをした。
カイの肩。
右腕。
脚。
スイの腹部と肩。
幸い、どれもすぐに命へ関わる傷ではない。
だが、十分に休まず森を歩けば、途中で動けなくなる可能性はあった。
カイは干し肉を口に入れながら、木々の間を見渡した。
「魔物の気配は?」
「能力が使えないから、いつもみたいには分からない」
スイは狐耳を動かす。
聞こえるのは鳥と虫。
小動物が草を踏む音。
今のところ、大型の魔物が近くにいる様子はない。
「静かすぎる気もする」
「街の近くかもしれねえな」
「どうして?」
「人がいる森は、強い魔物が減るだろ」
「誰かが定期的に討伐してるってこと?」
「ああ。道が見つかれば、街か村には出られるかもな」
食事を終え、しばらく休む。
太陽が木々の上を少し移動した頃、二人はどうにか立ち上がれる程度まで回復した。
歩くたび筋肉は痛む。
それでも、転移直後よりはましだった。
カイは木の枝を拾い、杖代わりにする。
「似合うね」
「何が?」
「おじいちゃんみたい」
「十八歳だぞ」
「歩き方は八十歳くらい」
「スイも似たようなもんだろ」
「私は七十歳くらい」
「十歳しか変わらねえじゃん」
二人は木漏れ日の向きを確かめ、緩やかに傾斜している方へ歩き始めた。
水は低い場所へ流れる。
川や沢を見つければ、人が使う道へ繋がる可能性がある。
森は深い。
見覚えのある樹木も多いが、ところどころに知らない植物が混ざっていた。
青い実をつける低木。
触れると葉を閉じる草。
風もないのに淡く光る花。
和の国周辺では見たことがない。
「かなり遠くまで飛ばされたのかな」
スイは青い実を避けながら歩く。
「国を越えた可能性もあるな」
「ダンジョンに戻るだけでも大変そう」
「帰り道は後で探す。まず現在地だ」
「うん」
二人は目印を木へ残しながら進んだ。
カイは短剣を持っていないため、スイのショートソードを借りて樹皮へ浅く傷をつける。
《双雷鳥》を得た後も、スイは以前使っていたショートソードを予備として持ち歩いていた。
「これ、懐かしいな」
カイが細い刃を眺める。
「返してよ」
「まだ何もしてねえだろ」
「カイが持つと壊しそう」
「大剣みたいには使わねえよ」
「振り回さないでね」
「分かってるって」
しばらく進むと、水の音が聞こえた。
細い沢。
透明な水が石の間を流れている。
二人は匂いと色を確かめ、魔道具を使って毒がないことを調べてから水筒へ汲んだ。
沢に沿って歩く。
足元は次第になだらかになり、木々の間隔も広がっていった。
人の手が入った痕跡がある。
折れた枝が片づけられ、歩きやすい道が作られている。
さらに進んだところで、カイが足を止めた。
「スイ」
「なに?」
「あれ」
カイが指した先。
大きな木の根元に、何かが落ちていた。
最初は倒木の一部に見えた。
黒に近い金属。
幅の広い長大な刃。
地面へ斜めに突き刺さり、刃の周囲には細かな草が押し倒されている。
大剣だった。
「俺の……じゃねえな」
カイはゆっくりと近づく。
形は、これまで使っていた大剣に似ている。
だが、明らかに違う。
刀身は深い紺色で、光の角度によって星のような銀の粒が浮かんだ。刃の中央には、細い金色の線が根元から先端まで通っている。
鍔は翼を広げた獣の形。
柄には黒い革が巻かれ、その隙間に古代文字が刻まれていた。
カイが手を伸ばす。
「待って」
スイがすぐに止めた。
「今度はちゃんと調べるから」
「宝箱じゃねえぞ」
「宝箱じゃなくても調べるの」
「分かったよ」
カイは素直に手を引っ込めた。
先ほどの転移で少しは懲りたらしい。
スイは剣の周囲を慎重に確認する。
感圧式の罠。
魔法陣。
糸。
不自然な魔力。
《私の箱庭》が使えないため、通常の探知魔法と道具を使って時間をかけて調べる。
剣そのものから強い魔力を感じる。
だが、攻撃的なものではない。
剣の周囲へ、非常に穏やかな力が流れていた。
押し倒されていた草の一部が、ゆっくりと起き上がっている。
折れていた茎が繋がり、傷ついた葉が薄い光に包まれていた。
「回復してる……?」
スイはしゃがみ込み、草へ触れる。
魔法を使った形跡ではない。
剣が存在しているだけで、周囲の生命へ僅かな回復効果を与えている。
「触っても大丈夫そう」
「じゃあ、持ってみる」
カイが柄を握った。
瞬間。
大剣の中央を走る金色の線が淡く光る。
カイの身体にも、同じ光が流れた。
「カイ?」
「痛みが……少し引いてる」
右腕を動かす。
完全に治ったわけではない。
筋肉痛も残っている。
それでも、先ほどより明らかに身体が軽くなっていた。
肩の傷へ触れると、開きかけていた部分がゆっくりと閉じていく。
「使用者に回復能力を与える武器みたい」
「すげえな」
カイは片手で大剣を引き抜いた。
見た目は重そうだが、持ち上げた動作は滑らかだった。
剣が使用者へ合わせて重量を調整しているのかもしれない。
刀身に刻まれていた文字が、カイの魔力へ反応して浮かび上がる。
スイは古代文字を目で追った。
「《傷を負いし者に癒やしを。守る者に尽きぬ歩みを》」
「俺向きだな」
「その下に名前がある」
文字は古い。
だが、銀の杯に使われていたものと近い。
「《神剣――》」
スイは最後の部分を慎重に読み取る。
「《廻生のアスクレヴ》」
カイが大剣を持ち上げる。
刀身に星のような光が流れ、周囲へ柔らかな風が広がった。
「神剣ってことは、神話級か?」
「たぶん」
「ダンジョンの報酬だな」
「宝箱の中に入ってたのかな」
「俺の大剣が向こうに残って、代わりにこいつが一緒に飛ばされたのかもな」
時空系の宝箱。
共鳴した円盤。
神話級の大剣。
偶然とは思えない。
宝箱は中に入っていた報酬だけでなく、周囲にあったものまで転移へ巻き込んだ。
その中で大剣だけが、少し離れた場所へ落ちたのだろう。
「これが報酬なら、あの宝箱は罠と報酬を兼ねてたのかも」
スイは考えながら呟く。
「開けた奴を飛ばす代わりに、武器はくれる?」
「割に合わねえな」
「カイが触らなかったら、普通に武器だけ取り出せたかもしれないよ」
「円盤が勝手に反応したんだろ」
「宝箱へ近づかなければ反応しなかったかも」
「結果的に剣は手に入った」
カイは満足そうに笑った。
「反省してる?」
「してる」
「本当に?」
「次からは触る前にスイを呼ぶ」
「最初から隣にいたよ!」
スイの声が森へ響く。
カイは神剣《廻生のアスクレヴ》を背中へ収めようとした。
鞘はない。
どうするのかと見ていると、剣が光へ変わり、カイの手の甲へ小さな紋様となって収まった。
「消えた」
「呼べる気がする」
カイが手を握る。
紋様が光り、大剣が再び現れた。
もう一度念じると、また手の甲へ戻る。
「便利だな」
「落とす心配はなさそうだね」
「前の剣にも欲しかった」
カイの声には、少しだけ寂しさが混じった。
スイは何も言わず、歩き出す。
戻る方法が見つかるまで、あの大剣を諦める必要はない。
今は先へ進むしかなかった。
神剣の回復効果のおかげで、二人の歩みは先ほどより軽くなった。
急速に傷を治すものではない。
けれど、歩いている間も少しずつ疲労が和らぎ、筋肉の痛みが薄くなっていく。
日が傾き始めた頃。
森の出口が見えた。
木々の向こうへ、広い街道が伸びている。
土を固めただけの道ではない。
平らな石が敷かれ、両端には一定の間隔で魔法灯が設置されていた。
遠くから馬車が近づいてくる。
車輪の形。
荷台。
騎手の服装。
どれも見慣れたものに似ている。
けれど、細かな部分が違った。
馬車には小型の魔石装置が取りつけられ、馬の負担を軽減している。車輪も木製ではなく、金属と魔物素材を組み合わせたものだった。
「ずいぶん豪華な街道だな」
「大きな都市の近くかも」
二人は通行の邪魔にならないよう道端へ寄る。
通り過ぎる馬車の御者がこちらを見た。
スイの耳と尾。
カイの銀狼の特徴。
一瞬だけ目を向けるが、珍しがる様子はない。
獣人が普通に暮らしている地域らしい。
「街の場所、聞くか?」
「うん」
次に通りかかった荷馬車へ声をかける。
御者は年配の男性だった。
「すみません。この近くに街はありますか?」
スイが尋ねると、男性は不思議そうに二人を見る。
「この道を東へ進めば、すぐにセルヴィアだ。歩いても夕方までには着くだろう」
「セルヴィア?」
聞いたことのない街名だった。
カイが続けて尋ねる。
「ここ、何国だ?」
御者はさらに怪訝そうな顔になる。
「アルヴェル王国だが……お前さんたち、森で迷ったのか?」
「まあ、そんな感じです」
転移トラップで飛ばされたと説明しても、信じてもらえるか分からない。
御者は二人の傷んだ服を見て、冒険者が依頼中に道を失ったのだと考えたらしい。
「最近は森で妙な失踪が増えている。あまり奥へ入らん方がいいぞ」
「失踪?」
「原因は分からん。入った者が帰ってこないこともあれば、まったく別の場所で見つかることもある。ギルドが調べているが、まだ何も掴めていないそうだ」
スイとカイは顔を見合わせた。
時空系の宝箱。
森への転移。
原因不明の失踪事件。
関係がある可能性は高い。
「ありがとうございます」
「気をつけてな」
荷馬車が遠ざかっていく。
二人は東へ向けて歩き始めた。
「俺たち以外にも飛ばされてる奴がいるのか?」
「逆かもしれない」
「逆?」
「この森で消えて、別の場所へ飛ばされてる」
宝箱と同じような時空系の現象が、この周辺で発生している。
円盤が宝箱へ共鳴したのも、単なる偶然ではないのかもしれない。
だが、今の情報だけでは何も分からなかった。
「ギルドで聞くしかないね」
「ああ。ついでに現在地と、ダンジョンへの行き方も調べる」
「神話級の剣は隠しておいた方がいいよ」
「なんで?」
「目立つから」
「背中に出さなきゃ分からねえだろ」
「戦う時も必要になるまで出さないでね」
「分かってる」
夕暮れ前。
街道の先に、セルヴィアの街が見えた。
高い外壁。
大きな門。
壁の上には魔導砲らしき設備が並び、門の両側には騎士が立っている。
和の国で見てきた街とは建築様式が違う。
石造りの家々。
尖った屋根。
通りには魔法灯が並び、日が沈む前から淡い光を灯していた。
門では簡単な身分確認が行われている。
二人は冒険者証を出した。
里を出た後に登録し、長い旅の中で何度も使ってきた金属製の証明板。
受付の騎士は、二人の冒険者証を魔道具へかざした。
薄い光が走る。
騎士の眉が寄った。
「これは……古い形式だな」
「違う国で登録したからか?」
カイが尋ねる。
「いや、国が違っても規格は共通だ。ただ、ずいぶん前に廃止された型に見える」
騎士は何度か魔道具を操作した。
冒険者証そのものは本物と判定されている。
それでも、表示された情報に納得できないらしい。
「街へ入ることは問題ない。だが、ギルドで更新してもらった方がいい。記録に何か不備があるかもしれない」
「分かりました」
門を通り、街へ入る。
通りには多くの人が行き交っていた。
人間。
獣人。
エルフ。
小柄な種族。
見慣れた種族だけでなく、二人が今まで訪れた土地ではほとんど見なかった者もいる。
服装も違う。
魔道具を使う人が多い。
荷物を浮かせて運ぶ道具。
小さな板へ文字を表示する装置。
魔力で温度を保つ飲み物の容器。
一つひとつは理解できる。
だが、どれも二人の知るものより洗練されていた。
「この国、魔道具が進んでるんだな」
「それだけじゃない気がする」
スイは通りに立つ魔法灯を見上げた。
魔力回路が複雑でありながら、小型化されている。
大都市なら似たものがあってもおかしくはない。
それでも、何かが引っかかった。
街の中央付近に、冒険者ギルドはあった。
三階建ての大きな建物。
入口の上には、剣と杖を組み合わせた見慣れた紋章が掲げられている。
二人は扉を開けた。
夕方のギルド内は賑わっていた。
依頼から戻った冒険者。
受付へ報告する者。
酒場で食事を取る者。
掲示板の前で依頼を選ぶ者。
その光景は、五年間の旅で何度も見てきたものと変わらない。
少しだけ肩の力が抜けた。
「まず登録証の確認だな」
「その後に失踪事件も聞こう」
二人は受付の列へ並ぶ。
順番が来ると、若い女性職員が笑顔で迎えた。
「お待たせしました。本日はどのようなご用件でしょうか?」
「冒険者証の記録を確認してほしい」
カイが二枚の証明板を出す。
「門で古い形式だと言われたんだ」
職員は証明板を受け取った。
表と裏を確認し、少し驚いたように目を瞬く。
「確かに、かなり古い型ですね。少々お待ちください」
証明板を読み取り用の台へ置く。
魔法陣が光り、二人の登録情報が空中へ表示された。
名前。
種族。
登録時の年齢。
冒険者ランク。
スイリン。
カイエン。
どちらもBランク。
そこまでは間違っていない。
職員は情報を確認し、指を止めた。
表情から笑みが消える。
「……申し訳ありません。少々確認してまいります」
「何か変なの?」
スイが尋ねる。
「登録日の表示に不具合があるようです。すぐ責任者を呼んでまいりますので、こちらでお待ちください」
職員は冒険者証を台に残したまま、奥の部屋へ入っていった。
カイは空中の文字を覗き込む。
「登録日って、俺たちが十三の時だよな」
「うん。五年前」
表示されている数字は、見慣れない暦だった。
二人が使っていた和の国の暦ではない。
この国のものらしい。
けれど、その横には共通暦へ換算された数字も記されていた。
スイはそこへ目を向ける。
「共通暦……七三二年?」
「俺たちが登録した年だろ」
「でも、今の表示……」
画面の端。
現在年月日として記されている数字。
共通暦一二三二年。
スイは何度も見比べた。
登録年。
七三二年。
現在。
一二三二年。
差は。
「五百……?」
声が震えた。
カイも数字を追う。
指を折るまでもない。
「いや、待て」
空中の表示へ顔を近づける。
「機械の故障だろ。門でも変だって言われたし」
「でも、登録情報は合ってる」
「日付だけおかしい」
「二人とも同じ日付だよ」
「だから、昔の形式を読み間違えてるんだって」
そう言いながら、カイの声にも確信はなかった。
街の魔道具。
見たことのない設備。
洗練された道具。
古い型だと言われた冒険者証。
すべてが、一つの可能性へ繋がっていく。
奥の扉が開いた。
先ほどの職員と、年配の男性職員が戻ってくる。
男性は二人の冒険者証を手にしていた。
「お待たせして申し訳ありません。私は当支部の記録管理を担当しております」
男性は二人の顔を一度見てから、慎重に言葉を選んだ。
「確認しましたが、こちらの冒険者証は偽物ではありません。登録番号も、旧記録庫に存在しております」
カイが受付台へ手をつく。
「じゃあ、日付が間違ってるんだろ?」
「いいえ」
男性は静かに首を横へ振った。
「記録上、スイリン様とカイエン様が冒険者登録を行ったのは、共通暦七三二年です」
スイの狐耳が固まる。
「今は……?」
「共通暦一二三二年です」
周囲の喧騒が遠くなった。
誰かの笑い声。
食器が触れる音。
依頼書を剥がす紙の音。
それらが水の底から聞こえてくるようにぼやけていく。
「五百年前……」
スイの口から、かすれた声が漏れた。
男性職員は戸惑いながら頷いた。
「正確には、登録から五百年と三か月ほど経過しています」
カイは何も言わなかった。
受付台に置いた手が僅かに震えている。
二人にとっては、ほんの少し前だった。
十八歳になり。
伝説級ダンジョンへ入り。
主を倒し。
宝箱へ飲み込まれた。
それだけ。
眠っていた感覚すらない。
身体も十八歳のまま。
なのに、外では五百年が過ぎている。
和の国。
二人の家族。
旅の途中で出会った者たち。
立ち寄った街。
すべてが、五百年前になっている。
「何かの間違いじゃ……」
スイは自分の声が、ひどく遠く感じた。
「登録した支部へ問い合わせれば、別の記録があるかもしれません。ただ、当時の支部が現在も残っているかは……」
男性はそこで言葉を止めた。
五百年。
建物だけでなく、国そのものが変わっていてもおかしくない時間だった。
カイがゆっくりと息を吐く。
「俺たちは、昨日まで十八年前に生まれて、五年前に冒険者になったと思ってた」
「……はい」
「それが、今じゃ五百年前の登録?」
「記録上は、そうなります」
カイは視線を落とした。
冗談を言わない。
笑いもしない。
スイは隣に立ちながら、何を口にすればいいのか分からなかった。
探していた仲間たちは、この時代にいるかもしれない。
いくら探しても見つからなかった。
あの時代から五百年が経ったのなら。
今は、仲間たちがこの世界へ来ている可能性がある。
胸の奥に小さな希望が灯る。
けれど、その希望を喜ぶには、失った時間があまりにも大きかった。
「失踪事件」
スイはふと思い出した。
男性職員が顔を上げる。
「森で、原因不明の失踪が起きていると聞きました」
「はい。半年ほど前から、セルヴィア周辺で発生しています」
「消えた人が、別の場所で見つかることもあるんですよね」
「よくご存じですね。多くは数日から数週間後に発見されています。しかし、本人の感覚では数分しか経っていない事例もあります」
カイが顔を上げた。
「俺たちと同じだ」
「まさか、お二人も?」
「ダンジョンの転移トラップに巻き込まれた。気づいたら森にいた」
職員二人が表情を変える。
年配の男性が身を乗り出した。
「どのダンジョンですか?」
スイは地名と、神の酒が眠ると言われていた伝説級ダンジョンについて説明した。
だが、二人の職員に心当たりはなかった。
五百年前の地名。
国境。
ダンジョンの位置。
現在の地図と照らし合わせなければ、何も分からない。
男性職員はすぐに別の職員を呼び、資料を用意するよう指示した。
「失踪事件との関係も考えられます。お二人には、詳しいお話を伺わせていただきたいのですが……」
「こっちも知りたいことがある」
カイは答えた。
その時だった。
ギルドの入口が開く。
外の光とともに、軽やかな足音が入ってくる。
「ただいまー! 調査依頼、終わったよー。今回も原因は分からなかったけど、森の奥で変な魔力の跡は見つけたから、後で報告書まとめるね」
明るい声。
聞き覚えのある響き。
けれど、五百年という現実を突きつけられたばかりの二人は、すぐに反応できなかった。
入口に現れた人物は、受付へ向かう途中で足を止めた。
人混みの向こう。
受付台の前に並ぶ二人の背中。
淡い色の狐耳。
銀色の狼耳。
腰に下げられた二丁の拳銃。
その人物の手から、抱えていた紙束が滑り落ちる。
床へ紙が散らばった。
ギルド内の何人かが振り返る。
それでも、その人物は紙を拾おうとしなかった。
震える息を吸う。
そして、信じられないものを目にしたような声で、二人の名を呼んだ。
「……すいすい?」
スイの耳が動く。
「かいじゅう……?」
カイの肩が止まった。
二人は同時に振り返る。
そこに立っていた人物を見て、目を見開く。
知らない姿。
知らない服。
それでも。
笑う時の目元。
声の響き。
二人の名前を呼ぶ、その呼び方だけは。
忘れるはずがなかった。
「ぽ……」




