最終話 「約束」 中編
主の周囲を巡っていた金色の霧が、ひとつの巨大な輪へ変わった。
輪の内側では、液体とも炎ともつかない光が渦を巻いている。広場を満たしていた甘い香りは急激に濃くなり、息を止めていても鼻の奥へ入り込んできた。
スイは《私の箱庭》を広げたまま、主の魔力を探る。
中心は腹部。
先ほど《コク》で傷をつけた場所へ、周囲の力が集まっている。
回復のためではない。
もっと大きな何かを形にしようとしていた。
「カイ、正面は駄目!」
「分かってる!」
カイが大剣を引きながら横へ走る。
その足取りは、霧の影響でわずかに揺れていた。本人は真っ直ぐ進んでいるつもりでも、身体が少しずつ外側へ流されている。
スイは領域を通し、進む方向を修正する。
「もう少し内側! そのまま止まらないで!」
「見えてる場所と足元が合わねえ!」
「私の声だけ聞いて!」
金色の輪が大きく広がった。
主の翼が、その中心を抱え込むように閉じる。
次の瞬間。
輪が潰れた。
圧縮された霧と液体が、広場全体へ爆発するように放たれる。
地面から。
空から。
左右から。
逃げ場を塞ぐように、金色の奔流が押し寄せた。
スイは《ハク》を構える。
撃って止められる量ではない。
魔法で押し返しても、広がった全てを散らすことはできない。
なら、道を作る。
「カイ、私の後ろ!」
「逆だろ!」
「今はいいから!」
スイは《ハク》と《コク》を正面へ向ける。
白と黒。
二つの魔力を同時に圧縮し、迫る奔流の中心へ撃ち込んだ。
魔力弾が金色の液体へ食い込む。
一瞬だけ、流れの中心が割れた。
人ひとりが通れる程度の隙間。
「走って!」
スイが先へ踏み出す。
カイは迷わずその背中を追った。
左右から押し寄せた奔流が、二人の肩や腕を掠める。
触れた場所が熱い。
皮膚を焼くような痛みではない。身体の内側へ酒を直接流し込まれたように、血が一気に熱を持つ。
視界が揺れる。
スイは奥歯を噛み、足を止めなかった。
「あと少し!」
「前、塞がるぞ!」
裂けていた流れが戻り始める。
カイが前へ出た。
大剣を両手で横へ構え、左右から迫る奔流を受ける。
刃へ液体がぶつかり、金色の飛沫が弾けた。
「カイ、腕!」
「ここ抜けるまでだ!」
右腕の傷が開く。
柄を握る手から血が流れ、大剣の表面へ赤い筋を作った。
スイは《私の箱庭》の回復を集中させる。
治すためではない。
壊れないよう、ぎりぎりのところで支えるために。
二人は最後の隙間を抜けた。
背後で金色の奔流が重なり、広場の一部を飲み込む。
石床が大きく削れ、金色の水溜まりが残った。
二人はその場へ片膝をついた。
呼吸が苦しい。
身体が熱い。
頭の奥が揺れている。
それでも、倒れてはいない。
主は広場の中央に立ち、二人を見下ろしていた。
先ほどの大技で魔力を大きく消耗している。
翼の光が弱まり、腹部の傷も完全には塞がっていない。
「今なら……いける」
スイが息を整えながら言う。
カイは大剣を支えに立ち上がる。
「弱ってるのは向こうだけじゃねえけどな」
「それでも、今しかない」
主の全身を流れていた魔力は、明らかに鈍っていた。
鱗を守る力も薄い。
先ほどまでなら弾かれていた場所へも、攻撃が届く。
スイは《ハク》を構える。
「腹の奥。さっきの場所を開く」
「俺が鱗を剥がす」
「右腕は使いすぎないで」
「左だけじゃ足りねえ」
「でも――」
「倒しきるまで持たせる」
カイは短く答えた。
無茶ではある。
けれど、考えなしではない。
今を逃せば、次に同じ機会が来る保証はないと分かっている。
スイはそれ以上止めなかった。
「三秒だけ、正面を向かせる」
「十分だ」
スイが走る。
主の視線が向く。
《ハク》の連射。
狙いは目。
一発目はまぶたに弾かれる。
二発目が目元の鱗を削る。
三発目。
主が顔を背けた。
「今!」
カイが側面から踏み込む。
大剣を低く構え、傷ついた腹部へ斜めに振り上げた。
鱗が砕ける。
深い音。
刃が肉へ入った。
主が咆哮する。
尾が振るわれる。
カイは避けず、剣をさらに押し込んだ。
「まだ浅い!」
「離れて!」
スイが《コク》を構える。
カイは刃を引き抜き、横へ転がる。
空いた傷口へ、黒い魔力弾が撃ち込まれた。
鱗。
肉。
その奥。
硬い何かへ当たる。
金属を打ったような響きがした。
主の巨体が大きく揺れる。
腹部の奥から、淡い青色の光が漏れた。
「見えた!」
傷の中にあったのは、核ではなかった。
杯。
主の身体の内側へ埋め込まれた、大きな透明の杯。
その中では、金色の液体が半分ほど満たされている。
主の魔力は、その杯を避けるように全身を巡っていた。
「これを守ってたのか?」
「違う。触れないようにしてた」
杯からは、主のものとは異なる魔力が流れている。
穏やかではない。
古く、重く、底の見えない力。
主はそれを身体に宿しながら、抑えている。
「壊していいのか?」
「分からない」
スイが答えた直後。
透明の杯に、細い亀裂が走った。
二人の攻撃で傷ついたわけではない。
内側から。
金色の液体が、自ら器を押し広げるように揺れている。
主が低く呻いた。
今まで聞いたことのない声だった。
怒りではない。
痛みに耐える声。
その身体が膨れ上がる。
翼が開く。
折り畳まれていた膜が裂け、その奥から新たな骨格が伸び始めた。
「下がって!」
二人が距離を取る。
主の身体を覆っていた黒い鱗が、一枚ずつ剥がれ落ちる。
その下から現れたのは、金色の皮膚だった。
液体のように揺れながらも、形を保っている。
枝分かれしていた角が伸び、先端が空洞の天井近くまで届く。翼は二枚から四枚へ増え、身体の周囲には幾つもの透明な杯が浮かび上がった。
尾の先にあった器官も形を変え、巨大な輪となって背後へ浮かぶ。
主の瞳から、先ほどまでの理性が消えていく。
琥珀色だった光が、白く濁った。
「第二段階……ってやつか」
カイが大剣を構え直す。
声に余裕はなかった。
スイの《私の箱庭》へ流れ込む魔力の圧が、一気に増す。
弱っていたはずの気配が、先ほどまでとは比べものにならないほど膨れ上がっている。
傷も消えた。
腹部の鱗だけではない。
カイが斬った脚。
スイが撃った目元。
すべてが、金色の魔力によって塗り替えられている。
「回復したんじゃない」
スイの声が震える。
「身体を、別のものに作り替えてる」
透明の杯が一つ傾く。
中身はない。
それでも、空間から直接液体が注がれた。
杯が満ちる。
次の瞬間、主の姿が消えた。
「え――」
スイが振り向くより早く、カイが身体を押した。
二人が左右へ飛ぶ。
直後、先ほどまで立っていた場所へ前脚が振り下ろされた。
音が遅れて響く。
石床が砕けたのではない。
広場の一角そのものが、深く沈んでいた。
「速すぎる!」
カイが立ち上がる。
主はすでに次の動きへ移っていた。
四枚の翼が振られる。
無数の金色の刃が放たれた。
スイは《ハク》を撃つ。
一発。
一つの刃を砕く。
二発目。
もう一つ。
数が多すぎる。
「伏せて!」
カイがスイを抱えるように飛び込む。
大剣を盾へ変える。
金色の刃が連続してぶつかる。
刃の表面へ亀裂が走った。
一本が大剣を抜け、カイの肩へ突き刺さる。
「カイ!」
「浅い!」
浅くはない。
肩口から血が流れている。
スイが《私の箱庭》の回復を流す。
だが、傷の閉じ方が遅い。
主から放たれる魔力が、領域の回復まで抑え込んでいる。
「回復が効きにくい……」
「それでも止まるよりましだ!」
主が尾の輪を持ち上げる。
金色の光が、広場の周囲へ落ちた。
瞬間。
景色が変わる。
石橋が消えた。
入口も。
金色の川も。
二人の周囲には、果てのない暗闇だけが広がっている。
足元の石床だけが、小さな島のように残っていた。
「閉じ込められた?」
スイは領域を広げる。
端が分からない。
どこまで認識を伸ばしても、暗闇だけが続いている。
「戻る道は?」
「見えない」
カイが後ろを見る。
何もない。
主だけが、暗闇の中へ浮かんでいた。
その背後には無数の杯。
一つひとつへ金色の液体が満ちていく。
逃げ場がない。
隠れる場所もない。
主の攻撃は速く、強く、避けるだけでも精一杯。
「一度、あれを解くまで耐える」
「何分?」
「分からない」
「魔力は?」
スイは答えなかった。
《私の箱庭》を維持し、回復を流し、攻撃を補助し続けている。
残量は半分もない。
カイの右腕も限界に近い。
肩の傷も深い。
ここから先、長く戦える状態ではなかった。
透明な杯が一斉に傾く。
「来る!」
金色の雨が降った。
一滴ごとに、強い魔力を持った液体。
地面へ触れた雫は爆発し、石を抉る。
二人は走る。
右。
左。
前。
広場の端へ追い詰められていく。
スイは降る位置を読み、カイへ伝える。
「左! 次、前!」
「前は主がいる!」
「それでも行って!」
カイが主へ向かって走る。
頭上から雫。
主からは前脚。
左右には暗闇。
カイは雫を避けながら踏み込み、前脚の下へ滑り込む。
大剣を振るう。
金色の身体へ刃が当たる。
弾かれた。
傷一つつかない。
「嘘だろ……!」
主がカイを蹴り上げる。
大剣ごと身体が宙へ飛ぶ。
スイは《私の箱庭》で外へ出ないよう固定する。
だが、衝撃までは消せない。
カイは石床へ叩きつけられ、何度も転がった。
「カイ!」
「来るな!」
主の杯がスイへ向く。
液体が光へ変わる。
細い熱線。
スイは横へ跳ぶ。
避けたはずだった。
熱線が途中で曲がる。
肩。
腹。
脚。
同時に複数の方向から迫る。
《ハク》を撃つ。
一つを弾く。
風魔法で二つ目を逸らす。
残る一本が腹部へ届く。
衝撃。
身体が後ろへ折れた。
息が出ない。
石床へ転がり、《コク》が手から離れる。
「スイ!」
カイが立ち上がろうとする。
だが、脚に力が入らない。
主は待たない。
翼を振り、また金色の刃を放つ。
スイは《私の箱庭》を強める。
カイを守る。
自分を守る。
領域へ魔力を流す。
透明な膜が二人を覆った。
刃が触れる。
一枚目。
膜が揺れる。
二枚目。
亀裂が走る。
三枚目。
砕けた。
残る刃が、二人の周囲へ突き刺さる。
一本がスイの脚を掠める。
血が床へ落ちた。
「無理だ」
カイが呟いた。
その声を、スイは聞いた。
これまで、カイが口にしなかった言葉。
どれだけ追い詰められても。
どれだけ痛くても。
冗談を言い、前へ出ていたカイが、初めてそう言った。
「逃げ道もねえ。攻撃も通らねえ。俺らじゃ……」
言葉は最後まで続かなかった。
主の周囲で、全ての杯が光り始める。
次の一撃。
それが最後になる。
見ただけで分かった。
スイはカイを見る。
大剣を支えに、どうにか立っている。
全身が傷だらけだった。
右腕も。
肩も。
脚も。
それでも、スイとの間へ身体を置こうとしている。
「カイ」
「なんだ」
「逃げられないね」
「ああ」
「勝てるかも分からない」
「ああ」
二人は短く息を吐いた。
怖くないわけではない。
身体は痛い。
魔力もない。
立っているだけで、膝が崩れそうになる。
それでも。
ここで背を向ければ、どちらかを置いていくことになる。
それだけはできなかった。
カイは大剣を両手で握った。
「なら、立ち向かうしかねえな」
「無茶だよ」
「知ってる」
「勝てないかもしれない」
「それも知ってる」
カイはスイを見る。
笑ってはいなかった。
けれど、目だけはまっすぐだった。
「一人で死ぬよりは、二人で最後までやる方がいい」
「死なないよ」
「そうだな」
「二人で帰るって約束したから」
その言葉が、暗闇の中へ落ちた。
四年前。
大型ダンジョンから帰る途中。
崩れかけた橋の上で交わした約束。
一人で残らない。
一人で先へ行かない。
二人で帰る。
何度も口にしてきた言葉。
けれど今ほど、それが重く感じたことはなかった。
主の全ての杯から、光が溢れる。
世界を埋め尽くすような金色。
スイはカイの隣へ立った。
肩が触れる。
「カイ」
「おう」
「守って」
「任せろ」
「私も守る」
「知ってる」
光が放たれた。
避けられない。
防げない。
圧倒的な魔力が、二人を飲み込もうと迫る。
その瞬間。
カイの胸の奥で、何かが弾けた。
声が聞こえたわけではない。
誰かに教えられたわけでもない。
それでも、能力の名前と意味が、最初から知っていたように意識へ流れ込んでくる。
――《愛は自由だ!!!》
信頼する仲間が近くにいるほど、身体能力が上がる。
一人では届かない力が。
守りたいという意志に応えるように、限界を越えて膨れ上がっていく。
身体能力。
最大十倍。
魔力を含む、その他の力。
約五倍。
発動時間は最大十分。
限界を越えれば、二十四時間は指一本動かせなくなる。
全身を引き裂くほどの激痛。
その全てが、一瞬で理解できた。
カイの身体から銀色の魔力が噴き出す。
傷ついた筋肉が軋む。
骨が鳴る。
それでも、先ほどまで立つことすら難しかった脚へ力が戻る。
「なんだ、これ……」
カイの声が震える。
スイの中にも、同じように情報が流れ込んだ。
《私の箱庭》の境界が消える。
半径二十メートルという制限も。
領域の内側と外側という区別も。
スイが見ているもの。
感じているもの。
認識している世界そのものが、能力の範囲へ変わっていく。
――《私の世界》。
もう誰も失いたくない。
その想いが、箱庭を世界へ昇華させた。
味方には《私の箱庭》と同じ加護。
身体能力上昇。
魔力上昇。
魔力の継続回復。
傷の継続回復。
敵には、世界そのものから拒まれる力。
身体能力低下。
魔力効率低下。
回復力低下。
そして。
スイと、スイが守ろうとした者へ届く攻撃を、合計五回まで完全に無効化する絶対防壁。
物理。
魔法。
呪い。
遠距離。
広範囲。
種類は問わない。
一度防ぐたび、一つ減る。
五回で消える。
効果時間は十分。
終了後、一週間。
《私の箱庭》も《私の世界》も使えない。
「十……分」
スイが呟く。
カイも能力の制限を理解していた。
十分以内に倒す。
それができなければ、二人とも終わる。
次の瞬間。
迫っていた金色の光が、二人へ触れた。
何も起こらなかった。
音も。
衝撃も。
熱もない。
二人の目の前で、光が消えた。
絶対防壁。
一回目。
主の白く濁った瞳が、初めて大きく揺れる。
スイは一歩前へ出た。
暗闇の全てが、今は自分の世界として感じられる。
主の身体。
杯。
魔力の流れ。
避け続けていた腹部の奥。
その全てが、はっきりと見える。
「カイ」
スイの声に、迷いはなかった。
「十分以内に倒さないと、私たちがまずい」
カイは大剣を持ち上げる。
身体の痛みは消えていない。
むしろ、力が増したことで全身の筋肉が悲鳴を上げていた。
それでも、立てる。
走れる。
守れる。
「十分もあれば十分だ」
「終わった後、動けなくなるかも」
「倒しきれば筋肉痛で済む気がする」
「気がするだけ?」
「今なら何でもできそうだからな」
スイは《ハク》と《コク》を拾い上げる。
世界そのものが二人へ力を与え、主から力を奪っている。
先ほどまで届かなかった魔力の流れが、今は指先へ触れるほど近く感じられた。
カイが前へ出る。
スイがその隣へ並ぶ。
もう守られるだけの位置ではない。
二人で同じ場所に立つ。
「二人で帰るよ」
「ああ」
「神の酒も持って」
「それ、俺の台詞だろ」
金色の主が咆哮する。
暗闇が震えた。
スイの世界が、それを押し返す。
十分。
その短い時間の中で。
二人は、約束を守るための最後の戦いへ踏み出した。




